2018年10月02日
平成30年期 第1期 昭和61-平成4年
経済的事情
昭和61年は、日本または私をゆるがす、大変な出来事が起こりました。これまで日本の社会科の教科書では、「日本は材料を外国から輸入し、製品に加工して輸出をして外貨を得る、「加工貿易国」である。」と記していました。
特に家電製品や自動車は安くて品質が高く、多くの国の人に受け入れられていました。そのため、特にアメリカとは貿易摩擦を起こしていました。「日本はアメリカに自動車や家電製品を輸出するばかりで不公平だ。」とするものです。昭和50年代後半のニュース番組では、アメリカの工場労働者が日本製品を破壊するデモ行動が度々報道されていました。
アメリカはアメリカ製品を日本に買わせるために、まずは牛肉とオレンジ(みかん)の輸入を自由化させます。また、日本の輸出力を低下させるために、円高基調の政策を取ることが「プラザ合意」で決定されます。
これには、私を含めた多くの人が驚嘆しました。日本製品の輸出が出来なくなると、日本の国力が低下、結果として原材料を輸入することも出来なくなり、日本が高度経済成長で得た競争力を全て失うことを想像していました。
国内の状況では、既に電電公社と専売公社が、それぞれNTTと日本たばこ産業へと民営化が終わっていましたが、さらに国鉄が昭和62年に民営化されます。戦後の体制の象徴であった官営事業がなくなり、戦後体制が遠くなったことを感じさせていました。
昭和時代はまだ続いていましたが、なぜか昭和の終わりを感じさせる気分になっていました。
海外旅行の一般化と自虐文化、トレンディドラマの設定
しかし、一般の人の生活は少し違っていました。円高になると、海外旅行の費用が低下します。これまで海外旅行というと、芸能人がお正月に行くか、テレビのクイズ番組で賞品を取るくらいでしか行けなかったものでした。
これに目をつけたのが、短大・4大生です。高校までは「修学旅行」がありますが、短大・4大にはありません。就職すると旅行など行けない位の休みしか取れない時代でした。そこで、「卒業までにアルバイトでお金を貯めるか親からお金を借り、2-3月に友人と連れ立って海外旅行に行く様子が報道されました。
既に、「日本人の住居はウサギ小屋」と、日本のローカルさと生活の質の貧しさを自虐的に語る論がありましたが、多くの人がこれに同調することになりました。加えて、一般の人よりも海外旅行に行く機会が多かった芸能人、とくにお笑い系の人たちが、こぞって「トーク番組」に出演、海外から見ると日本が特殊であることを語る番組を作り出しました。
しかし、実際に昭和40年代に農業が機械化された上に、もともと収益が低い傾向が出ていました。もともと農家では、労働力を得るために、たくさんの子供(男の子)をもうける傾向にありました。作業が機械化されたために、「口減らし」をし、長男以外は大都市に働きに出るたのでした。それらの方が住んだのが、「団地」でした。団地は親2人子2人が基本的な家族として設計されていましたが、子供が大きくなると手狭になったのでした。そこに成長した男女の子が住むのはよろしくないとなりました。
米国では、ハイスクールに進学すると子供は家を出て寮(?)で一人暮らしをすると伝えられました。農家等を含めて、成長した子と親が同居するのは、「子供が精神的に成長していない証拠だ。」ともっともらしい説が作られ、アパート一人暮らしをさせることが当然であるかのような傾向が現れました。ちなみに、1989年に放送された「オイシーのが好き」では、主人公の水島由樹(演.松下由樹)は、「短大に行ったのだから4大に行くよりもお金が掛かっていないので、その分だけ親から仕送りを受けて、千葉県松戸市六実で一人暮らしをしています。また、その後のトレンディドラマの主人公たちも、皆、都心からそれほど離れていない地域で一人暮らしをし、親兄弟の描写は一切行われていません。
昭和天皇の老化と長寿番組の終了と芸能人の死去
この頃になると、一般参賀に出てくる昭和天皇の動きが急に遅くなり、病気ではなかったものの多くの人は、「昭和天皇は、もうあまり長くないかもしれない」と思うのでした。具体的に容態が悪化したのは昭和62年からのことです。
昭和61年には石原裕次郎も健康上のことから「太陽にほえろ!」を降板し、同番組は翌年放送を終了します。また、石原氏は昭和62年に亡くなります。同年には、美空ひばりも亡くなります。
これらの状況から、「昭和の雰囲気を持った番組や人は古い」という風潮となり、正反対の雰囲気を持った「トレンディドラマ」へと移行していくのです。余談ですが、「太陽にほえろ!」の後番組である「ジャングル」では、登場人物の一人の刑事が、「俺の生きがいは仕事だけじゃないんでね」と、定時退署する風景が描かれています。
奨励される消費
高度経済成長の頃には、廃棄物などによる公害が蔓延していました。第一次オイルショックになると、消費文化を見直す風潮が出てきました。この傾向は昭和50年代末頃まで続いており、その後も決して「消費は美徳」とはされませんでした。
しかし、輸出が落ち込むことが予想される事態になり、「消費することは日本を救う」という大義名分が出来ました。昭和50年代は贅沢品であった、「ルームエアコン、高級CDラジカセ、パソコン、電子レンジ、ビデオデッキ、オートマチックトランスミッション車」などが、急激に普及していきました。
もちろん、海外旅行もどんどん推奨されていきまいした。「海外旅行に行かない人間は、見識が狭い。」とする風潮すら、生まれました。
結果、テレビには新しい生活を煽るような情報バラエティ番組がたくさん現れ、芸能人は「ドラマやコントの出演者」から、新しい生活を一般の人に伝達する人」という位置づけに変わっていきました。
これを象徴するのは、昭和61年の「DCブランドブーム」です。それまでもブランド物はありましたし、服の流行はありました。しかし、今になって写真を見ると、きれいなモデルさん達に対して、街を行く人は、どうにも「コーディネート」や「デザイン」が不在の服しか着ていませんでした。また、当時の女子中高生などは、タレントショップで売られているピンクや可愛らしいものを着るだけ、20歳を超えると、おばさんっぽい服しか着られない時代だったのでした。
これが、西武百貨店やパルコ、丸井といったお店で「新たに登場したブランドの、生活観なき服」を買う傾向が現れました。昭和62年の初売りというと、このブランドのバーゲン品を買う若者が列をなしたのでした。余談ですが、店員である「ハウスマヌカン」は給与水準が低く、鮭弁当しか食べられないさまを歌う「夜霧のハウスマヌカン」という歌まで現れました。
消費傾向は、昭和62年のブラックマンデーをも跳ねのける勢いで拡大していきます。国内消費が堅調であることを受け、当初はアメリカでしか発売しないことにしていた、トヨタセルシオや日産インフィニティQ45などは、日本国内への導入が決まりました。
子供にも消費拡大が行き渡ります。これまで一部の子供しか買ってもらえなかった「家庭用ゲーム機」は、ねだらずとも親や祖父母が子・孫に買い与えることが当然になりました。ゲーム機のソフトウェアを買うために発売前日から列ができたのは、昭和63年初春のことでした。
さらに、DCブランドと子供消費拡大が影響したのか、制服をモデルチェンジする私立学校が現れました。一時街にあふれ、最近見かけなくなった「ブレザーにリボン、折り目がたくさん入ったミニスカートにハイソックス」をテーマに、各学校は相次いでモデルチェンジしました。おそらく、百貨店等が売り込んだのでしょう。何せ、制服をモデルチェンジしただけで「あの制服を着たい」と受験生が増加、偏差値も10も上がったのですから、学校経営という点では経営者が注力するのも当然です。そして、「東京制服大図鑑」という本が発行され、受験生の女子、年頃の男性中高生などが購入したようです。
女子高生ブームが訪れました。「おニャン子クラブ」だけでなく、「国民美少女コンテスト」入賞者が芸能界デビューし、学園ドラマに主演をしました。何しろ第二次ベビーブーム世代でしたので、需要もバカになりません。お菓子メーカーや化粧品メーカー、全く関係ない製品のメーカーなどが、女子高校生を集めてはものを食べさせたり見せたりして自由に意見を言わせ、マーケティングの材料とされることがされていたようです。余談ですが、男子中高生、「イケメン」という言葉もなかったので、ゴミ扱いでした。女子中高生は、働く女性や女子大生だけでなく、成人男性の交際対象となっていったのです。なお、これは性的犯罪につながる類のこととしてではありません。高校、中学等には、下校時間になるとスポーツクーペに乗った男性が、送迎兼デートのために列をなした模様です。
一人暮らしで比較的収入が高い仕事に就き、消費マインドが旺盛で結婚しいない者を「独身貴族」から「ヤンエグ(ヤングエグゼクティブ)」と呼び、企業はこれらの人を主たる消費者として捉えるようなマーケティングを行いました。さらに、結婚をしても子供を設けない「DINKS(ディンクス、ダブルインカム、ノーキッズ)」がおしゃれだとされたり、そもそも結婚をすることがおしゃれでないとするような風潮を作った雑誌もありました。
生産活動の変化と、”遊び”の推奨
これまでの「加工貿易」では、それこそ勤勉に生産活動に邁進することが推奨されました。年上や上司の言うことを忠実に守り、その通りにすることが良いことである、とされました。そのため、遊ぶことは「悪」との見方がありました。ただし、昭和20年代後半には、”生産性を上げるためには、適度な休暇と気分転換が望ましい”とされ、近距離旅行が推奨されていました。
一方、アジア新興国の工業化が始まり、白物家電を中心に販売が始まりました。それらの生産国は「NICS(ニックス)、のちにNIES(ニーズ)」と呼ばれました。車でも、韓国の起亜グループを中心にはじまり、日本にも一時導入されました。
経済誌などは、「日本の産業がNICS(NIES)にやられてしまう」と騒ぎ立てましたが、日本メーカーは「NICS製品は作りが悪く、日本メーカーならではの”細やかな作り”の前では敵ではない」と述べました。実際にNICS製品は作りが悪く、安いことは安いのですが、わざわざ安く買う価値はないように感じました。後年、韓国のLGや中国のハイアールに攻め込まれることなど、誰も予想しませんでした。
思えば、米国の製品を追いやった日本の製品も、「細やかな作り」が評価されていました。この「細やかな作り」が、いわば元寇における”神風”となってしまい、日本メーカーの方向を誤らせたのでしょう。
話を元に戻しますが、経済摩擦では「日本人は勤勉なだけで消費しない」ことが槍玉に挙げられていました。また、前述のNICS製品との差別化を図るために、「より高級化した製品の登場」が要求されました。そのためには、作る人が「高級」を知り、「遊び感覚を身に付ける」ことが課題であるとされました。
それまでほとんどの人は、大人になると「趣味、酒・タバコ」となっていました。「運動するのは学生!、趣味があるのはまだ子供の証拠」と、勝手な格言が出来上がっていました。そんな当時の大人に「遊べ」といったところで、手段がありませんでした。
これまで、鉄道企業グループが伊豆半島方面や長野方面のリゾート開発をしており、最初にスキーブームが始まり、やや遅れてマリンスポーツが流行るように仕向けられました。スキーならウェアは毎年買い替えなどと、若者や富裕層は贅沢を楽しんでいましたが、マリンスポーツは実際にはやったとは言えず、好景気期を逃してしまいました。
モータースポーツについても推奨はされました。1987年のF1日本開催でモータースポーツ観戦が、タイヤメーカー等主催で、初心者向け参加型モータースポーツイベントが行われましたが、裾野は全く広がりませんでした。
なぜか職場でも遊びが推奨
コンプライアンスという言葉を経験した現在では考えられないことですが、当時は勤勉の否定から”職場にもっと遊び感覚を導入しよう”という動きが始まりました。といって仕事中にゲームやおもちゃで遊ぶことではなく、従業員同士のおしゃべりなども「職場の潤滑油」とされました。
加えて、前述のようにテレビではお笑いタレントが口芸で周囲を笑わせており、「そのようにふざけてしゃべることが良いこと」という風潮すら生まれ、同時に関西的なおしゃべりが面白いおしゃべり法であるとされました。素人がいきなり面白い事を話すことはできません。結果、「他人を嘲り笑うトーク」や、「いわゆる性的な話題」が現れました。後者については、昭和60年初に放送された「毎度お騒がせします」を発端とする性的用語の是非論から、「包み隠すことが悪であり、正しく、表に出すことが良い」となり、テレビ番組を含めて性的表現が解禁ムードとなっていたのです。
結果として、嘲笑的笑いを含む会話は「職場いじめ」や「パワーハラスメント」の、性的表現を含む会話は「セクシュアル・ハラスメント」や”LGBTへの差別」につながっていったのです。
余談ですが、関西ムードの導入も同時に起こりました。”関西で商業が発展したのは、お客による値引き交渉が日常的に行われているからだ。”とされました。これも紆余曲折を経て、後年の「サービス業者への過大な要求」問題へとつながっていったのです。
昭和天皇の健康に配慮
昭和62年から体調を崩していた天皇でしたが、手術を受けたものの昭和63年になると、吐血や下血を繰り返すようになりました。毎時0分になると、テレビのテロップで「天皇陛下の容態」として、体温などが表示されていました。
消費マインドは継続していたのですが、昭和63年夏になると「なんとなくお祭り騒ぎや大騒ぎは控えなくてはならない」ような風潮が出てきました。私の家の方でも、夏祭りが中止になりました。有名なところでは、日産セフィーロのCMで井上陽水氏が「お元気ですか?」と言うセリフ音が消されてしまうことがありました。
この傾向は全国・全世代で行われました。せっかく日本を救うべく盛り上がってきた消費動向が、天皇陛下の容態に引きずられて終わってしまうのはもったいない、とする議論をする人もいましたが、政治・思想的配慮から、すぐに消されました。
昭和天皇崩御、大喪の礼後の好景気
昭和64年1月に天皇が崩御しました。消費を控える風潮は翌2月の大喪の礼まで続きました。しかし、テレビ番組が皇室関係ばかりになった結果、これを見たくない人が多数発生、ビデオデッキの購入とビデオレンタル店の大流行が起こりました。これまでもビデオデッキは普及が始まっていましたが、大半の人は録画した番組を見るために利用していました。また、もう少し後になるまでビデオソフトの価格は、非常に高額でした。30分1本のアニメーションが4本程度収録された作品は、現代なら1000円くらいではないでしょうか?当時は、約1万9千円もしました。前述の海外の風潮の導入もあって、アメリカで長椅子に寝そべり、ポテトチップを食べながらビデオソフトを鑑賞する「カウチポテト族」の傾向が現れました。
平成元年の春頃になると、これまで我慢していた消費が一気に元に戻りました。音楽の上でも「平成いかすバンド天国(イカ天)」が始まりました。前年の暗い風潮を忘れたい人が多かったのでしょう。私は見ていなかったのですが、プリンセスプリンセスやリンドバーグ、ジッタリンジンに”たま”などが現れました。
テレビ番組は、やや不思議な傾向が現れました。既に昔のテレビ番組をダイジェストで放送して出演者が語り合う「懐かしのテレビアニメ・番組」企画特番や、レギュラーの「テレビ探偵団」などがありましたが、昭和時代の番組をリバイバルする傾向が出てきました。昭和末期には「ひみつのアッコちゃん」が、平成になってからは「平成天才バカボン」に「おそ松くん」など、赤塚不二夫氏作品が復活します。
トレンディドラマの起源等はまた別のブログにしますが、消費動向拡大期の昭和61年に始まり、平成初期に急拡大します。その初期には、高校生を対象としたお色気恋愛ものが中心でしたが、高校生の可処分所得などたかが知れています。また、既婚層も可処分所得が限られていますし、当時はまだ「嫁」となる人も多数いました。そこで、未婚かつ給与水準が高く消費マインドが高い「20歳代」を中心として据えられ、お色気と上司と不倫等の大人の恋愛事情も廃した、「若者だけで世の中が成り立っているかのような、所謂トレンディドラマ」が出来たものと推察されます。
加えて、昭和41年は「丙午(ひのえうま)」と呼ばれ、この年に産まれた女性は男性を食い殺すという言い伝えがありました。そのため、昭和41年だけ出生数が少なくなっています。出生が控えられたためでしょうが、もしかしたら始末もあったかも。。。
そんなことから、所謂結構適齢期の女性の数が少なくなりました。男女とも少ないのでそうはならないはずなのですが、当時はまだ「夫婦では女性の方が年齢が低くあるべき」、とされていました。この問題は深刻で、「農家の嫁問題」が発生しました。中には、海外から女性を連れてくることすら行われました。女性は売り手市場であるために、気位が高くなりました。結果、「高飛車な女≒タカビー」が現れました。女性はあちこちの男性から甘やかされ、この傾向を揶揄して「アッシー(送り迎えをする車持ちの男性)、メッシー(食事をおごってくれる男性)、ツナグ君(電子機器をつないでくれる男)」などが現れたのでした。
もっとも、当時の女性というと、一部の人を除いて一般事務職に就くことがほとんどでした。給与水準は当然男性よりも低く、こうでもしてもらえないと化粧品代や洋服代が浮かないということもあったのでしょうね。ただし、気に入らない男性(今でいうブサメンなど)とは口を効かないか、効いても小馬鹿にした受け答えしかしない、などといった風潮も出てきました。
8つの財布
既に少子化は進んでおり、一人っ子は珍しくなくなっていました。加えて昭和61年のいじめ問題を受けて、「我が子がいじめられないためなら、周りの子に合わせてなんでも買ってやる」風潮が生まれました。住宅・土地価格の高騰から、住宅を持つことを諦めた人が多かったことも要因になっています。
加えて、子供の祖父母は健在で年金もたっぷりもらえたため、そのお金は子供へと向かいました。結果、「子供の金余り現象」が起こりました。以前も書きましたが、子供がタレントに質問をぶつけるテレビ番組において、「子供も株を買って運用すべきでしょうか」などという発言が発生したのです。
一般のサラリーマン家庭はどうだったか
報道等でなされるほど、子供がある家庭の生活は豊かではありませんでした。一部上場企業の部課長級や自営業主、医師の家庭くらいになると、それこそファミリーカーがクラウンだとか、子供を連れて海外旅行だスキー旅行だと行っていました。
一般家庭の贅沢は、部屋の一つにルームクーラーを付けるだとか、ファミリーカーをクーラー付きの車に買い換えるだとかがせいぜいで、「平成景気の恩恵に預かっているのは、一部の富裕層だ!」と、平成景気を憎む発言すらあったのです。
株価の下落と景気
1989年から始まった公定歩合の引き下げ効果もあり、株価の下落が1990年正月の取引から起こりました。すぐには景気の後退には繋がりませんでしたが、前述の”住宅を諦めた人の不満”、”富裕層の高所得は、株運用益などの不労所得が中心で、GDP増大につながらないからけしからん!(≒うらやましい)」という風潮が影響したのか、富裕層へのやっかみ半分の妬みの心情と、「株価の下落で大損か!ざまあみろ」という風潮が起こりました。
平成2年ころは、「平成元年の景気は、昭和天皇の容態が悪かった頃の自粛ムードの反動景気」だとされていました。平成2年には紀子さまが御成婚されたため、全国的にお祝いムードとなり、株価の下落があっても、消費ムードは続いていました。まだブラウン管テレビの時代でしたが、ビデオデッキに加えて大画面テレビブームも起こりました。
景気動向としては前年と変わらず、自動車・服・レジャーなどが好調でした。
一般サラリーマン家庭は恩恵に預からなかったこともそのままでしたので、これまた私が教わった倫理・政治経済の先生は、このように言いました。
「みんな、景気が良いんだってね。知っていた?神武、岩戸、いざなぎと後継機があったけど、もう呼び名がないので、”平成景気”と呼ぶんだってさ。僕は全然景気が良くないけどね。」
また、現代文の先生のお宅に、平成2年1月4日に遊びに行きました。私は前日深夜に放送された「さらば宇宙戦艦ヤマト」をビデオ録画し、後で楽しむ予定でした。同行した一人は、このように言いました。
「昨日のヤマト、録画した?いいなあ。うち、貧乏だからビデオデッキを買ってもらえなくってさ。」
先生のお宅は、当時でも珍しい方の「風呂なし、共同トイレ」のアパートでした。暖房もなく、日が暮れて寒くなると、カセットコンロに水を入れたやかんをかけ、火と水蒸気で暖房するのでした。寒いは話は合わないはで、私は行ったことを後悔するのでした。
裕福な家庭では、親子揃ってスキー旅行という時代に、なんという不公平さでしょう。こんなものだったのです。
分類の上では平成元年と2年はほとんど同じで、連続したものとして捉えてよいでしょう。
湾岸戦争と消費動向の変化
平成3年の始まりは、中東における湾岸戦争の開戦でした。日本への直接的な影響はありませんでしたが、「自衛隊機は参加しなくて良いのか」といった自衛隊論や、「原油生産量の現象から、第三次オイルショックが起こるのではないだろうか」といった不安が出てきました。
幸い現在の戦争はリモートコントロールミサイルによって早期に終結するようになっており、春頃には落ち着いてきました。しかし、既に株価の下落から1年間が経過しており、上記の不安感は「やがて好景気は終わる」ことを、多くの人に感じさせました。高度経済成長期も、第一次オイルショックで終わっていたからです。
不安感は消費マインドの抑制につながっていきます。バブル期のファッションの象徴であった「ワンレン・ボディコン」服は、髪こそそうしても、服はその当時でも街を歩く服ではありませんでしたが、「流行遅れ」と言われるようになってきました。
また、「平成いかすバンド天国(イカ天)」は既に終了していました。ロックバンドブームは前年までははっきりと残っていましたが、平成3年春頃になってくると、徐々に「古臭い、汗臭い」と評価されるようになってきました。「リンドバーグ」は残りそうでしたが、「プリンセスプリンセス」はバラード曲を出し、最後の頃に出てきた「ピンクサファイア」はポピュラーソングとロックの融合がみごとでしたが、時代の急変化には耐えられなかったようです。
昭和62年頃からの「ハイパワー車ブーム」は、結局は「金を出した人が速い」ということで沈静化、スキーをはじめとしたレジャーブームの影響を受けて、クロスカントリー型4WD車(通称:ヨンク)へと移行を始めました。
これまた余談ですが、平成3年にフルモデルチェンジを受けたトヨタ コロナ/カリーナには、速いエンジンを搭載したグレードの”GT”が廃止されました。双方ともコロナExiv/カリーナEDといった派生モデルが既にあり、そちらには”GT”相当グレードがあることから、それほど大問題としては取られませんでした。しかし、翌平成4年にマイナーチェンジを受けたトヨタ カムリ/ビスタでは、”GT”グレードが廃止されました。こちらは、V型6気筒エンジンを搭載する高級グレードが売れているということ、標準的なエンジンを搭載し、エアロパーツを搭載したグレードを設ける説明がなされていましたが、私は「景気後退が始まったか?」と予感したのでした。
テレビ番組は、男女が小学生の高学年のように痴話喧嘩をするようなものや、お色気要素をもったものから「純愛」路線へと転換し、「東京ラブストーリー」や「101回目のプロポーズ」などへと、変化していきました。
このように、一般の人々の文化が徐々に変化する兆しを見せてきたのが平成3年です。一部の人だけが好景気を享受していることや、お祭り騒ぎ的状況に嫌気が差した表れだったとも思います。しかし、消費傾向の伸びこそ見られなくなってきたのですが、すぐに低下してもいません。当時は、「モノの豊かさから心の豊かさを求めるようになった」、と分析していたのでした。
平成4年の変化
既に株価の下落は始まり、湾岸戦争を期にして消費ムードが変化していきました。しかし、それでもなお堅調な個人消費に支えられて、平成3年までが経過しました。異変が起こってきたのが、平成4年です。
この年の7月、普通自動車(いわゆる3ナンバー車)の登録台数がピークを迎え、減少に転じました。
さらに、売り手市場だった4年生大学卒業者のうち、女子の状況が買い手市場へと変わりました。当時女性社員はまだ、「男女雇用機会均等法の言い訳と、男性社員の結婚需要稼ぎとOA機器操作と一般事務」役と見られていました。実際に、結婚すると辞める人がほとんどだったのです。そのため4年生大学卒業女子は、「生意気な上に給料が高く、使いづらい」と見られました。仕事量が減少してきたこと、採用を給与水準が低い短大卒者へシフトしたり、当時増えていた「フリーター」をアルバイトとして採用したのでした。
平成2年には、「就職前線異状なし」という、我が世を謳歌する大学生を描いた映画が製作されながら、平成4年には「異常発生」となったのです。
余談ですが、昭和61年から始まった「男女雇用機会均等法」、学生の側の意識も、実際には低かったものでした。これ以前は、学校を卒業しても就職せず、自宅でお父さんや兄弟の身の回りの世話をする「花嫁修業」「家事手伝い」になる女性が多数いました。学生時代の友人知人と結婚したり、世話焼きおばさんが紹介する相手とお見合いをして結婚、家庭に入る人も少なくありませんでした。
ところが、「就職をして会社や友人関係で人と知り合い、結婚をしたほうがより良い条件の相手が見つかる。」などといった話が、公然と行われていました。当然就職意識は低く、証拠はありませんが「言われた仕事すらせず、会社には結婚相手を見つけに来ている」OLが多数いた模様です。仕事はもっぱら補助的業務(お茶くみ、コピー取り、お使い(書類届け)、OA機器操作)でしたので、誰でも良かったのです。
徐々に短大卒業生が主力になっていったものの、高校を卒業して働く人も多数いたのですから、そういった20歳前後の女性が親でも先生でもない男性と衝突しないはずがありません。結果、この頃までのおじさん雑誌や女性誌の読者欄には、「我が社の働かない不思議ちゃんOL」、「我が社の不潔なオジサン」的なコーナーがあったほどです。
平成4年中頃から、多くの人は「好景気は終わりになりそうだ」と感じ始めたのでしょう。消費マインドが徐々に低下し、景気の悪循環が始まっていったのです。ただし、「社会科の教科書にある「景気循環」が悪い側に転じたのみで、学生は「運が悪い時期に生まれた」と思うだけ、3年後くらいには在庫調整が進んで、好景気に転じるだろう。」と思っていたのでした。
次の時代に続く。
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2018/10/03 23:13:20
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