
TBS系列で金曜日午後10時から放送されているテレビドラマ「不適切にもほどがある」は、1986年当時50歳の教員(演:阿部サダヲ)が、2024年との間をタイムスリップする物語です。当然彼は1986年の中年男性の感覚で行動するのですから、様々なところでトラブルを発生、一方で彼の行動から現代の「過剰コンプライアンス」にも警鐘を鳴らす物語になっています。
そして近代史好きの私には、当然1986年を調べる必要性が生まれました。さっそく、当時の世相を振り返ってみましょう。
暮らし編
・DCブランドブームと、丸井メンズ館オープン
この時代よりもずっと後の時代まで、高校生くらいから30歳くらいまでのだけでなく、女性の服までデザイン不在でした。40歳代の人の服に近づけるか、小学生の服を大きくしたような感じにするか、いずれにしても、若者のちょうど良い服は不在でした。
そこへ、「デザイナーズ&キャラクターブランド」という、デザイン優先の考えの者と、近未来的なデザインの服で普及を図ったのが「DCブランド」でした。DCブランド自体は数年で廃れますが、この年代の人の服の市場が出来、デザインも改善されていきました。
これにいち早く目を付けたのが若者向けファッションビル業態の丸井で、DCブランドをテナントとして入居させました。セール時期には若者が行列をなし、その報道が今度は20歳代向け服市場の隆盛を促していったのでした。女性のボディコン服もDCブランドの一環ですが、極端に露出が多い服はバブル末期のものですよ。男性用下着のフィットしたブリーフも、この頃に出て来たそうです。
・スポーツクラブ「エグザス」開業
これ以前にも、特にオリンピックの時期を中心に何度かスポーツのブームがありました。この時期は「スポーツクラブ」が開業していくのですが、新興かつ世帯収入が高い地域が早く、特に東急田園都市線沿線などからスポーツクラブが開業、若い女性だけでなく、主婦層や一部では男性までもが加入したようです。しかし当時の多くの人の感覚では、「なぜ、お金を払って疲れに行かなくてはならないの?」というのが大多数でした。一方、開業する企業は都市部で古くなった工場や倉庫の跡地利用の側面もあったようです。
・とらばーゆ(する)
この頃の女性一般職は、勤続年数が長くなっても昇級せず、仕事も誰でもできる内容のままであり、しかも職場は結婚相手探しの側面もありました。そのため、ある職場で良い結婚相手に恵まれなければ、転職して次の職場で結婚相手を見つける動きがみられるようになりました。どうせその職場にいても昇級しないのですから、だったら転職するという考えも、間違いではなさそうです。その時に読む転職情報誌が「とらばーゆ」で、これに「する」を付けて転職することを「とらばーゆする」と言ったようです。
この動きが、現代の「誰でもスキルアップや収入向上のために転職する」動きにつながるのですから、世の中のわずかな動きにも注意する必要があります。
・「新人類」現る
現代の「Z世代」にも近いものですが、この頃に就職をした世代(1963~1968年産まれ)の世代を「新人類」と呼びました。すでに「ネクラ、ネアカ」などの人的カテゴライズは行われていましたが、この頃に就職した世代はそれまでの世代と比較すると、「嫌なことがあると転職する」「力仕事、汚れる仕事、大変な仕事はイヤ」「仕事よりもプライベートの充実を望む」「やりがいのある仕事につきたい」などの傾向がみられたそうです。3K(暗い、危険、きつい)仕事と呼ばれて、工場や工事現場で働くことが忌み嫌われ始めたのも、この頃ではなかったでしょうか。
今までの世代とは違う、ということで「新人類」と呼びましたが、この世代が2020年代以降、「働かないおじさん」となっていくのです。
・ビックリマンチョコ、小学生に大流行
ロッテが発売する「ビックリマンチョコ」は、昔からシールが入っていました。この頃にそのシールのキャラクターがシリーズ化され、小学生に大流行しました。あまりに流行し、「お菓子を捨ててシールだけ集める」子が増えたため社会問題化、「食べ物を食べたくても食べられない国の子がいる」などの教育が行われていきます。
・「午後の紅茶」発売
初めての缶入り紅茶飲料でした。今や普通になった紅茶飲料の市販化の始まりです。家に帰れば自由に飲める紅茶を「そんなの街で売っても誰も買わない」と考えるか、「家の外で売れば家の外で飲みたい人が買う」と考えるか、ビジネスの観点でも、以後の転換点となりました。
・温泉ブーム始まる
それまで温泉旅行と言えば、年寄りが行くものでした。それを気軽な国内旅行として売り出し、特に女子大生などが好んで行ったようです。そういえば、当時の二時間ドラマにも「女子大生湯煙云々」という題名の作品がありましたね。
・卒業旅行がブーム
修学旅行がある小、中、高校と比較して、専門学校や短大、大学は、学校行事としての修学旅行はありません。そのため、折からの円高傾向もあって特に女性の「(海外)卒業旅行」が広まりました。といってもパックツアーだったのかもしれませんが、女性の海外志向や英語志向が高まっていったことの表れかもしれませんし、「卒業したら間もなく結婚して専業主婦になり、数十年間も旅行に行けない。だから、人生最後の自由な旅行」という面もあったかもしれません。
・激辛ブーム
グルメブームの前哨的動向として、激辛ブームが起こりました。始まりはカレーパンだったか、今もある「カラムーチョ」だったかはわかりません。レトルトカレーでは、「×5倍」や「×100倍」というものも現れました。しかしカレーの場合の辛み成分は唐辛子ペーストによってもたらされるため、辛さが増すほどほとんど唐辛子になるという、なんとも複雑な印象の製品でした。しかし、それまでアクセントでしかなかった「辛味」がビジネスになり、また、ドーナッツ扱いのカレーパンが調理パンの一つになっていくなど、食品の大きな転換点でもありました。
・電子レンジ専用食品登場
今では考えられないことですが、この頃の一般家庭には電子レンジはありませんでした。むしろ、オーブンレンジの方が普及していたかもしれません。そんな中、ハウス食品などが「電子レンジ専用食品」としてグラタンやラザニアを発売します。この時に「ラザニア」を知った人も多いのではないでしょうか?
・海外労働者多数来日
好景気になり始めた日本に、アジア諸国から労働者が来日します。男性は上記「新人類」が3k職場を嫌ったためそれらの職場に、女性は接待付飲食業に付くことが多かったようで、「ジャパゆきさん」と呼ばれました。
・タンスにゴンのCM
金鳥が発売する衣類用防虫剤の「ゴン」は、CMで主婦らしき女性が「亭主元気で留守がいい」と言わせます。外で働くのは男性、家にいるのが女性としていた頃の、最後の女性観ではないでしょうか?また、専業主婦が持て余した時間を外出(デパート、展示会、友達とお茶を飲む)に向けることが許され始めたとみることもできます。それまでの時代は、女性が昼間に一人で家から出ると、「何をしに行くんだ?」と、奇異の目で見られたいたものです。
また、男性を給与運搬人のように歌う言葉はひどいですが、この頃の男性は休日に家にいてもごろ寝ばかり、定年退職後自時間を持て余して妻に付いて行こうとしても邪魔者扱い、という、まるで履いても履いてもほうきにまとわりつく、「濡れ落ち葉」の様だともされていたのです。
・水上高原スキー場がオープン
この時期よりもはるか前からあったスキーですが、この頃から徐々に都市部の人の冬のレジャーとして普及していきます。水上高原は群馬県北部にあり、部分的に開業していた関越自動車道を利用すると、都内から日帰りでも行けます。現代の様に、パソコンもスマートフォンもゲームセンターもなく、冬の関東平野で休日を有効に過ごそうとすると、スキーしかなかったのも事実です。以降、
「スキーをはじめとしたスポーツはレジャー」
「スキーは若者同士の出会いの場」
「スキーウェアは冬のファッション」
として、15年間ほど続いていきます。
・泉重千代さん、死去
当時日本国内最高齢とされていた泉重千代さんが、120歳で亡くなりました。これに伴い、江戸時代生まれの日本人が絶滅しました。しかし、戸籍制度があいまいで、泉さんの生年月日は「自称」だったらしく、本当に最高齢であったかは不明らしいという結果が出ました。
・レトロブーム始まる
前年の「つくば科学博覧会」の反動か、古典的なもののブームが始まりました。国鉄は古い機関車を使った企画列車を走らせたり、古い木製家具をインテリアとして購入する若い女性が現れたり、古い家電製品風デザインの家電製品が現れたりしました。それまでの「デジタルブーム」が終わり、無機質なデザインよりも有機的なデザインが好まれるようになっていきます。
自動車分野でもこの傾向は顕著で、日産は後に限定販売される「Be-1」をモーターショーに参考参考したり、クラシックカーを取り上げる自動車雑誌「ノスタルジック ヒーロー」誌が創刊されたりしました。
いかがでしたか?いつの時代でも若者の突飛な行動が年配者の意にそぐわない傾向があるものですが、平穏だった?昭和50年代が終わり、次の時代へ向かわせる大きな流れが始まったことが伝わってくるのではないでしょうか?特に、「男らしい」「女らしい」などといった、ジェンダーな価値観がこの頃から崩れ始めていったことが印象的です。
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Posted at
2024/02/25 15:12:03