
福島県相馬市に住んでいた35年来の親友(とも)が病気で息を引き取ったのが、昨年9月の彼岸中。
他界の二ヶ月前から、「体がだるいし、疲れやすい。夜もあまりよく寝られないんだよ・・・」と、LINEで伝えてきた。
昨年、一昨年と2年続けて3・11を超える強い地震で、家は倒壊こそしなかったが、中はメチャクチャに壊れてしまった。
多くの家が被害を受け、折しもコロナ禍でボランティアも集まらず、それぞれが自力で復興させるしかなかった様だ。
修復の資材や人材も少なく、「元に戻るまで2回とも半年近く掛った」と。
そんな過酷な状況であったため、「精神的・肉体的疲労が蓄積し、体調を崩したのだろう」と彼は自己診断していた。昨年7月から体調不良を自覚したが、病院にもかからなかった。
9月中旬に入って、「いよいよ。おかしい」と思い、医師の診断を受けたら、「間質性肺炎だった」と。診察から2日後に入院。そして3日後に他界。医師が言うには、既に重症だったらしい。
普通の肺炎は治りもするが、間質性肺炎は肺の組織が段々壊れていく進行性の病気(死に至る病)。完治はしないので、進行を遅らせる治療しか出来ないとか。
ベッドに横たわり、酸素吸入のマスクを付けた写真をLINEで送って来て、「今こんな感じだよ」と。
それが彼からの最後のメッセージになった。
お見舞い代わりに2月の富士山の写真を添付して送ったら、既読が付いた。しかし、返信は無かった・・・。
彼の家族から急逝の知らせを受けた瞬間、「頭が真っ白になる」という経験をした。そしてしばし呆然とした後、涙が溢れてきた。
葬儀は都合で一週間後だったが、火葬を先にするというので、急遽福島へクルマを走らせる。顔を見ておかなくてはいけないから。
いつもなら楽しいドライブも、こんなにイヤだと思うことは無かった。
親友に会いたい、しかし会うと現実だと認めなくてはならない。心が乱れ、平常心でいられない。
福島に着いたのは昼頃。遺体が安置された斎場に行くのがイヤだった。こんな時でも腹が減る自分もイヤだった。
斎場に行く前に、以前よく泊まったホテルに顔を出す。女将さんとも二十年以上の顔なじみで、勿論親友のことも知ってる。彼がよく宿泊手配してくれたからだ。
狭い街なので、女将さんも彼の死は知っていたが、詳しい経緯は知らなかった様で、話してあげた。
ホテル内のレストランの日替わりメニューはハンバーグ・ランチ。味も良く分からない。
食べ終えて、いよいよ斎場へクルマを走らせる・・・。(つづく)
Posted at 2023/08/28 09:15:11 | |
嘆き・・・ | 日記