2000年01月22日
このブログを読む人は日付にお気を付けください。このブログは、2000年1月22日の記憶を、2011年12月に思い出しながら書いています。
当時加入していた「浜崎あゆみファンクラブ」の特典として、「Fly High」のプロモーションビデオの登場人物の一人として参加できる特典がありました。真っ先に応募し、当選しました。
参加者に義務付けられたのは、黒い服、黒い靴で来ることでした。場所は世田谷区祖師谷大蔵の「東京メディアシティ」、昔の国際放映です。この場所の集合時間が、確か8時だったかな??結構大変でしたよ。5時起きだったかな??
駅からの風景が、なんだか記憶に残っています。たしか以前来たような???そう、日大商学部がすぐそばにあります。私は商学部は受験していないのですが、日大は何学部を受けたのか全く記憶にありません。
8時からすぐ始まるのかと思いきや、全く始まる様子がありません。寒い部屋で2時間以上待たされた挙句、始まったのは10時30分頃でしたでしょうか?芸能界って、こうなんですね。
「Fly High」は、ご覧のとおり、ライブハウス風の風景の中で浜崎あゆみと二人の男が演奏しつつ、顔も見えない客が騒いでいるものです。私はその一人として登場するのですが、顔のアップはありませんよ。
浜崎あゆみは丸いステージで歌い踊っていますが、上から見て2時の方向にキーボードマンがいます。このキーボードマンの先のカーテンのそばにいました。最初の「離れられずに(ん?なんか変な日本語だ。)いたいよ、ずーっと」のところで、手を「\○/」としているのが私です。
我ら?通行人的脇役に与えられた使命は、「ライブに来た客のごとく、曲に合わせて踊る?こと」でした。ライブハウスなぞ、行ったことがありません。他の皆もそうなのでしょう。結局したのは、両手を上げて飛び跳ねる、という工夫も何もないことでした。
監督はもっと個性的に踊ってよいようなことを言いましたが、ダンスの経験がないので、結局やらずじまい。私はパントマイム風に変な手の動かし方をしました。添付の映像は尺が短いので出てきませんが、フル映像でははっきりと手を確認しました。
当時浜崎あゆみは「不思議ちゃん」的にしゃべる役を演じていましたが、撮影時の彼女の感じは全く違いました。パリッとした感じでねえ、作品の仕上がりにも厳しい注文をしていました。
また、映像に映りやすい最前列は、今でいうところの「イケメン、イケウーメン(?)」がいました。会話を盗みきくと、どうやらモデル事務所から派遣されてきた人のようです。当時浜崎あゆみはメジャーになっていました。前年夏の「Boys&Girls」でメジャーになったのですが、私が知ったのはデビュー曲、アルバム発売が我慢できずに買ったのが「Dpend on you」で、冷めたのが?「evolution」でした!?まあ、その後も良いと思った曲は聞きますよ。
ところが、まだまだ一流歌手?としての地位は盤石ではなく、新興アーティストの一人でした。ELTと同格に並び、相川七瀬あたりと同格だったのかな?
おっと、話題がそれました。そのモデル事務所からの派遣者が、「浜崎あゆみはエイベックスの社長の愛人で、そのために全面的な売り出しをされている」と、結構な声でしゃべっていました。また彼らはまじめに踊らず、なんと浜崎あゆみが見ていない(けどカメラには映っている)時には踊らない、などという職務怠慢を働きました。その彼らに浜崎あゆみは、「あたしが見ていないときに、踊っていなかったでしょう。ちゃんとやってください(もっと厳しい口調だったか?)」と、しかりつけていました。当たり前ですよねえ。
撮影は確か午後6時くらいまで行われたのかな?計11回は撮影したと思います。私は6回目くらいにへばってしまい、曲が終わった時に座り込んでしまいました。そうしたら浜崎あゆみはこっちを見て、「みんな!疲れたら座っても良いよ」と、声をかけました。いやあ、ファンサービス!?
厚着で運動して無休で交通費も自前で、出たのは弁当のみながら、非常に良い思い出になったのでした。
Posted at 2011/12/17 22:54:49 | |
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2000年01月01日
みんカラのブログ機能がいつまでさかのぼれるかを調べてみると、2000年1月1日からでした。せっかくなので、この日の記憶を書いてみます。そうそう、「ミレニアム」だとか「Y2K」問題と言われていた日でしたね。
当社でも誰かが泊まったと聞いています。しかし、結果からするとどの会社も何も起こらなかったのではないでしょうか??
21世紀は2001年からですが、2000年に「ミレニアム」と騒いだ結果、2001年1月1日は静かだったように記憶しています。
そしてこの頃の私ですが、すでにインターネットには、セガ「ドリームキャスト」でつながっていました。当時は今の様に高速回線がありませんでしたので、ダイヤルアップで接続していました。ドリームキャストが普及を狙って接続料金を無料で運営していましたので、電話料金のみで済んでいました。
当時のインターネットの楽しみというと、「掲示板」が中心で、一部ISDNやテレホーダイで接続している人は、「チャット」をしていました。インターネット上は、ほとんどがテキスト文章と静止画で構成され、不便はありませんでした。すでに前年の5月から「2ch」は存在しており、芸能関係を中心に中傷文が載っていたように思います。
さて、私自身がこの日に何をしていたかというと、家にいたのは間違いありません。しかも、1999年12月に、「グランツーリスモ2」が発売されており、おそらくこのプレーに夢中になっていたのではないかと思います。特に前年初めの購入を検討していた「レガシィB4」が含まれていましたので、子供のようにプレーしていたと思います。午前2時までプレーすることも多々ありました。
車としては、当然ながらコロナはありました。前年5月にエンジンメタルが磨滅したかのような音が発生し、8月半ばにオーバーホールを依頼、そして11月に仕上がったと記憶しています。そこから11月終わりに日光から沼田に抜ける形で、慣らし運転兼当時としては大ドライブを決行しました。
そして12月18日に「那須エキスプローラーサーキット」で、初のミニサーキットデビューをしました。その翌週の25日には「ヒーローしのい」サーキットに連れていかれましたが、朝方にRX-7がクラッシュ、戦意を喪失し、ほとんど走行しなかったのでした。
父も健在、コロナは直ったと、平和な気持ちで正月を迎えられるはずだったのですが、いろいろあって忸怩たる思いもしていたように記憶しています。
Posted at 2011/12/13 21:27:04 | |
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