このブログでは、書き始めた当初からテレビドラマの感想を書いております。当時放送されていた作品に、柴咲コウが聴覚障がい者の役をしている「オレンジデイズ」というものがありました。ある回では、何ら伏線も紐付けもなく、さらっとある日のことを書いていました。それをして私は、「犬も歩けば棒に当たる」と書いたものです。最近では、「朝起きて昼寝して夜寝た」と書いておりますが、のんべんだらりと物事を描いてもドラマにならない、という意味です。
この日放送された「ON 異常犯罪捜査官 藤堂比奈子」第六話では、設定までは良かったものの、設定からストーリーボードに変換する際に「物語性」を考慮しなかったために、うすーいお話に仕上がってしまいました。今日のドラマにおける、脚本力のなさが顕著に現れておりました。
あらすじ
ある日、公園で他殺体が見つかる。硬貨が口から体内に多量に入れられ、胃に穴が開くような異常な遺体であった。主人公は同僚と聞き込みに向かう中、ゲームセンターで倒れそうになった老人(浜田晃)を助ける。家まで送ると、そこには他に孤独な老人4人がいた。そこは、身寄りのない老人が共同生活をする場であった。
そしてまた数日後、同様の女性の死体が見つかった。同じ頃、5話まで登場していた心療内科医の男が、心理学関連のセンターに入所し、捜査に協力すると連絡があった。
ほどなく、事件の被害者二名は詐欺師であったことがわかり、背後で糸を引いていた暴力団組長も同じ手口で殺された。藤堂が会長が出入りしていた孫娘の家に聞き込みに行くと、冒頭の老人が手にしていたぬいぐるみがあることに気づく。さらに調べを進めると、遺体が発見された土地の以前の所有者もシェアハウスの住人であることが分かり、遺体の中にはゲームセンターのコインも混ざっていることがわかった。
藤堂は老人たちが犯人であることを確信、心療内科医の男からも「これは異常心理犯をかたどった、正常な犯人の事件である。」とメールが届く。老人たちは、暴力団に土地や仕事、金を奪われた被害者だったのだ。藤堂に犯人であることが知られた老人たちだが、「次は誰を殺すか?」と、狂気の笑みを浮かべながら話しているのであった。
感想
太陽にほえろ!も、聞き込みや事件の次なる展開から新たな事実がわかる形でストーリーが進行しますが、この作品は似て非なります。ただ事実が分かっていくだけで、主人公たちは狂言回しでしかありません。すなわち、ただいるだけで話が進行していき、いわばセリフのト書きを読んでいるような印象です。このスタイルは、太陽にほえろ!以前の、特別機動捜査隊やザ・ガードマンの頃は普通のドラマでしたが、昭和47年以降は姿を消します。
この様式をうまく利用したのが昭和46年放送版「ゲゲゲの鬼太郎」でして、鬼太郎も目玉の親父も、被害者をただ見ているだけ、という残酷なストーリーもあります。
話がそれましたが、単純な展開なので、感情移入も感涙も何もありません。「ドラマが始まりました、展開しました、終わりました」というだけです。普通の脚本家なら、「見どころ、クライマックス」を作るものなのですが、これで脚本が完成とは不思議な感覚です。
さて、私でしたらこうします。
まず、主人公藤堂とその上司と孤独な老人とを、もっと交流させます。老人たちには、太平洋戦争のことなどを語らせ、孤独な環境に至った悲しみをより詳らかにします。老人たちにすると主人公は孫娘そのもの、仲良くすることでしょう。
事件は放送版同様に複数展開しますが、最後の事件だけはまさに相手を殺そうとしているところに、主人公東道を向かわせます。展開の中で、老人たちがいなくなったな、という頃に殺人事件が発生、藤堂の心の中にも、捜査情報の漏れと、アリバイ上の疑問を抱かせつつ、現場に向かわせるような形です。
そして主犯格の老人と対峙し、説得が始まります。放送版でも暴力団に奪われた土地では、体の不自由な人のための介護用品を作っているメーカーが存在していた、というセリフがありました。これを使い、「あんなに世の中の人のために役立とうとしていたのに、なぜ人殺しに手を染めるんだ?」という形の説得ですね。
そしてその説得聞き入り、老人がひるんだ隙に暴力団組長が逃げ出そうとします。ふと我に返って再び暴力団組長を刺そうとする老人を、暴力団組長の命を仕事として守るために老人を銃で撃つ藤堂。任務としては当然だったが、自分のしたことに涙を流す藤堂であった。
こういう展開なら、お涙頂戴な感じで、視聴者も主人公に感情移入出来るのではないでしょうか?ドラマを見ている方も馬鹿ではないので、薄いストーリーですと馬鹿にされたような気分になるのですよね。
脚本家さん、もっとテレビを見て勉強してください!
Posted at 2016/08/18 01:29:47 | |
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