
アルバイトの記憶 スペード社シリーズ
お疲れさま会2では、写真を撮影しました。それまでの私は風景や物を撮影するのは好きでしたが、1期のお疲れさま会で宴会の写真というのも、なかなか臨場感があって楽しいものだと感じさせられ、この会にカメラを持ち込んだのでした。その写真を特に卒業した人に送ろうと考えておりましたが、先日書いた近親者の入院と逝去を受けて、すっかり頭から消え去ってしまいました。
アルバイトとのしての地位はいったんなくなりましたので、販売のアルバイトを基本にもう一つする、ということをしようとしましたが、これまた先日書いた通り、どうも気持ちがダメでうまくいきませんでした。世の中の不景気も一層進み、就職できなかった人のフリーターが労働市場に増えたものですから、どの会社も当てにならない学生アルバイトや自社採用一般事務職よりも、生活がかかっていてまじめに働くフリーターを採用するようになり、フリーターは辞めないものですから、アルバイト情報誌はみるみるうちに薄くなっていきました。
そして秋が深まった頃に、3期もお願いしようと会社に電話をしました。ところが監督社員さんには2回ほど電話がつながりません。しかも電話を受けた別の社員の人が「ちょっと待ってね」
と言ってから、
「席を外しているんだ」
と言ってきます。どう考えても居留守ですよね。そして3回目でやっと電話がつながったのですが、
「うちの会社も厳しくて、少数精鋭でやることにしたんだ。残念だけど遠慮してくれるかな?」
と言われてしまいました。
私の学校の都合で、冬休みになるのは12月20日、年始は1月7日、試験期間は1月22日から2月3日と、スペード社で働ける日数が、他の大学の人よりも少なくなってしまうのは事実です。
そして冬の初め頃にアルバイト情報誌を見ていると、なんと公募しています。事情が変わったのかと思い応募すると一次面接となりました。
しかし、人事部長とやらから電話があって落とされてしまいました。
「以前の経験を生かしてくれるとは思うのですが、もっと(日数の点で)働ける人がたくさんいて、残念ですが落選となりました。はがき事業部だと枠が空いているのですが、どうしますか?」
と言っていたものの、はがき事業部なら他にもっと良い仕事があると思いましたので、遠慮しました。しかし、どう考えても嫌われたことによる不採用ですよね。
そしてこの少し前、同じ年齢だった南大阪さんに電話をしたのです。すると南大阪さんも山町さんも監督社員さんから、
「そのくらい(の日数)しか働けないなら、辞めれくれるかな?」
と言い渡されていたそうです。このように言われてしまうと、復活しようとは思えなくなった、と言っていたように思います。
そしてまた1年がたち、その間まったく連絡をしませんでしたが、やはりまた公募をしていましたので、応募しました。すると今度は、不採用通知が郵便で送られてくるだけでした。
たぶん完全に嫌われたのであろうと、今度はコーヒー大学の松本市さんという人に電話をしてみました。就職活動のことも聞いてみたかったからです。すると初めはトーンが低い受け答えでしたが、電話の切り際にようやく私であることに気づき、色々話してくれました。
・新大阪さんと山町さんは、3期の前にいつの間にか来なくなったということ
・
さくらんぼさんも3期の頃に来なくなったこと
・3期の頃からフリーターも採用するようになり、2期に多数派を誇った来月大学の人も、多数派ではなくなっていったこと
・私をいじめた一人は、監督社員さんとケンカをして辞めたこと
・職長も、3期の後頃に辞めたこと
・その他の人も、意外に復活しなかったこと
などと言っていたように思います。さすがに電話は実体験よりも記憶に残る度合いが低く、もしかしたらこの内容は私が寝ているときに見た夢かもしれません。
そんなこんなで、私が退職した後も引き続き急激に雰囲気が変わっていったようです。従って、私が継続してスペード社に勤務していたからと言って、楽しく働けたかどうかはわかりません。また、この後働いた別の会社での経験も、スペード社では得られないものでした。歴史に「もし」はありません。当時の貧弱な通信環境では、所属コミュニティが異なってしまうのはお別れでしたが、せっかく友達になれたかもしれない人たちとの関係を、維持できなかったのは残念でした。
その後、コロナウィルスで自宅を出ずらくなった時期に色々思い出し、実名SNSで検索しました。しかし、出てきたのは数名で、その人たちもスペード社に勤務していたことは覚えていても、私のことは覚えていないとのことでした。
それにしても、アルバイトの記憶など、みんな忘れてしまうものですね。
Posted at 2025/04/20 22:47:43 | |
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