
毎週土曜日、左耳の難聴治療で埼玉県入間市と、長野県須坂市を往復しております。
9月の土曜日、長野県北は雨ばかり。秋のうちに好天時にどうしても訪れたい処があり、ルームミラーにティッシュペーパーで作った「てるてる坊主」を下げて向かっていました。
昨日10月6日。念願が叶い須坂は青空。治療終了後、目的地へ向かいました。
須坂から隣の高山村へ。途中、県道112号線に入ります。途端に人家のない山道に。勾配を上るにつれ、山の表情が徐々に変わって行きます。
他に通る車はありません。
ちょっと止めて記念撮影です。紅葉が美しい…。
断崖のカーブで。
長野盆地を一望することが出来ました。
やがて、この看板が。
直進すれば万座、右折すると「毛無峠」です。
探訪を望んでいた毛無峠は、もう手の届くところです。
擦れ違いが困難な道が続きます。
途中、こんな清滝が。
反対側です。山が燃えています。
しかし、この道を抜けると、光景は一変しました。
稜線上で舗装道路はなくなりました。そこは10台程度が駐車できるスペースだけの、荒涼とした峠でした。赤錆た5基の索道柱が稜線を跨ぎ、あたかも墓石のように佇んでいます。
この峠は、長野県と群馬県の県境です。
長野県側。
こちらは群馬県側。
表情が全く異なります。
黄色味を帯びた不毛の地が広がっています。樹木は少なく、生えているのは背の低い草木のようです。まるで外国のような光景が、眼下に広がっています。
この先、峠を降りるダートを進めば、そこは小串硫黄鉱山跡。最盛期は標高1800メートルで2000人もの労働者とその家族が暮らした「天空の都市」だったとか。行政上は群馬県嬬恋村ですが、群馬側には踏み分け道しかなく、採掘した硫黄は長野県高山村まで索道を建設して運んだのだそうです。
ちなみに嘗て、人は高山村からバスで当時の道路終点まで行き、徒歩で峠越えをしたそうです。
昭和28年、峠の地下に1000メートル超の隧道(トンネル)が完成、随分便利になったそうです。それでも往来する人々は背を屈めなければならなかったと言いますから、坑道に準じた程度の規模だったと想像しています。
鉱山の跡には、埋められてはいるものの、今も毛無隧道の入り口が存在するそうですが、長野側の地点は判然としていません。
この峠の下に、今も人々が背を屈めて歩いたトンネルが眠っています。出来ることなら歩き通してみたいものですが、叶わぬ夢です。
群馬県嬬恋村に存在した鉱山都市は、長野県に物資と人の流れを依存していたのでした。
硫黄分を含有しているのか、茶色いガレキに覆われた斜面を登り、索道柱の地点に到達しました。こちらは小串鉱山側です。
閉山は昭和46年(1971年)。既に47年が経過。冬期は豪雪に閉ざされる彼の地に、尚も黙して無人となった「天空の都市」を見守っています。
こちらは長野側です。
山の天気は急変します。あっと言う間に雲が。
何とも荒涼とした光景です。
長野側の最後、6基目は、既に転倒していました。
小一時間ほど、峠に立ち様々なことを考えていました。
2000人を超える人々が生活、小中学校も存在したそうですから、ここが生まれ故郷の方も少なくないはずです。今、何処でどうして暮しているのか、ここを離れたその後の人生は…。
ボクは亡き親父が勤務していた製紙会社の、工場に近い社宅で生まれ育ちました。
その工場は昭和40年代の終わりに、公害問題がきっかけで閉鎖され、社宅もなくなりました。親父は扱っていた製紙プラントをバラし、地方の工場にリビルトするプロジェクトの責任者となり、一家で東京から縁もゆかりもない地方都市に移りました。昭和47年10月のこと、小串鉱山の閉山の1年後です。
しかし、行ってはみたものの閉鎖的でよそ者を排斥する土地柄に馴染めず、中学・高校時代はあまり良い思い出がありません。
そのせいか、この種の「人が嘗て生活した場所」を訪れると、どうしても自分の経験が自動再生されます。58年間の悲喜交々が思い起こされ、何とも表現し難い内省的感情に心が埋め尽くされます。故郷と言える地や、旧友と言える存在を持てなかった「根なし草」の、悲しき性かも知れません。
だからこそ、ボクは「廃」に魅せられるような気がします。
この地を通り過ぎた方々、今もお元気でしょうか。
ボクもこうして、何とか生きています。
命ある限り、自分だけの「道」を、一生懸命に歩いて行こうと誓い、帰途につきました。
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Posted at
2018/10/07 08:50:43