
時に1980年代後半、小中学生には「ファミコン」が大ブームになりました。それまで不良がたむろするゲームセンターに行き、何百円も注ぎ込む必要があったゲームを、あらかじめお金を払えばプレーし放題になるのですから、ブームも当然です。
そんな小学生たちに、ゲームのアイドルがいればより人気が高まる、と考えるのは、ゲーム機会社やソフトウェア会社なら当然のことです。これを受けて(?)、北海道にあるソフトウェア会社の「ハドソン」は、「高橋名人」を擁立し、ゲームに宣伝にと、活躍させるのでした。しかし、ハドソンがファミコンから離れ、そしてゲーム機が多種乱立する世の中になった頃、高橋名人の名前も聞かなくなっていったのでした。そしていつの日か高橋名人も一般人になり、何とテレビ東京の街頭インタビューシーンに、一般人として映ることがあったのでした。
今日、新聞のテレビ欄に目を移すと、「高橋名人はゲームが下手だった」との文字に目が止まり、早速番組を見てみました。高橋名人の当時の活動を要約すると、以下のようなものでした。
1.高橋名人は、ハドソンの広報部の最若手社員だった。
2.ハドソンは、小学生のゲームアイドルを欲していたが、芸能人に依頼するほどの予算はなかった
3.ハドソンは、役員会で社員をその役に当てることを決め、「高橋名人」を作り出すことに決めた
4.高橋さんは、実はゲームは得意でなかった
5.あるゲームを発売するに当たり、ゲームファンを集めてその前で高橋さんにプレーさせることにした
6.高橋さんはゲームが得意でないので、ゲームファンの前でプレーする2分間だけ、必死にゲームを練習した
7.子供たちを十分騙せた結果、「高橋名人」と見られることに成功した
8.その後、イベントにゲームの登場人物に映画にと、活躍の幅が広がった
9.時には160日連続勤務などがあり、徐々に高橋さんの体を蝕んでいった
10.ある時、高橋さんは原因不明の全身じんましんに襲われた
11.そして心を已み?)、仕事を勝手に休むなどのことをしてしまった
12.ハドソンがファミコンソフト開発からPCエンジン開発へと場を移した結果、解任となった
高橋さんは一貫して一会社員であり、これらの活動において特別ボーナスなどはもらえなかったそうです。
その高橋さん、現在では58歳になったそうです。これからも人を笑顔にしていきたいと思いを語ったのでした。
高橋名人だった当時、高橋さんはただのゲーム好きなオタクな大人だとばかり思っていました。社員として業務命令に従ったこと、ゲームの宣伝のために練習に励んだこと、そして、会社はチームワークなので、自分だけに特別ボーナスが支給されるわけには行かないことなど、人間らしい一面をうかがい知ることが出来ました。
「高橋名人」当時はあまり良い印象はありませんでしたが、非常に人間味あふれる「名人」だな、と思いを新たにしたのでした。
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Posted at
2017/05/28 23:38:15