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2020年10月18日 イイね!

文化庁「言葉の乱れ」ニュースに、色々考える

 文化庁の日本語に対する調査のニュースが、数週間前に発表されました。今回のトピックスは、
「日本語が乱れていると感じる人が減ったこと」
です。

この種の調査が始まったのは1995年の様ですが、「正しい日本語」が話題になったのは1970年代後半の様です。想像ですが、「間違いだらけのクルマ選び」が大人気になった結果あらゆる分野で「間違いだらけの」を題名にする本が乱立、日本語分野にも及んだのではないか、と思います。

そして具体的に初めてニュースになったのは、1985年頃の「ら抜き言葉」からです。「着る」「食べる」などの可能形を「着れる」「食べれる」とするものです。もはや話題にもならず、これらの言葉が正しくなるのは目前です。

国語の授業で聞いた話では、同音の「切る」の場合の可能形は「切れる」ですから、音が同じ言葉で意味によって活用方法が異なるのは不合理であり、言葉は簡単な方に変化する傾向があるため、「着れる」になるのは自然、というものでした。

言葉が間違っている、間違っていない、ということに執着するのはどちらかというと理工系の一部の人で、どうやら一度決めた定義が異なっていくことが許せないようです。一方で国語系の人は、このような変化は正さず容認する傾向にあります。

そんな誰も議論しなくなった「ら抜き言葉」はさておき、私はかつての若者言葉で流行語になった言葉の衰退が気になります。

例えば、「超」は、今使われているでしょうか?生まれは東海道新幹線が開通した1964年でしょうか?私には1977年のさらば宇宙戦艦ヤマトで最後に出てきた敵大型戦艦が、「超弩級大型戦艦」と呼ばれたことで知りました。ピークは、1996年頃に木村拓哉氏はドラマで「チョベリバ」と言った頃だと思います。

若者言葉として現在あるのは、「めちゃ、めっちゃ」だと思います。しかし、その「めちゃ、めっちゃ」も、若干「手垢がつき」、古くなってきているように感じます。

また、「やばい」はどうでしょうか?「自分にとって良くない状況に変化していくことをさしてつかう言葉」です。私は、私が住む地域の別の意味の方言によく似ており、主義として使いません。

この言葉は、江戸時代から太平洋戦争を経て、1980年代までは、やくざ者や不良学生などに使われてきたようです。それが1980年代半ばころから、「一見真面目そうな女の子でも、自分が親しみやすいキャラクターであることを演出するために、わざと悪ぶって使う言葉」に昇格しました。

そこから一般化が進みましたが、1990年代後半、若者向けファッション雑誌に「ヤバいアイテム」という表現が現れました。「ストリート感覚満点でかっこう良く、それでいて秘密にした衣服やアクセサリー」という意味です。そこから本来の意味を失い、「かっこう良い」になり「おいしい」の意味にも使われるようになっていきました。しかしこちらも「超」と同様に、急速に衰えてはいないでしょうか?

 私はこの二つの言葉が勢いを失っている背景に、「かつての不良性要素(ヤンキー、ギャル)を忌み嫌う傾向が強まってきた」ことを感じています。2000年頃は、景気悪化が普通になり、就業、就職意識を失った若者が街にあふれた時期でした。その頃の「ヤンキー、ギャル」がその後どうなっていったかというと、「若年結婚、出産、貧困、暴力、離婚、殺人」でした。すなわち、かっこう良いとされてきた「ヤンキー、ギャル」は、「あ、そのうち殺人するかされる人だ!」と見られてしまうのです。

私がかつて富士山五合目に「半袖、半ズボン、サンダル」で行ったところ、周囲の人が「あ、凍死して新聞に載る人だ。今のうちにじっくり見ておこう!」とニヤニヤしながら嘲笑の目にさらされたのと、同じ状況です。

すなわち、ヤンキーやギャルなど、不真面目ぶることが格好悪いとされる時代が、より本格的になった、ということがここにも表れていたのです。
Posted at 2020/10/18 23:55:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | ニュース
2020年07月23日 イイね!

ブックカバーチャレンジ 安岡章太郎「幸福」とにぎり寿司と4ナンバー貨物車

ブックカバーチャレンジ 安岡章太郎「幸福」とにぎり寿司と4ナンバー貨物車ブックカバーチャレンジ番外編
国語(教科書)二内、「幸福」安岡章太郎
フェイスブックにて「ブックカバーチャレンジ」というのをしていた時期がありました。もうお役は済ませているのですが、この話は取り上げたかったので、こちらでも書くことにしました。

このお話のあらすじは、以下の通りです。

僕(主人公)は、中学4年か5年生。母親から、叔父が帰省するための寝台券を新宿駅まで買いに行ってくるよう、頼まれる。面倒くさい上にぶっきらぼうな国鉄職員と口をきくのが嫌で、しぶしぶ行く。

駅では案の定、窓口職員は不愛想に対応する。ところが、僕は5円札を出したつもりだったが、7円の釣札を返してきた。どうやら10円札と間違えたらしい。帰りの電車を待つ間、5円の使い道に思いを巡らす僕。そこへ掃除係の駅員が来た。どうやら僕より年下のようだ。

ふと、不愛想な対応をした駅員のことが気になる。

(以下、僕の想像)
窓口職員が帰宅すると、母親は相変わらず寝たきりだった。体温計は昨日と同じところを指している。「ああ、疲れた」とつぶやく。

僕は、また窓口へ戻り、「釣札が5円多かったです。」と伝える。窓口職員はふと笑みが出て、
「あれ?そうでしたか?わざわざすみません。この陽気のせいか、どうもいけねえや。本当にすみませんでした。」
と言う。

僕は、胸の中がすっきりし、すがすがしい気分になった。帰宅後、母親にそのことを話すと、

「何を言っているんだ。渡したのは10円札だったんだ。」

と言われる。

その後、夜遅くなってまた駅に5円札を取りに行かされたが、あの時の窓口職員の笑顔は、その徒労では買えない、かけがえのないものだった、と今になっても思うのだ。

以上

今回書きたいのは、あらすじではありません。



この挿絵の握り寿司、そしてその上の、中トロだエビだ赤貝だシャコだトリガイだコハダだと、すしの表現が巧みで、寿司を食べたくなってしまったことです。3時間目や4時間目が国語の授業時間だと、ついこの頁に目が行き、頭の中で寿司を食べるのでした。
国語の授業で単元が変わる際に、「次は何にしようか。」と言う先生に、「この、(寿司がうまそうな)話が良いです。」と申し出ると、「その話はやらない。」とだけ言い、冷たくあしらわれました。

思えば、その当時はすでに寿司が高額な食べ物になりつつあった時期でした。このお話の頃の寿司は、現代のファストフード的位置づけであったために、旧制中学生が学校帰りにつまめる食べ物だったと、グルメ番組で聞きました。

私の家では、お盆やお彼岸など、特別かつお客さんが来る時でないと食べられませんでした。一般寿司店の出前で、4ナンバーのバンで配達していたと思います。

200カイリ漁業権問題以降、すしの高額化が始まったようです。しかし、1980年代初め、私の家のほうでは現在の回転寿司の原型が生まれました。洗面器程度の容器に寿司と皿を置き、容器は通路に設けた水流で各席を巡らせていました。寿司職人は少数が水路の中央にいて、次々握ることに専念させ、接客の省略により運営コストを削減、さらに一種のディスプレイ効果から、客は食欲がそそられるのでした。

1980年代も半ばに近づいてくると、「小僧寿しチェーン」が台頭してきました。安くなったとはいえお店に行かなければ食べられなかった握りずしを、お店で買って家で食べられること、価格も安く、手軽さが売りでした。ネタ材が貧弱でしたが。

1980年代後半になってくると、「元禄寿司」が出てきました。回転方式はベルトコンベヤーとなり、個別の客の注文にも応じてくれ、さらに持ち帰りも可能でした。値段は小僧寿しのものと比較すると高額でしたが、ネタ材は本格的でした。

1990年前後は、回転寿司は安物、本格派は従来寿司、という風潮が生まれました。

1996年頃になると、突然渋谷に回転寿司が現れます。ところが、寿司よりもプリンだフルーツだと、寿司以外が食べられていたとの説があります。

1990年代末期は、中部地方発の「アトムボーイ」なる回転寿司店が現れます。価格が安く、「ポテトサラダ軍艦巻き」などの、創作寿司が特徴だったとか。関東に進出する前に経営が悪化した模様です。

時は流れ、2010年頃になると「スシロー」が台頭します。価格の安さと話題性が特徴で、ファミリーが車で来店、駐車場の空きを待つ「スシロー渋滞」は日常茶飯事でした。

そして現在、無店舗型宅配寿司チェーン店や、スーパーの総菜コーナー持ち帰り寿司が一般化しました。私の家では、待ち時間が嫌なのでもっぱら持ち帰り寿司です。

そしてこの写真をご覧ください。



1988年初に放送された刑事もの「NEWジャングル」の一シーンです。犯人が寿司配達員を人質にして、カローラバンで逃走しようとしています。当時までは、一般寿司店が4ナンバー車で配達をしていたのですね。

仮に寿司辰が残っていたとしたら、きっとその車は次にスズキ キャリイやダイハツ ハイゼットのバンに置き換わっていたことでしょう。そして今は、、、宅配すしチェーンの3輪バイクに変わるか、そもそもスーパーの寿司に置き換えられているかもしれません。

寿司を取り巻く状況は、単に業者や業態だけでなく、使われ方や配達まで変わっています。今、4ナンバー貨物車が激減しています。その原因の一つとして、この「幸福」を思い出し、会社の人と討論しながら帰宅したのでした。

なお、その方の家では無店舗宅配チェーンを利用しているそうです。皆さんのお宅は、いかがですか?
Posted at 2020/07/23 20:13:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | ビジネス/学習
2020年01月03日 イイね!

平成30年期 第3期 平成7(1995)年~平成9(1997)年 景気後退第2期

 平成6(1994)年になって、景気はかなり後退していきました。この頃になり、初めて「バブル景気」という言葉が使われました。

好景気期間が1989年第二四半期から1989年末、または、1991年初め、もしくは1992年夏に終了し、好景気の理由が(当時は)分からなかったために、「泡」と分析した結果でしょうね。もっとも、この頃でも景気の循環による不景気期間であると考えられていましたから、1995年頃には回復するであろう、と皆、楽観的に考えていました。

概況

 この1995年1月、阪神大震災が発生します。当初は「死者7人」と報道されるほど現場は混乱し、被害の大きさは日を追うごとに明らかになっていきました。既に新卒採用は抑制されており、1996年就職予定者はボランティアに行くなどしていたようです。本当に現地で支援活動をした人もいたでしょうし、実際には観光だけして帰ってきた人もいたことでしょう。

その復旧もままならなかった3月には、東京でオウム真理教サリン事件が発生、さらに同月中に警察庁長官狙撃事件が発生、5月には同教本部に捜査の手が及びました。政治面では、東京都知事が青島幸雄氏に交代、翌年に開催される予定だった博覧会の「世界都市博」が中止されました。

いずれの出来事も、人々の世間話としての話題には事欠かず、誰としゃべるにも話題に困らないものでした。しかし、経済面では消費マインドが抑制されました。現代の経済学では、「終末思想による消費抑制」と分析されているようです。多くの人が店舗や家庭で飲むビールの消費量が、バブル景気後退期でも低下しなかったものが、1995年を境に減少しているとのことです。従って、1995年はバブル景気崩壊後の二番底とでもいえる時期に相当します。

消費マインドが抑制されると、その分、企業は収益が減少します。売上額を維持するために、企業は「コスト削減」と「安売り」に向かいます。これまで海外諸国と比較して製品の中間マージンが高いとされていた日本ですから、「卸売り不要論」が起こりました。中間マージンを排した「カテゴリーキラー」と称する、特定製品の安売り業が台頭しました。「価格破壊」や「安いが一番」も、この頃に出来た言葉です。

既存の産業(素材をはじめとした重厚長大産業から、電気製品メーカーなども含む)の勢いが弱まると、次の世の中の牽引につながるような産業の勢いが増します。

既に世の中にマンガ雑誌が登場して何十年も経過していましたが、「サラリーマンが電車の中で漫画雑誌をめくることが恥ずかしい」とされながら、少年ジャンプを発行している集英社は、過去最高の売り上げ部数を誇りました。もとは紙の雑誌ですから、作家さんへの原稿料を支払ったら、あとはお札を刷っているようなものでした。

また、プレイステーションなどの新型家庭用ゲーム機が登場、ファミリーコンピューターの頃とは比較にならない精度の画面に皆が驚き、大人もゲームをするようになりました。海外からもx-boxというゲーム機が参入してきましたが、国産機の勢いに撤退を余儀なくされました。

これより前の時期から、音楽のブームはありましたが、avexなどの後発専門業者が出、ミリオンセラーとなる作品を、いくつも発売しました。これまで、「高校を卒業したら,J-POPも卒業する」傾向が見られましたが、それもなくなりました。

これらのエンターテイメント産業の隆盛は、国内の需要拡大の麺では効果があったと思いますが、このことは「経済は国内で潤っていればよい」と、多くの人の目を国際的な経済からそらすことになってしまい、後世へと影響しました。

また、1995年12月には、OSの「ウィンドウズ’95」が発売されました。その前の「ウィンドウズ3.1」では、現在のアイコンやウィンドウは仮想的なもので、結局DOSコマンドが必要で、まだまだ一般の働いている人がパソコンの操作を享受するものではありませんでした。それが、ついに本当のウィンドウ操作のみで完結できるOSとなり、パソコン普及の足掛かりを作りました。以後、企業がウェブサイトを持ったり、名刺にメールアドレスを表記するようになっていきました。とはいえ、電子メールはまだおしゃべり電話の代わり程度で、重要な仕事の連絡は電話か書面、もしくは対面で行われるのでした。

 1996年は、1995年の傾向がそのまま続きました。4年制大学卒業者の就職活動の厳しさは「氷河期」と例えられました。理工系4年制大学卒業者ですらそうでしたのですから、文科系4年制大学卒業者は氷の中、短大卒業女性は初めから就職することをあきらめる人すら現れ、短大離れが進行、各学校の短大廃止につながりました。

低迷する従来産業の中、景気が良いのは「出版社、音楽出版社、ゲーム関係、カテゴリーキラー系新商事会社」でした。昭和40年代の高度経済成長期から第三次産業構成人口は増えておりましたが、さらに仕事の無形サービス化が進んだきっかけとなった時期です。

就職状況が苦しいからといって、就職しないと食べていけません。結果、これまでいわゆるFランク大学卒業者しか雇えなかった会社に有名大学卒業者が、高卒者しか雇えなかった会社にはFランク大学卒業者が就職することになりました。当時の経営層は喜んだかもしれませんが、後年、「パワハラ問題」につながるきっかけとなりました。とはいえ、悪い点ばかりではありません。これまで「従業員が立っていれば済む」だとか、「レジや万引きの番」程度でしかなかった販売店員にも大卒者が携わることになり、「従業員のマナー」という概念が生まれました。でもまあ、学歴とサービス精神は、必ず直結するものではありませんがね。。。

就職の口は限られております。重厚長大産業の採用抑制が、結果としては就職できない学生が出てしまうことにつながります。学校を卒業する前から「就職できない」人生が目に見えてしまった学生から、勤労・就業意欲どころか、学習意欲まで低下し、いわゆる「ヤンキー文化」が生まれました。

ヤンキー文化は、ゲームセンターの不良化、音楽やカラオケ文化の隆盛などにつながり、「第二次ギャル文化」が起こりました。「出版社、音楽出版社、ゲーム産業」などの収益にはつながるかもしれませんが、日本の産業の国際的競争力や、後世の進化につながる企業の再投資にはつながりません。1996年は、若本氏して過ごしていれば「聞きやすいJ-POP」などで楽しめた時期でしょうが、後の世界への影響という意味では、ほとんど何もなかった時期といえます。

 1997年は、経済的に大変な時期となりました。これまで倒産しないといわれていた金融機関の倒産が発生したためです。都市銀行の北海道拓殖銀行の破綻、山一証券の自主廃業などです。私を含めて経済に疎い人ですと、「バブルが破綻して時間もたったこの時期になぜ倒産?」という感覚ですが、長期の貸付金が回収不能となったことが原因だったり、バブル崩壊直後から経営再建に力を注いだものの、ためておいた経営体力が尽きたのがこの時期、とのことです。もちろん、各民間企業も倒産が相次いておりました。日産自動車の経営が非常によくないことも報じられました。

このことは、さらなる消費マインド抑制に働いてしまいました。誰しも、「今の勤務先が倒産したら困るから、貯金をしておこう」となったのです。消費マインドが低下して伸びる経済はありません。結果、この時期は景気の三番底とでもいう年になりました。

経済的な側面以外は、前年の傾向を踏襲しています。しかし、携帯電話(PHSを含む)が急に伸びていきました。まだまだ業務的利用や若者の興味本位を出ていなかった時期でしたが、「待ち合わせを厳密に決めなくても済む」「緊急連絡に便利」の便利さは、何にも代えがたいです。戦争直後のドラマ「君の名は」は、登場人物のすれ違いがドラマになりましたが、多くの人はそんなドラマチックさよりも便利さを求めたのです。とはいえ、この時期の携帯電話はまだまだメッセージなどの送信は不可能で、「通話が個人間で行え」、「電話機のそばか否かを問わずいつでも外から電話が出来」、「呼び出しや応対をしなくても済む」ことに、便利さを感じていたにすぎないのに、この普及拡大です。

結果、1997年末は退廃的なマインドが多くの人に広まり、かつて「この不景気は景気の循環によるものだから」などという無責任な予測は吹き飛んでいました。そして、漠然とながら「この不景気は構造的なもので、抜け出すことは不可能、このまま続くのではないだろうか。日本は、すでに「英国病」と呼ばれていたイギリスのように国際的競争力を失っていくのではないか。」という気持ちが出てくるのでした。

音楽について
 この時期から、avex社の隆盛が目立っていきます。安室奈美恵の移籍から始まり、小室哲哉系音楽が一世を風靡した時期です。安室奈美恵だけでなく、trfや華原朋美、その他もろもろヒットを出せなかった人を含め、非小室哲哉系音楽が無くなるのではないか、と思ってのが1995年でした。1996年初にはglobeの「DEPARTURES」とZARDの「マイフレンド」が一騎打ち、前者の方が売り上げで勝ったことから、時代の変化を感じたものです。しかし、現在でも良さが光るのは、私は後者の作品の方だと思います。

1996年春になると相川七瀬が、夏には非小室系ながら多くの人は小室系だと思っていたEvery Little Thingがデビューし、少しずつ小室系は後退していきます。1997年になると、小室系のヒット作は明らかに減退し、非小室系の小室哲哉に影響を受けた系統に変化していきます。なお、1996年初めに安室奈美恵とスーパーモンキーズが分離、後者はMAXとなって再出発します。1996年後半から1997年はMAXが大ヒットを連発し、安室奈美恵は影が薄くなっていました。切り離しデビューは失策だった、と多くの人が思ったのでした。

1997年は、相川七瀬が若干後退し、Every~一色の年になりました。これまで歌手のファッションが普通の人に影響することはほとんどありませんでした。しかし、Every~の持田香織は、当時のファッションリーダーとすら言われました。細眉毛、若干茶髪、キャミソール、ブーツを合わせたギャルファッションです。安室奈美恵がavexに来る前にしていたファッションを踏襲していたことは確かですが、一般の人にも広めるきっかけを作ったのは彼女です。とはいえ、現在では当時の傾向を全部まとめて「アムラー」としてしまっています。

1997年春になると、浜崎あゆみがデビューをしています。当初は「なんだか意気地なしの人に向けたような、弱虫の曲」と感じさせるものでした。しかし、つんく氏と組んだ「TO BE」から少しずつ話題になるようになっていきます。そして年末の「Depend on you」ではTBS系カウントダウンTVのエンディングテーマに選別、そしてその曲を含むファーストアルバム「A SONG FOR XX(私の読みは、「エーソング フォー ダブルエックス」、実際は「エーソング フォー …」)」が女子高校生の話題に上がり、ミリオンセラーを記録しました。ミリオンセラーは当時珍しくありませんでしたが、これまでほとんど話題に上がることがなかった浜崎あゆみが、突然ミリオンセラーになったことに驚かされたのでした。しかいし、実際の大ヒット活動は翌1998年ですね。

そんなことで、各音楽出版社がカラオケで歌いやすく耳に良くなじむ曲の開発にいそしみ、音楽を聴いたりCDを購入したりすることが、ごくごく普通の行動になっていきました。

ゲームについて
 1987年頃の、ドラゴンクエストの流行以降、ゲームは多くの未成年の遊びとして普及していました。しかし、映像やストーリーから未成年の遊び以上にはならず、多くの人は高校卒業頃にゲーム遊びを卒業していました。

それが、1995年頃からソニーのプレイステーションが普及、より大きな子供や若年世代の大人でも遊べるような質のゲームになっていきました。1978年頃に、一時大学生などがインベーダーゲームに夢中になる時期がありましたが、一過性の傾向にすぎませんでした。それが、この頃をきっかけとして、大人にもテレビゲームをする傾向が起こってきました。

ファッションについて
 前の時代からジーンズカジュアルが再興していました。1996年頃になると、ストリートカジュアルが進んできます。「アメリカ製のボーイズサイズの服を、日本の大人が着るとちょうどよい」ということから、比較的体にぴったりしたり、場合によってはへそが出そうな裾丈のTシャツが普及しだしました。また、デザインとしてのカジュアル性から、サーフブランド(PIKOやQUICK SLIVERなど)のTシャツが急増しました。ジーンズの方も、色があせたものやダメージデニムが流行りだしました。

これらの傾向を受けて、郊外にも「ジーンズメイトやマルカワ」をはじめとした、ジーンズカジュアルショップが多数出来ました。シャツ1着2980円、デニム1本7980円ともなれば、ちょっとした出費でファッションを楽しめます。なお、ユニクロはこの時期でも「一回洗濯したら伸びるポロシャツ、安いだけで出材不在のジーンズ」を扱っており、いったい誰が行くのか不明なカジュアルファッションショップでした。

バブル期なら「ジーンズはお金がない人がはくもの、Tシャツはお金がない若者が着るもの」という感覚が薄れ、フォーマルファッションが後退しました。ファッションのカジュアル化は、上の通り1995年、1996年と進みました。1997年は反動があり、サテン素材でボタン式の襟付きシャツなどが流行りました。ナイキのエアマックスを中心とした機能性スニーカーが流行り、時計はGショックが流行りました。

このストリートカジュアル傾向は女性にも及びました。ショートパンツやミニスカートがある程度の違いで、レディースジーンズはまだまだ少数派でした。雑誌も、これまでティーンズ雑誌が担っていた女性カジュアルファッションですが、「zipper」などの専門誌も創刊されました。とはいえ、20歳代半ばの女性になると、休日でもストリートカジュアルは難しかったようです。普段着のセンスから、その女性の年齢が良く分かったものです。

当時のフォーマルファッションは、結局バブル期から変化が少なく、1996年頃までソフトスーツが残っていました。1997年頃になると現在も続く「紳士服の安売り店(青山、アオキなど)でも、悪くないじゃないか」という傾向が出始めました。

生活について
 「景気が悪く、生活の余裕度が低下した」からといって、休日に家にこもるというのは、いつの時代もできないのですね。バブル期には「毎年、道具やウェアを買い替える」とされていたスキーが低迷、スノーボードが導入され始めました。スノーボーダーがもたらす退廃的な雰囲気が、当時のストリートカジュアル、ストリートファッションともマッチし、不景気ながら大流行となりました。

また、仕事から解放されたかていのお父さんが、家族とバーベキューやキャンプを楽しむ、という傾向も出てきました。車も、これ以前は「セダンでないと、葬式に行けない」という価値観でしたが、自身の生活を重視するものへ変わっていきました。人によって異なりますが、クロスカントリー4WDのロングボデーだったり、ミニバンだったりします。当時は両者をひとくくりにして、「RV」と呼んでいました。ミニバンでも、キャンプやバーベキュー、スノーボードやスキーの道具を積んで走り、家族や仲間と行きついた場所で楽しむ車、という位置づけの側面がありました。その最右翼がマツダのボンゴフレンディでした。屋根を持ち上げると部屋になる、という点は、セダンにはない新しい生活をもたらしてくれると考えたのでしょう。しかし、実際のキャンプ場では、「開梱したテントの取扱説明書を読みながら、その場で組み立てるお父さんと、周囲でイライラしている家族」という風景もあったそうです。

そんなことで、キャンプやアウトドアをはじめとしたアウトドアブームは、1997年には下火になりました。その一方で、若年層のスノーボード人気は止まらず、若年者が購入する車は、ステーションワゴン車であることが普通となっていきました。ストリートファッション等の普及から、ストリートダンスをはじめとしたダンス、B系音楽も普及しました。音楽に合わせてボタンを押す「音ゲー」が大流行しました。登場するキャラクターの可愛さから、女の子がゲームの世界に参入してきました。

以上のことから、レジャーの多様化、ファッションのカジュアル化が進んでいきました。

女性について
 既に前の時期にいた「おやじギャル」は、消滅に向かっていきました。1995年ウィンドウズの普及をきっかけとしたオフィスへのパソコンの普及により、それまで「おじさんが書いた手書き原稿をワープロソフトで清書する」ためだけにいた女性や、FAXやコピーを使うためだけの女性は、自然減に合わせて数が減っていました。この頃から、営業職への女性の登用が始まりました。一般職枠で仕事がないなら、総合職枠でも挑戦しようとする人が出てきたためです。

また、現在とは違って、積極的に車の運転をしようとする女性がより多くいた(ような気がする)のも当時です。SM-Xの運転席に座り、助手席にはチャラ男を乗せている風景を見るようになったのも、この時期のことです。

アニメーションについて
 1989年の宮崎勉事件以降、すっかり「アニメーション=オタク」とされていましたが、久しぶりに多くの人が話題にする作品が出ました。「創世紀エヴァンゲリオン」と「ポケモン」です。実際に見ていた人は少数派でしたが、「オタク」という言葉の影が少し薄くなりました。パソコンの普及なども含め、後年につながる変化の始まりでした。

車について
 1995年は、E110系カローラが発売されました。明確にコストダウンが行われておりました。前年にV40系カムリ/ビスタで失敗しているのになぜ?という疑問が多くの人によぎりました。上に書いた通り、クロスカントリー4WD、ミニバン、ステーションワゴンをまとめた「RV」を選ぶ人が増えました。少し前に起った「背が低いハードトップの流行」は急速に終わりました。切り替えが急でしたので、1993年に発売された「カローラセレス、スプリンターマリノ」は、行き場がなくなってしまいました。

当初人気があったのは、オデッセイ、ステップワゴン、バネットセレナ、ラルゴ」などでした。トヨタはこの分野で完全に出遅れてしまっていたのでした。それが、1996年に発売されたイプサム、タウンエースノア、ライトエースノアから逆転が始まりました。

スバルはレガシィのワゴンモデルの流行が続いていました。中でもターボエンジン搭載モデルの人気が非常に高く、この分野での他車の追従は出遅れました。日産がアベニールサリュー、トヨタがカルディナ、マツダがカペラカーゴワゴン、ホンダがアコードワゴンで迎撃します。アベニールはレガシィよりも馬力が低い上にリヤサスペンションがリジッドと質が追い付いていませんでした。カルディナはハイパワーエンジンモデルの投入が遅れ、安物感覚が付きまといました。カペラは車が古く、唯一、アコードワゴンのみがアメリカンな雰囲気が受け入れられました。

1997年頃になると、ピックアップトラックの流行からステーションワゴンをアメリカンにカスタマイズする流行が始まりました。本家のアメリカ車もどんどん輸入され、カプリスなどが選ばれました。それを買えない人は、アベニールをスムージングして、カスタマイズ欲を満たしました。ノーマル派なら、アコードワゴンをローダウンして乗ったものでした。

ミニバンは上記の通り、ファミリーカーとしての販売が中心でした。これが、上記と同様、アストロやダッヂバンの輸入が行われ、無理をして大型ミニバンを購入、カスタマイズして乗る傾向が生まれました。

車の流行とは多分におしゃれとかかわる分野です。それまでスポーティークーペをローダウンしたりマフラーを交換したりし、「にわか走り屋」として普通に走っていた人を含め、皆、こぞってミニバンやステーションワゴンへと移行しました。走り屋ブームがファッション性を失い、田舎の趣味として独自の進化を始めたのもこの時期です。

まとめ
 この時期は、多くの人が経済の再生を忘れ、目の前の遊びにて時間をつぶした時期だったのかもしれません。マンガ出版社、音楽出版社、ゲームソフト会社の隆盛がそれを物語っています。

阪神大震災にオウム真理教事件と、国を揺るがす事件が発生、国政企業のアジア支社を日本には置かない、という傾向すら起こってきたそうです。この傾向に気づいたデベロッパーは、国に対して建築基準の緩和を要請し、次の時代へ続く高層オフィスビルの建設につながり、何とか今日の日本があるのとのことです。

また、世界の技術が製造業から情報系産業に移っているのにもかかわらず、1980年代末のNICS(ニックス)、NIES(ニーズ)騒動の時のように、「発展途上国がいくら進化しても、日本のモノづくり技術は世界一だから大丈夫だよ」という、根拠のない自信が、当時の日本人の世界を見る目を曇らせていたとも感じます。

貧すれば鈍するなどと、古語でまとめたくはありません。しかし、大企業の採用抑制-ヤンキー文化の隆盛-次の時代や国際的な見地など、広い視点から日本を見る特性の鈍化と感じずにはいられませんでした。

参考にしてほしい記事
序論
1期 昭和61(1986)年~平成4(1992)年 景気成長期
2期 平成4(1992)年~平成7(1995)年 景気後退第1期
Posted at 2020/01/03 23:15:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | ビジネス/学習
2019年02月12日 イイね!

センター試験の訂正に、常識はねつ造されると思う

 大学入試真っ盛りの季節ですね。私も試験を受けていた時期があり、合格するまで落ち着かない気持ちを味わったものです。ちょうどこの時期はKO大学を受けていた時期で、あまりの出来の悪さに「せめて駅まではトップで」と、走っていったのでした!?

さて、中でも「大学入試センター試験」は、試験問題も解答も公開され、選択科目間の得点調整や修正も公開されます。今年は得点調整はなく、試験問題に誤りがあったため、全員正解とする措置がとられました。その措置の内容に、私はこれまで生きて学校に通ってきたことをすべて否定されるかのような思いを感じました。

措置があった科目は「現代社会」です。主に工業・農業・水産高校など、特別なことを学ぶ高校から大学を目指す方のための社会科で、倫理政経から倫理の歴史と経済がなくなった内容と考えればよいでしょう。実は私も倫理分野がほとんど世界史で覚えにくかったことから、試験の場で急遽倫理政経から現代社会に切り替えたのでした。

 その現代社会の設問は、太平洋戦争前後の一般家庭に関する問題だったそうです。その問題では、「戦前は大家族で、戦後核家族化が進んだ」ということを答えさせるものでした。しかし実際の統計では、戦前から核家族化が進んでおり、特に太平洋戦争が関係していないことが明らかになっていたのでした。

私は社会学や生活科学の専門家ではないため、そういう分野は新聞や本で読んだことなどをそのまま知識として用いるだけです。積極的に自分で調べることはしませんし、ウラを取ることもしません。どこの誰から教わったか全く記憶にありませんが、漠然と「太平洋戦争前(いや、高度経済成長期かな?)は大家族、以降は核家族」と思い込んでいました。

気になってインターネットで調べてみましたら、すぐに「太平洋戦争以前から核家族は普通だった」(以後、説A)と出てきました。その一方で、設問のように「太平洋戦争(高度経済成長)以前は大家族、以後は核家族」(以後、説B)とするサイトも出てきました。

説Aを唱えるのは、主に人口構成を解説するだけのサイトでした。戦前は平均寿命が短く、孫が生まれる前に祖父母は亡くなっているか、孫が産まれてほどなく亡くなるために、三世帯同居である期間が物理的に短いと述べていました。

説Bを唱えるのは、社会関係ではなく幼児教育や道徳を説くサイトでした。「子供が産まれると祖父母から大切なことを教わり・・・」と、人口構成を述べるよりも枕詞的に引用する程度のものでした。

それどころか、バブル景気頃に人文学者がこうも言っていました。
「欧米ではハイスクールに進学すると家庭を出て、子供は独り立ちする。一方日本では、成人をしても子供は家庭に残り、精神的に成長しない。」
その時代、農地はどんどん宅地に転用され、近郊には多くのアパートが建設されるのでした。「御用聞き」学者だったのかね?

 思い返すと、説Bのように色々なことを証拠や証明なく、漠然と引用する話し方はごく普通に行われています。校長先生や上司の訓話、教科の先生が教科から脱線して話すこと、会合のあいさつ、学生の小論文、ブログやエッセイ、など、様々です。聞いている方も何となく納得しますし、話す方も話の導入として使いやすい、結局「証拠はないけれど、常識として広まっている」ことになります。

それが、大学入試問題を作成する人たちまで伝染し、設問が作られてしまったことに驚きを感じました。私が何となく知識として得ていることには、教科の先生がその教科について説明していたこともあれば、脱線話から得たこともあると思います。特に社会や人文に関わる項目は、教科外の先生でも何となく語れてしまうので、「うそ」「間違い」「誇張」もあったことでしょう。

過去に教わったことはもちろん、格言やことわざまで、すべて検証をしてから考えとして導入しなければならない、と、過去の棚卸を改めて決意するのでした。
Posted at 2019/02/12 23:00:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | ビジネス/学習
2018年10月06日 イイね!

平成30年期 第2期 平成4-平成7年

 平成4(1992)年下半期になり、景気が下降気味になっていきました。ただし当時の人々は、「景気循環の上下に関わる下降」だと考えていました。「3年から長くても5年経過すればまた景気は良くなるさ」と、楽観的に考える向きもありました。いつの時代でも「好景気はお金持ちから、不景気は庶民から」来るものです。不景気は庶民のみで、お金持ちはお金を貯め込んでいると思われていました。

しかし、「お金を使う競争」や「見栄の張り合い」の様相を呈していた好景気でしたので、「消費疲れ」もありました。生活を取り巻く状況も、徐々に変わっていきました。

概況
 平成4(1992)年下半期は徐々に経済が後退している、という程度の状況でした。銀行は土地取得のための融資を制限され、回収が見込めない融資はせず、これまでの融資についても回収を始めました。土地や株、美術骨董品などを転売しながら利益を稼いでいたにわか富裕層は、それらのものを転売できなくなったために利益を得るどころか、買い手がつかずに転売できなくなりました。

一方、庶民の方はもともと現金しか持っていませんでしたので、それほど大きな被害はありませんでした。しかし、不景気が始まってしばらくした平成5(1993)年頃になってくると、給料が上がらなくなったりするどころか、会社がなくなるような人も現れました。

平成5(1993)年夏は、冷夏でした。一般的に関東地方で梅雨が明ける7月20日ころになっても、曇や小雨模様が続き、「ちょっと蒸し暑い」程度でした。東北地方に至っては「夏でも肌寒い」ほどで、秋の収穫に大きく影響しました。気温が上がりませんと、いわゆる夏物需要が低下します。夏物衣料、エアコン、ビールや清涼飲料水といった、一般消費が低迷しました。小売の低迷は、卸はもちろん、原料の販売にも影響し、最終的には経済にも影響します。

暑すぎる夏も、寒い夏も、どちらも不景気になるものです。この頃になると人手不足感がほとんどなくなりました。前年までのアルバイト情報誌は、「週二回刊行、それぞれ厚みは2cm」にもなろうかとしていました。しかし平成5(1993)年は「仕事は正社員で補うか、長期にわたって勤務している既存アルバイト」で補えるようになったためか、アルバイト情報誌厚さは、5mm程度になってしまうほどでした。なおバブル期は、アルバイトを続けるだけで十分生活出来たために、給料が良く責任が問われないアルバイトを続けたり、転々とする人が多数いたのです。この「フリーアルバイター」たちの存在が、後の派遣社員問題などへとつながっていくのです。

米の流通量は、それほど冷夏でもなかった西日本の新米が出回る秋はそれほど不足感はありませんでした。しかし、東日本の新米が出回る晩秋から流通量が減少したようです。翌平成6(1994)年は、年初から米を買うために多くの人が販売店に列をなしました。戦後の食料混乱期ではあるまいし、米を買うために人が列を作る風景は、多くの人に「不景気感、終末思想」を与えるもとになりました。

平成6(1994)年は、不景気が一般的になってしまいました。下げ止まり感はありましたので、「このまま不景気が進行して、世の中はどうなってしまうのだろう」という不安は、改善こそされませんが、底なし沼感はなくなりました。もちろん、「景気循環による不景気だから、あと2・3年もすればまた良くなる」と、希望を持つ人は多数いました。

「清貧・我慢」など消費を抑える行動が生まれ、既存のサービを値下げして提供する「価格破壊」が生まれました。国際電話の値下げも行われ、KDDでは西田敏行氏に「安いが一番」と言わせるCMを作成、価格の低下が起こった年でもありました。既存の百貨店等が売り上げを落とす一方で、単一商品だけを扱って価格を下げる「カテゴリーキラー」などの業態に注目が集まりました。酒やパソコンなどの販売店が注目されましたが、これも一時の現象にとどまり、1年程度しかもたなかった会社も出てきました。

平成7(1995)年になると、年初の「阪神・淡路大震災」、3月の「オウム真理教地下鉄サリン事件」などが発生し、人々の気分を暗くさせました。大卒者の就職状況も悪化し、「就職氷河期」と例えられました。世の中の雰囲気は前年の期待とは裏腹に、どんどん悪化するのでした。これ以降を「景気の二番底」とするために、時代を分けることにしました。

高度経済成長期を担った層について
 この時期、本来は”再構築”を意味していた言葉の「リストラクチャリング」が、そのまま「会社の社員首切り」に当てられるようになりました。前の時代に、多くの企業が副業としてゴルフクラブを運営したり経営に参画していたり、レジャー施設を築いたりと、本業とは無関係な事業を推進していました。それらの施設の利用率が低下すると、当然その業務についていた人もいらなくなってしまいます。「時代は遊び」と言っていた人などです。

加えて、第一次オイルショックに伴う狂乱物価の時代は意外にも短く、その前の高度経済成長期もそのあとの低成長期も、結局「何もしなくても需要があって売れた」時期と言えました。「黙って座っている、または、部下を飲みに誘うか顧客を接待するのが上司の仕事」でした。しかし、そんなことでこの時期の不況は乗り切れませんでした。結果、そんな「鎮座上司」たちは、どんどん人をやめさせたり、新規採用を抑制したり、コストダウンをするなど、その場しのぎの策しか出来なかったのです。

当時、職業安定所に訪れた中年男性は、職業安定所の職員に「あなたは何ができますか?」と聞かれて、「部長の仕事ならできます。」と答えたそうです。「何もせず、部下が持ってきたことを良い悪いと言うだけ」だったのですね。

結果、当時の中年層を見る目は著しく低下しました。加えて、女子中高生の被服を中古販売する店に行く中年男性などがピックアップされ、「背広の人は汚らしい」という評価さえ出てしまったのでした。

後述する「家なき子」では、所謂「ワル」が警察署長に正論を説くシーンがあります。「背広組は大したことがない」、「少し悪い雰囲気くらいの人間のほうが正しい」などとする傾向が現れ、以後、20年近く「ちょいワル推奨」期が起こってしまうのでした。

いわゆる「バブル女象について」
 今でもテレビドラマの回想シーンなどでは、バブル期について「トサカ前髪、蛍光色ないしは原色のボディコンワンピースの女が、センスを振り回してお立ち台に立つ」姿が描かれています。このような人たちはバブル期にもいましたが、注目されたのはこの時期でした。「イケイケ」とも呼ばれていましたね。フジテレビでは子供向け番組に、この「イケイケ」を誤英語化、逆語化して「ウゴウゴルーガ」と名づけて番組にしました。

彼女たちは、「オトコたちは不景気らしいけれど、こうやって踊って不景気を吹き飛ばすんだ!」としていました。しかし、遊ぶ金は結局給料です。これらの人たちがついていた、「一般職」は自然減と派遣ないしはアルバイト、アウトソース化され、一般職自体が徐々に消滅していきました。そもそも「不景気」は物理的な霧ではありませんので、吹き飛ばしたりするものではありませんでしたね。

嗜好や娯楽に関わる変化
 この前の時代は、「いかにお金を使うか」ということにかかっていました。もちろん、この前の時代では給料が良くてもお金を使う暇がなく、レジャーが出来るときにたっぷりお金を使うしかなかった、という理由があります。中でもスキーは、スキーウェアや道具を毎年買い換えて自慢したり、アフタースキーのためのスキーでしたので、徐々に衰退していきました。

音楽について
 この前の時代は、音楽を聞くことは主に高校生までの娯楽でした。平成3年までのロックバンドブームは、その代表格です。

平成4(1992)年の夏、テレビ朝日系深夜番組「トゥナイト」のエンディングテーマに、ZARDの「眠れない夜を抱いて」が選ばれました。秋には三井生命のCMでWANDSの「もっと君を抱きしめたら」が、東洋水産の「マルちゃん ホットヌードル」のCMには、大黒摩季の「DA・KA・RA」が選ばれました。いずれの歌手等も知名度が低い上に曲は多くの人が耳にし、「聞きたい曲」になりました。

既にカラオケはありましたが、オジさんが酔ってスナックや温泉旅館で使うものでした。非ロック系の歌いやすい曲が出てくることでカラオケブーム、聞いたり練習したりするためのCD販売量が増大しました。仲間で集まって居酒屋に行き、そのあとはカラオケボックスで歌をうたうような「お金がかからない遊び」が徐々に主力になっていきました。

さらに、エンターテインメントビジネスが十分に成立することがわかり、不景気の時代になりましたが、以後10年間程度大きな収益を上げることにつながりました。

私の時代区分(平成4年下半期~平成7年)では、この期間はほとんど「Bing」系という人たちが占拠した時代でした。WANDS、T-BOLAN、ZYYG、REV、ZARD、大黒摩季、MANISHなどです。いずれも「うまい」と思わせる仕上がり、キャッチーなメロディ、歌いやすい曲調などと、多くの人に受け入れられそうな条件を満たしていたのです。

被服について
 こちらも他のレジャーと同様、いかにお金をかけたか、という点で「他人に自慢をする要素」になっていました。昭和61年以前は、20歳前後の男性服というと、それこそスタジャンにジーンズなど、おしゃれも何もありませんでした。

そもそも「カジュアルウェア」の概念がありませんでしたので、お金はフォーマルファッションに注ぎ込まれていきます。男性は海外ブランド(アルマーニ)などのソフトスーツが主力となり、女性は「保護者参観日にお母さんが来ていくような服」から、「スーツ」に変化していったのです。

 ところが、平成4(1992)年はそれほどではありませんでしたが、平成5(1993)年頃になると、お金がかからないカジュアルウェアにシフトされていきます。この年は、「「白いポロシャツに、ブルーデニム」程度で、夏の若者らしいおしゃれでさわやかな服」とされました。今や、どちらもおしゃれでも何でもない服ですよね。

いくら不景気だからといっても、その時代や状況に合わせて楽しみを見つけていくのが、一般庶民です。平成6(1994)年になると、街中に「カジュアルジーンズショップ」が現れます。「ジーンズメイト」などがその代表格です。ブルーデニムを基本に、Tシャツなどのカジュアルウェアを販売する店舗です。

着る方もいろいろ工夫をして、日常生活を楽しくしようとします。この年には、
「古いアディダス等のジャージをタウンウェアにする」ことや、
「米国のボーイズサイズの小さめのTシャツを、やや肌にぴったりさせた感じで着る」着かた、
「上のパンツ(ズボン)を下ろし気味に履き、下のパンツ(下着)のブランドを見せる」履きかた
などが現れました。いずれも平成4(1992)年頃では、全く想像すらつかなかった服の着かたでした。服の着かたは、基本的にドレスダウン方向に進んでいきます。これ以後、ドレスアップをするおしゃれは、しばらく出てこなくなります。

テレビについて
 テレビドラマの上では、平成4(1992)年下半期から少しずつ変わっていきました。既に所謂トレンディドラマは減少しており、各社とも次を探っていました。そんな中、フジテレビではこの少し前に「もう誰も愛さない」という、吉田栄作主演のドラマを放送していました。主人公は周囲の人に翻弄され、最後は誰かを殺害するか殺害されるかする作品でした。

そしてこの期は、TBSが「ずっとあなたが好きだった」を放送します。佐野史郎氏の怪演が話題になった作品です。放送当初はよくある家庭ドロドロ物語と思う人多数で大した視聴率は得られませんでした。しかし、途中から佐野史郎氏のマザコンぶりを強調した演技が話題になりました。恋愛モノ作品ではなかったため、これまでイヤイヤ恋愛モノトレンディドラマを見ていた男性も抵抗なく受け入れられ、「ドラマを共通の話題にしてお喋りを楽しむ」風潮が生まれました。

なお、所謂トレンディドラマの頃は、実際には「テレビを見るために早く帰宅する」ことははばかられました。結局のところ、テレビを見る娯楽は、お年寄りと子供と早く帰れる地元就職者のためのものだったのです。「東京ラブストーリー」が流行し、「街からOLが消え」たのは、テレビを若者の娯楽としても良い事実を作っていたのです。

 「ずっとあなたが好きだった」以降、怪演や怪設定を売りにした作品が続きます。正編の「誰にも言えない」をはじめとして、「悪魔のKiss」、「高校教師」などが放送されました。不景気と相まって「登場人物たちが楽しそうに恋愛をしたり遊んだりしている」作品は忌み嫌われ、苦労をしたり数奇な運命をたどったりする作品が注目されるようになりました。

平成6(1994)年になると、野島伸司作品が注目されます。安達祐実主演「家なき子」は、童話の家なき子を現代的にオマージュし、主人公の”すず”が、犬の”リュウ”とともに、いろいろな家庭をたらい回しにされる作品です。すずは母親を救うために靴磨きの仕事をしています。戦争直後ならまだしも、「平成の世の中になって靴磨きか!」と、人々の郷愁と同情を買いました。荒唐無稽な状況設定ながら、ドラマチックな展開が見所でした。以後も、柴門ふみ風の群像もの「愛という名のもとに」、「人間・失格」、「聖者の行進」と続きます。

ドラマが野島伸司原作作品一色になったわけではありません。フジテレビでは、恋愛モノ作品の視聴者年齢層がやや上がったことを危惧し、「ボクたちのドラマシリーズ」を放送、松雪泰子主演の「白鳥麗子でございます」などが放送されました。TBSでも、「毎度お騒がせします」というよりは「寺内貫太郎一家」を思わせる「毎度ゴメンなさぁい」と「毎度おジャマしまぁす」が放送されました。

トレンディドラマをこの時代流に変更した作品もありました。「29歳のクリスマス」は、主人公たちが住む家を畳張りと黒電話として庶民の実生活に近づけたとしました。柴門ふみ原作作品も健在で「あすなろ白書」が、また、柴門ふみ調の作品も、各脚本家に寄って作られました。代表格は「君といた夏」です。

クルマ
 この時期になると、高級車の売れ行きが急減速します。代わって、比較的お金がかからないキャンプやバーベキュー、釣りといった屋外系レジャーをする人が増えたからか、RV車の売れ行きが伸びます。RV車とは非常に大きな括りで、含まれるのは「車高が高い4WD車≒クロスカントリー4WD」、「セダンの派生車種であるステーションワゴン」、「いわゆる現代のミニバンの元祖」全てです。特に「デリカスペースギア」や「レガシィ」「アコード」のワゴン、「RAV4」や「オデッセイ」が好調で、多くの車がレジャー色を強調していました。

その一方で、にわかレジャーの人も多数いて、「テントを買って、キャンプ場に来て初めて開封して組み立てられないお父さん」や、「キャンプ場に来たは良いけれど、風呂はないは虫はいるはで、二度と来ない子女」など、ブームはこの時期だけになってしまいました。しかし、その後にも続くステーションワゴンやミニバンの一般化の基礎を作ったのは、この時代でした。

一方、この前の時代にハイパワースポーツクーペに乗って走りを楽しんでいた人は、ランサーやインプレッサのハイパワーモデルに乗る傾向も出てきました。前の時代に多数いたことになっている「車に関心がある若者」は、この時代で「車をレジャーなどの道具に使う人」と「ハイパワー車に乗り続ける人」に二分化しました。

これ以外の車は、この時期に急につまらなく、地味になっていきます。「コストダウン」と「安いが一番」が幅をきかせていたのです。簡素で何もなくなってしまった「カムリ・ビスタ」や「カローラⅡ、ターセル、コルサ」と「ファミリア」、「ブルーバード・プリメーラ」など、技術的な進歩や魅力的なイメージをかなぐり捨て、旧型よりもコストを下げて利益を減らすまいとする、メーカーの事情が現れた車が多数を占めるようになりました。車の「白物家電化」論が出始めていました。

環境問題
 日本の経済不況とは全く無関係に、それでいて同時期に始まったのが、「環境問題」です。これまた環境問題とは無関係に、前の時代には湾岸戦争が勃発し、原油にまみれた海鳥の姿が度々放送されたのでした。

高度成長期の「公害問題」は、排出者が特定企業、被害者が限られた地域、法規制等の未整備による「垂れ流し」問題と、人口が短い期間に年に集中したために、道路やゴミ・し尿の処理が追いつかないこと、養鶏/養豚場・工場の近くに宅地が出来たことなどの「生活に関わる問題」の二つが主体でした。

この時期の環境問題は、今でも続いている二酸化炭素の排出問題と、冷房装置や集積回路工場から排出されるフロンガスによるオゾン層問題の二つが中心でした。この問題は、多くの人に「エネルギーを利用して贅沢を味わう」ことが悪いことであるように印象づけるのに十分であり、経済活動の萎縮につながりました。

その他レジャー
 既にこの時期には「TOKYOウォーカー」誌はありました。が、前の時代では「いかにお金を使って高級レストランに行くか」が重要であったために、街のお店、特にラーメンなどを食べ歩くなどというのは、変わった趣味と言えました。「アイドルはトイレに行かない」などという言葉がありますが、「女性はパスタ以外の麺類は食べない」のではないか、とすら思える程でした。

確か「TOKYOウォーカー」誌がラーメン店特集をした結果、「美味しいラーメン屋に行って並んで食べる」ことがレジャーの一つになりました。東京都内の環状7号線という道路には夜中にしか営業しないラーメン店があり、「車で行って路上駐車をして並んで食べる」ことがデートのひとつともなりました。

まとめ
 この時期では、前の時代に築かれた文化がことごとく否定されました。お金を使って高級レストランに行くことも、毎シーズンスキーウェアや道具を買い換えることも、貯金をして無理して高級車や外車、スーツを買うことなどです。

加えて、趣味の多様化が認められるようになりました。前述の「ラーメンを食べに行く」ことのほか、アニメーションや鉄道、モータースポーツ参戦や星の観察など、これまで他の人に知られることを避けたようなことも、まだ歓迎こそされませんでしたが、「していても悪くない趣味」と扱われるようになってきました。

文化の変化により、時代の急変を当時も感じました。歴史上でも、壬辰の乱や応仁の乱、関ヶ原の戦いなど、その前後で大きく時代背景が変わった出来事はありますが、ちょうどそのような雰囲気です。経済的には決して良いとは言えない時期でしたが、この時期以後は「生きていて楽」と感じるようになったのも事実です。

この時期は、経済番組等では「株価と土地価格の下落により、急激に経済が悪化、失われた20または30年の始まり」とされる時期です。しかし、生活をする上では「色々な選択肢を選べるように」なり始めた時期で、旧態依然とした取引の仕組みや「こうあるべき」論が崩れた時期でした。

同じ平成時代とは言っても、平成3(1991)年と平成8(1996)年との間は、文化的には大きは隔たりを感じる時期なのでした。
Posted at 2018/10/07 13:34:22 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | ビジネス/学習

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