
本日、母 初江の葬儀が滞りなく行われ、荼毘に付され、骨になっていま、実家に戻ってきました。
逝去して7日間、長いような短いような日々でした。
母の戒名は 【蒼蓮初峰信女】 を拝受しました。
天を見上げればどこまでも青い空
地を見れば蓮華(レンゲ)花咲く美しい世界仏の世界浄土に往生する
青(紺)色が好きでお花が好きで自分の世界感があって芯が強かった母らしい戒名です。
病療中だった母の危篤の連絡を父から受けて、病院に駆けつけ、家族で看取る事が出来た先週の3日。
仕事に穴をあけまい、と心が辛かった大手町の試乗会の翌4日。
そして母の寝ていたベッドで母の匂いに包まれて寝た夜。
幼少期に住んでいた白井市(当時:白井町)清水口団地の幼馴染のお母様を訪ね、母の悲報を伝えた5日、そしてこの日が家内との21回目の結婚記念日。
(結婚式のときの映像の中で在りし日の母を思い出す)
MTGやヘアカットの予約を入れて、ふと時間があるといろいろと思い出してしまって何も手が付かなくなる自分が怖くなっていた6日。
(葬儀日程が決まって、いよいよ父も自分も”見送る = ゴールまで始まる”感)
デスクワークで心を紛らわしつつ、最後まで「おうちに帰りたい」と訴えていた母が実家にやっと帰ってくるのを家族で出迎え、私は母が安置されている母の部屋で一緒に夜を明かした7日。
葬儀社さんとのMTG、写真整理など、母の眠る実家でバタバタしていた8日。
昨日は広場トレーニングの1日を無事終えて、実家を出発する母を見送るのは家族に任せ、実家から葬儀場までの道程で思い出がたくさん残る清水口団地を通過してきてくれた、そして私がFSWから戻ってくるのを待っててくれて、斎場での納棺式、母との最後の夜を家族みんなで共に祭壇の隣で会食、そのまま斎場内で泊まれる部屋があって飲み明かしました。
葬儀も、、、本当に素晴らしい式でした。
あ~なんか本当に天国に行っちゃったんだな、、、怒涛の毎日だったけど、肩の荷が下りた感じがしています。
澤初江は私にとってどんな母だったかな~?ってこの数日、考えていたんですけど思い出が多すぎて、、、
3歳の時の初めてのおつかいで持たされたお金と買ってきた商品と持ち帰ったお釣りがあってなくて怒られた事
幼稚園の時に男の子と女の子でお遊戯会で違う出し物をやるんだけど、担任の先生から「圭太くんがどうしても女の子がやる”花の子ルンルン”をやるって聞かないんです」と相談があったらしく、圭太を説得するんじゃなく担任の先生を「本人がやりたいという事をなんでやらせてくれないのか?」と説得したらしい母。
(実際に俺は花の子ルンルンを女の子に混じってやったらしい 笑)
清水口団地の公園で滑り台から落下して肩の鎖骨を骨折した時の落下した地べたに横たわって泣いている景色、母と母の友達が駆け寄ってくる光景が未だに脳裏にあるんですよね。
(ギブスとか外で遊べないストレスで当時最初に清水口団地の入居していた3階のベランダからおもちゃを落としていた記憶:拾いに行く事で外に出れると思っていた)
母が自分を置いていってしまう、ジョギングクラブが嫌いで嫌いで毎回泣いていた時
小学校の門に乗って友達と遊んでいたらレールから門が脱線して右手の中指をコンクリートの壁と門に挟んで大けが、初めて5針縫った時。
扁桃腺を患って頻繁に耳鼻科通いをしていた小学生の頃
エレクトーンを習っていたんだけど、友達と遊ぶ方が楽しくなって行くのが嫌になって、稽古の日は学校終えてから家のある団地の5階までゆっくり1段1段上がっていたら「なんでそんなに帰ってくるの時間掛かるの!」と怒られた時
クラスでいじめられて帰った時(小学生の時)、彼女にフラれて帰った時(今の奥さんとの話 笑)、「もうやだ~!」と泣きながら自宅に帰って、母が介抱してくれた時の母の温もり。
(でも自分の問題は自分で解決しなさい!と学校や彼女とは問題解決に一切関与せずのスタンスだった)
料理が得意でオムハヤシライスとか鳥のからあげ(油淋鶏)、イカの塩辛とか好きで結婚してからも良く実家に食べに行ってた。
私が幼稚園から小学校にあがる位の時は両親の夫婦喧嘩が絶えない時期で、毎晩のように夜寝ているとリビングルームのお母さんの泣きながら何かを訴えている声で起きる事があったし、翌朝の母の何食わぬ顔して学校へ行く私と妹に朝食を作ってくれている後ろ姿も印象に
でも、ある日の夜の母に起こされて私と妹がドライブに連れて行かれた事が1度だけあって、いま思うと父との関係が思わしくなく色々と思い詰めていたのかな?まさか心中を図ろうとでも思っていたのか?と大人になってからいつかは母に聞いてみようと思っていたけど、結局聞けずじまいでした。
父にも先日その話をしたら、喧嘩が絶えなかった時期も含めて「原因がよくわからなかったんだよな~」と話していた。
(そーいう所がたぶん原因だったんだと思うよ、、、とは伝えたけど 笑)
父の務めていた会社で料理スタイリストを探していて専業主婦だった料理上手の母が抜擢されて、父の仕事への理解が進んだからか?両親の仲は自然と仲良く戻っていったのもこの時期だった。
遊んでいて怪我をさせてしまった友達の家に一緒にお詫びをしにいってくれた時もあった。
中学生になると野球少年だった私がF-1に憧れてカートレースを始めたいと両親に伝えたが、一般サラリーマン家庭だったから当然そんな資金はなく、でも四街道にある新東京サーキットで試乗会があると告げると父親は私を連れてってくれて、母からは”観るだけで乗っちゃだめよ”って言われていたけど父は乗せてくれた。
乗せてやればほどぼりが冷めるだろう、と思っていたのかもしれないが、逆に興奮して余計に欲しくなるのも性(笑)で、父は私の将来を案じて反対だったけど、高校受験でしっかり志望校に受かる事、購入までは助けるが維持は自分でバイトをするなどして自分でやる事を約束して、父の退職金を前借りしてカートを購入してくれた時の事。
高校になってカートがやりたくて高校1年生で退学して仕事をしたい、と悩んでいたが、母親は頑として「高校だけは卒業しなさい」と許さなかった。
(そのおかげで高校2年生で今の奥様とも出会えたんだけど)
高校を無事、ギリギリで卒業(笑)、社会人となってバイトに明け暮れる時期、朝は古紙回収、昼はカート屋のスタッフやイベント電気工事施工、夜は吉野家と寝ずに働いていた時もあった。
4輪レースに転向し資金が底をついて途方に暮れていた時も母は父に「いざとなったら家を売ればいいじゃないの」って真っ先に腹をくくっていたのは母だったのかもしれない。
そんなハートの強い母のエピソードはいくつもあって、
病院の駐車場で隣のクルマにドアパンチされて、追いかけて行って病院の待合室で見つけて「子供の教育に良くないんじゃないですか?」ってすごい剣幕で抗議していたり、ディズニーランドに行く途中で交通事故を目撃、負傷者をおいて逃げようとした車両をそのままクルマで追いかけて行ったり、、、
正義感が強いというかスイッチが入ると怖い所があったんですよね(苦笑)
あとは子供の頃から本当に晩年まで、常に「ダイエット」生活。
パイナップルダイエット、りんごダイエット、海苔ダイエット、健康食品、サプリメント、漢方、、、ありとあらゆる世の中の健康とダイエットの類をやっていたと思われる。
「死んでもいいから健康になりたい」とか「健康になれるんだったら死んでもいい」という言葉は母の為にあるんだと思っていた(笑)
昔の写真を見返すと、ダイエットに成功してはリバウンド、、、というのを繰り返していたことが伺えるし、最初は反対していたレース活動も最後は父を説得する位に応援してくれていて、カートレースも4輪のレースも遠方まで両親は応援に来てくれていた、あまりに好きになり過ぎて、私が4輪に転向してからもカートレースを見に行ったり、海外のレース中心になっても国内4輪レースを観戦したりしていたらしい(笑)、それが中年以降の夫婦の楽しみだったのだと思う。
ここ10-20年は私もレースは海外が多くなり、仕事も軌道に乗り、子供たち(孫)も生まれて成長し、孫の顔をみせつつ何かの記念日と言えば皆で実家や自宅、はたまた外での会食をするのが日常でした。
父親方の祖父母が関西から相模原に移ってきて、介護もあって住み慣れた白井市から相模原に2003年~16年は住んでいた、良く遊びに行っていた。
祖父母も他界して慣れ親しんだ土地へ戻ろうと、我々が住む松戸市にも近い鎌ヶ谷市民になったのが2016年、晩年は妹のほうが荒々しい人生を歩んでいて、妹夫婦や孫たちの世話に明け暮れていた母だった。
そんな母と父に育てられたから「諦めない、自分の事は自分で責任持ってやる、人のせいにしない」な性格の自分が形成されたのだと改めて感じます。
最後、大好きだった花に沢山囲まれて、斎場にも沢山の供花、弔電を頂戴し、関係各所の皆様に、コロナ禍で大きな葬儀は避けたけど、家族と親しい関係者と、見事な花たちと家族とで最後、見送ってあげられた1日でした。
そんな母はもう居ない、、、という現実に、骨になって実家に帰ってきたいま、押しつぶされてしまいそうだけど、徐々に心の整理をして、母の身辺も整理してあげて、残された父をサポートしつつ、明日からは仕事も再開、毎日心に母を思いながら生きていく所存です。
自慢の息子だったと皆さんに言って頂けて、私も母とはもう会えなくなってしまったけど、いつか自分が天に召される時まで、母に恥じない生き方を今日からまた続けていきます。
最後になりましたが、生前母がお世話になった皆様にも改めて感謝申し上げると共に本日無事に葬儀を終えた事をご報告申し上げます。