初詣のついでによりました。
ゼロ戦の実物大の模型があるのは珍しいですね。
プラモデル好きにはたまらないブツですね〜
3,000 kmの長大な航続距離、対爆撃機用の20ミリ機銃2門の重武装、格闘戦を重視した優れた運動性能、そして空力的洗練と軽量化を徹底追求した機体設計は1000馬力級の「栄」エンジンの性能を極限まで引き出し、一躍世界の戦闘機の頂点に立った。
ゼロ戦 零式艦上戦闘機
第二次世界大戦期における日本海軍の艦上戦闘機。略称は零戦(ぜろせん、れいせん)。試作名称は十二試艦上戦闘機。(略称は十二試艦戦)。
ゼロの由来は、機体の運用開始の1940年が皇紀2600年※1にあたり、最後の一桁のゼロから。
名称は「零式○号艦上戦闘機○型」とされ最初の桁が機体の改修回数、次の桁が発動機の換装回数を示す。
連合軍が零戦に付けたコードネームはZeke(ジーク)だが、パイロットからは直訳調のZero Fighter(ゼロファイター)やZero(ゼロ)と呼ばれた。
開発元は三菱重工業。
三菱に加え中島飛行機でもライセンス生産。
総生産数の6割以上は中島製である。
生産数は日本の戦闘機では最多の1万機以上。
零戦は、速力、上昇力、航続力の各数値を優れたものとするために、軽量化を徹底している。同時期の艦上戦闘機であるF4Fワイルドキャットが構造で機体強度を確保していたのに対し、零戦はより強度の高い素材を使用して部材の肉を抜き重量を削減した。軽量化は骨格にとどまらず、ボルトやねじなどに至るまで徹底したという。
零戦は約2200キロの航続距離をもっていた(当時連合軍の戦闘機がロンドンとベルリン間(片道約900キロ)を飛行し空戦を実施して帰還することは困難であった)
海軍は真珠湾奇襲攻撃の1941年(昭和16年)12月8日から、1942年(昭和17年)3月までのジャワ作戦終了までに、合計565機の連合軍機を空中戦で撃墜ないしは地上で破壊した。この数のうち零戦の戦果は471機、83%を占める。
台湾から出撃する陸攻隊を掩護しフィリピンを攻撃するという当時の単座戦闘機としては例の無い長距離作戦を成功させ、植民地フィリピン駐留のアメリカ陸軍航空隊を制圧した。
オーストラリアのポートダーウィン侵攻時の空戦での零戦の損失2スピットファイアの損失は17、被撃墜比率2対17。
アメリカ戦略空軍司令部作戦部長補佐代理ジョン・N・ユーバンク准将は「ニューギニアやラバウルで我々が遭遇した日本軍は、本当に熟練した操縦士だった。我々は最優秀の敵と戦っているのだということを一時も疑ったことはなかった」と回想している。
日本軍の一大航空拠点となったラバウル
1944年1月17日のラバウルでの迎撃戦では、合計117機のアメリカ軍戦爆連合を零戦79機で迎撃し、69機の撃墜を報告しながら全機無事に帰還している。
エースパイロット岩本徹三は、自身の撃墜記録202機のうち142機をラバウルで撃墜したとされ「零戦虎徹」と呼ばれた。
ラバウルでは他にも、西沢広義、杉田庄一、坂井三郎、奥村武雄など、零戦による多くのエースパイロットが誕生した。
Posted at 2023/02/15 11:30:04 | |
トラックバック(0) |
関東~東京・神奈川・茨城・千葉・栃木・群馬・埼玉 | 日記