平成6(1994)年になって、景気はかなり後退していきました。この頃になり、初めて「バブル景気」という言葉が使われました。
好景気期間が1989年第二四半期から1989年末、または、1991年初め、もしくは1992年夏に終了し、好景気の理由が(当時は)分からなかったために、「泡」と分析した結果でしょうね。もっとも、この頃でも景気の循環による不景気期間であると考えられていましたから、1995年頃には回復するであろう、と皆、楽観的に考えていました。
概況
この1995年1月、阪神大震災が発生します。当初は「死者7人」と報道されるほど現場は混乱し、被害の大きさは日を追うごとに明らかになっていきました。既に新卒採用は抑制されており、1996年就職予定者はボランティアに行くなどしていたようです。本当に現地で支援活動をした人もいたでしょうし、実際には観光だけして帰ってきた人もいたことでしょう。
その復旧もままならなかった3月には、東京でオウム真理教サリン事件が発生、さらに同月中に警察庁長官狙撃事件が発生、5月には同教本部に捜査の手が及びました。政治面では、東京都知事が青島幸雄氏に交代、翌年に開催される予定だった博覧会の「世界都市博」が中止されました。
いずれの出来事も、人々の世間話としての話題には事欠かず、誰としゃべるにも話題に困らないものでした。しかし、経済面では消費マインドが抑制されました。現代の経済学では、「終末思想による消費抑制」と分析されているようです。多くの人が店舗や家庭で飲むビールの消費量が、バブル景気後退期でも低下しなかったものが、1995年を境に減少しているとのことです。従って、1995年はバブル景気崩壊後の二番底とでもいえる時期に相当します。
消費マインドが抑制されると、その分、企業は収益が減少します。売上額を維持するために、企業は「コスト削減」と「安売り」に向かいます。これまで海外諸国と比較して製品の中間マージンが高いとされていた日本ですから、「卸売り不要論」が起こりました。中間マージンを排した「カテゴリーキラー」と称する、特定製品の安売り業が台頭しました。「価格破壊」や「安いが一番」も、この頃に出来た言葉です。
既存の産業(素材をはじめとした重厚長大産業から、電気製品メーカーなども含む)の勢いが弱まると、次の世の中の牽引につながるような産業の勢いが増します。
既に世の中にマンガ雑誌が登場して何十年も経過していましたが、「サラリーマンが電車の中で漫画雑誌をめくることが恥ずかしい」とされながら、少年ジャンプを発行している集英社は、過去最高の売り上げ部数を誇りました。もとは紙の雑誌ですから、作家さんへの原稿料を支払ったら、あとはお札を刷っているようなものでした。
また、プレイステーションなどの新型家庭用ゲーム機が登場、ファミリーコンピューターの頃とは比較にならない精度の画面に皆が驚き、大人もゲームをするようになりました。海外からもx-boxというゲーム機が参入してきましたが、国産機の勢いに撤退を余儀なくされました。
これより前の時期から、音楽のブームはありましたが、avexなどの後発専門業者が出、ミリオンセラーとなる作品を、いくつも発売しました。これまで、「高校を卒業したら,J-POPも卒業する」傾向が見られましたが、それもなくなりました。
これらのエンターテイメント産業の隆盛は、国内の需要拡大の麺では効果があったと思いますが、このことは「経済は国内で潤っていればよい」と、多くの人の目を国際的な経済からそらすことになってしまい、後世へと影響しました。
また、1995年12月には、OSの「ウィンドウズ’95」が発売されました。その前の「ウィンドウズ3.1」では、現在のアイコンやウィンドウは仮想的なもので、結局DOSコマンドが必要で、まだまだ一般の働いている人がパソコンの操作を享受するものではありませんでした。それが、ついに本当のウィンドウ操作のみで完結できるOSとなり、パソコン普及の足掛かりを作りました。以後、企業がウェブサイトを持ったり、名刺にメールアドレスを表記するようになっていきました。とはいえ、電子メールはまだおしゃべり電話の代わり程度で、重要な仕事の連絡は電話か書面、もしくは対面で行われるのでした。
1996年は、1995年の傾向がそのまま続きました。4年制大学卒業者の就職活動の厳しさは「氷河期」と例えられました。理工系4年制大学卒業者ですらそうでしたのですから、文科系4年制大学卒業者は氷の中、短大卒業女性は初めから就職することをあきらめる人すら現れ、短大離れが進行、各学校の短大廃止につながりました。
低迷する従来産業の中、景気が良いのは「出版社、音楽出版社、ゲーム関係、カテゴリーキラー系新商事会社」でした。昭和40年代の高度経済成長期から第三次産業構成人口は増えておりましたが、さらに仕事の無形サービス化が進んだきっかけとなった時期です。
就職状況が苦しいからといって、就職しないと食べていけません。結果、これまでいわゆるFランク大学卒業者しか雇えなかった会社に有名大学卒業者が、高卒者しか雇えなかった会社にはFランク大学卒業者が就職することになりました。当時の経営層は喜んだかもしれませんが、後年、「パワハラ問題」につながるきっかけとなりました。とはいえ、悪い点ばかりではありません。これまで「従業員が立っていれば済む」だとか、「レジや万引きの番」程度でしかなかった販売店員にも大卒者が携わることになり、「従業員のマナー」という概念が生まれました。でもまあ、学歴とサービス精神は、必ず直結するものではありませんがね。。。
就職の口は限られております。重厚長大産業の採用抑制が、結果としては就職できない学生が出てしまうことにつながります。学校を卒業する前から「就職できない」人生が目に見えてしまった学生から、勤労・就業意欲どころか、学習意欲まで低下し、いわゆる「ヤンキー文化」が生まれました。
ヤンキー文化は、ゲームセンターの不良化、音楽やカラオケ文化の隆盛などにつながり、「第二次ギャル文化」が起こりました。「出版社、音楽出版社、ゲーム産業」などの収益にはつながるかもしれませんが、日本の産業の国際的競争力や、後世の進化につながる企業の再投資にはつながりません。1996年は、若本氏して過ごしていれば「聞きやすいJ-POP」などで楽しめた時期でしょうが、後の世界への影響という意味では、ほとんど何もなかった時期といえます。
1997年は、経済的に大変な時期となりました。これまで倒産しないといわれていた金融機関の倒産が発生したためです。都市銀行の北海道拓殖銀行の破綻、山一証券の自主廃業などです。私を含めて経済に疎い人ですと、「バブルが破綻して時間もたったこの時期になぜ倒産?」という感覚ですが、長期の貸付金が回収不能となったことが原因だったり、バブル崩壊直後から経営再建に力を注いだものの、ためておいた経営体力が尽きたのがこの時期、とのことです。もちろん、各民間企業も倒産が相次いておりました。日産自動車の経営が非常によくないことも報じられました。
このことは、さらなる消費マインド抑制に働いてしまいました。誰しも、「今の勤務先が倒産したら困るから、貯金をしておこう」となったのです。消費マインドが低下して伸びる経済はありません。結果、この時期は景気の三番底とでもいう年になりました。
経済的な側面以外は、前年の傾向を踏襲しています。しかし、携帯電話(PHSを含む)が急に伸びていきました。まだまだ業務的利用や若者の興味本位を出ていなかった時期でしたが、「待ち合わせを厳密に決めなくても済む」「緊急連絡に便利」の便利さは、何にも代えがたいです。戦争直後のドラマ「君の名は」は、登場人物のすれ違いがドラマになりましたが、多くの人はそんなドラマチックさよりも便利さを求めたのです。とはいえ、この時期の携帯電話はまだまだメッセージなどの送信は不可能で、「通話が個人間で行え」、「電話機のそばか否かを問わずいつでも外から電話が出来」、「呼び出しや応対をしなくても済む」ことに、便利さを感じていたにすぎないのに、この普及拡大です。
結果、1997年末は退廃的なマインドが多くの人に広まり、かつて「この不景気は景気の循環によるものだから」などという無責任な予測は吹き飛んでいました。そして、漠然とながら「この不景気は構造的なもので、抜け出すことは不可能、このまま続くのではないだろうか。日本は、すでに「英国病」と呼ばれていたイギリスのように国際的競争力を失っていくのではないか。」という気持ちが出てくるのでした。
音楽について
この時期から、avex社の隆盛が目立っていきます。安室奈美恵の移籍から始まり、小室哲哉系音楽が一世を風靡した時期です。安室奈美恵だけでなく、trfや華原朋美、その他もろもろヒットを出せなかった人を含め、非小室哲哉系音楽が無くなるのではないか、と思ってのが1995年でした。1996年初にはglobeの「DEPARTURES」とZARDの「マイフレンド」が一騎打ち、前者の方が売り上げで勝ったことから、時代の変化を感じたものです。しかし、現在でも良さが光るのは、私は後者の作品の方だと思います。
1996年春になると相川七瀬が、夏には非小室系ながら多くの人は小室系だと思っていたEvery Little Thingがデビューし、少しずつ小室系は後退していきます。1997年になると、小室系のヒット作は明らかに減退し、非小室系の小室哲哉に影響を受けた系統に変化していきます。なお、1996年初めに安室奈美恵とスーパーモンキーズが分離、後者はMAXとなって再出発します。1996年後半から1997年はMAXが大ヒットを連発し、安室奈美恵は影が薄くなっていました。切り離しデビューは失策だった、と多くの人が思ったのでした。
1997年は、相川七瀬が若干後退し、Every~一色の年になりました。これまで歌手のファッションが普通の人に影響することはほとんどありませんでした。しかし、Every~の持田香織は、当時のファッションリーダーとすら言われました。細眉毛、若干茶髪、キャミソール、ブーツを合わせたギャルファッションです。安室奈美恵がavexに来る前にしていたファッションを踏襲していたことは確かですが、一般の人にも広めるきっかけを作ったのは彼女です。とはいえ、現在では当時の傾向を全部まとめて「アムラー」としてしまっています。
1997年春になると、浜崎あゆみがデビューをしています。当初は「なんだか意気地なしの人に向けたような、弱虫の曲」と感じさせるものでした。しかし、つんく氏と組んだ「TO BE」から少しずつ話題になるようになっていきます。そして年末の「Depend on you」ではTBS系カウントダウンTVのエンディングテーマに選別、そしてその曲を含むファーストアルバム「A SONG FOR XX(私の読みは、「エーソング フォー ダブルエックス」、実際は「エーソング フォー …」)」が女子高校生の話題に上がり、ミリオンセラーを記録しました。ミリオンセラーは当時珍しくありませんでしたが、これまでほとんど話題に上がることがなかった浜崎あゆみが、突然ミリオンセラーになったことに驚かされたのでした。しかいし、実際の大ヒット活動は翌1998年ですね。
そんなことで、各音楽出版社がカラオケで歌いやすく耳に良くなじむ曲の開発にいそしみ、音楽を聴いたりCDを購入したりすることが、ごくごく普通の行動になっていきました。
ゲームについて
1987年頃の、ドラゴンクエストの流行以降、ゲームは多くの未成年の遊びとして普及していました。しかし、映像やストーリーから未成年の遊び以上にはならず、多くの人は高校卒業頃にゲーム遊びを卒業していました。
それが、1995年頃からソニーのプレイステーションが普及、より大きな子供や若年世代の大人でも遊べるような質のゲームになっていきました。1978年頃に、一時大学生などがインベーダーゲームに夢中になる時期がありましたが、一過性の傾向にすぎませんでした。それが、この頃をきっかけとして、大人にもテレビゲームをする傾向が起こってきました。
ファッションについて
前の時代からジーンズカジュアルが再興していました。1996年頃になると、ストリートカジュアルが進んできます。「アメリカ製のボーイズサイズの服を、日本の大人が着るとちょうどよい」ということから、比較的体にぴったりしたり、場合によってはへそが出そうな裾丈のTシャツが普及しだしました。また、デザインとしてのカジュアル性から、サーフブランド(PIKOやQUICK SLIVERなど)のTシャツが急増しました。ジーンズの方も、色があせたものやダメージデニムが流行りだしました。
これらの傾向を受けて、郊外にも「ジーンズメイトやマルカワ」をはじめとした、ジーンズカジュアルショップが多数出来ました。シャツ1着2980円、デニム1本7980円ともなれば、ちょっとした出費でファッションを楽しめます。なお、ユニクロはこの時期でも「一回洗濯したら伸びるポロシャツ、安いだけで出材不在のジーンズ」を扱っており、いったい誰が行くのか不明なカジュアルファッションショップでした。
バブル期なら「ジーンズはお金がない人がはくもの、Tシャツはお金がない若者が着るもの」という感覚が薄れ、フォーマルファッションが後退しました。ファッションのカジュアル化は、上の通り1995年、1996年と進みました。1997年は反動があり、サテン素材でボタン式の襟付きシャツなどが流行りました。ナイキのエアマックスを中心とした機能性スニーカーが流行り、時計はGショックが流行りました。
このストリートカジュアル傾向は女性にも及びました。ショートパンツやミニスカートがある程度の違いで、レディースジーンズはまだまだ少数派でした。雑誌も、これまでティーンズ雑誌が担っていた女性カジュアルファッションですが、「zipper」などの専門誌も創刊されました。とはいえ、20歳代半ばの女性になると、休日でもストリートカジュアルは難しかったようです。普段着のセンスから、その女性の年齢が良く分かったものです。
当時のフォーマルファッションは、結局バブル期から変化が少なく、1996年頃までソフトスーツが残っていました。1997年頃になると現在も続く「紳士服の安売り店(青山、アオキなど)でも、悪くないじゃないか」という傾向が出始めました。
生活について
「景気が悪く、生活の余裕度が低下した」からといって、休日に家にこもるというのは、いつの時代もできないのですね。バブル期には「毎年、道具やウェアを買い替える」とされていたスキーが低迷、スノーボードが導入され始めました。スノーボーダーがもたらす退廃的な雰囲気が、当時のストリートカジュアル、ストリートファッションともマッチし、不景気ながら大流行となりました。
また、仕事から解放されたかていのお父さんが、家族とバーベキューやキャンプを楽しむ、という傾向も出てきました。車も、これ以前は「セダンでないと、葬式に行けない」という価値観でしたが、自身の生活を重視するものへ変わっていきました。人によって異なりますが、クロスカントリー4WDのロングボデーだったり、ミニバンだったりします。当時は両者をひとくくりにして、「RV」と呼んでいました。ミニバンでも、キャンプやバーベキュー、スノーボードやスキーの道具を積んで走り、家族や仲間と行きついた場所で楽しむ車、という位置づけの側面がありました。その最右翼がマツダのボンゴフレンディでした。屋根を持ち上げると部屋になる、という点は、セダンにはない新しい生活をもたらしてくれると考えたのでしょう。しかし、実際のキャンプ場では、「開梱したテントの取扱説明書を読みながら、その場で組み立てるお父さんと、周囲でイライラしている家族」という風景もあったそうです。
そんなことで、キャンプやアウトドアをはじめとしたアウトドアブームは、1997年には下火になりました。その一方で、若年層のスノーボード人気は止まらず、若年者が購入する車は、ステーションワゴン車であることが普通となっていきました。ストリートファッション等の普及から、ストリートダンスをはじめとしたダンス、B系音楽も普及しました。音楽に合わせてボタンを押す「音ゲー」が大流行しました。登場するキャラクターの可愛さから、女の子がゲームの世界に参入してきました。
以上のことから、レジャーの多様化、ファッションのカジュアル化が進んでいきました。
女性について
既に前の時期にいた「おやじギャル」は、消滅に向かっていきました。1995年ウィンドウズの普及をきっかけとしたオフィスへのパソコンの普及により、それまで「おじさんが書いた手書き原稿をワープロソフトで清書する」ためだけにいた女性や、FAXやコピーを使うためだけの女性は、自然減に合わせて数が減っていました。この頃から、営業職への女性の登用が始まりました。一般職枠で仕事がないなら、総合職枠でも挑戦しようとする人が出てきたためです。
また、現在とは違って、積極的に車の運転をしようとする女性がより多くいた(ような気がする)のも当時です。SM-Xの運転席に座り、助手席にはチャラ男を乗せている風景を見るようになったのも、この時期のことです。
アニメーションについて
1989年の宮崎勉事件以降、すっかり「アニメーション=オタク」とされていましたが、久しぶりに多くの人が話題にする作品が出ました。「創世紀エヴァンゲリオン」と「ポケモン」です。実際に見ていた人は少数派でしたが、「オタク」という言葉の影が少し薄くなりました。パソコンの普及なども含め、後年につながる変化の始まりでした。
車について
1995年は、E110系カローラが発売されました。明確にコストダウンが行われておりました。前年にV40系カムリ/ビスタで失敗しているのになぜ?という疑問が多くの人によぎりました。上に書いた通り、クロスカントリー4WD、ミニバン、ステーションワゴンをまとめた「RV」を選ぶ人が増えました。少し前に起った「背が低いハードトップの流行」は急速に終わりました。切り替えが急でしたので、1993年に発売された「カローラセレス、スプリンターマリノ」は、行き場がなくなってしまいました。
当初人気があったのは、オデッセイ、ステップワゴン、バネットセレナ、ラルゴ」などでした。トヨタはこの分野で完全に出遅れてしまっていたのでした。それが、1996年に発売されたイプサム、タウンエースノア、ライトエースノアから逆転が始まりました。
スバルはレガシィのワゴンモデルの流行が続いていました。中でもターボエンジン搭載モデルの人気が非常に高く、この分野での他車の追従は出遅れました。日産がアベニールサリュー、トヨタがカルディナ、マツダがカペラカーゴワゴン、ホンダがアコードワゴンで迎撃します。アベニールはレガシィよりも馬力が低い上にリヤサスペンションがリジッドと質が追い付いていませんでした。カルディナはハイパワーエンジンモデルの投入が遅れ、安物感覚が付きまといました。カペラは車が古く、唯一、アコードワゴンのみがアメリカンな雰囲気が受け入れられました。
1997年頃になると、ピックアップトラックの流行からステーションワゴンをアメリカンにカスタマイズする流行が始まりました。本家のアメリカ車もどんどん輸入され、カプリスなどが選ばれました。それを買えない人は、アベニールをスムージングして、カスタマイズ欲を満たしました。ノーマル派なら、アコードワゴンをローダウンして乗ったものでした。
ミニバンは上記の通り、ファミリーカーとしての販売が中心でした。これが、上記と同様、アストロやダッヂバンの輸入が行われ、無理をして大型ミニバンを購入、カスタマイズして乗る傾向が生まれました。
車の流行とは多分におしゃれとかかわる分野です。それまでスポーティークーペをローダウンしたりマフラーを交換したりし、「にわか走り屋」として普通に走っていた人を含め、皆、こぞってミニバンやステーションワゴンへと移行しました。走り屋ブームがファッション性を失い、田舎の趣味として独自の進化を始めたのもこの時期です。
まとめ
この時期は、多くの人が経済の再生を忘れ、目の前の遊びにて時間をつぶした時期だったのかもしれません。マンガ出版社、音楽出版社、ゲームソフト会社の隆盛がそれを物語っています。
阪神大震災にオウム真理教事件と、国を揺るがす事件が発生、国政企業のアジア支社を日本には置かない、という傾向すら起こってきたそうです。この傾向に気づいたデベロッパーは、国に対して建築基準の緩和を要請し、次の時代へ続く高層オフィスビルの建設につながり、何とか今日の日本があるのとのことです。
また、世界の技術が製造業から情報系産業に移っているのにもかかわらず、1980年代末のNICS(ニックス)、NIES(ニーズ)騒動の時のように、「発展途上国がいくら進化しても、日本のモノづくり技術は世界一だから大丈夫だよ」という、根拠のない自信が、当時の日本人の世界を見る目を曇らせていたとも感じます。
貧すれば鈍するなどと、古語でまとめたくはありません。しかし、大企業の採用抑制-ヤンキー文化の隆盛-次の時代や国際的な見地など、広い視点から日本を見る特性の鈍化と感じずにはいられませんでした。
参考にしてほしい記事
序論
1期 昭和61(1986)年~平成4(1992)年 景気成長期
2期 平成4(1992)年~平成7(1995)年 景気後退第1期