A7M2 + Batis 2/25
春もたくさんサイクリングをしました。
寒いといけないから、と恐らくはママが無理に着させたであろう厚手のジャンパー。
途中で暑くてヘルメットを取ったのを写真で思い出しました。
駅前に自転車を止めて、
行きつけのジュースコーナーで一杯ひっかけて、
つまみは、大好きなたくあんの試食です。数種類を試食して、概ね二種類は買って帰り、ばぁばに半分おすそ分けするのが常道です。
別の日のサイクリング。
この頃はまだパパと二人の秘密だった自転車のエスカレーターがあるコース。
今では一日一冊になろうかという勢いの当時でも数日で一冊分の印字ペースだったので、これを怠ると後々大変なことになります。この日はそのような記帳に付き合ってもらい、
後進とハイタッチで出社して、連日の出勤サイクリング。
ママも合流して恨みを買わぬよう、美味しいランチを召し上がっていただきました。
ばぁばのところで少し早いスイカをもらい、種はいつも取ってもらい、
スプリングコート、このあたりから着だして、
お風呂はラジコンと入浴する日々だったのを思い出しました。
大概は乾かすと直ります、という経験値。
集まりのときに子供が撮る写真、
しっかりと水平が取れていることが多く、上手になってきた気がします。
そして年中になり登園と、
大好きなマンゴーフラッペの日々もありつつ、
まだこの頃は、FJを買うことすらも決まっていなかった中にいざ草津へ。
遊びでこのようなセットも連れ立ってみました。
α7 II + フォクトレンダー NOKTON vintage line 50mm F1.5 Aspherical VM
社会人経験のスタートは23歳での創業、そしていわゆる法人成りは24歳でした。経営という仕事一筋20年を数えるようになりました。相撲で言えば前頭十五枚目ぐらいにはなれたかもしれません。
朝の登園中ラジオを聞いていれば、今の若い方は節約で4人に1人、つまり25%になるのでしょうか、お弁当を作るそうです。
関越坂戸のあたり、何ができるのか、機材は違えどこのようなラッシュが全国で繰り広げられていた、国の成長期、そのような何をやっても黄金比率かのような時代に会社の経営をしてみたかった、いや戦後のどさくさから経営してみたかった、という思いもありますが、思ったところでしかたありません。
もう20年も前になってしまいますが、私も24歳の頃はお弁当を作っていました。節約というほどの余裕もなく、とにかくなんとか空腹を満たすためです。最低限の栄養も考えつつひじきご飯と、味付けなしに煮た豆だけというお弁当でした。家で食べるときのメニューは一つ、スーパーの特売で1袋30円で買ってきた賞味期限がきれた格安うどんをまとめ買いしておき、増えるワカメと足がそこそこ俊敏なネギは早く使い切ることと栄養価も期待して大量投入という贅沢メニューです。ごま油を入れたり、お酢を入れたり、ごかましごまかし毎夜毎朝のように食べていたように記憶しています。
会社を立ち上げたものの、半年間売上はゼロで、深夜から朝までガソリンスタンドでアルバイトもしていました。アルバイト給与のほとんどは家賃で消えて、残りは食費と会社の備品購入に充てていました。待ち望むアルバイト給与日まで一週間を残して500円しかないときもありました。
私だけでなく、声をかけて集まってくれた友人数名も半年以上アルバイトを掛け持ちしながら、無給で仕事をしてくれました。皆若いからできたことかと思いますが、有難いことと今では思います。
とにかくお金というものがなかったので、アルバイト給与日まで残り三日三千円だか1,500円だかその程度が所持金どころか全財産というときに、一冊の本を買うか、食費に充てるか、ビジネス書コーナー前で一冊の本を前に2時間立ち悩み、悩んで悩んで本を買うという選択をしたこともありました。その本は何度も何度も読み、片手にもって実践ということも繰り返しました。今から思えば、これがマーケティングとの出会いでした。
というほどにお金がないのに、資本金1,000万円の株式会社を作りました。今では最低資本金が1円でも会社を作れますが、当時は株式会社が資本金最低1,000万円、有限会社が資本金最低300万円という制度がありましたが、会社なら株式会社だろう、という感覚で株式会社にしました。
見せ金といって、当時は預金が一定期間されている必要もあり常態化していたと思われる違法行為になってしまいますが、一時的に借りてきて資本金として預金しておき、法人登記が完了してから引き出して、そのまま返済をしました。貸してくれたのは、高架下にお店を構える知り合いの靴屋さんでした。高架の工事で東急電鉄から補償費用が出てお金がある、ということで10日間ほどだったか貸してもらい、設立資本金としました。登記は自分で行い、当時法務局で会社目的について新規のものを認めてもらう、というように、暇だったのでしつこく通っていました。
一冊の本を買うまで私は「自分の感性で仕事をしたい」と強く思い、かつそれで通じると根拠なき自信を持っており、誰かのマネや誰かの方法を知ろうなどと思ってもいませんでしたが、ある日本を読もう、と思うきっかけがありました。
当時、結局として己の感性など通じない社会の洗礼を浴びながら、苦労を重ねやっと掴んだ1人のお客様が「あなた達のためにお金を払ってあげるから、話を聞いてみなさい」と言われ、当時本も数冊出し、楽天ショップを成功に導くコンサルタントという肩書の方を紹介してもらいました。話しを聞いてみれば、すべてが終始一貫理論立ち、私はなるほどと唸る気持ちと共に、歳もさして違わないのにどえらい知能と知識に差があることを思い知らされました。
そして後日そのコンサルタント氏の自宅へ行くことになり、行ってみれば積み上げられた本のタワーが幾重にもという光景を見て秘密を知った気がし、本のタイトルを一所懸命に覚え、同じ本を数冊買ってみれば、コンサルタント氏が話をしていたことがそこには書かれていました。
道中「ここぐんま?かかしあったとこ?」といつもの確認をしながら旅館に着けば「ごはんこっちだよ」と毎度おぼえている小さい仲居さんに案内をもらいながら、同じ部屋になることが多い安らぎの場に到着です。
はじめてのM&Aというものは25歳を少しすぎたあたりぐらいだったかと記憶しています。やり方や交渉のしかたを誰に教わるでもなく、法律は学生時代にかじっていたので「こんなもん民法555条の売買契約であって、(本質は)ガムを買うのと一緒でしょ」と嘯いて、難しくは考えず取り組み、やがて件数だけは日本一になる時期もありました。今思えばほとんどはガラクタを買い集めるような作業だった一方で、
この10年来は任せっぱなしで、そして選択と集中のために今年に入ってこの事業は手放してしまいましたが、振り返って、このM&Aは小さなMAですが成功だったといってもいいかもしれません。手離れする最後の最後まで収益を生み続けてくれました。
毎月数百万円赤字の会社を手にして、未払い先である銀行やリース会社、現金でももう二度と取引したくないとおっしゃる仕入先含め、一件一件回り、再建プランを伝え、営業面としては減収増益を断行し、つまりは利益率の悪い仕事はすべて断って、収益性がよい仕事だけに特化して、設計変更でキャッシュフローを改善し、仕入れも大きく見直し大胆な方針を打ち出して、
雇用は守りながら、二か月ほどで黒字化を達成し、毎月300万円から800万円ほど営業利益が出るようにあっという間になりました。売上を数倍にしたあたりで一人目の社長に代替わりを行い、それから手放すまで、社長の代替わりをして売り上げが落ちたことはありましたが、一度も赤字になることなく、収益として貢献し続けてくれました。横浜銀行の本社法務部へ乗り込んで若い勢いで論破した経験や、別の部長氏がふらっとお昼前に来社されてよくランチをごちそうになったのも懐かしい思い出です。今では定年を迎えているのかと思えば、これも時間の経過を感じます。
という思い出も満載なこの事業を最終的に買い取ってくれたのは、MAで付き合いのあったとある財閥系MAの窓口を務めるファンドのトップが個人としてオーナーになり、社員第一号氏が社長となりもらわれていきました。
25歳買収時に作った集客サイトと、30歳のお盆休みに、空調が切れた高層ビルの蒸し暑い部屋で、1時間500円でエアコンを追加できるのにこれをけちりながら、これも私自らが作り直した集客サイト付きで、その事業は売れていきましたが、このWEBサイトは12年間多少の更新だけで、20億超は新規顧客を獲得し続けてくれました。誰もが知っている有名企業や、芸能関係も引き合い多くいろいろな作品の撮影に使われたり、毎月1,000万円の安定発注を頂く上場企業のお仕事など、とあるもののリース事業と物販でしたが、多くの顧客との出会いをもたらしてくれました。
一番転機になったMAは28歳ぐらいだったかと思います。高層ビルに引っ越す前の汚い雑居ビルで、棚をビルの前に粗大ゴミとして運び、置いた瞬間に一人のマダムが「これもらっていいの?」と声をかけてきました。
どうぞどうぞと差し上げて、当時はトラックを持っている事業も有していたので、運搬費をもらい自宅兼事務所のようなところに運びました。運搬費は2万円ぐらいもらいましたが、今にして思えば相手にとり高くついてしまったかもしれません。
あとで知ることになりますが、このマダムはオーナー社長でした。
そのような粗大ゴミがきっかけで知り合い、それから時おり私の事務所へ来るようになり、経営談義などをするようになりました。それが段々と会社を買ってくれないか、という話しになっていきます。
取引先は日立をはじめとする大企業が並び、几帳面に整えられてきた帳簿類とともに6千万の預金と、毎月の営業利益3,000万円の会社を、負債2億ほどだったか、これを私が連帯保証に入ることもなく返済していく約束で、不動産のみ社長氏に移管し、あとはそのままという内容で、当時私が有するの子会社の一部株式交換というスキームでほぼ無償で頂きました。事実上ノーリスクですから、ゴミを捨てただけで宝くじに当たったようなものかもしれません。盛りなしの話です。
「ちょうどいい温度だね、きもちいー」「露天風呂入りたい」戻ればまた部屋のお風呂、そして「ぱぱの事務所ちっちゃいからミニ事務所なんだよ」などと聞きながら時間を過ごします。
次いで転機になったMAは、30歳のときです。社員100名ほどのIT会社で、買収後は二倍ほどに成長し半期で1.5億利益が出るようになったあたりで後任社長へ引き継ぎました。当時のオーナー社長とは今でも飲みにいきますが、先日はワタミのような居酒屋で、そのあと一軒安いガールズバーへ行き昔を懐かしく話していましたが、
この社長氏は、外資系大企業の日本法人を立ち上げた父を持つ方で、その大企業相談役より「お前のおやじはもっと豪快に飲んでいたぞ」とよく言われ、その影響により遊び方が派手でした。
日本で一番高いカラオケがあると言われる下にある六本木の高級キャバクラでオーラスし、閉店後は5人前後の女性をアフターし、次にいくのは仮面ライダーなどにも出ている子も働く高級ガールズバーへなだれ込みます。会計は社長氏の黒いカードです。
MAするために、一気に距離感を縮めようと思い、毎夜毎夜このコースを付き合ったことがありました。
夕方にまずその会社へ私が行き、10歳ほど上のその社長に説教します。「こんなお金の使い方していちゃだめですよ」と説教していた私が同じ口で時間が来ると「じゃそろそろ行きますか」と店へ誘う流れがあり、これも今では笑い話です。
DD中、会社の通帳を見てますとM子さんという女性個人に600万円の振込があったので「これはなんですか」と野暮にしかし聞かねばならぬと問うてみれば「知らね」というやり取りも、今でもネタにさせてもらっていますが、未だに「知らね」で通されています。
どの会社も見るにつけ、10年来、20年来、あるいは30年以上社長についていこうが、苦楽を共にしようが、中高からの親友であろうとも、バンド仲間がスタートであっても、あるいは右腕であろうが、社長の気持ちというものを社長以外知る人は社内にいません、と言い切ってよいかと思います。
社長の気持ちを知ってさしあげる、というファクターは実はMAにおける交渉過程で最も級に大きなウエートを占めているかもしれません。オーナーと社長が分離、あるいはオーナーが複数の場合もあるわけですので、この通則が効かない場合はまた一工夫必要です。出会いも様々、松下家の親族、おそらくは隠し子でフェラーリに乗り、銀座でしか飲まない、海外の人脈も豊富というオーナー氏もいました。あるいは私が使っているカメラメーカーの孫会社を買ったときもありましたが、ガバナンスを知れば孫会社社長の月次接待交際費の決裁権3万円それ以上は親会社へ稟議という大手の手厳しい手法に驚いたこともありました。
案件集めに、その都度考えるストラクチャーに、交渉材料に交渉の仕方、交渉相手の分析方法含め、私はMAノウハウのコピーを始めます。つまりはチーム化、やがて部門と言ってもいいであろう成長をしていき、「なぜ相手がそう言うと分かるのか」と質問されながら、将棋の数手先までをアドバイスするかのごとく交渉の相談の乗り指南しながらチームとして成果を出していきました。
社内でMA専任が10名以上、動いてくれる仲介も少なくとも50名以上を数えていたかと思いますが、という環境まで構築し、持ち込まれる案件数が毎月100案件超になっていきます。何年も前から600店舗を有するマッサージ業も売りに出ており、過日のニュースで売れていたこともしりました。案件数から成約数を見込み、目標の業績に対してどれぐらい上積みをしていくか、各社の業績目標とは別に、MAを営業と同じような考え方で執り行っていくようになります。
買収した会社は同じような事業であれば合併させ、もしくは状況によっては孫会社にし、外部招聘ではなくプロパー社員にこだわり、次から次へと経営を任せていきますが、経験を積んでもらっても、経営ノウハウを伝えても、お金を使わせてみても、管理者は育てど経営者というものは育ちませんでした。「どうしてこんな簡単なことができないんだ」と思う毎日でした。私の器量もあるかと思いますが、今では多角的に経験を分析し、あるいは考えた結果として元来的に経営というものは持って生まれた要素に大きく左右されるのではないかと考えています。
換言すれば、まともな人、すなわち健常的では務まらない、と一面言ってもよいかもしれません。
内外見渡し、事業部長ぐらいであれば、できる方も多いという所感ですが、これもそれぞれの器というものが作用するように見てきました。ざっくり言ってしまうと「この人は2億まで回せるな」「この人は5億見れるな」もしくは「この人は100名までがギリギリかな」という所感・感覚で、器のサイズを見てきました。あながち見立ては間違っていなかったかと感じています。
そうやって時間をかけて、エネルギーをかけても、なかなかに経営者、もっと言えばトップは育たない、つまりは素養ある人をいかに見出し、ということになるのですが、大企業の数万人からセレクトしても難しいわけですので、中小零細はその導線を思っても、不可能的に見当たりにくい、という自然的な帰結になろうかと思います。
中小零細に入社してきた中に特出した傑作を見出したとしても、セブンイレブンの鈴木氏や、あるいはゴーン氏のようにゆくゆく割れてしまうことになれば、それもまた歯がゆしなのでしょう。
もしくは世を見れば多くの零細企業の後継者がおらずで、代替わりというのは非常に難しい論点かと思いますが、それをやり抜いているマイノリティな企業もあるわけでして、傍からは分からない大変さもありつつと想像し、敬意を持って頭が下がる想いです。
売却してきた事業は残り1つを数え、友が愛人と「別れたとしてもちゃんとやります」という形容もつきながら、12月1日移管に向けて各種段取りをしています。
春の草津その二へつづく