
先日、原田曜平さんという方の「平成トレンド史」、坂井豊貴さんという方の「ニッポン戦後経済史」という本を読みました。内容は別途書くとして、いずれも安室奈美恵さんについて「彗星のように現れた」と表現していました。
人間としての安室奈美恵さんが、ある時突然突然降って湧いてきたのではないのはもちろんですが、芸能人としても決してそうではありませんでした。私の感覚では、順を追ってそれらしい人が多数出てきて、集大成として安室奈美恵さんになっていったと思います。その期限が、MANISHにあるように感じるのです。
時に1993年1月、すでにデビューしていたMANISHは、大々的に売り出されました。「パリ・ダカールラリー」のテーマソングに「声にならないほどに愛しい」が選ばれたためです。
そもそも「マニッシュ」というのは、「女性が男性的な服を着て、顔面髪形を女性らしくして、女性らしさを際立てる」という手法なのだそうです。ジェンダーフリーが叫ばれる中では、過去のものになりそうな手法です。
そのためMANISHは、「Tシャツにライダースジャケットを羽織り、ブルーデニムと組み合わせる」という服装で登場してきました。
当時、バブル期ならではのボディコンは衰退していましたが、Tシャツ、ライダースジャケット、ブルーデニムの姿に私は驚きました。当時の感覚では、到底女性が着る服ではなかったためです。それどころか、ライダースジャケットには不良性すら感じたほどです。ちなみに、数ある「声にならないほどに愛しい」の映像の中でも、添付の写真は特筆ものです。ライダースジャケットの丈は短め、Tシャツの裾もベルト付近までと、1995年以降に流行った服の要素が取り入れられています。当時の感覚では、「つんつるてん」です。
このMANISHを以て、バブル期の「イケイケ」が駆逐されていったように思います。バブル期当時、ブルーデニムやTシャツはお金がない男性の服で、忌み嫌われたものだったのです。
MANISHが、そのまま安室奈美恵さんにはつながったのではありません。安室奈美恵さんが1995年1月に「TRY ME」を発売、「「小中学生向けアイドル」なのに歌がうまいね。」と評価され始めた時期に、「hitomi」も話題となる曲を発売します。
1995年2月に「WE ARE"LONELY GIRL"」を発売、これまでの邦楽とは異なる曲調にスマッシュヒット、そして同年4月に「CANDY GIRL」で「渋谷を闊歩する、高校生や専門学校生、大学生、フリーター」を代表するようなイメージを醸し出します。
当時、すでに大学生の就職状況が冷え込んでおり、高校生には「大学に入って遊ぶことは無理そうだから、高校生のうちに遊んでおこう」という風潮が起こっていました。ちょうど、「ポスト団塊ジュニア世代」と呼ばれる、1976年以降に産まれた人たちだったと思います。
加えて「CANDY GIRL」のプロモーションビデオでは、hitomiは「目元などを淡い青色にした化粧」、「後の時代を考えると決して細いとは言えないものの、当時としてはやや細い眉毛」、「体にフィットした上着」、「ミニスカート」で踊っていました。へそも見えていたかもしれません。まさしく、「アムラー」だったのです。
その頃安室奈美恵さんは、というと、1月の「TRY ME」から7月の「STOP THE MUSIC」まで新曲がなく、「TRY ME」の人気で引っ張っていた時期でした。それにさすがに中学生ですから、「渋谷を闊歩する女性」にしては幼すぎました。
その「hitomi」のイメージがどこをどう巡ったか、いきなり「安室奈美恵≒アムラー」として、hitomiのイメージが合体させられて展開され始めたのでした。一方「hitomi」は、もちろん音楽活動を続けるもののどこか亜流のようになってしまいました。ファンの方、すみません。
アムラーとしての服は、前衛的かつコンサバティブな女性を否定したもので、デニムも含まれていたように思います。以後、アムラー風は持田香織、浜崎あゆみなどにマイナーチェンジをされながら、2005年位まで受け継がれていきました。
私は、「MANISHなくしてアムラーなし」と思うのでした。
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Posted at
2021/09/05 00:15:48