愛車遍歴に手をつけましたが、なかなか進んでいません。1台目の「
パブリカ 」、2台目の「
カリーナハードトップ1600ST 」までは既にアップしていますが、次の3台目は「トヨペット コロナマークⅡLG」です。当時はトヨタの乗用車はトヨペットを名乗り、マークⅡはコロナの1バージョンでマークⅡの前にコロナがついていました。
このクルマに乗ったのは77年9月~85年12月まで、アスパラが26歳~34歳のときです。アスパラ奥様と知合い、家を建て、結婚し、仲間達とはサッカーやテニスに明け暮れてと、極めて濃密な期間です。あまりに思い出がありすぎて、何から書こうかまとまりがつきません。
1977年(昭和52年)はまだ社会人になって3年目で、アスパラの勤める会社はオイルショックで厳しい状況なのに、私が配属された部門だけは、幸か不幸か受注した大型海外案件が降ってきたために、このプロジェクトで会社を支えるという羽目になり、超のつく繁忙でした。他部門がヒマしていても、ここだけは毎日残業が続いて、さらにこのプロジェクトの図面をアルバイトで英訳してくれと言われる始末でした。いまなら超ブラックな職場ですが、若くて元気なので、金が入ってくることがうれしくて、しっかり稼いでいました。
「独身貴族」という言葉が幅をきかせていた頃です。妻帯者は家族を養うのに汲々としているのに、独身者は金回りが良くて遊んでいました。家族アパートの駐車場は中古車展示場だが、独身寮は新車ばかりが並んでいるとも言われました。
会社では入社間もない社員に10歳くらい年上の指導員がつきましたが、少しは堅実にと思って「将来に向けて少し貯金をした方が良いだろうか」とこの指導員に相談したら、「小金をちまちま貯めたところで大した貯金にならないよ。それよりは景気よく使っていれば、もしかしてどこかの御曹司と誤解されて良い縁談が来るかもしれないよ」なんて鼻で笑われました。聞く相手を間違えました。後で知りましたが、この方はお医者さんの息子でした。
その頃は給料は現金支給だったので、給料日には現ナマの入った給料袋を渡されます。それを寮の部屋の引出しに放り込んで、そこから必要な金を抜き出すという生活でしたが、独身貴族は稼いだ金は自分だけで使うので、引出しの袋を使い切らないうちに、次の給料袋が来るという生活で、どんどん気が大きくなりました。
カッコ命のアスパラは、カリーナハードトップで毎週スキー場に通い続けていましたが、そのうち同乗者から文句が出るようになりました。特に後ろの席に収まる女性陣から「寒い」「狭い」という不満です。見限られてもいけないので、快適性を考えなければなりません。
そんな折でした。戸隠バードラインの雪道で地元車を追越す乱暴をしたら、見事にスピンしてガードレールに突き刺さってしまいました。修理をしてもアライメントが狂ったためタイヤが片減りするようになったのです。当時のカリーナはアライメント調整機構が無く、取付部が歪むと直しようがありません。そんなことが引き金で後継車の検討を始めました。
「快適な次期車」ですから、ハードトップは止めてまず4ドアセダン。次にこだわったのは6気筒エンジンです。アスパラの親父様はクラウンを乗り継いでいましたが、初めの頃のモデルは4気筒だったのが、そのうち6気筒に変わりました。その6気筒に初めて乗った時の印象が強烈で、アスパラの心にはずっ~と残っています。まるで違う「静かさ」に驚愕しました。その強烈な印象がアスパラの中で固定化され、以来いまに至るまでアスパラは6気筒に乗り続けているということです(セカンドカーは別にして)。
マークⅡには6気筒と4気筒のシリーズが用意されていましたが、そんな訳でまず6気筒を決め打ちです。6気筒エンジンはキャブレター仕様でしたが、その年からEFI(電子制御燃料噴射装置)仕様が加わり、キャブ仕様が100psに対してEFIは125psにアップされています。排ガス規制が厳しく、どの乗用車もパワーダウンを強いられた暗黒時代でしたが、このEFIは次の排ガス53年規制に適応した上、パワーがアップしているというのでEFIに飛びつきました。
グレードはグランデ、LGツーリング、LG、Lと4種類あります。グランデは高級仕様で固められ、さすがに若造ごときが手を出すものとは思えません。反対に社用車仕様のLでは寂し過ぎて、こちらもパス。残るはLGツーリングかLGになりますが、何が違うかといえば足回りで、LGツーリングには4輪独立懸架+4輪ディスクブレーキが奢らます。しかし、この当時はまだ知識不足で、足回りの大切さを理解していませんでした。既に「6気筒」と「EFI 125ps」で背伸びしきっていたので、ここで「足回り」まで贅沢する余裕は無くてLGに落ちつきました。実はこの選択が後で大いに災いしています。
カリーナに無かったパワステがついて、一段と高級車らしくなりましたが、このパワステがいけません。アメ車風というのでしょうか、軽々とくるくる回ります。状況に関係なくステアリングが切れてしまうので、思わぬ時にスピンします。とうとうアスパラ奥様が一人で実家に向かっている時に、対向車が右折しそうな動きを見せたのにびっくりして、左にハンドルを切って逃げ、慌てて右に戻したところで見事にスピンして、右側側壁に左後部から突っこむという惨事を起こしました。
この頃のクルマはワイドバリエーションというか、やたら自由に仕様が選択できたため、却って危ないものでした。アスパラのマークⅡだって、パワーアップのエンジンを選択しても、足回りがプアーなままで、それに軽いパワステというアンバランスさです。見てくればかりが優先され、メーカーもいまほど操安性は考えていない時代でした。
40年も前のことですからいまのクルマと比べれば、それはいろいろなアラは出てきますが、もちろんもの凄く気に入って愛着があったクルマです。
ビーナスライン(1980年10月)
美ヶ原に上がる部分ですが、まだ工事中です。
行けるところまで行ってみようと入り込んだら、工事関係者にしっかり叱られ追い返されました。
LGツーリングのインパネ
LGでも見た目は同じです。グランデだと時計がデジタルになります。
エアバッグがないので、ハンドルは軽々としています。
速度計とタコメーターの間に4眼のメーターがあります。水温計、燃料計、油圧計、電圧計です。メカっぽさに惹かれたのですが、電圧計なんかほとんど動かない、ただの飾りです。
速度計の左下が「OKモニター」という、異常を文字データでLED表示するもので、当時は何となく先進性を感じさせました。
タイトル写真はマークⅡに乗る我が親父殿です。アスパラはもう沼津市民だったのに「横浜」ナンバーになのは、25ヶ月の月賦にすることもあって、親父殿の名義をお借りしたのでしょう。
Posted at 2020/03/23 00:32:27 | |
トラックバック(0) |
過去に所有した車 | クルマ