2013年08月27日
戦後自動車業界史
新型車を知ったり、市場動向を占ったりするためには、人と歴史を知る、私の持論です。ちょっとまとめてみましたので、ぜひご一読ください。意見なども伺えると嬉しいです。
昭和20年~昭和38年 太平洋戦争敗戦と経済成長
日本は敗戦後、朝鮮戦争による復興、神武景気、岩戸景気をといった長期の好景気を迎え、さらに東京オリンピック開催を経験しました。この間、三種の神器として「電気洗濯機、電気冷蔵庫、電気掃除機」が普及、昭和30年代後半には大規模集合住宅などもでき始めました。
しかし、マイカーを持てるのはごく一部の層で、人々の移動手段はまだまだ鉄道やバスが主体でした。日本は原材料を輸入して工業製品に加工して輸出する「加工貿易国」として世界の中に存在していましたが、国内の産業構造は、農業・漁業から鉱工業、サービス業への転換がようやく始まりまった時期でした。
好景気の中で「所得倍増計画」などが画策されて、物価も上がりましたが給与水準も上がりました。そのような中で、「頑張ればマイカーが持てるかもしれない」と希望を持ち始めていました。
昭和38年~昭和48年 高度経済成長とマイカー時代の到来
昭和30年の通産省主導の「国民車構想」、軽自動車制度の制定を経て、トヨタはコロナを昭和30年に、ブルーバードは前身のダットサン210の後継として昭和32年に登場しました。昭和38年には、ブルーバードが二代目の410に、コロナが翌年に「アローライン」を特徴とする三代目にフルモデルチェンジを受けました。そしてこの年、名神高速道路が開通し、富士スピードウエイでは第一回日本グランプリが開催されました。自動車は、いつでも自由に高速で移動できる乗り物として、人々が魅力を感じるようになってきました。パワーアップ競争の幕開けです。この二車では、コロナが昭和40年にツインキャブエンジンの1600Sを、ブルーバードが1200SSを登場させました。
この時期のコロナとブルーバードは、性能競争を繰り広げることになります。コロナは、国産初の「2ドアハードトップボデー」モデルや、DOHCツインキャブエンジンを搭載した「トヨタ1600GT」をラインナップします。一方、ブルーバードは昭和42年に510型にフルモデルチェンジし、シャープなスタイルと四輪独立懸架、SOHCエンジンを採用し、ブルーバード史上もっとも注目されたといっても良いほどの人気車種になりました。ブルーバードとコロナの頭文字をとり、「BC戦争」などと呼ばれました。
一方で、さらに低価格なシリーズ展開として、昭和41年には日産は1000ccのサニーを発売しました。この情報を事前につかんでいたトヨタは、急遽エンジンの排気量を1100cに拡大し、「プラス100ccの余裕」と広告展開を図りました。
トヨタ、日産の争いは、高価格車にも波及します。日産は、昭和41年に合併したプリンス自動車の高性能車として「スカイライン」を、高級車として日産系の「セドリック」、プリンス系の「グロリア」をもっていましたが、スカイラインとブルーバードの間を埋めるモデルとして、昭和43年に「ローレル」を登場させました。当時の高級車は法人需要が中心であったため、オーナー向けモデルの展開が必要だったのです。
対するトヨタは、当初はコロナの新モデルとして用意していた車を、「コロナマークⅡ」として登場させました。また、昭和42年新登場のクラウンは、「白いクラウン」とキャッチコピーをまとい、さらに2ドアハードトップモデルも加えて、個人需要も狙う形となりました。
一方、アメリカでは戦後生まれ世代が自動車免許を取る時期に差し掛かり、若者が乗る安価なスポーティーカーが登場しました。フォードマスタングです。この車は、普通の乗用車のシャシーに若々しいボデーを載せたもので、結果、大ヒットにつながりました。この手法を提唱したのは、同社の「アイアコッカ」氏です。今でこそ当たり前の手法ですが、当時は斬新な手法でした。
このマスタングのヒットを受け、新しい感覚を持つヤング層やファミリー層を対象として、トヨタはカリーナとセリカを発売しました。当時としては斬新な5リンク式リヤサスペンションを備え「足のいい奴」と宣伝、人気車種になりました。
この時代は、トヨタと日産が、エンジンのパワーアップとボデーバリエーションの展開を争った時期で、人々の目が自動車に集まっていた時期でもありました。しかし、それまでなかった自動車が街に現れたため、いろいろな問題が出てきました。有鉛ハイオクガソリンが原因とされている「牛込柳町鉛中毒事件」、自動車の排気ガスも原因となる、都市部の光化学スモッグやぜんそく、交通事故死者の増大、騒音公害などです。
昭和45年には公害対策基本法が制定されました。アメリカでも自動車の排気ガスが問題となり、通称マスキー法が定められました。それまで自動車の排気ガスには、規制らしい規制がなかったのですから、各国の自動車メーカーは排気ガスの対策へと舵を切ることになります。
また、昭和48年には、第四次中東戦争を有利に戦おうとする産油国が原油の価格を70%アップすることを発表します。特に原油を輸入に頼っている日本では「第一次オイルショック」が起こり、国内経済が拡大から収縮に向かいます。石油価格の上昇はアメリカも同様で、小型車へのシフトが起こりました。
このように、高度経済成長期に拡大した自動車市場は、排ガス規制の制定とオイルショックの影響を受け、混迷の時代へと移っていきます。
昭和48年~昭和53年 オイルショックと排ガス規制の時代
この時期の排ガス規制は、乗用車においては昭和48年、50年、51年、53年と、段階的に進められることになりました。規制に適合していない新型車は販売が出来なくなるのですから、自動車メーカーは対策に奔走することになります。
アメリカでは、ビッグスリー(フォード、GM、クライスラー)が、「こんな規制をしたら、車が動かなくなってしまう。」と、議会に訴えます。しかし、この規制値をホンダが、CVCC方式のエンジンでクリアします。それまで弱小メーカーでしかなかったホンダが、一躍世界に名を知られるきっかけとなりました。
その後、触媒コンバーターが開発された結果、ホンダも含めた多くのメーカーは触媒方式にシフトしていきます。結果として触媒方式が主流となりましたが、この時に研究されたエンジン内部の燃焼の仕組みは、次のハイパワー競争時代の糧となるのです。
市場では、低公害車をさておき、排ガス規制前の中古車の人気が高まりました。排ガス規制対策車は、ハイパワーエンジンが設定されていなかったり、エンジン本体の設計変更や各種浄化装置の取り付けによって燃費やパワーが悪化、車重も増加するありさまでした。街の中古車展示場が増えたのもこのころです。新車の市場は、排ガス規制や低公害ばかりで活気が失われていたためか、子供を中心にスーパーカーブームが起こりました。
また、世界的な小型車ブームは、特にアメリカと日本との間で貿易摩擦を生じさせました。アメリカのメーカーは大型乗用車しか製造しておりませんでしたので小型車のノウハウがありませんでした。単に大型車を小さくしただけの小型車しか設計できなかったため、市場の多くを日本車が占める結果となりました。
自動車メーカーは、オイルショックと排ガス対策に追われた時期ではありましたが、この苦難をバネにして、日本車はより高い国際競争力を身に着け、次の時代へと移行します。
昭和53年~平成5年 パワー競争と対米輸出摩擦、そしてバブル景気
排ガス対策は、昭和50年の時こそ混乱しましたが、昭和53年対策の頃になるとハイパワー車も復活してきます。排ガス対策前と比較してやや低下した出力を、当初は排気量増大で補ったり、電子制御燃料噴射化をしていました。
昭和53年には、トヨタはDOHCエンジンを復活させています。日産は、430型セドリック・グロリアで、国産車初のターボチャージャー付きガソリンエンジンを搭載しました。併せて点火時期も電子制御する、「エンジン集中制御方式ECCS」を採用しています。ECCS化で15馬力、ターボチャージャー装着で、さらに15馬力向上しています。
このターボチャージャー、暴走行為を助長するとのことで認可されていなかったのですが、「今まで捨てていた熱エネルギーを利用してターボチャージャーを回転させているから省エネルギーである。」という理由で認可されていたのでした。
当時のターボチャージャーはターボラグが大きく、アクセル操作に対して加速が遅れて発生する傾向にありました。この独特の加速感が人気となったこと、当時非常に高額であった3ナンバー乗用車の税金ではなく、5ナンバー乗用車並みの税金で2000cc超のエンジンの出力が得られるということで、大人気になりました。日産は、ターボチャージャーをレパード、スカイライン、ブルーバードにも展開しました。
トヨタはDOHCエンジン主体で展開をしていました。中でも昭和56年発売のソアラはDOHCの2800cc170馬力エンジンで、国産市販車で初めて時速200kmの壁を超えました。さらに翌年には、これまでの「DOHCかターボか」という世論に対して、3T-GTEU DOHCターボ160馬力エンジンで回答をします。
その他のメーカーも、三菱は全車種でターボ付きエンジンを選択できる「フルラインターボ」を展開したり、マツダはロータリーエンジンにターボチャージャーを装着、スバルも水平対向エンジンにターボチャージャーを装着するなど、ハイパワー競争が激しくなるのでした。
一方で、駆動方式の変化が訪れたのもこの時期です。1974年のVWゴルフ登場以降、世界の小型車の駆動方式は、後輪駆動からスペース効率に優れる前輪駆動へと移行し始めます。それまで、スバル車とホンダ車、日産チェリーしか前輪駆動しかなかった時期から、昭和56年にサニーが、昭和58年にはカローラとブルーバードが加わりました。当時は、「前輪駆動嫌い」「AT嫌い」なドライバーが多数おり、モデルごとに一度に切り替えた日産に対してトヨタは、前輪駆動車と後輪駆動車を併売したり、ハイパワーエンジンモデルは後輪駆動のままにしていました。
こうしてハイパワー化と駆動方式の変化が進みましたが、出力が高くなると二本の駆動輪だけではエンジンの出力を地面に十分に伝えられなくなります。おりしもスパイクタイヤ廃止も決まった結果、4輪駆動車が注目され始めます。これまでもスバルはレオーネで4輪駆動を展開しておりましたが、悪路での走破性を重視したものでした。西ドイツのアウディは、この4WDをエンジン出力を効率よく地面に伝えるシステムとして、4WDの「クアトロ」システムを展開、国際ラリーで優勝すると、各メーカーの関心が4WDに向かいました。
昭和61年には、マツダファミリアとトヨタセリカが、翌年には日産ブルーバードがハイパワーエンジンの4WD車を発売しました。この4WD化によってさらにエンジン出力を増大しても安定して走行出来るようになり、昭和62年末には、三菱ギャランが2000ccエンジンで205馬力を実現、「リッター百馬力」の時代が訪れます。
大排気量エンジン車の出力も増大しました。中でも1988年に登場した日産シーマは、500万円を超える高価格と3000cc255馬力ターボエンジンによる高速性能を売りとし、爆発的に売れました。個人消費が伸びたことの総称として、「シーマ現象」などと呼ばれました。
その後、翌年には日産フェアレディZが3000ccエンジンで280馬力を、スカイラインも、GT-Rで2600cc280馬力を、スープラも2500ccで280馬力を実現しました。当時、高度成長期以降減少していた交通事故死者が再び増大していたため、当時の運輸省は登録車を280馬力に、軽自動車を64馬力にする行政指導が出されました。このため、パワー競争は出力の数値ではなく、どれだけ小さな排気量から高出力を取り出せるか、という方向に変わってまいりました。
輸入車も好調で、BMW3シリーズが「六本木カローラ」と呼ばれたり、ベンツ190Eが「小ベンツ」などと呼ばれ、高級車の扱いを受けないほどでした。ポルシェやフェラーリの中古車が、輸入を待てない人の需要を受けて高騰したのもこの時期です。
その一方でこの頃、三菱のパジェロがフルモデルチェンジを受けたり、トヨタからはエスティマが発売されたりと、当時はひとくくりで「RV」、現在のsuvやミニバンの元祖が発売されました。当時全盛期だったスキーブームなどをうけ、車そのものが趣味でない人や、大家族の人、ハイパワー車競争に飽きた人などに好意的に受け入れられました。また、乗用車タイプでもスバルのレガシィツーリングワゴンの人気に火が付き、ワゴンブームが訪れます。
軽自動車も、物品税の廃止に伴って乗用車モデルが主流となり、また、規格の変更により居住性や走行性能が向上したことから、セカンドカーとして選ぶ人が増え始めました。
この時期は、「人々の生活の多様化」が各産業のキーワードとなり、経営の多角化や異業種進出などが積極的に行われ、自動車の車種も多様化した時代でした。自動車メーカーからはユーザーに対していろいろな提案が行われ、バブルの象徴として消えていったものもありますが、セダン離れのきっかけを作ったのは結局この時代でした。
平成5年~平成9年 バブル清算と低迷期
バブルの崩壊は諸説あります。1990年初からの株価下落や、同年春の土地関連融資の抑制政策、有効求人倍率が低下した1992年などです。多くの人が景気が悪化したと感じるようになったのは、1993年頃です。この頃になると高級車や輸入車のブームは沈静化してきましたが、自動車の開発時期の関係で、しばらくは「バブルカー」が発売されました。今でこそ当たり前になった「2000cc未満の排気量で、車幅が1700mmを超える車種」などもその一つでした。
当初は「清貧の時代」などと呼ばれ、単なる景気の循環の上での不景気だと思われていました。個人消費は急速に落ち込み、特にレジャー産業などは大きな打撃を受けました。1994年頃になるとバブル崩壊以降に企画された車種が登場し始めました。V40型カムリ・ビスタなどがその代表格です。
前の時代からのRVブームは引き続きましたが、買い替え需要などは低迷しました。結果、車両の寿命が延び、気分や好みに応じて車を買い替える時代から、同じ車に長く乗る時代へと移行していったのです。
価格への志向も強まりました。電話会社のCMのキャッチフレーズ「安いが一番」や、ディスカウント業者の「価格破壊」などが象徴しています。加えて1993年には「平成コメ騒動」が起こり、政治の世界でも、1995年に自民党から日本新党へと政権が交代、不安定な世相に拍車をかけました。経済の分野はやや遅れて、1997年に日本長期信用銀行や日本債券信用銀行、北海道拓殖銀行や山一證券が倒産するなど、ますます個人消費を落ち込ませる要因が重なりました。
そんな中、1995年には日米自動車協議に端を発する形で規制が緩和、点検項目の削減や車検の有効期間の延長などが行われました。
まだ不安定な時代ながらもようやく落ち着きを見せた1997年、トヨタからプリウスが発売されます。当初は「高額なのに全く走らない車」としてごく一部の人が注目するだけの車種でしたが、現在の躍進ぶりは皆さんもご存じのところです。
また、ホンダからは1994年にアコードをベースにしたミニバン「オデッセイ」が発売されて一躍人気車種になるなど、乗用車の嗜好の変化がはっきりと表れてきました。モノスペース化はさらに進み、同じくホンダは「ステップワゴン」と「SMX」を発売、ステップワゴンが人気を得て、「箱型ミニバン」を定着させました。
しかし、その一方で「スバル インプレッサWRX」や、「三菱ランサーエボリューション」が、すぐに限定台数を売りさばいしてしまうなど、従来のハイパワー車も人気になったりして、自動車市場は一筋縄にはいかないことを示していたりもします。
1993年から1997年は、前の時代の負の財産の整理や、経済再生を目的として各種の改革が起こった時期で、その前後では大きく世相が変わったものです。多くの人の気分は、「これまでの時代とは変わらなければ新しい時代に対応できない。」となっていったのです。
平成10年~平成20年 業界再編と離合、緩やかな景気拡大期
この頃になると、世相は一応の安定を見せるようになりました。企業を安定化させて競争力を高めるためには、合併をすることが良いとされた時期でした。金融、商社だけでなく、自動車メーカーも再編の波に飲み込まれていきます。自動車の設計、開発、製造には膨大なコストがかかるため、生産台数が400万台規模にならないと生き残れないとする、「400万台クラブ」などという言葉も生まれました。
新車の世界でも、「コストダウンだけでは消費者に飽きられてしまう」機運が高まってきました。トヨタが絶えて久しかった後輪駆動のセダン「アルテッツア」を発売したり、コンパクトカーながら安っぽくない「ヴィッツ」を発売したり、スバルが高級感を出し始めた三代目のレガシィを発売するなど、節約一辺倒の時代からの変調が感じられるようになりました。
また、「古くからある車種のユーザー離れ」も、徐々に話題になるようになりました。古くから販売されている車種のユーザーの平均年齢が上昇し、そのユーザーが死去して買い替え需要がなくなる一方、古いユーザーの嗜好に合わせた結果、若い人の好みに合わなくなることなどがその問題点です。
自動車メーカーでは、古い車名をあっさり廃止したり、サブネームを付け加えて段階的に移行させたり、車名は変えずに車のスタイルを大幅に変更するなどのことをしました。ラジエターグリルやテールランプが異なるだけの兄弟車が整理され始めたのはこの頃です。
これまで、日本人の車種の指向は、ヒエラルキーをなしていました。トヨタなら、新人はスターレットに、係長になるとカローラ、課長がコロナで部長はマークⅡ、そして社長がクラウン、というものです。この構造はセルシオの登場やRV車の台頭に伴い、この時期になるとかなり崩れていましたが、車種の廃止によってほぼ完全になくなりました。すなわち、若い人でも成功したら高級車に乗ったり、年配者が小型車に乗っていても、全く恥ずかしくない時代が到来したのです。また、長い間敬遠されていた「ハッチバック」車も、ごく一般的な車種になり、人々が自由に車種を選べるようになりました。
先の「ヴィッツ」が、スターレットと比べて中性的、かつ年配者が乗っても恥ずかしくない雰囲気に仕立てられていたことから、コンパクトカーブームが始まります。すでに1996年にマツダからはデミオが発売、大人気を得ていたところに他社が参入した形です。ホンダはロゴとキャパと統合してフィットを、マツダは品質感を大幅に向上させたデミオを、日産はマーチをモデルチェンジして投入しました。これらの車は、従来通りの「初めて買う車」としての需要、軽自動車からのアップグレードだけでなく、より大型車からの乗り換え需要も担うことになりました。
また、エスティマやオデッセイ、ステップワゴンの成功でファミリーカーとして認知され始めていたミニバンは、前輪駆動化されたセレナや、商用バン派生モデルから乗用モデルへと変貌したノア・ヴォクシーが加わり、ファミリーカーとしてはセダンやステーションワゴンを置き換えていきました。
旧車種の整理やミニバン、コンパクトカー化が進む中、2004年頃からガソリン価格の上昇が始まります。特に2004年~2005年には、レギュラーガソリンの平均価格が13円も上昇しました。当時、アメリカの製油所を台風が襲ったことも原因の一つでしたが、産油量が減って原油が枯渇するのではないか、ということ、二酸化炭素が増えることで地球温暖化が進むことなどから、多くの人に低燃費志向が表れてきます。
既に2003年にフルモデルチェンジを受け、走行性能が向上していたプリウスの人気が爆発、また、コンパクトカー化が進んでいくと、ユーザーの車型に対するこだわりが消えるためか、軽自動車への移行も始まりました。1998年の規格で軽自動車のスペースが広くなっていたことから、ユーザーにとっては抵抗なく移行できたようです。
景気そのものは、リーマンショックによる世界同時不況が起こる2008年まで拡大をつづけましたが、人々の自動車に対する志向が、燃費とスペースに向かっていた時代でした。
平成20年~現代 ハイブリッドや電動化等、新技術の時代
ミニバン化と軽自動車化が進んでいる最中の2009年、市販の電気自動車としては第一号となる、三菱i-MiEVが、翌年には日産からリーフが発売されました。ハイブリッド自動車は電気自動車が普及するまでのつなぎの技術である、と言われており、両者はこれを先取りしたものです。航続距離や価格の面もあり、普及についてはまだまだこれからではあります。
さらに2011年にはプリウスのプラグインハイブリッドが、2013年にはアウトランダーのプラグインハイブリッドが発売されました。さらに、スバルは自社初のXVハイブリッドが、アコードは新システムのハイブリッドが追加となり、カローラにもハイブリッドが追加、秋にはフィットが新システムのハイブリッドで登場する見込みです。
一方で、2009年に自工会が発表した市場動向調査における「若者のクルマ離れ」は、自動車メーカーの将来を脅かす問題としてとらえられ、トヨタは社長直轄プロジェクトとして、86/BRZを登場させました。
これまで約20年間にわたって台数を伸ばしていたミニバンは「秋風が吹いた」と言われるように販売台数が減少し、軽自動車は全自動車販売台数の40%を占めるまでに増大しています。
まとめ
自動車は、工業製品でありながら、流行があるファッション性を持つ商品です。ユーザーがどんな車を望むのか、ということは、市場を見ることで「少し前」のことはわかります。しかし、次の時代を予測するのは、その車を作るメーカー自身です。
市場を構成するのも人でありながら、市場に商品を提供するのも人です。今の市場はどこから来て、どこへ行くのか、人あっての市場を知ることは、すなわち人を知ることではないでしょうか。市場を知る前に人を知る、開発の基本は人にあるからこそ、歴史を学ばねばならないと考えております。
以上。
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Posted at
2013/08/27 23:23:11
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