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2020年07月23日 イイね!

ブックカバーチャレンジ 安岡章太郎「幸福」とにぎり寿司と4ナンバー貨物車

ブックカバーチャレンジ 安岡章太郎「幸福」とにぎり寿司と4ナンバー貨物車ブックカバーチャレンジ番外編
国語(教科書)二内、「幸福」安岡章太郎
フェイスブックにて「ブックカバーチャレンジ」というのをしていた時期がありました。もうお役は済ませているのですが、この話は取り上げたかったので、こちらでも書くことにしました。

このお話のあらすじは、以下の通りです。

僕(主人公)は、中学4年か5年生。母親から、叔父が帰省するための寝台券を新宿駅まで買いに行ってくるよう、頼まれる。面倒くさい上にぶっきらぼうな国鉄職員と口をきくのが嫌で、しぶしぶ行く。

駅では案の定、窓口職員は不愛想に対応する。ところが、僕は5円札を出したつもりだったが、7円の釣札を返してきた。どうやら10円札と間違えたらしい。帰りの電車を待つ間、5円の使い道に思いを巡らす僕。そこへ掃除係の駅員が来た。どうやら僕より年下のようだ。

ふと、不愛想な対応をした駅員のことが気になる。

(以下、僕の想像)
窓口職員が帰宅すると、母親は相変わらず寝たきりだった。体温計は昨日と同じところを指している。「ああ、疲れた」とつぶやく。

僕は、また窓口へ戻り、「釣札が5円多かったです。」と伝える。窓口職員はふと笑みが出て、
「あれ?そうでしたか?わざわざすみません。この陽気のせいか、どうもいけねえや。本当にすみませんでした。」
と言う。

僕は、胸の中がすっきりし、すがすがしい気分になった。帰宅後、母親にそのことを話すと、

「何を言っているんだ。渡したのは10円札だったんだ。」

と言われる。

その後、夜遅くなってまた駅に5円札を取りに行かされたが、あの時の窓口職員の笑顔は、その徒労では買えない、かけがえのないものだった、と今になっても思うのだ。

以上

今回書きたいのは、あらすじではありません。



この挿絵の握り寿司、そしてその上の、中トロだエビだ赤貝だシャコだトリガイだコハダだと、すしの表現が巧みで、寿司を食べたくなってしまったことです。3時間目や4時間目が国語の授業時間だと、ついこの頁に目が行き、頭の中で寿司を食べるのでした。
国語の授業で単元が変わる際に、「次は何にしようか。」と言う先生に、「この、(寿司がうまそうな)話が良いです。」と申し出ると、「その話はやらない。」とだけ言い、冷たくあしらわれました。

思えば、その当時はすでに寿司が高額な食べ物になりつつあった時期でした。このお話の頃の寿司は、現代のファストフード的位置づけであったために、旧制中学生が学校帰りにつまめる食べ物だったと、グルメ番組で聞きました。

私の家では、お盆やお彼岸など、特別かつお客さんが来る時でないと食べられませんでした。一般寿司店の出前で、4ナンバーのバンで配達していたと思います。

200カイリ漁業権問題以降、すしの高額化が始まったようです。しかし、1980年代初め、私の家のほうでは現在の回転寿司の原型が生まれました。洗面器程度の容器に寿司と皿を置き、容器は通路に設けた水流で各席を巡らせていました。寿司職人は少数が水路の中央にいて、次々握ることに専念させ、接客の省略により運営コストを削減、さらに一種のディスプレイ効果から、客は食欲がそそられるのでした。

1980年代も半ばに近づいてくると、「小僧寿しチェーン」が台頭してきました。安くなったとはいえお店に行かなければ食べられなかった握りずしを、お店で買って家で食べられること、価格も安く、手軽さが売りでした。ネタ材が貧弱でしたが。

1980年代後半になってくると、「元禄寿司」が出てきました。回転方式はベルトコンベヤーとなり、個別の客の注文にも応じてくれ、さらに持ち帰りも可能でした。値段は小僧寿しのものと比較すると高額でしたが、ネタ材は本格的でした。

1990年前後は、回転寿司は安物、本格派は従来寿司、という風潮が生まれました。

1996年頃になると、突然渋谷に回転寿司が現れます。ところが、寿司よりもプリンだフルーツだと、寿司以外が食べられていたとの説があります。

1990年代末期は、中部地方発の「アトムボーイ」なる回転寿司店が現れます。価格が安く、「ポテトサラダ軍艦巻き」などの、創作寿司が特徴だったとか。関東に進出する前に経営が悪化した模様です。

時は流れ、2010年頃になると「スシロー」が台頭します。価格の安さと話題性が特徴で、ファミリーが車で来店、駐車場の空きを待つ「スシロー渋滞」は日常茶飯事でした。

そして現在、無店舗型宅配寿司チェーン店や、スーパーの総菜コーナー持ち帰り寿司が一般化しました。私の家では、待ち時間が嫌なのでもっぱら持ち帰り寿司です。

そしてこの写真をご覧ください。



1988年初に放送された刑事もの「NEWジャングル」の一シーンです。犯人が寿司配達員を人質にして、カローラバンで逃走しようとしています。当時までは、一般寿司店が4ナンバー車で配達をしていたのですね。

仮に寿司辰が残っていたとしたら、きっとその車は次にスズキ キャリイやダイハツ ハイゼットのバンに置き換わっていたことでしょう。そして今は、、、宅配すしチェーンの3輪バイクに変わるか、そもそもスーパーの寿司に置き換えられているかもしれません。

寿司を取り巻く状況は、単に業者や業態だけでなく、使われ方や配達まで変わっています。今、4ナンバー貨物車が激減しています。その原因の一つとして、この「幸福」を思い出し、会社の人と討論しながら帰宅したのでした。

なお、その方の家では無店舗宅配チェーンを利用しているそうです。皆さんのお宅は、いかがですか?
Posted at 2020/07/23 20:13:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | ビジネス/学習
2020年01月03日 イイね!

平成30年期 第3期 平成7(1995)年~平成9(1997)年 景気後退第2期

 平成6(1994)年になって、景気はかなり後退していきました。この頃になり、初めて「バブル景気」という言葉が使われました。

好景気期間が1989年第二四半期から1989年末、または、1991年初め、もしくは1992年夏に終了し、好景気の理由が(当時は)分からなかったために、「泡」と分析した結果でしょうね。もっとも、この頃でも景気の循環による不景気期間であると考えられていましたから、1995年頃には回復するであろう、と皆、楽観的に考えていました。

概況

 この1995年1月、阪神大震災が発生します。当初は「死者7人」と報道されるほど現場は混乱し、被害の大きさは日を追うごとに明らかになっていきました。既に新卒採用は抑制されており、1996年就職予定者はボランティアに行くなどしていたようです。本当に現地で支援活動をした人もいたでしょうし、実際には観光だけして帰ってきた人もいたことでしょう。

その復旧もままならなかった3月には、東京でオウム真理教サリン事件が発生、さらに同月中に警察庁長官狙撃事件が発生、5月には同教本部に捜査の手が及びました。政治面では、東京都知事が青島幸雄氏に交代、翌年に開催される予定だった博覧会の「世界都市博」が中止されました。

いずれの出来事も、人々の世間話としての話題には事欠かず、誰としゃべるにも話題に困らないものでした。しかし、経済面では消費マインドが抑制されました。現代の経済学では、「終末思想による消費抑制」と分析されているようです。多くの人が店舗や家庭で飲むビールの消費量が、バブル景気後退期でも低下しなかったものが、1995年を境に減少しているとのことです。従って、1995年はバブル景気崩壊後の二番底とでもいえる時期に相当します。

消費マインドが抑制されると、その分、企業は収益が減少します。売上額を維持するために、企業は「コスト削減」と「安売り」に向かいます。これまで海外諸国と比較して製品の中間マージンが高いとされていた日本ですから、「卸売り不要論」が起こりました。中間マージンを排した「カテゴリーキラー」と称する、特定製品の安売り業が台頭しました。「価格破壊」や「安いが一番」も、この頃に出来た言葉です。

既存の産業(素材をはじめとした重厚長大産業から、電気製品メーカーなども含む)の勢いが弱まると、次の世の中の牽引につながるような産業の勢いが増します。

既に世の中にマンガ雑誌が登場して何十年も経過していましたが、「サラリーマンが電車の中で漫画雑誌をめくることが恥ずかしい」とされながら、少年ジャンプを発行している集英社は、過去最高の売り上げ部数を誇りました。もとは紙の雑誌ですから、作家さんへの原稿料を支払ったら、あとはお札を刷っているようなものでした。

また、プレイステーションなどの新型家庭用ゲーム機が登場、ファミリーコンピューターの頃とは比較にならない精度の画面に皆が驚き、大人もゲームをするようになりました。海外からもx-boxというゲーム機が参入してきましたが、国産機の勢いに撤退を余儀なくされました。

これより前の時期から、音楽のブームはありましたが、avexなどの後発専門業者が出、ミリオンセラーとなる作品を、いくつも発売しました。これまで、「高校を卒業したら,J-POPも卒業する」傾向が見られましたが、それもなくなりました。

これらのエンターテイメント産業の隆盛は、国内の需要拡大の麺では効果があったと思いますが、このことは「経済は国内で潤っていればよい」と、多くの人の目を国際的な経済からそらすことになってしまい、後世へと影響しました。

また、1995年12月には、OSの「ウィンドウズ’95」が発売されました。その前の「ウィンドウズ3.1」では、現在のアイコンやウィンドウは仮想的なもので、結局DOSコマンドが必要で、まだまだ一般の働いている人がパソコンの操作を享受するものではありませんでした。それが、ついに本当のウィンドウ操作のみで完結できるOSとなり、パソコン普及の足掛かりを作りました。以後、企業がウェブサイトを持ったり、名刺にメールアドレスを表記するようになっていきました。とはいえ、電子メールはまだおしゃべり電話の代わり程度で、重要な仕事の連絡は電話か書面、もしくは対面で行われるのでした。

 1996年は、1995年の傾向がそのまま続きました。4年制大学卒業者の就職活動の厳しさは「氷河期」と例えられました。理工系4年制大学卒業者ですらそうでしたのですから、文科系4年制大学卒業者は氷の中、短大卒業女性は初めから就職することをあきらめる人すら現れ、短大離れが進行、各学校の短大廃止につながりました。

低迷する従来産業の中、景気が良いのは「出版社、音楽出版社、ゲーム関係、カテゴリーキラー系新商事会社」でした。昭和40年代の高度経済成長期から第三次産業構成人口は増えておりましたが、さらに仕事の無形サービス化が進んだきっかけとなった時期です。

就職状況が苦しいからといって、就職しないと食べていけません。結果、これまでいわゆるFランク大学卒業者しか雇えなかった会社に有名大学卒業者が、高卒者しか雇えなかった会社にはFランク大学卒業者が就職することになりました。当時の経営層は喜んだかもしれませんが、後年、「パワハラ問題」につながるきっかけとなりました。とはいえ、悪い点ばかりではありません。これまで「従業員が立っていれば済む」だとか、「レジや万引きの番」程度でしかなかった販売店員にも大卒者が携わることになり、「従業員のマナー」という概念が生まれました。でもまあ、学歴とサービス精神は、必ず直結するものではありませんがね。。。

就職の口は限られております。重厚長大産業の採用抑制が、結果としては就職できない学生が出てしまうことにつながります。学校を卒業する前から「就職できない」人生が目に見えてしまった学生から、勤労・就業意欲どころか、学習意欲まで低下し、いわゆる「ヤンキー文化」が生まれました。

ヤンキー文化は、ゲームセンターの不良化、音楽やカラオケ文化の隆盛などにつながり、「第二次ギャル文化」が起こりました。「出版社、音楽出版社、ゲーム産業」などの収益にはつながるかもしれませんが、日本の産業の国際的競争力や、後世の進化につながる企業の再投資にはつながりません。1996年は、若本氏して過ごしていれば「聞きやすいJ-POP」などで楽しめた時期でしょうが、後の世界への影響という意味では、ほとんど何もなかった時期といえます。

 1997年は、経済的に大変な時期となりました。これまで倒産しないといわれていた金融機関の倒産が発生したためです。都市銀行の北海道拓殖銀行の破綻、山一証券の自主廃業などです。私を含めて経済に疎い人ですと、「バブルが破綻して時間もたったこの時期になぜ倒産?」という感覚ですが、長期の貸付金が回収不能となったことが原因だったり、バブル崩壊直後から経営再建に力を注いだものの、ためておいた経営体力が尽きたのがこの時期、とのことです。もちろん、各民間企業も倒産が相次いておりました。日産自動車の経営が非常によくないことも報じられました。

このことは、さらなる消費マインド抑制に働いてしまいました。誰しも、「今の勤務先が倒産したら困るから、貯金をしておこう」となったのです。消費マインドが低下して伸びる経済はありません。結果、この時期は景気の三番底とでもいう年になりました。

経済的な側面以外は、前年の傾向を踏襲しています。しかし、携帯電話(PHSを含む)が急に伸びていきました。まだまだ業務的利用や若者の興味本位を出ていなかった時期でしたが、「待ち合わせを厳密に決めなくても済む」「緊急連絡に便利」の便利さは、何にも代えがたいです。戦争直後のドラマ「君の名は」は、登場人物のすれ違いがドラマになりましたが、多くの人はそんなドラマチックさよりも便利さを求めたのです。とはいえ、この時期の携帯電話はまだまだメッセージなどの送信は不可能で、「通話が個人間で行え」、「電話機のそばか否かを問わずいつでも外から電話が出来」、「呼び出しや応対をしなくても済む」ことに、便利さを感じていたにすぎないのに、この普及拡大です。

結果、1997年末は退廃的なマインドが多くの人に広まり、かつて「この不景気は景気の循環によるものだから」などという無責任な予測は吹き飛んでいました。そして、漠然とながら「この不景気は構造的なもので、抜け出すことは不可能、このまま続くのではないだろうか。日本は、すでに「英国病」と呼ばれていたイギリスのように国際的競争力を失っていくのではないか。」という気持ちが出てくるのでした。

音楽について
 この時期から、avex社の隆盛が目立っていきます。安室奈美恵の移籍から始まり、小室哲哉系音楽が一世を風靡した時期です。安室奈美恵だけでなく、trfや華原朋美、その他もろもろヒットを出せなかった人を含め、非小室哲哉系音楽が無くなるのではないか、と思ってのが1995年でした。1996年初にはglobeの「DEPARTURES」とZARDの「マイフレンド」が一騎打ち、前者の方が売り上げで勝ったことから、時代の変化を感じたものです。しかし、現在でも良さが光るのは、私は後者の作品の方だと思います。

1996年春になると相川七瀬が、夏には非小室系ながら多くの人は小室系だと思っていたEvery Little Thingがデビューし、少しずつ小室系は後退していきます。1997年になると、小室系のヒット作は明らかに減退し、非小室系の小室哲哉に影響を受けた系統に変化していきます。なお、1996年初めに安室奈美恵とスーパーモンキーズが分離、後者はMAXとなって再出発します。1996年後半から1997年はMAXが大ヒットを連発し、安室奈美恵は影が薄くなっていました。切り離しデビューは失策だった、と多くの人が思ったのでした。

1997年は、相川七瀬が若干後退し、Every~一色の年になりました。これまで歌手のファッションが普通の人に影響することはほとんどありませんでした。しかし、Every~の持田香織は、当時のファッションリーダーとすら言われました。細眉毛、若干茶髪、キャミソール、ブーツを合わせたギャルファッションです。安室奈美恵がavexに来る前にしていたファッションを踏襲していたことは確かですが、一般の人にも広めるきっかけを作ったのは彼女です。とはいえ、現在では当時の傾向を全部まとめて「アムラー」としてしまっています。

1997年春になると、浜崎あゆみがデビューをしています。当初は「なんだか意気地なしの人に向けたような、弱虫の曲」と感じさせるものでした。しかし、つんく氏と組んだ「TO BE」から少しずつ話題になるようになっていきます。そして年末の「Depend on you」ではTBS系カウントダウンTVのエンディングテーマに選別、そしてその曲を含むファーストアルバム「A SONG FOR XX(私の読みは、「エーソング フォー ダブルエックス」、実際は「エーソング フォー …」)」が女子高校生の話題に上がり、ミリオンセラーを記録しました。ミリオンセラーは当時珍しくありませんでしたが、これまでほとんど話題に上がることがなかった浜崎あゆみが、突然ミリオンセラーになったことに驚かされたのでした。しかいし、実際の大ヒット活動は翌1998年ですね。

そんなことで、各音楽出版社がカラオケで歌いやすく耳に良くなじむ曲の開発にいそしみ、音楽を聴いたりCDを購入したりすることが、ごくごく普通の行動になっていきました。

ゲームについて
 1987年頃の、ドラゴンクエストの流行以降、ゲームは多くの未成年の遊びとして普及していました。しかし、映像やストーリーから未成年の遊び以上にはならず、多くの人は高校卒業頃にゲーム遊びを卒業していました。

それが、1995年頃からソニーのプレイステーションが普及、より大きな子供や若年世代の大人でも遊べるような質のゲームになっていきました。1978年頃に、一時大学生などがインベーダーゲームに夢中になる時期がありましたが、一過性の傾向にすぎませんでした。それが、この頃をきっかけとして、大人にもテレビゲームをする傾向が起こってきました。

ファッションについて
 前の時代からジーンズカジュアルが再興していました。1996年頃になると、ストリートカジュアルが進んできます。「アメリカ製のボーイズサイズの服を、日本の大人が着るとちょうどよい」ということから、比較的体にぴったりしたり、場合によってはへそが出そうな裾丈のTシャツが普及しだしました。また、デザインとしてのカジュアル性から、サーフブランド(PIKOやQUICK SLIVERなど)のTシャツが急増しました。ジーンズの方も、色があせたものやダメージデニムが流行りだしました。

これらの傾向を受けて、郊外にも「ジーンズメイトやマルカワ」をはじめとした、ジーンズカジュアルショップが多数出来ました。シャツ1着2980円、デニム1本7980円ともなれば、ちょっとした出費でファッションを楽しめます。なお、ユニクロはこの時期でも「一回洗濯したら伸びるポロシャツ、安いだけで出材不在のジーンズ」を扱っており、いったい誰が行くのか不明なカジュアルファッションショップでした。

バブル期なら「ジーンズはお金がない人がはくもの、Tシャツはお金がない若者が着るもの」という感覚が薄れ、フォーマルファッションが後退しました。ファッションのカジュアル化は、上の通り1995年、1996年と進みました。1997年は反動があり、サテン素材でボタン式の襟付きシャツなどが流行りました。ナイキのエアマックスを中心とした機能性スニーカーが流行り、時計はGショックが流行りました。

このストリートカジュアル傾向は女性にも及びました。ショートパンツやミニスカートがある程度の違いで、レディースジーンズはまだまだ少数派でした。雑誌も、これまでティーンズ雑誌が担っていた女性カジュアルファッションですが、「zipper」などの専門誌も創刊されました。とはいえ、20歳代半ばの女性になると、休日でもストリートカジュアルは難しかったようです。普段着のセンスから、その女性の年齢が良く分かったものです。

当時のフォーマルファッションは、結局バブル期から変化が少なく、1996年頃までソフトスーツが残っていました。1997年頃になると現在も続く「紳士服の安売り店(青山、アオキなど)でも、悪くないじゃないか」という傾向が出始めました。

生活について
 「景気が悪く、生活の余裕度が低下した」からといって、休日に家にこもるというのは、いつの時代もできないのですね。バブル期には「毎年、道具やウェアを買い替える」とされていたスキーが低迷、スノーボードが導入され始めました。スノーボーダーがもたらす退廃的な雰囲気が、当時のストリートカジュアル、ストリートファッションともマッチし、不景気ながら大流行となりました。

また、仕事から解放されたかていのお父さんが、家族とバーベキューやキャンプを楽しむ、という傾向も出てきました。車も、これ以前は「セダンでないと、葬式に行けない」という価値観でしたが、自身の生活を重視するものへ変わっていきました。人によって異なりますが、クロスカントリー4WDのロングボデーだったり、ミニバンだったりします。当時は両者をひとくくりにして、「RV」と呼んでいました。ミニバンでも、キャンプやバーベキュー、スノーボードやスキーの道具を積んで走り、家族や仲間と行きついた場所で楽しむ車、という位置づけの側面がありました。その最右翼がマツダのボンゴフレンディでした。屋根を持ち上げると部屋になる、という点は、セダンにはない新しい生活をもたらしてくれると考えたのでしょう。しかし、実際のキャンプ場では、「開梱したテントの取扱説明書を読みながら、その場で組み立てるお父さんと、周囲でイライラしている家族」という風景もあったそうです。

そんなことで、キャンプやアウトドアをはじめとしたアウトドアブームは、1997年には下火になりました。その一方で、若年層のスノーボード人気は止まらず、若年者が購入する車は、ステーションワゴン車であることが普通となっていきました。ストリートファッション等の普及から、ストリートダンスをはじめとしたダンス、B系音楽も普及しました。音楽に合わせてボタンを押す「音ゲー」が大流行しました。登場するキャラクターの可愛さから、女の子がゲームの世界に参入してきました。

以上のことから、レジャーの多様化、ファッションのカジュアル化が進んでいきました。

女性について
 既に前の時期にいた「おやじギャル」は、消滅に向かっていきました。1995年ウィンドウズの普及をきっかけとしたオフィスへのパソコンの普及により、それまで「おじさんが書いた手書き原稿をワープロソフトで清書する」ためだけにいた女性や、FAXやコピーを使うためだけの女性は、自然減に合わせて数が減っていました。この頃から、営業職への女性の登用が始まりました。一般職枠で仕事がないなら、総合職枠でも挑戦しようとする人が出てきたためです。

また、現在とは違って、積極的に車の運転をしようとする女性がより多くいた(ような気がする)のも当時です。SM-Xの運転席に座り、助手席にはチャラ男を乗せている風景を見るようになったのも、この時期のことです。

アニメーションについて
 1989年の宮崎勉事件以降、すっかり「アニメーション=オタク」とされていましたが、久しぶりに多くの人が話題にする作品が出ました。「創世紀エヴァンゲリオン」と「ポケモン」です。実際に見ていた人は少数派でしたが、「オタク」という言葉の影が少し薄くなりました。パソコンの普及なども含め、後年につながる変化の始まりでした。

車について
 1995年は、E110系カローラが発売されました。明確にコストダウンが行われておりました。前年にV40系カムリ/ビスタで失敗しているのになぜ?という疑問が多くの人によぎりました。上に書いた通り、クロスカントリー4WD、ミニバン、ステーションワゴンをまとめた「RV」を選ぶ人が増えました。少し前に起った「背が低いハードトップの流行」は急速に終わりました。切り替えが急でしたので、1993年に発売された「カローラセレス、スプリンターマリノ」は、行き場がなくなってしまいました。

当初人気があったのは、オデッセイ、ステップワゴン、バネットセレナ、ラルゴ」などでした。トヨタはこの分野で完全に出遅れてしまっていたのでした。それが、1996年に発売されたイプサム、タウンエースノア、ライトエースノアから逆転が始まりました。

スバルはレガシィのワゴンモデルの流行が続いていました。中でもターボエンジン搭載モデルの人気が非常に高く、この分野での他車の追従は出遅れました。日産がアベニールサリュー、トヨタがカルディナ、マツダがカペラカーゴワゴン、ホンダがアコードワゴンで迎撃します。アベニールはレガシィよりも馬力が低い上にリヤサスペンションがリジッドと質が追い付いていませんでした。カルディナはハイパワーエンジンモデルの投入が遅れ、安物感覚が付きまといました。カペラは車が古く、唯一、アコードワゴンのみがアメリカンな雰囲気が受け入れられました。

1997年頃になると、ピックアップトラックの流行からステーションワゴンをアメリカンにカスタマイズする流行が始まりました。本家のアメリカ車もどんどん輸入され、カプリスなどが選ばれました。それを買えない人は、アベニールをスムージングして、カスタマイズ欲を満たしました。ノーマル派なら、アコードワゴンをローダウンして乗ったものでした。

ミニバンは上記の通り、ファミリーカーとしての販売が中心でした。これが、上記と同様、アストロやダッヂバンの輸入が行われ、無理をして大型ミニバンを購入、カスタマイズして乗る傾向が生まれました。

車の流行とは多分におしゃれとかかわる分野です。それまでスポーティークーペをローダウンしたりマフラーを交換したりし、「にわか走り屋」として普通に走っていた人を含め、皆、こぞってミニバンやステーションワゴンへと移行しました。走り屋ブームがファッション性を失い、田舎の趣味として独自の進化を始めたのもこの時期です。

まとめ
 この時期は、多くの人が経済の再生を忘れ、目の前の遊びにて時間をつぶした時期だったのかもしれません。マンガ出版社、音楽出版社、ゲームソフト会社の隆盛がそれを物語っています。

阪神大震災にオウム真理教事件と、国を揺るがす事件が発生、国政企業のアジア支社を日本には置かない、という傾向すら起こってきたそうです。この傾向に気づいたデベロッパーは、国に対して建築基準の緩和を要請し、次の時代へ続く高層オフィスビルの建設につながり、何とか今日の日本があるのとのことです。

また、世界の技術が製造業から情報系産業に移っているのにもかかわらず、1980年代末のNICS(ニックス)、NIES(ニーズ)騒動の時のように、「発展途上国がいくら進化しても、日本のモノづくり技術は世界一だから大丈夫だよ」という、根拠のない自信が、当時の日本人の世界を見る目を曇らせていたとも感じます。

貧すれば鈍するなどと、古語でまとめたくはありません。しかし、大企業の採用抑制-ヤンキー文化の隆盛-次の時代や国際的な見地など、広い視点から日本を見る特性の鈍化と感じずにはいられませんでした。

参考にしてほしい記事
序論
1期 昭和61(1986)年~平成4(1992)年 景気成長期
2期 平成4(1992)年~平成7(1995)年 景気後退第1期
Posted at 2020/01/03 23:15:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | ビジネス/学習
2019年02月12日 イイね!

センター試験の訂正に、常識はねつ造されると思う

 大学入試真っ盛りの季節ですね。私も試験を受けていた時期があり、合格するまで落ち着かない気持ちを味わったものです。ちょうどこの時期はKO大学を受けていた時期で、あまりの出来の悪さに「せめて駅まではトップで」と、走っていったのでした!?

さて、中でも「大学入試センター試験」は、試験問題も解答も公開され、選択科目間の得点調整や修正も公開されます。今年は得点調整はなく、試験問題に誤りがあったため、全員正解とする措置がとられました。その措置の内容に、私はこれまで生きて学校に通ってきたことをすべて否定されるかのような思いを感じました。

措置があった科目は「現代社会」です。主に工業・農業・水産高校など、特別なことを学ぶ高校から大学を目指す方のための社会科で、倫理政経から倫理の歴史と経済がなくなった内容と考えればよいでしょう。実は私も倫理分野がほとんど世界史で覚えにくかったことから、試験の場で急遽倫理政経から現代社会に切り替えたのでした。

 その現代社会の設問は、太平洋戦争前後の一般家庭に関する問題だったそうです。その問題では、「戦前は大家族で、戦後核家族化が進んだ」ということを答えさせるものでした。しかし実際の統計では、戦前から核家族化が進んでおり、特に太平洋戦争が関係していないことが明らかになっていたのでした。

私は社会学や生活科学の専門家ではないため、そういう分野は新聞や本で読んだことなどをそのまま知識として用いるだけです。積極的に自分で調べることはしませんし、ウラを取ることもしません。どこの誰から教わったか全く記憶にありませんが、漠然と「太平洋戦争前(いや、高度経済成長期かな?)は大家族、以降は核家族」と思い込んでいました。

気になってインターネットで調べてみましたら、すぐに「太平洋戦争以前から核家族は普通だった」(以後、説A)と出てきました。その一方で、設問のように「太平洋戦争(高度経済成長)以前は大家族、以後は核家族」(以後、説B)とするサイトも出てきました。

説Aを唱えるのは、主に人口構成を解説するだけのサイトでした。戦前は平均寿命が短く、孫が生まれる前に祖父母は亡くなっているか、孫が産まれてほどなく亡くなるために、三世帯同居である期間が物理的に短いと述べていました。

説Bを唱えるのは、社会関係ではなく幼児教育や道徳を説くサイトでした。「子供が産まれると祖父母から大切なことを教わり・・・」と、人口構成を述べるよりも枕詞的に引用する程度のものでした。

それどころか、バブル景気頃に人文学者がこうも言っていました。
「欧米ではハイスクールに進学すると家庭を出て、子供は独り立ちする。一方日本では、成人をしても子供は家庭に残り、精神的に成長しない。」
その時代、農地はどんどん宅地に転用され、近郊には多くのアパートが建設されるのでした。「御用聞き」学者だったのかね?

 思い返すと、説Bのように色々なことを証拠や証明なく、漠然と引用する話し方はごく普通に行われています。校長先生や上司の訓話、教科の先生が教科から脱線して話すこと、会合のあいさつ、学生の小論文、ブログやエッセイ、など、様々です。聞いている方も何となく納得しますし、話す方も話の導入として使いやすい、結局「証拠はないけれど、常識として広まっている」ことになります。

それが、大学入試問題を作成する人たちまで伝染し、設問が作られてしまったことに驚きを感じました。私が何となく知識として得ていることには、教科の先生がその教科について説明していたこともあれば、脱線話から得たこともあると思います。特に社会や人文に関わる項目は、教科外の先生でも何となく語れてしまうので、「うそ」「間違い」「誇張」もあったことでしょう。

過去に教わったことはもちろん、格言やことわざまで、すべて検証をしてから考えとして導入しなければならない、と、過去の棚卸を改めて決意するのでした。
Posted at 2019/02/12 23:00:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | ビジネス/学習
2018年10月06日 イイね!

平成30年期 第2期 平成4-平成7年

 平成4(1992)年下半期になり、景気が下降気味になっていきました。ただし当時の人々は、「景気循環の上下に関わる下降」だと考えていました。「3年から長くても5年経過すればまた景気は良くなるさ」と、楽観的に考える向きもありました。いつの時代でも「好景気はお金持ちから、不景気は庶民から」来るものです。不景気は庶民のみで、お金持ちはお金を貯め込んでいると思われていました。

しかし、「お金を使う競争」や「見栄の張り合い」の様相を呈していた好景気でしたので、「消費疲れ」もありました。生活を取り巻く状況も、徐々に変わっていきました。

概況
 平成4(1992)年下半期は徐々に経済が後退している、という程度の状況でした。銀行は土地取得のための融資を制限され、回収が見込めない融資はせず、これまでの融資についても回収を始めました。土地や株、美術骨董品などを転売しながら利益を稼いでいたにわか富裕層は、それらのものを転売できなくなったために利益を得るどころか、買い手がつかずに転売できなくなりました。

一方、庶民の方はもともと現金しか持っていませんでしたので、それほど大きな被害はありませんでした。しかし、不景気が始まってしばらくした平成5(1993)年頃になってくると、給料が上がらなくなったりするどころか、会社がなくなるような人も現れました。

平成5(1993)年夏は、冷夏でした。一般的に関東地方で梅雨が明ける7月20日ころになっても、曇や小雨模様が続き、「ちょっと蒸し暑い」程度でした。東北地方に至っては「夏でも肌寒い」ほどで、秋の収穫に大きく影響しました。気温が上がりませんと、いわゆる夏物需要が低下します。夏物衣料、エアコン、ビールや清涼飲料水といった、一般消費が低迷しました。小売の低迷は、卸はもちろん、原料の販売にも影響し、最終的には経済にも影響します。

暑すぎる夏も、寒い夏も、どちらも不景気になるものです。この頃になると人手不足感がほとんどなくなりました。前年までのアルバイト情報誌は、「週二回刊行、それぞれ厚みは2cm」にもなろうかとしていました。しかし平成5(1993)年は「仕事は正社員で補うか、長期にわたって勤務している既存アルバイト」で補えるようになったためか、アルバイト情報誌厚さは、5mm程度になってしまうほどでした。なおバブル期は、アルバイトを続けるだけで十分生活出来たために、給料が良く責任が問われないアルバイトを続けたり、転々とする人が多数いたのです。この「フリーアルバイター」たちの存在が、後の派遣社員問題などへとつながっていくのです。

米の流通量は、それほど冷夏でもなかった西日本の新米が出回る秋はそれほど不足感はありませんでした。しかし、東日本の新米が出回る晩秋から流通量が減少したようです。翌平成6(1994)年は、年初から米を買うために多くの人が販売店に列をなしました。戦後の食料混乱期ではあるまいし、米を買うために人が列を作る風景は、多くの人に「不景気感、終末思想」を与えるもとになりました。

平成6(1994)年は、不景気が一般的になってしまいました。下げ止まり感はありましたので、「このまま不景気が進行して、世の中はどうなってしまうのだろう」という不安は、改善こそされませんが、底なし沼感はなくなりました。もちろん、「景気循環による不景気だから、あと2・3年もすればまた良くなる」と、希望を持つ人は多数いました。

「清貧・我慢」など消費を抑える行動が生まれ、既存のサービを値下げして提供する「価格破壊」が生まれました。国際電話の値下げも行われ、KDDでは西田敏行氏に「安いが一番」と言わせるCMを作成、価格の低下が起こった年でもありました。既存の百貨店等が売り上げを落とす一方で、単一商品だけを扱って価格を下げる「カテゴリーキラー」などの業態に注目が集まりました。酒やパソコンなどの販売店が注目されましたが、これも一時の現象にとどまり、1年程度しかもたなかった会社も出てきました。

平成7(1995)年になると、年初の「阪神・淡路大震災」、3月の「オウム真理教地下鉄サリン事件」などが発生し、人々の気分を暗くさせました。大卒者の就職状況も悪化し、「就職氷河期」と例えられました。世の中の雰囲気は前年の期待とは裏腹に、どんどん悪化するのでした。これ以降を「景気の二番底」とするために、時代を分けることにしました。

高度経済成長期を担った層について
 この時期、本来は”再構築”を意味していた言葉の「リストラクチャリング」が、そのまま「会社の社員首切り」に当てられるようになりました。前の時代に、多くの企業が副業としてゴルフクラブを運営したり経営に参画していたり、レジャー施設を築いたりと、本業とは無関係な事業を推進していました。それらの施設の利用率が低下すると、当然その業務についていた人もいらなくなってしまいます。「時代は遊び」と言っていた人などです。

加えて、第一次オイルショックに伴う狂乱物価の時代は意外にも短く、その前の高度経済成長期もそのあとの低成長期も、結局「何もしなくても需要があって売れた」時期と言えました。「黙って座っている、または、部下を飲みに誘うか顧客を接待するのが上司の仕事」でした。しかし、そんなことでこの時期の不況は乗り切れませんでした。結果、そんな「鎮座上司」たちは、どんどん人をやめさせたり、新規採用を抑制したり、コストダウンをするなど、その場しのぎの策しか出来なかったのです。

当時、職業安定所に訪れた中年男性は、職業安定所の職員に「あなたは何ができますか?」と聞かれて、「部長の仕事ならできます。」と答えたそうです。「何もせず、部下が持ってきたことを良い悪いと言うだけ」だったのですね。

結果、当時の中年層を見る目は著しく低下しました。加えて、女子中高生の被服を中古販売する店に行く中年男性などがピックアップされ、「背広の人は汚らしい」という評価さえ出てしまったのでした。

後述する「家なき子」では、所謂「ワル」が警察署長に正論を説くシーンがあります。「背広組は大したことがない」、「少し悪い雰囲気くらいの人間のほうが正しい」などとする傾向が現れ、以後、20年近く「ちょいワル推奨」期が起こってしまうのでした。

いわゆる「バブル女象について」
 今でもテレビドラマの回想シーンなどでは、バブル期について「トサカ前髪、蛍光色ないしは原色のボディコンワンピースの女が、センスを振り回してお立ち台に立つ」姿が描かれています。このような人たちはバブル期にもいましたが、注目されたのはこの時期でした。「イケイケ」とも呼ばれていましたね。フジテレビでは子供向け番組に、この「イケイケ」を誤英語化、逆語化して「ウゴウゴルーガ」と名づけて番組にしました。

彼女たちは、「オトコたちは不景気らしいけれど、こうやって踊って不景気を吹き飛ばすんだ!」としていました。しかし、遊ぶ金は結局給料です。これらの人たちがついていた、「一般職」は自然減と派遣ないしはアルバイト、アウトソース化され、一般職自体が徐々に消滅していきました。そもそも「不景気」は物理的な霧ではありませんので、吹き飛ばしたりするものではありませんでしたね。

嗜好や娯楽に関わる変化
 この前の時代は、「いかにお金を使うか」ということにかかっていました。もちろん、この前の時代では給料が良くてもお金を使う暇がなく、レジャーが出来るときにたっぷりお金を使うしかなかった、という理由があります。中でもスキーは、スキーウェアや道具を毎年買い換えて自慢したり、アフタースキーのためのスキーでしたので、徐々に衰退していきました。

音楽について
 この前の時代は、音楽を聞くことは主に高校生までの娯楽でした。平成3年までのロックバンドブームは、その代表格です。

平成4(1992)年の夏、テレビ朝日系深夜番組「トゥナイト」のエンディングテーマに、ZARDの「眠れない夜を抱いて」が選ばれました。秋には三井生命のCMでWANDSの「もっと君を抱きしめたら」が、東洋水産の「マルちゃん ホットヌードル」のCMには、大黒摩季の「DA・KA・RA」が選ばれました。いずれの歌手等も知名度が低い上に曲は多くの人が耳にし、「聞きたい曲」になりました。

既にカラオケはありましたが、オジさんが酔ってスナックや温泉旅館で使うものでした。非ロック系の歌いやすい曲が出てくることでカラオケブーム、聞いたり練習したりするためのCD販売量が増大しました。仲間で集まって居酒屋に行き、そのあとはカラオケボックスで歌をうたうような「お金がかからない遊び」が徐々に主力になっていきました。

さらに、エンターテインメントビジネスが十分に成立することがわかり、不景気の時代になりましたが、以後10年間程度大きな収益を上げることにつながりました。

私の時代区分(平成4年下半期~平成7年)では、この期間はほとんど「Bing」系という人たちが占拠した時代でした。WANDS、T-BOLAN、ZYYG、REV、ZARD、大黒摩季、MANISHなどです。いずれも「うまい」と思わせる仕上がり、キャッチーなメロディ、歌いやすい曲調などと、多くの人に受け入れられそうな条件を満たしていたのです。

被服について
 こちらも他のレジャーと同様、いかにお金をかけたか、という点で「他人に自慢をする要素」になっていました。昭和61年以前は、20歳前後の男性服というと、それこそスタジャンにジーンズなど、おしゃれも何もありませんでした。

そもそも「カジュアルウェア」の概念がありませんでしたので、お金はフォーマルファッションに注ぎ込まれていきます。男性は海外ブランド(アルマーニ)などのソフトスーツが主力となり、女性は「保護者参観日にお母さんが来ていくような服」から、「スーツ」に変化していったのです。

 ところが、平成4(1992)年はそれほどではありませんでしたが、平成5(1993)年頃になると、お金がかからないカジュアルウェアにシフトされていきます。この年は、「「白いポロシャツに、ブルーデニム」程度で、夏の若者らしいおしゃれでさわやかな服」とされました。今や、どちらもおしゃれでも何でもない服ですよね。

いくら不景気だからといっても、その時代や状況に合わせて楽しみを見つけていくのが、一般庶民です。平成6(1994)年になると、街中に「カジュアルジーンズショップ」が現れます。「ジーンズメイト」などがその代表格です。ブルーデニムを基本に、Tシャツなどのカジュアルウェアを販売する店舗です。

着る方もいろいろ工夫をして、日常生活を楽しくしようとします。この年には、
「古いアディダス等のジャージをタウンウェアにする」ことや、
「米国のボーイズサイズの小さめのTシャツを、やや肌にぴったりさせた感じで着る」着かた、
「上のパンツ(ズボン)を下ろし気味に履き、下のパンツ(下着)のブランドを見せる」履きかた
などが現れました。いずれも平成4(1992)年頃では、全く想像すらつかなかった服の着かたでした。服の着かたは、基本的にドレスダウン方向に進んでいきます。これ以後、ドレスアップをするおしゃれは、しばらく出てこなくなります。

テレビについて
 テレビドラマの上では、平成4(1992)年下半期から少しずつ変わっていきました。既に所謂トレンディドラマは減少しており、各社とも次を探っていました。そんな中、フジテレビではこの少し前に「もう誰も愛さない」という、吉田栄作主演のドラマを放送していました。主人公は周囲の人に翻弄され、最後は誰かを殺害するか殺害されるかする作品でした。

そしてこの期は、TBSが「ずっとあなたが好きだった」を放送します。佐野史郎氏の怪演が話題になった作品です。放送当初はよくある家庭ドロドロ物語と思う人多数で大した視聴率は得られませんでした。しかし、途中から佐野史郎氏のマザコンぶりを強調した演技が話題になりました。恋愛モノ作品ではなかったため、これまでイヤイヤ恋愛モノトレンディドラマを見ていた男性も抵抗なく受け入れられ、「ドラマを共通の話題にしてお喋りを楽しむ」風潮が生まれました。

なお、所謂トレンディドラマの頃は、実際には「テレビを見るために早く帰宅する」ことははばかられました。結局のところ、テレビを見る娯楽は、お年寄りと子供と早く帰れる地元就職者のためのものだったのです。「東京ラブストーリー」が流行し、「街からOLが消え」たのは、テレビを若者の娯楽としても良い事実を作っていたのです。

 「ずっとあなたが好きだった」以降、怪演や怪設定を売りにした作品が続きます。正編の「誰にも言えない」をはじめとして、「悪魔のKiss」、「高校教師」などが放送されました。不景気と相まって「登場人物たちが楽しそうに恋愛をしたり遊んだりしている」作品は忌み嫌われ、苦労をしたり数奇な運命をたどったりする作品が注目されるようになりました。

平成6(1994)年になると、野島伸司作品が注目されます。安達祐実主演「家なき子」は、童話の家なき子を現代的にオマージュし、主人公の”すず”が、犬の”リュウ”とともに、いろいろな家庭をたらい回しにされる作品です。すずは母親を救うために靴磨きの仕事をしています。戦争直後ならまだしも、「平成の世の中になって靴磨きか!」と、人々の郷愁と同情を買いました。荒唐無稽な状況設定ながら、ドラマチックな展開が見所でした。以後も、柴門ふみ風の群像もの「愛という名のもとに」、「人間・失格」、「聖者の行進」と続きます。

ドラマが野島伸司原作作品一色になったわけではありません。フジテレビでは、恋愛モノ作品の視聴者年齢層がやや上がったことを危惧し、「ボクたちのドラマシリーズ」を放送、松雪泰子主演の「白鳥麗子でございます」などが放送されました。TBSでも、「毎度お騒がせします」というよりは「寺内貫太郎一家」を思わせる「毎度ゴメンなさぁい」と「毎度おジャマしまぁす」が放送されました。

トレンディドラマをこの時代流に変更した作品もありました。「29歳のクリスマス」は、主人公たちが住む家を畳張りと黒電話として庶民の実生活に近づけたとしました。柴門ふみ原作作品も健在で「あすなろ白書」が、また、柴門ふみ調の作品も、各脚本家に寄って作られました。代表格は「君といた夏」です。

クルマ
 この時期になると、高級車の売れ行きが急減速します。代わって、比較的お金がかからないキャンプやバーベキュー、釣りといった屋外系レジャーをする人が増えたからか、RV車の売れ行きが伸びます。RV車とは非常に大きな括りで、含まれるのは「車高が高い4WD車≒クロスカントリー4WD」、「セダンの派生車種であるステーションワゴン」、「いわゆる現代のミニバンの元祖」全てです。特に「デリカスペースギア」や「レガシィ」「アコード」のワゴン、「RAV4」や「オデッセイ」が好調で、多くの車がレジャー色を強調していました。

その一方で、にわかレジャーの人も多数いて、「テントを買って、キャンプ場に来て初めて開封して組み立てられないお父さん」や、「キャンプ場に来たは良いけれど、風呂はないは虫はいるはで、二度と来ない子女」など、ブームはこの時期だけになってしまいました。しかし、その後にも続くステーションワゴンやミニバンの一般化の基礎を作ったのは、この時代でした。

一方、この前の時代にハイパワースポーツクーペに乗って走りを楽しんでいた人は、ランサーやインプレッサのハイパワーモデルに乗る傾向も出てきました。前の時代に多数いたことになっている「車に関心がある若者」は、この時代で「車をレジャーなどの道具に使う人」と「ハイパワー車に乗り続ける人」に二分化しました。

これ以外の車は、この時期に急につまらなく、地味になっていきます。「コストダウン」と「安いが一番」が幅をきかせていたのです。簡素で何もなくなってしまった「カムリ・ビスタ」や「カローラⅡ、ターセル、コルサ」と「ファミリア」、「ブルーバード・プリメーラ」など、技術的な進歩や魅力的なイメージをかなぐり捨て、旧型よりもコストを下げて利益を減らすまいとする、メーカーの事情が現れた車が多数を占めるようになりました。車の「白物家電化」論が出始めていました。

環境問題
 日本の経済不況とは全く無関係に、それでいて同時期に始まったのが、「環境問題」です。これまた環境問題とは無関係に、前の時代には湾岸戦争が勃発し、原油にまみれた海鳥の姿が度々放送されたのでした。

高度成長期の「公害問題」は、排出者が特定企業、被害者が限られた地域、法規制等の未整備による「垂れ流し」問題と、人口が短い期間に年に集中したために、道路やゴミ・し尿の処理が追いつかないこと、養鶏/養豚場・工場の近くに宅地が出来たことなどの「生活に関わる問題」の二つが主体でした。

この時期の環境問題は、今でも続いている二酸化炭素の排出問題と、冷房装置や集積回路工場から排出されるフロンガスによるオゾン層問題の二つが中心でした。この問題は、多くの人に「エネルギーを利用して贅沢を味わう」ことが悪いことであるように印象づけるのに十分であり、経済活動の萎縮につながりました。

その他レジャー
 既にこの時期には「TOKYOウォーカー」誌はありました。が、前の時代では「いかにお金を使って高級レストランに行くか」が重要であったために、街のお店、特にラーメンなどを食べ歩くなどというのは、変わった趣味と言えました。「アイドルはトイレに行かない」などという言葉がありますが、「女性はパスタ以外の麺類は食べない」のではないか、とすら思える程でした。

確か「TOKYOウォーカー」誌がラーメン店特集をした結果、「美味しいラーメン屋に行って並んで食べる」ことがレジャーの一つになりました。東京都内の環状7号線という道路には夜中にしか営業しないラーメン店があり、「車で行って路上駐車をして並んで食べる」ことがデートのひとつともなりました。

まとめ
 この時期では、前の時代に築かれた文化がことごとく否定されました。お金を使って高級レストランに行くことも、毎シーズンスキーウェアや道具を買い換えることも、貯金をして無理して高級車や外車、スーツを買うことなどです。

加えて、趣味の多様化が認められるようになりました。前述の「ラーメンを食べに行く」ことのほか、アニメーションや鉄道、モータースポーツ参戦や星の観察など、これまで他の人に知られることを避けたようなことも、まだ歓迎こそされませんでしたが、「していても悪くない趣味」と扱われるようになってきました。

文化の変化により、時代の急変を当時も感じました。歴史上でも、壬辰の乱や応仁の乱、関ヶ原の戦いなど、その前後で大きく時代背景が変わった出来事はありますが、ちょうどそのような雰囲気です。経済的には決して良いとは言えない時期でしたが、この時期以後は「生きていて楽」と感じるようになったのも事実です。

この時期は、経済番組等では「株価と土地価格の下落により、急激に経済が悪化、失われた20または30年の始まり」とされる時期です。しかし、生活をする上では「色々な選択肢を選べるように」なり始めた時期で、旧態依然とした取引の仕組みや「こうあるべき」論が崩れた時期でした。

同じ平成時代とは言っても、平成3(1991)年と平成8(1996)年との間は、文化的には大きは隔たりを感じる時期なのでした。
Posted at 2018/10/07 13:34:22 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | ビジネス/学習
2018年10月02日 イイね!

平成30年期 第1期 昭和61-平成4年

経済的事情

 昭和61年は、日本または私をゆるがす、大変な出来事が起こりました。これまで日本の社会科の教科書では、「日本は材料を外国から輸入し、製品に加工して輸出をして外貨を得る、「加工貿易国」である。」と記していました。

特に家電製品や自動車は安くて品質が高く、多くの国の人に受け入れられていました。そのため、特にアメリカとは貿易摩擦を起こしていました。「日本はアメリカに自動車や家電製品を輸出するばかりで不公平だ。」とするものです。昭和50年代後半のニュース番組では、アメリカの工場労働者が日本製品を破壊するデモ行動が度々報道されていました。

アメリカはアメリカ製品を日本に買わせるために、まずは牛肉とオレンジ(みかん)の輸入を自由化させます。また、日本の輸出力を低下させるために、円高基調の政策を取ることが「プラザ合意」で決定されます。

これには、私を含めた多くの人が驚嘆しました。日本製品の輸出が出来なくなると、日本の国力が低下、結果として原材料を輸入することも出来なくなり、日本が高度経済成長で得た競争力を全て失うことを想像していました。

 国内の状況では、既に電電公社と専売公社が、それぞれNTTと日本たばこ産業へと民営化が終わっていましたが、さらに国鉄が昭和62年に民営化されます。戦後の体制の象徴であった官営事業がなくなり、戦後体制が遠くなったことを感じさせていました。

昭和時代はまだ続いていましたが、なぜか昭和の終わりを感じさせる気分になっていました。

海外旅行の一般化と自虐文化、トレンディドラマの設定

 しかし、一般の人の生活は少し違っていました。円高になると、海外旅行の費用が低下します。これまで海外旅行というと、芸能人がお正月に行くか、テレビのクイズ番組で賞品を取るくらいでしか行けなかったものでした。

これに目をつけたのが、短大・4大生です。高校までは「修学旅行」がありますが、短大・4大にはありません。就職すると旅行など行けない位の休みしか取れない時代でした。そこで、「卒業までにアルバイトでお金を貯めるか親からお金を借り、2-3月に友人と連れ立って海外旅行に行く様子が報道されました。

既に、「日本人の住居はウサギ小屋」と、日本のローカルさと生活の質の貧しさを自虐的に語る論がありましたが、多くの人がこれに同調することになりました。加えて、一般の人よりも海外旅行に行く機会が多かった芸能人、とくにお笑い系の人たちが、こぞって「トーク番組」に出演、海外から見ると日本が特殊であることを語る番組を作り出しました。

しかし、実際に昭和40年代に農業が機械化された上に、もともと収益が低い傾向が出ていました。もともと農家では、労働力を得るために、たくさんの子供(男の子)をもうける傾向にありました。作業が機械化されたために、「口減らし」をし、長男以外は大都市に働きに出るたのでした。それらの方が住んだのが、「団地」でした。団地は親2人子2人が基本的な家族として設計されていましたが、子供が大きくなると手狭になったのでした。そこに成長した男女の子が住むのはよろしくないとなりました。

米国では、ハイスクールに進学すると子供は家を出て寮(?)で一人暮らしをすると伝えられました。農家等を含めて、成長した子と親が同居するのは、「子供が精神的に成長していない証拠だ。」ともっともらしい説が作られ、アパート一人暮らしをさせることが当然であるかのような傾向が現れました。ちなみに、1989年に放送された「オイシーのが好き」では、主人公の水島由樹(演.松下由樹)は、「短大に行ったのだから4大に行くよりもお金が掛かっていないので、その分だけ親から仕送りを受けて、千葉県松戸市六実で一人暮らしをしています。また、その後のトレンディドラマの主人公たちも、皆、都心からそれほど離れていない地域で一人暮らしをし、親兄弟の描写は一切行われていません。

昭和天皇の老化と長寿番組の終了と芸能人の死去

 この頃になると、一般参賀に出てくる昭和天皇の動きが急に遅くなり、病気ではなかったものの多くの人は、「昭和天皇は、もうあまり長くないかもしれない」と思うのでした。具体的に容態が悪化したのは昭和62年からのことです。

昭和61年には石原裕次郎も健康上のことから「太陽にほえろ!」を降板し、同番組は翌年放送を終了します。また、石原氏は昭和62年に亡くなります。同年には、美空ひばりも亡くなります。

これらの状況から、「昭和の雰囲気を持った番組や人は古い」という風潮となり、正反対の雰囲気を持った「トレンディドラマ」へと移行していくのです。余談ですが、「太陽にほえろ!」の後番組である「ジャングル」では、登場人物の一人の刑事が、「俺の生きがいは仕事だけじゃないんでね」と、定時退署する風景が描かれています。

奨励される消費

 高度経済成長の頃には、廃棄物などによる公害が蔓延していました。第一次オイルショックになると、消費文化を見直す風潮が出てきました。この傾向は昭和50年代末頃まで続いており、その後も決して「消費は美徳」とはされませんでした。

しかし、輸出が落ち込むことが予想される事態になり、「消費することは日本を救う」という大義名分が出来ました。昭和50年代は贅沢品であった、「ルームエアコン、高級CDラジカセ、パソコン、電子レンジ、ビデオデッキ、オートマチックトランスミッション車」などが、急激に普及していきました。

もちろん、海外旅行もどんどん推奨されていきまいした。「海外旅行に行かない人間は、見識が狭い。」とする風潮すら、生まれました。

結果、テレビには新しい生活を煽るような情報バラエティ番組がたくさん現れ、芸能人は「ドラマやコントの出演者」から、新しい生活を一般の人に伝達する人」という位置づけに変わっていきました。

 これを象徴するのは、昭和61年の「DCブランドブーム」です。それまでもブランド物はありましたし、服の流行はありました。しかし、今になって写真を見ると、きれいなモデルさん達に対して、街を行く人は、どうにも「コーディネート」や「デザイン」が不在の服しか着ていませんでした。また、当時の女子中高生などは、タレントショップで売られているピンクや可愛らしいものを着るだけ、20歳を超えると、おばさんっぽい服しか着られない時代だったのでした。

これが、西武百貨店やパルコ、丸井といったお店で「新たに登場したブランドの、生活観なき服」を買う傾向が現れました。昭和62年の初売りというと、このブランドのバーゲン品を買う若者が列をなしたのでした。余談ですが、店員である「ハウスマヌカン」は給与水準が低く、鮭弁当しか食べられないさまを歌う「夜霧のハウスマヌカン」という歌まで現れました。

消費傾向は、昭和62年のブラックマンデーをも跳ねのける勢いで拡大していきます。国内消費が堅調であることを受け、当初はアメリカでしか発売しないことにしていた、トヨタセルシオや日産インフィニティQ45などは、日本国内への導入が決まりました。

子供にも消費拡大が行き渡ります。これまで一部の子供しか買ってもらえなかった「家庭用ゲーム機」は、ねだらずとも親や祖父母が子・孫に買い与えることが当然になりました。ゲーム機のソフトウェアを買うために発売前日から列ができたのは、昭和63年初春のことでした。

さらに、DCブランドと子供消費拡大が影響したのか、制服をモデルチェンジする私立学校が現れました。一時街にあふれ、最近見かけなくなった「ブレザーにリボン、折り目がたくさん入ったミニスカートにハイソックス」をテーマに、各学校は相次いでモデルチェンジしました。おそらく、百貨店等が売り込んだのでしょう。何せ、制服をモデルチェンジしただけで「あの制服を着たい」と受験生が増加、偏差値も10も上がったのですから、学校経営という点では経営者が注力するのも当然です。そして、「東京制服大図鑑」という本が発行され、受験生の女子、年頃の男性中高生などが購入したようです。

女子高生ブームが訪れました。「おニャン子クラブ」だけでなく、「国民美少女コンテスト」入賞者が芸能界デビューし、学園ドラマに主演をしました。何しろ第二次ベビーブーム世代でしたので、需要もバカになりません。お菓子メーカーや化粧品メーカー、全く関係ない製品のメーカーなどが、女子高校生を集めてはものを食べさせたり見せたりして自由に意見を言わせ、マーケティングの材料とされることがされていたようです。余談ですが、男子中高生、「イケメン」という言葉もなかったので、ゴミ扱いでした。女子中高生は、働く女性や女子大生だけでなく、成人男性の交際対象となっていったのです。なお、これは性的犯罪につながる類のこととしてではありません。高校、中学等には、下校時間になるとスポーツクーペに乗った男性が、送迎兼デートのために列をなした模様です。

一人暮らしで比較的収入が高い仕事に就き、消費マインドが旺盛で結婚しいない者を「独身貴族」から「ヤンエグ(ヤングエグゼクティブ)」と呼び、企業はこれらの人を主たる消費者として捉えるようなマーケティングを行いました。さらに、結婚をしても子供を設けない「DINKS(ディンクス、ダブルインカム、ノーキッズ)」がおしゃれだとされたり、そもそも結婚をすることがおしゃれでないとするような風潮を作った雑誌もありました。

生産活動の変化と、”遊び”の推奨

 これまでの「加工貿易」では、それこそ勤勉に生産活動に邁進することが推奨されました。年上や上司の言うことを忠実に守り、その通りにすることが良いことである、とされました。そのため、遊ぶことは「悪」との見方がありました。ただし、昭和20年代後半には、”生産性を上げるためには、適度な休暇と気分転換が望ましい”とされ、近距離旅行が推奨されていました。

一方、アジア新興国の工業化が始まり、白物家電を中心に販売が始まりました。それらの生産国は「NICS(ニックス)、のちにNIES(ニーズ)」と呼ばれました。車でも、韓国の起亜グループを中心にはじまり、日本にも一時導入されました。

経済誌などは、「日本の産業がNICS(NIES)にやられてしまう」と騒ぎ立てましたが、日本メーカーは「NICS製品は作りが悪く、日本メーカーならではの”細やかな作り”の前では敵ではない」と述べました。実際にNICS製品は作りが悪く、安いことは安いのですが、わざわざ安く買う価値はないように感じました。後年、韓国のLGや中国のハイアールに攻め込まれることなど、誰も予想しませんでした。

思えば、米国の製品を追いやった日本の製品も、「細やかな作り」が評価されていました。この「細やかな作り」が、いわば元寇における”神風”となってしまい、日本メーカーの方向を誤らせたのでしょう。

話を元に戻しますが、経済摩擦では「日本人は勤勉なだけで消費しない」ことが槍玉に挙げられていました。また、前述のNICS製品との差別化を図るために、「より高級化した製品の登場」が要求されました。そのためには、作る人が「高級」を知り、「遊び感覚を身に付ける」ことが課題であるとされました。

それまでほとんどの人は、大人になると「趣味、酒・タバコ」となっていました。「運動するのは学生!、趣味があるのはまだ子供の証拠」と、勝手な格言が出来上がっていました。そんな当時の大人に「遊べ」といったところで、手段がありませんでした。

これまで、鉄道企業グループが伊豆半島方面や長野方面のリゾート開発をしており、最初にスキーブームが始まり、やや遅れてマリンスポーツが流行るように仕向けられました。スキーならウェアは毎年買い替えなどと、若者や富裕層は贅沢を楽しんでいましたが、マリンスポーツは実際にはやったとは言えず、好景気期を逃してしまいました。

モータースポーツについても推奨はされました。1987年のF1日本開催でモータースポーツ観戦が、タイヤメーカー等主催で、初心者向け参加型モータースポーツイベントが行われましたが、裾野は全く広がりませんでした。

なぜか職場でも遊びが推奨

 コンプライアンスという言葉を経験した現在では考えられないことですが、当時は勤勉の否定から”職場にもっと遊び感覚を導入しよう”という動きが始まりました。といって仕事中にゲームやおもちゃで遊ぶことではなく、従業員同士のおしゃべりなども「職場の潤滑油」とされました。

加えて、前述のようにテレビではお笑いタレントが口芸で周囲を笑わせており、「そのようにふざけてしゃべることが良いこと」という風潮すら生まれ、同時に関西的なおしゃべりが面白いおしゃべり法であるとされました。素人がいきなり面白い事を話すことはできません。結果、「他人を嘲り笑うトーク」や、「いわゆる性的な話題」が現れました。後者については、昭和60年初に放送された「毎度お騒がせします」を発端とする性的用語の是非論から、「包み隠すことが悪であり、正しく、表に出すことが良い」となり、テレビ番組を含めて性的表現が解禁ムードとなっていたのです。

結果として、嘲笑的笑いを含む会話は「職場いじめ」や「パワーハラスメント」の、性的表現を含む会話は「セクシュアル・ハラスメント」や”LGBTへの差別」につながっていったのです。

余談ですが、関西ムードの導入も同時に起こりました。”関西で商業が発展したのは、お客による値引き交渉が日常的に行われているからだ。”とされました。これも紆余曲折を経て、後年の「サービス業者への過大な要求」問題へとつながっていったのです。

昭和天皇の健康に配慮

 昭和62年から体調を崩していた天皇でしたが、手術を受けたものの昭和63年になると、吐血や下血を繰り返すようになりました。毎時0分になると、テレビのテロップで「天皇陛下の容態」として、体温などが表示されていました。

消費マインドは継続していたのですが、昭和63年夏になると「なんとなくお祭り騒ぎや大騒ぎは控えなくてはならない」ような風潮が出てきました。私の家の方でも、夏祭りが中止になりました。有名なところでは、日産セフィーロのCMで井上陽水氏が「お元気ですか?」と言うセリフ音が消されてしまうことがありました。

この傾向は全国・全世代で行われました。せっかく日本を救うべく盛り上がってきた消費動向が、天皇陛下の容態に引きずられて終わってしまうのはもったいない、とする議論をする人もいましたが、政治・思想的配慮から、すぐに消されました。

昭和天皇崩御、大喪の礼後の好景気

 昭和64年1月に天皇が崩御しました。消費を控える風潮は翌2月の大喪の礼まで続きました。しかし、テレビ番組が皇室関係ばかりになった結果、これを見たくない人が多数発生、ビデオデッキの購入とビデオレンタル店の大流行が起こりました。これまでもビデオデッキは普及が始まっていましたが、大半の人は録画した番組を見るために利用していました。また、もう少し後になるまでビデオソフトの価格は、非常に高額でした。30分1本のアニメーションが4本程度収録された作品は、現代なら1000円くらいではないでしょうか?当時は、約1万9千円もしました。前述の海外の風潮の導入もあって、アメリカで長椅子に寝そべり、ポテトチップを食べながらビデオソフトを鑑賞する「カウチポテト族」の傾向が現れました。

平成元年の春頃になると、これまで我慢していた消費が一気に元に戻りました。音楽の上でも「平成いかすバンド天国(イカ天)」が始まりました。前年の暗い風潮を忘れたい人が多かったのでしょう。私は見ていなかったのですが、プリンセスプリンセスやリンドバーグ、ジッタリンジンに”たま”などが現れました。

テレビ番組は、やや不思議な傾向が現れました。既に昔のテレビ番組をダイジェストで放送して出演者が語り合う「懐かしのテレビアニメ・番組」企画特番や、レギュラーの「テレビ探偵団」などがありましたが、昭和時代の番組をリバイバルする傾向が出てきました。昭和末期には「ひみつのアッコちゃん」が、平成になってからは「平成天才バカボン」に「おそ松くん」など、赤塚不二夫氏作品が復活します。

トレンディドラマの起源等はまた別のブログにしますが、消費動向拡大期の昭和61年に始まり、平成初期に急拡大します。その初期には、高校生を対象としたお色気恋愛ものが中心でしたが、高校生の可処分所得などたかが知れています。また、既婚層も可処分所得が限られていますし、当時はまだ「嫁」となる人も多数いました。そこで、未婚かつ給与水準が高く消費マインドが高い「20歳代」を中心として据えられ、お色気と上司と不倫等の大人の恋愛事情も廃した、「若者だけで世の中が成り立っているかのような、所謂トレンディドラマ」が出来たものと推察されます。

加えて、昭和41年は「丙午(ひのえうま)」と呼ばれ、この年に産まれた女性は男性を食い殺すという言い伝えがありました。そのため、昭和41年だけ出生数が少なくなっています。出生が控えられたためでしょうが、もしかしたら始末もあったかも。。。

そんなことから、所謂結構適齢期の女性の数が少なくなりました。男女とも少ないのでそうはならないはずなのですが、当時はまだ「夫婦では女性の方が年齢が低くあるべき」、とされていました。この問題は深刻で、「農家の嫁問題」が発生しました。中には、海外から女性を連れてくることすら行われました。女性は売り手市場であるために、気位が高くなりました。結果、「高飛車な女≒タカビー」が現れました。女性はあちこちの男性から甘やかされ、この傾向を揶揄して「アッシー(送り迎えをする車持ちの男性)、メッシー(食事をおごってくれる男性)、ツナグ君(電子機器をつないでくれる男)」などが現れたのでした。

もっとも、当時の女性というと、一部の人を除いて一般事務職に就くことがほとんどでした。給与水準は当然男性よりも低く、こうでもしてもらえないと化粧品代や洋服代が浮かないということもあったのでしょうね。ただし、気に入らない男性(今でいうブサメンなど)とは口を効かないか、効いても小馬鹿にした受け答えしかしない、などといった風潮も出てきました。

8つの財布

 既に少子化は進んでおり、一人っ子は珍しくなくなっていました。加えて昭和61年のいじめ問題を受けて、「我が子がいじめられないためなら、周りの子に合わせてなんでも買ってやる」風潮が生まれました。住宅・土地価格の高騰から、住宅を持つことを諦めた人が多かったことも要因になっています。

加えて、子供の祖父母は健在で年金もたっぷりもらえたため、そのお金は子供へと向かいました。結果、「子供の金余り現象」が起こりました。以前も書きましたが、子供がタレントに質問をぶつけるテレビ番組において、「子供も株を買って運用すべきでしょうか」などという発言が発生したのです。

一般のサラリーマン家庭はどうだったか

 報道等でなされるほど、子供がある家庭の生活は豊かではありませんでした。一部上場企業の部課長級や自営業主、医師の家庭くらいになると、それこそファミリーカーがクラウンだとか、子供を連れて海外旅行だスキー旅行だと行っていました。

一般家庭の贅沢は、部屋の一つにルームクーラーを付けるだとか、ファミリーカーをクーラー付きの車に買い換えるだとかがせいぜいで、「平成景気の恩恵に預かっているのは、一部の富裕層だ!」と、平成景気を憎む発言すらあったのです。

株価の下落と景気

 1989年から始まった公定歩合の引き下げ効果もあり、株価の下落が1990年正月の取引から起こりました。すぐには景気の後退には繋がりませんでしたが、前述の”住宅を諦めた人の不満”、”富裕層の高所得は、株運用益などの不労所得が中心で、GDP増大につながらないからけしからん!(≒うらやましい)」という風潮が影響したのか、富裕層へのやっかみ半分の妬みの心情と、「株価の下落で大損か!ざまあみろ」という風潮が起こりました。

平成2年ころは、「平成元年の景気は、昭和天皇の容態が悪かった頃の自粛ムードの反動景気」だとされていました。平成2年には紀子さまが御成婚されたため、全国的にお祝いムードとなり、株価の下落があっても、消費ムードは続いていました。まだブラウン管テレビの時代でしたが、ビデオデッキに加えて大画面テレビブームも起こりました。

景気動向としては前年と変わらず、自動車・服・レジャーなどが好調でした。

一般サラリーマン家庭は恩恵に預からなかったこともそのままでしたので、これまた私が教わった倫理・政治経済の先生は、このように言いました。
「みんな、景気が良いんだってね。知っていた?神武、岩戸、いざなぎと後継機があったけど、もう呼び名がないので、”平成景気”と呼ぶんだってさ。僕は全然景気が良くないけどね。」

また、現代文の先生のお宅に、平成2年1月4日に遊びに行きました。私は前日深夜に放送された「さらば宇宙戦艦ヤマト」をビデオ録画し、後で楽しむ予定でした。同行した一人は、このように言いました。
「昨日のヤマト、録画した?いいなあ。うち、貧乏だからビデオデッキを買ってもらえなくってさ。」

先生のお宅は、当時でも珍しい方の「風呂なし、共同トイレ」のアパートでした。暖房もなく、日が暮れて寒くなると、カセットコンロに水を入れたやかんをかけ、火と水蒸気で暖房するのでした。寒いは話は合わないはで、私は行ったことを後悔するのでした。

裕福な家庭では、親子揃ってスキー旅行という時代に、なんという不公平さでしょう。こんなものだったのです。

分類の上では平成元年と2年はほとんど同じで、連続したものとして捉えてよいでしょう。

湾岸戦争と消費動向の変化

 平成3年の始まりは、中東における湾岸戦争の開戦でした。日本への直接的な影響はありませんでしたが、「自衛隊機は参加しなくて良いのか」といった自衛隊論や、「原油生産量の現象から、第三次オイルショックが起こるのではないだろうか」といった不安が出てきました。

幸い現在の戦争はリモートコントロールミサイルによって早期に終結するようになっており、春頃には落ち着いてきました。しかし、既に株価の下落から1年間が経過しており、上記の不安感は「やがて好景気は終わる」ことを、多くの人に感じさせました。高度経済成長期も、第一次オイルショックで終わっていたからです。

不安感は消費マインドの抑制につながっていきます。バブル期のファッションの象徴であった「ワンレン・ボディコン」服は、髪こそそうしても、服はその当時でも街を歩く服ではありませんでしたが、「流行遅れ」と言われるようになってきました。

また、「平成いかすバンド天国(イカ天)」は既に終了していました。ロックバンドブームは前年までははっきりと残っていましたが、平成3年春頃になってくると、徐々に「古臭い、汗臭い」と評価されるようになってきました。「リンドバーグ」は残りそうでしたが、「プリンセスプリンセス」はバラード曲を出し、最後の頃に出てきた「ピンクサファイア」はポピュラーソングとロックの融合がみごとでしたが、時代の急変化には耐えられなかったようです。

昭和62年頃からの「ハイパワー車ブーム」は、結局は「金を出した人が速い」ということで沈静化、スキーをはじめとしたレジャーブームの影響を受けて、クロスカントリー型4WD車(通称:ヨンク)へと移行を始めました。

これまた余談ですが、平成3年にフルモデルチェンジを受けたトヨタ コロナ/カリーナには、速いエンジンを搭載したグレードの”GT”が廃止されました。双方ともコロナExiv/カリーナEDといった派生モデルが既にあり、そちらには”GT”相当グレードがあることから、それほど大問題としては取られませんでした。しかし、翌平成4年にマイナーチェンジを受けたトヨタ カムリ/ビスタでは、”GT”グレードが廃止されました。こちらは、V型6気筒エンジンを搭載する高級グレードが売れているということ、標準的なエンジンを搭載し、エアロパーツを搭載したグレードを設ける説明がなされていましたが、私は「景気後退が始まったか?」と予感したのでした。

テレビ番組は、男女が小学生の高学年のように痴話喧嘩をするようなものや、お色気要素をもったものから「純愛」路線へと転換し、「東京ラブストーリー」や「101回目のプロポーズ」などへと、変化していきました。

このように、一般の人々の文化が徐々に変化する兆しを見せてきたのが平成3年です。一部の人だけが好景気を享受していることや、お祭り騒ぎ的状況に嫌気が差した表れだったとも思います。しかし、消費傾向の伸びこそ見られなくなってきたのですが、すぐに低下してもいません。当時は、「モノの豊かさから心の豊かさを求めるようになった」、と分析していたのでした。

平成4年の変化

 既に株価の下落は始まり、湾岸戦争を期にして消費ムードが変化していきました。しかし、それでもなお堅調な個人消費に支えられて、平成3年までが経過しました。異変が起こってきたのが、平成4年です。

この年の7月、普通自動車(いわゆる3ナンバー車)の登録台数がピークを迎え、減少に転じました。

さらに、売り手市場だった4年生大学卒業者のうち、女子の状況が買い手市場へと変わりました。当時女性社員はまだ、「男女雇用機会均等法の言い訳と、男性社員の結婚需要稼ぎとOA機器操作と一般事務」役と見られていました。実際に、結婚すると辞める人がほとんどだったのです。そのため4年生大学卒業女子は、「生意気な上に給料が高く、使いづらい」と見られました。仕事量が減少してきたこと、採用を給与水準が低い短大卒者へシフトしたり、当時増えていた「フリーター」をアルバイトとして採用したのでした。

平成2年には、「就職前線異状なし」という、我が世を謳歌する大学生を描いた映画が製作されながら、平成4年には「異常発生」となったのです。

余談ですが、昭和61年から始まった「男女雇用機会均等法」、学生の側の意識も、実際には低かったものでした。これ以前は、学校を卒業しても就職せず、自宅でお父さんや兄弟の身の回りの世話をする「花嫁修業」「家事手伝い」になる女性が多数いました。学生時代の友人知人と結婚したり、世話焼きおばさんが紹介する相手とお見合いをして結婚、家庭に入る人も少なくありませんでした。

ところが、「就職をして会社や友人関係で人と知り合い、結婚をしたほうがより良い条件の相手が見つかる。」などといった話が、公然と行われていました。当然就職意識は低く、証拠はありませんが「言われた仕事すらせず、会社には結婚相手を見つけに来ている」OLが多数いた模様です。仕事はもっぱら補助的業務(お茶くみ、コピー取り、お使い(書類届け)、OA機器操作)でしたので、誰でも良かったのです。

徐々に短大卒業生が主力になっていったものの、高校を卒業して働く人も多数いたのですから、そういった20歳前後の女性が親でも先生でもない男性と衝突しないはずがありません。結果、この頃までのおじさん雑誌や女性誌の読者欄には、「我が社の働かない不思議ちゃんOL」、「我が社の不潔なオジサン」的なコーナーがあったほどです。

 平成4年中頃から、多くの人は「好景気は終わりになりそうだ」と感じ始めたのでしょう。消費マインドが徐々に低下し、景気の悪循環が始まっていったのです。ただし、「社会科の教科書にある「景気循環」が悪い側に転じたのみで、学生は「運が悪い時期に生まれた」と思うだけ、3年後くらいには在庫調整が進んで、好景気に転じるだろう。」と思っていたのでした。


次の時代に続く。
Posted at 2018/10/03 23:13:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | ビジネス/学習

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