2015年07月11日
今の会社を辞めることにしました。
そこそこの立場で収入も安定していましたが、どうしても我慢ならずに退職願を出しました。
(数年前から改善要求をしていましが一向に良くならず…)
嫁さんも理解してくれましたが、小さい子供もいるので、正直不安は大きいです。
情報交換をしていた協力会社の社長が快く受け入れてくれるので、仕事を失うわけではありませんが、収入はぐんと落ちると予想。
これから入る会社を伸ばして見返りをもらえるように頑張ろうと覚悟を決めました。
しかし 159 は乗り続けることができないと考えて、売却することを考えていました。
昨日、最終調整をし、給与などを確認しましたが、なんと現職と同じ給与は出してくれるとのこと。
実は転職する際、部下数名が私を慕ってくれて一緒に転職することが決まりました。
転職後もお客様は私に発注をくださるとの話もいただいています。
現職の会社とも喧嘩別れではなく、今後もサポート関係を維持することになり円満退職です。
結果、移籍先には優秀な人材が多数と、仕事が同時に移ることになったわけです。
なんだか非常に良いスタートが切れましたが、気を引き締めて頑張っていきたいと思います。
家庭も 159 も大切にしていきたいと思います。
Posted at 2015/07/11 20:37:00 | |
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2015年07月05日
本日は、亡くなった知人の七回忌です。
昨日、ご家族の方にBBQに誘われて行ってきました。
ご家族の方、関係のある仲間で思い出話をできてよかったです。
彼は35歳で亡くなりました。
自分の一つ下で、高校での部活の後輩です。
7年か8年くらい前のことになります。
自分は転勤で東京にいましたが、新潟に戻ってくることができ、たまたま長岡駅の周辺をぶらりとしていました。
彼には路上で偶然出会いました。
自分もびっくりしましたが、彼もびっくりしたようです。しかし、お互いすぐにわかり会話したのです。
彼は運命の出会いだと言ってくれました。
高校のころにやっていたソフトテニスを3年前から仲間とはじめたとのこと。
私にも連絡をしようと試みたそうです。
自分らが高校生の頃は携帯電話なんてありません。
彼は、卒業名簿などから実家へ電話して、私へ連絡をとろうともしてくれていたそうです。
昨今、「同窓会を開くから連絡先を教えて欲しい」など、個人情報を聞き出すようなことがあり、両親は私の連絡先を教えなかったそうです。
このようなこともあり、彼は私に連絡をとることができなかったそうです。
彼は、昔から冗談を言っているのか本当のことを言っているのかわからないようなところがありました。
再会したこのときに彼から、3年前に癌を患い闘病し現在は完治したと聞いていました。
ただ、再発する可能性があるかもしれないとも。
本当のことかわからなかったのですが、癌を患った後3年が経過し、非常に元気そうな姿をみて、大丈夫なんだろうとこのときは思っていました。
(彼の告別式の時に知ったのですが、私が再会したころに癌を再発をしていたのです。)
その後、彼と仲間たちと毎週日曜日は欠かさずにソフトテニスをしていました。
彼の熱意は相当なもので、その熱意に触発されたのです。
飲みにも行きました。
衝突もありました。
このとき仲間の誰もが彼の癌は治ったと信じていました。
自分もそうです。
しかし、今思えば、彼はいろいろな準備をしていたのだと思います。
チームの代表を彼がやらずに、別の仲間にやらせようとしていました。
私は、チームを発足した彼が代表をやるべきだと何度も言ったことを覚えています。
チームのメンバーは彼の同級生がほとんどでした。
私は随分閉鎖的なチームと感じて意見をしたときもありました。
後からわかりました。
彼は、彼の仲間と何かをやりたかったのです。
ソフトテニスでなくてもよかったのかもしれません。
代表を他の人に譲ろうとしていた意味が良くわかりました。
また、閉鎖的なチームだと思っていましたが、そうではなかったのです。
彼は、彼の仲間と楽しく過ごしたかったのです。
当時、彼のご両親から聞いて、涙がとまらなかった話があります。
仲間とソフトテニスをやっている今が幸せだと両親に言っていたそうです。
本当にそうだったんだと今ならわかります。
亡くなる直前の冬に、飲みすぎて彼と口論になったことがありました。
自分が一方的に悪かったので謝罪を繰り返したのですが、彼の態度がおかしく和解できなかったとことがありました。
私も頭にきて、チーム脱退を考えると伝えたところ、彼から癌が再発したことを聞かされました。病気のこともあり彼は苛立っていたようです。
仲間の誰もが言います。
彼に騙されたと。
彼は仲間に心配をかけたくないため、病気の再発については誰にも本当のことを言わなかったのです。
このとき私は彼から「病院から後5年はもたない。」と話をききました。「逆にいえば5年も生きられる」と彼は私を安心させていたのです。
今思えば、余命5か月だったと思います。
誰にも心配させずにと、本当のことは言わなかったのです。
それは、両親にさえも。
彼は7月5日にこの世を去りましたが、6月中旬まで両親には癌が再発したことさえ伝えていなかったようです。
末期の癌とたったひとりで闘っていたんでしょう。
誰にも心配をかけずに。
亡くなる年の5月頃から、彼の様子がおかしいことに気付きました。
身体の故障が多くなり、練習へ参加しても随分辛そうでした。
腰が痛いと言っていました。
私は勘が良いほうで、嫌な思いが過ったりもしていたのですが、本人に聞くことはできませんでした。
6月になると、彼の行動は更に心配せざるを得ない状況になります。
皆に、彼の所持品を渡し始めたり、彼のスキルを伝達したり、正直このころから彼を見ていられなくなります。
6月13日に彼は私の家に、ウォーマーを持ってきてくれました。
6月14日はソフトテニスの大会があって、彼が来れないことを心配している人がいることをメールで伝えました。このメールに対しての返信が彼から来た最後のメールです。
このすぐ後、彼は視力すら失った状況となり、入院したのです。
本当に末期の状態だったようです。
私は、彼のお見舞いに行くことに対して相当悩みました。
彼の闘病している姿を見たくなかった。
同じソフトテニスをしている知人に相談しました。
彼の意思も尊重しなきゃならないけど、自分が後々後悔をしちゃいけないと。
その知人と、お見舞いに行きました。
お見舞いに行って一番辛かったのは、「頑張れ」と言えなかったことです。
頑張れと言っていいのか?
自分が来たことの事実を伝えることが精一杯です。
私は、自分が知っている限りの彼との過ごしたことを彼の両親に伝えたくて、いろいろな出来事を話しました。
涙をこらえることができません。彼が本当に良い奴だったことを伝えたくて。
7月7日の七夕が告別式でした。
拝顔した時、彼の強さと知人へ対する思いやりが駆け巡り涙がとまりませんでした。
彼は、仲間と楽しく過ごすことが全てで、自分ひとりで病気と闘ってきたんだと思います。
東京から戻ってきて彼と再会した時に彼は言っていました。
病気が再発しても、テニスコートで死にたいと。
凄い奴ですよ。そして、思いやりがあって優しい奴です。
彼の友人が告別式の後に言ったことがあります。
「ああ見えてとってもロマンチックな奴なので、ひな祭りに生まれ、七夕に星になってしまいました…。でも何年、何十年たってもこの日がくる度に君を思い出しますよ。」
東京から長岡に戻ってきたとき、偶然にも彼に会えたことを、本当に感謝しています。
そして、1年に満たない間でしたが、彼と過ごせたことを幸せに思います。
今でもテニスを続けていますが、今後は、子供が興味を持ってくれたら嬉しいと思います。
知人の子供は地区大会で優勝したりもしています。
彼の熱意は、今も仲間のテニス活動によって引き継がれています。
そしてそれは、皆の子供の代になってもです。
Posted at 2015/07/05 21:43:40 | |
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