2016年10月29日
すっかり寒くなりつつありますね。
先日なんて、東日本は冬並みの寒さだったらしいです。どうりで暖房を付けたら車から降りたくなくなる訳です。
12月までは家では暖房を付けないつもりでいますが、車だけは別、夏は余計に暑いし、冬は余計に寒いしで、最近は夏に熱中症で亡くなる事もありますから、冬場に凍死してもおかしくないということで、しかも風の噂では寒冷化しているという噂もありますから、夏の冷房のように冬の暖房も馬鹿にできない「安全装備」という扱いをしています。
ですからそれを理由に、家から一刻も早く出て、車の中で暖房を聞かせながら音楽を聴きつつのんびりとドライブするのがこの季節の楽しみなのです。
これでホットの缶コーヒーやお茶があればさらに贅沢気分。コンビニのコーヒーとかでは駄目なのです。そもそも匂いが強すぎて嫌いというのもありますが、缶コーヒーというちょっとばかりのチープさも重要なのです。
ホットのお茶のペットボトルという、冷えていれば同じ値段で大きいボトルが買えるのに、同じ値段で量が少なくて、だけど温かいものを買うという、学生時代ならば考えもしなかったような贅沢を覚えてしまったというのも確かにありますが、
飲み物が切れるが先か冷えるが先か、その間のこの贅沢なくつろぎのひとときを過ごすというのが、最近の出勤時のただ一つの楽しみになっております。休日なんてその辺の公園にでも停まって、ただ音楽だけを聴きながら、ぼーっとしているという事もざらです。これで雪化粧にでもなっていたら堪りません。
冬が近付くと思い出すのが広瀬香美ですが、真夏に聞くとそれだけで冷房が数割増に効きそうな感じがします。冬に聞けば身震いがしそうになります。
そういえば以前、ネットラジオを聴いていたら、海外の局でしたが真夏にハウス系のジングルベルを流していました。クリスマスまであと二月近くありますが、年にたった一日しかないあの日のためにこうにも頑張ってクリスマス文化を定着させた商売人根性には頭が下がります。
しかし今一つ理解しがたいのは最近妙に押されているハロウィンという文化です。果てさて一体どうして、日本にハロウィンという文化がやって来たのでしょうか。
そのあたりの店を見れば何故か南瓜の人形が置かれ、蝙蝠が散りばめられたところに堂々と横幕で「HAPPY HALLOWEEN」と掲げられていますが、一体これは何を意味しておるのでしょうか。
学生時代にはハロウィンほど日本の文化に馴染まないものはないと思っていましたが、馴染む馴染まないは関係なく、何とも浮き出た存在でありながらも半ば強引に、定着させられようとしております。
商売のための文化輸入とは異文化に対して失礼だという意見もありますが、恐らく楽しんで参加している人々はそこまで考えてはおらず、単にイベントとして参加しているだけに思います。
果てさてそれが本当の仕掛け人の思惑通りになっているかどうかはともかくとして、日本文化には最早バレンタインデーやらクリスマスという定着してしまった文化もあります。後者はキリスト様の誕生を祝う日ということですが、日本のような複数の宗教を信仰する文化からすればそれは何も不思議なことではなく思います。また26日はボクシングデーと言われ、本当に贈り物を開ける日になっていますのでこれは至って「真面目な」輸入記念日とでも言うべきものと感じます。
同様にバレンタインデーは感謝の気持ちを表す日ということで、日本に定着したきっかけは菓子メーカーによる宣伝ではあったにせよ、チョコレートには値段もピンからキリまでありますから、考えようによっては「リーズナブルな」輸入行事日とでも言えましょう。
ただ本来はカードを送るなどして感謝の気持ちを伝えたというところに、金銭が絡むようになったうえ、やれ今年のオススメはどうのこうのと、そういう展開論が出てくると聊かうんざり感が酷くあります。ということでバレンタインデーは「やや不順な」という但し書きを加えるのがよろしいでしょう。
しかしてハロウィンはどうでしょうか。こうして書くにあたり少し調べましたところ、驚いたのですが、ハロウィンは単なる行事なのだそうです。てっきりキリスト教の行事だと思っておりましたが、単なる
「アメリカ発祥の収穫祭」
なのだそうです。キリスト教は関係ないらしいです。
元々は日本で言ってみればこれは秋祭りだとか盆踊りだとか、そのあたりの土地土地で行われている「五穀豊穣を祝う祭」のことなのであります。
そういう前提を知ってしまいますと、何とも滑稽な事実が判明してしまいます。
収穫祭に相当する日本旧来の地方のイベントが毎年のように減っていくのに、ほぼ同義であるはずの輸入文化がこうも取り上げられて、しかも定着しつつあると言うのです。
とここまで言っておきながらも、最近はハロウィンの母国であるアメリカにおいても、この「収穫祭」という意味合いは薄れてきて、単なる行事と化しているそうです。
日本の土着の行事というのは大抵、最後は神社や寺院、もしくは地域の重要なスポットで終盤を迎えて、最後は「目に見えない何かに感謝する」という流れで終わることが多いものです。
感謝するのは神様だったり豊穣そのものであったり、いかにも日本人的な精神が表れた行事であると言えます。
最近では地方の村おこしなどで、このような流れは全く関係のない祭もあったりします。恐らくハロウィンも、この部類なのでしょう。
要は、大勢でドンチャン騒ぎをする「理由」が欲しくて集まった人々なのでしょう。
普段から色々と制限の多い世の中ですから、何故祭が盛り上がるのかと言えば、全体的にテンションが上がるので、多少はっちゃけても許されることが多いからでしょう。その理由は、年に一度のイベントであるから。
大騒ぎをするには大義名分が必要なのです。今日は祭だからと言うと、普段と違う法被姿や半裸で闊歩していても多めに見られる。酒に潰れても許される。夜遅くまで騒いでいても許される。
普段から開放されるために、普段とちょっと違う、普段よりも飛び出たことが許されるために大義名分が必要なのです。
ハロウィンだと、変な格好をしたり、いやはやそのトレンドまでも知りたくはありませんが、仮装するのが好例なのだそうです。奇抜な格好をしたりするのが主流だということですが、スーツや学生服といった制服社会に代表される、いかにも日本的な協和と規律を重んじる社会から開放されたいと思っている人達の意思の発露であると捉えてよいのではないでしょうか。
それも考えすぎでしょうか、単にその開放感だけを味わいたいだけの、あの祭の高揚感に酔いしれたいだけの人達なのかもしれませんし、興味本位なだけなのかもしれません。
もしかしたら、地方から出てきたので都会で地域の行事は参加できないけれども、祭のようなあの雰囲気を味わいたいと思って参加している人が多いのかもしれません。
そうすると、これが都市一極集中の時代の新しい祭の形なのかもしれません。
そうだとすると、結局ハロウィンで得をするのは、結構限られた範囲になってしまいます。
仮装して外食するにしてもそれほどの大金が動く訳でもなく、何か地方の名前が印象として残る訳でもなく、本当にただのイベントでしかない側面が非常に強くなっています。
話を聞いていても、コミュニティで集まった人が勝手に集会をするという感じで、それ以上でも以下でもありません。
しかも日本文化とはかなり異質で、最近ではただでさえお年玉も厳しいのに「お盆玉」なんていう、小遣いの三文字で済ませていて金額も自由だったものを定着させようとしてかなり批判された事もありますから、いきなり子供が来て「お菓子ちょうだい」なんて言われても閉口してしまいます。
まあ金額的にもそんなにしないですが、きっと子供たちは色々と考えるのでしょう。子供たちは思ったよりも子供らしくないことを考えるものです。
少し前向きに捉えれば、参加している人はそれなりのストレス発散にはなっていると思いますので、一定の効果はあるのでしょう。
またそのために幾らかの経済効果もあることでしょう。
しかしこの輸入文化に対して快く思わない消費者は結構居ると思われますし、全く無視している消費者もまた多いでしょう。そしてそんな人のほうが、ハロウィンを楽しんでいる人よりも多いでしょう。
思うに、数年くらいで衰退していく文化だと思います。
残りはするでしょうが、そう遠くない将来に「そんなのあったねー」的ポジションになると思います。
かぼちゃ味のパイを食べてみたいとは余り思いませんが、かぼちゃのみぞれ餡かけとか煮物なら喜んでよばれたい等と思いつつ、雪化粧した公園に停めた我がセカンドハウスで音楽を聴く、そんな季節が今年もやって参りました。
冬ですと夏のように脱水で死んでしまうことも熱中症で知らぬ間に危機的状況になることも蚊に刺されて壊骨熱にかかる事もないですから、寒さ対策さえすれば車でも寝られます。
なんだかんだで居心地がよくて、車の中で過ごすことが多くなるのが冬であったりします。
さながら車がセカンドハウスになったようなものです。
今年は、雪が降ったら公園でコンビニおでんを食べようと思います。
そんな事をしている酔狂な人間は自分だけでしょうが、危機的でなければ何事も楽しめるくらいの余裕を持って生きて参りたいものです。
Posted at 2016/11/01 00:34:32 | |
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