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2023年08月06日 イイね!

中村彝アトリエ記念館 (東京都新宿区)

中村彝アトリエ記念館 (東京都新宿区) 猛暑が続いていますが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。

 このひと月の間、更新が滞ってしまいました。

 ボクは夏に販売数が増える商品のメーカーに勤めており、毎年夏は店頭応援に駆り出されます。特に今年の暑さは、まさしく異常事態。週末に何度か商品補充と販売補助に行きました。普段は空調の効いたオフィスでの内勤。還暦を越え体力の消耗が著しく、とても更新する気になれませんでした。訪れて下さった皆様、そういう事情ですので、どうかお許し下さい。

 閑話休題。

 去る7月8日、土曜日の午前。
 所用のため、平日は通過するだけの新宿を訪れました。
 その帰路。
 前から訪れたいと思っていた、こちらに向かいました。



 山手線の目白駅から徒歩10分程度。「メジマル」こと丸長目白店に近い、住宅街にあります。夭折の画家、中村彝のアトリエを再現した「中村彝アトリエ記念館」。ちなみに難読漢字「彝」は「つね」と読みます。
 この写真の左奥がアトリエ。



 右側の建物は展示スペースと事務所。入場は無料、写真撮影も可能です。



 中村彝は1887年(明治20年)、茨城県の旧水戸藩士の家庭に三男として生まれました。長兄、次兄が軍人の道に進んだ影響で、自らも陸軍幼年学校に入ります。ところが肺結核を患い、転地療養の地、現在の千葉県館山市で絵筆を持ちました。
 ごく短期のうちに画壇に名を知られることとなり、新宿の中村屋の創業者、相馬愛蔵氏の庇護を受け、店舗裏のアトリエに起居するに至ります。ここで相馬家の長女、俊子と邂逅。多数の肖像画と裸婦画を描き、いつしか恋愛関係に至りました。プロポーズをしたものの、病気を案じた相馬夫妻は反対。傷心のまま彝は新宿を去り、こちらのアトリエを建てて転居しました。
 
 詳細なプロフィールと人生については、上記のウィキペディアをご参照下さい。



 1909年の「自画像」。
 既に結核を患っていましたが、まだ顔立ちは丸味を帯びています。



 1914年、「小女」
 モデルは相馬俊子。
 初々しく、ふっくらとした俊子のポートレートは、「少女」ではなく「小女」とのタイトルが相応しく思います。

 1916年に彝と別れた俊子は、1918年にインドの独立運動家、ラス・ビハリ・ボースと結婚します。これを契機に愛蔵はボースから本格的なカレーの調理を学び、やがて看板メニューとなり、今日まで続くことになります。





 病気が進行するにつれ、身の回りの世話を、住み込みの岡崎きいに託しました。タイトルは「老母の像」。11歳で母を亡くした彝は、本当の母親のように思っていたのかも知れません。黒装束で俯き加減の表情は、病床の彝のこの先を案じているかのよう。手にはロザリオ。彝は1907年に洗礼を受けています。





 無情にも、病は彝の体を徐々に蝕んで行きました。「頭蓋骨を持てる自画像」。制作は1923年から24年。頬はこけ、諦観に満ちた表情で頭蓋骨を持つ姿は、自らのそう遠くない旅立ちの予感に満ちています。



 1924年(大正13年)12月24日。朝食後に突然の喀血で窒息し、彝はこの世を去ります。享年37歳。翌25日、友人の彫刻家、保田龍門らがデスマスクを取りました。



 アトリエに入ります。

 



 灰色の漆喰に、木部には薄い緑色の塗料。この色遣いからも、彝の画家としての天分が窺えます。イーゼルやソフア、テーブルなどは、今も彝が存命かのように佇んでいます。



 絵の具が撥ねた水差し。「老母の像」で、きいの左後ろに描かれています。蓋がありませんが、3月11日に破損してしまったそう。




 
 「カルピスの包み紙のある静物」。広角レンズで撮影した写真のように、中心から外側に向かい、遠近感がデフォルメされたような構図。背景はアトリエの漆喰。水色のカルピスの包み紙の上には、色鮮やかなオブジェクト。並々ならぬセンスに、ボクは痛く感動しました。

 有名な「エロシェンコの像」の展示もありましたが、表面のガラスにカメラを構えるボクの姿がくっきり写ってしまいましたので、割愛しました。上記のリンクから御覧ください。
 なお、こちらに展示されている作品は、全て大日本印刷が手掛けた複製。彝の作品群は、日本各地の美術館に所蔵されています。たとえ複製でも、こうして一か所で鑑賞できるのは、とても有難く思いました。


中村彝アトリエ記念館

東京都新宿区下落合3-5-7
03-5906-5671

10:00-16:30 火休










Posted at 2023/08/06 12:22:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | 美術館 | 趣味
2022年11月13日 イイね!

わたせせいぞうギャラリー白金台(東京都港区)

わたせせいぞうギャラリー白金台(東京都港区) めっきり寒くなりましたが、お越し下さる皆様、お元気でお過ごしでしょうか?ボクは今のところコロナに罹患することもなく、元気で毎日を送っております。…が、今週戻って来た健康診断の結果、血圧が遂に140台となってしまいました。毎回、γGPTが引っ掛かりますが、これは初めて。面談したドクターから「もうすぐ62歳、この位は仕方がない」と、変な励ましを戴いてしまいました(笑)。

 閑話休題。

 先週、昼休みにこちらを訪れました。



 目黒駅から徒歩5分ほど、わたせせいぞうさんの作品を展示するギャラリー。東京庭園美術館に近い、マンションの1階にあります。
 ボクと同世代の方は、その名を見たり聞いたりすれば、胸に透明のそよ風が吹き抜けることと思います。偶然の邂逅に始まった、恋と純愛…。どんな色でも、まるで透き通ったような印象のイラストは、見る者の心に深く沁みます。

 わたせさんは、早稲田大学法学部を卒業後、保険会社に就職。仕事の傍ら絵を描き始めました。やがて世に認知されるに至り退職、専業になったという異色のキャリアの持ち主。間もなく65歳となるボクにとり、「憧れ」であり、また今後の人生を生きる上で「お手本」のような存在です。

 もうひとつ。
 最初に勤めたレコード会社時代、ラテンキーボード奏者・松岡直也さんのレコード・ジャケットを描かれました。個人的に入社以前から松岡さんのファンで、当時両者のマッチングに感動したのでした。



 一歩足を踏み入れれば、そこは目くるめく全開の「わたせワールド」!一つ一つに豊かな感性と表情があり、思わず見入ってしまいます。



 旧いベスパがありました。
 わたせ作品に、これほどピッタリの二輪はありません。



 水しぶきから冷たさが伝わりますが、描かれた男女のポーズと表情は、波など存在せぬかのよう。そこにあるのは「不変の愛」。



 こんな絵が目に留まりました。



 タイトルは「地球玉のような氷山」。
 2022年新作の版画。
 ブラウンを多用した中心に、ウィスキーの水割りグラス。
 緩めたネクタイ、壁のコートと帽子。
 頬杖をついた、ちょっと物憂げな表情…。
 全てが「ハマリ」!
 一目で欲しくなりましたが、お値段は税抜き80,000円…!

 撮影は許可を戴きましたが、極端な接近撮影はNGとのこと。
 これが限度でした。



 ポストカードを持ち帰ることにしました(笑)。



 クルマをモチーフにした5枚を選びました。
 まだ片付けの途上、ゴッチャゴチャの空間には全く似合いませんので、終わったら額に入れて飾ろうと思います。



 眺めていたら、松岡直也さんのレコードを聴きたくなりました。
 親父が亡くなり母が独りになったのを契機に引っ越し、既に9年近くになります。が、アナログレコードの大半はアトランダムに棚に押し込んだまま。探すのがタイヘンでしたが、やっと見つかりました。

 "SPRASH & FLASH"

 久し振りに針を落としました。
 懐かしい音が、フローリングに轟きました。
 
 ジャケットを眺めて耳を澄ませば、当時のことが脳裏に甦ります。
 朴訥で、大変優しかった直也さん。そのお人柄と超絶テクニックは、高名なスタジオミュージシャンから尊敬を集め、まさに「ミュージシャンズ・フェバリット・ミュージシャン」でした。残念ながら、2014年4月29日、鬼籍に入られました…。
 
 …バーボンを呑みながら、とっても贅沢なひとときでした。


わたせせいぞうギャラリー白金台

東京都港区白金台5-22-11 ソフトタウン白金1階
03-6456-2942

10:00-18:00 月休




Posted at 2022/11/13 09:11:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | 美術館 | 趣味
2021年06月27日 イイね!

無言館 vol.2 (長野県上田市)

無言館 vol.2 (長野県上田市) 4月3日、長野県上田市の戦没画学生慰霊美術館「無言館」を訪れた記事を、以前にご紹介しました。あの時は、ボクという個人の価値観・感性を除外し、可能な限りノンフィクションとして書くことに努めました。暫く間を置いてから続きを書こうと思っておりました。それには、理由があります。



 前回ご紹介した、無言館のシルエット。正面中央が入り口になります。
 この写真の左手前には、



「記憶のパレット」と名付けられた、絵具を調合し筆に馴染ませる画材をモチーフにした石碑が。こちらに展示されている作品を遺した、戦没画学生の指名が刻まれた、たいへん尊いもの。まさしく「墓碑銘」の団地…。



 一方、無言館に向かう坂道の折り返し地点には、この建物が存在します。
 タイトル写真にありますが「傷ついた画布のドーム」「オリーブの読書館」。



 前に、この巨大なオブジェクト。
 横には、灰色の旧式ボスト。
 共に、一部に朱色のペンキが…。

 2006年6月18日のこと。
 上にご紹介した「記憶のパレット」に、赤いペンキが流される事件があったのだとか。それを忘れない目的で、敢えて施したそうです。

ttps://isao3264.exblog.jp/21525313/

 こちらで、経緯の詳細と写真を閲覧できます。



 このドアを開けて入ります。



 館内は撮影禁止。「無言館」のH.P.で公開されている写真をお借りしました。

 ドーム状の天井全面に、描かれた画布が…!
 見上げるボク。
 無念を抱いて亡くなった学生さんたちの魂がベクトルとなり、ボク一人に降臨されました。見上げながら、とめどなく涙が溢れました。「ひめゆりの塔」を訪れた時、生き残った方の生々しい証言に涙したことはありましたが、静謐な空間でたった一人、天を見上げてこんな体験をしたのは、60年の人生で初…。
 キリスト教会の天井が高く造られている理由が、少しだけ理解出来ました。



 併設されている図書室。
 美術系の膨大な蔵書!
 自宅が至近だったら、毎日通いたくなりました。



 こんなボードがありました。



「オリカケノツル」。
 タイトルだけで、全てが理解できます。



 本館で買ったある作品の絵葉書に、今の気持ちを書いて投函しました。

「右」とか「左」で一括りし、「反対」「賛成」を数の論理で押し切る風潮は不毛と再確認しました。国家の論理で未来を絶たれ、還って来れなかった若人が存在した事実は、今や詭弁がまかり通るに至った答弁や喚問でも、決して覆すことは出来ません。

 ボクは「防人」の息子を持つ、「上級国民」ではない父親…。

 彼が「殺し」たり「殺される」事態は、断じて許し難きことと確認した一日でした…。



Posted at 2021/06/27 16:06:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | 美術館 | 趣味
2021年04月04日 イイね!

無言館(長野県上田市)

無言館(長野県上田市) 昨日4月3日土曜日、須坂からの帰路、こちらを訪れました。



 上田市の郊外、山王山公園。
 館内は撮影禁止。買い求めたポストカード、本、館内で書き取ったメモからご紹介します。



 伊澤 洋 『家族』

 亡き洋の絵を守り続けた兄の民介氏は語る。

「うちは貧乏な農家だったから、こんな一家団欒のひとときなんか一度もなかった。きっと洋は出征前、両親や私たちとの幸福な食卓風景を描いていったんでしょうな」

 当時の伊澤家には洋を美校にあげる経済力がなく、家宝にしていた庭のケヤキを処分して入学費にあてたのだという。

「洋は貧しい我が家の希望の星でした。
 戦地から届いた白木の箱には、ほんの一握りの砂しか入っていなくて、
 家族じゅうがその砂を掌にすくって泣き崩れていました」

 1917(大正6)年2月16日 栃木県生まれ
 1939(昭和14)年、東京美術学校油画科入学
 1941(昭和16)年、歩兵第六六連隊に応召
 1943(昭和18)年8月17日、ニューギニアで戦死
 享年26歳



 桑原 喜八郎 『少女』

 航空写真部の所属。
 スケッチブックがなく、戦地では紙クズを拾って絵を描いていたという。
 昨日、戦争が終わった夢をみたんだよ、とほほえんでいた喜八郎は、写真機材を積んだトラックで移動中、夜間戦闘機に撃たれて死んだ。喜八郎の身体は粉々になって吹き飛んだという。


 1920(大正9)年 静岡県生まれ
 1940(昭和15)年 東京美術学校日本画科入学
 1943(昭和18)年 学徒出陣で入営
 1945(昭和20)年2月7日 ビルマ シアン高原で戦死
 享年24歳

 『少女』は、生家に近い菩提寺、曹洞宗正法寺からみつかったもの。境内で遊んでいた少女をスケッチしたものと推されるが、それ以上のことはわかっていない。



 日高 安典 『裸婦』

「あと五分、あと十分、この絵を描き続けていたい。
 外では出征兵を送る日の丸の小旗がふられていた。
 生きて帰って来たら必ず、この絵の続きを描くから…」

 安典はモデルをつとめてくれた恋人にそういいのこして戦地へ発った。
 しかし安典は帰ってこれなかった。

 弟、稔典さんの証言。

「モデルはだれかわかっていませんが、兄の絵のために肌を晒したのですから、たぶん将来を誓い合った仲だったんじゃないでしょうか」

 



 「無言館」が開館して二年後の平成11年8月15日。
 「感想文ノート」に、こんな匿名女性の手記があった。

 
 

 安典さん、
 今日ようやく、貴方が私を描いてくれた絵に会いに来ました。
 私、もう七十歳のお婆ちゃんになってしまったんですよ。
 でも、あの日。
 貴方が描いてくれた日のこと、今も忘れていません。
 あの夏は、今でも私の心のなかであの夏のままなのです。


 1918(大正7)年 鹿児島県生まれ
 1937(昭和12)年 東京美術学校入学
 1942(昭和17)年 応召。
 1945(昭和20)年4月19日 フィリピン ルソン島で戦死
 享年27歳








 蜂屋 清 『祖母の像』

 清は祖母のなつに特別可愛がられた。
 戦争が始まったころ、清はそのなつの顔を精魂こめて描く。
 
 ばあやん、わしもいつかは出征せねばならん。
 そうしたら、ばあやんの顔も描けなくなる。

 清がつぶやくように言うと、
 なつはうっすらと涙を浮かべただけで、
 何も言わなかったという。

 1923(大正12)年 千葉県生まれ
 中央区京橋小学校卒業後、銀座のデザイン会社に勤務
 1943(昭和18)年 満洲へ出征
 1945(昭和20)年7月1日 フィリピン レイテ島で戦死
 享年22歳


 …………
 ……
 …



 。

 
Posted at 2021/04/04 03:18:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | 美術館 | 日記
2020年11月08日 イイね!

安曇野ジャンセン美術館(長野県安曇野市)

安曇野ジャンセン美術館(長野県安曇野市) 昨日7日。
 「ギャラリー・シュタイネ」の次に立ち寄ったのがこちら「安曇野ジャンセン美術館」です。

 ジャン・ジャンセンはアルメニア出身で、フランス画壇で活躍した画家。日本語で言うところの「侘び・寂び」に溢れる作品が最大の特徴で、我々日本人の感性に符合する作風で知られています。
 ボクはテレビのニュース番組の特集コーナーで画家ジャンセンと博物館の存在を知り、4、5年ほど前に安曇野を訪れました。例えばロートレックのような知的でお洒落な作風とは真逆、細く歪んだ輪郭に灰色を多用した冷たく荒涼とした描写が、何故か心に強く刻み込まれました。
 今回、久し振りに再訪問しました。



 美術館の全景。
 紅葉の樹林の中に佇み、ちょっと幻想的でした。



 丸いドーム状の玄関を潜ります。
 直ぐ右に受付があり、入場料を支払います。観賞のみで850円、喫茶コーナー利用付で1100円です。ボクは後者にしました。



 館内は撮影禁止ですが、この一角だけ記念撮影用でオーケーとの事でした。



 これらの2枚だけ撮影しました。



 「写真集Ⅰ」を1000円で購入しました。
 著作権に触れてしまいますが、帰宅後に撮影した三点だけご紹介します。



 ヴェニス「ゴンドラ」。



 ヴェニス「浅瀬の網」。



 「あざみのある静物」。

 ジャンセンは風景画とバレリーナの人物画で知られますが、静物やバレリーナ以外の人物画も沢山遺しています。この安曇野の美術館は、館長の塚原章夫さんが長年かけて蒐集した作品を公開したもの、世界で唯一のジャンセン作品のみの美術館です。

 ホームページに、収蔵作品の紹介コーナーがあります。ご興味のある方はご覧になってみて下さい。個人的に印象的なのは「闘牛の後」。敗者に訪れる残酷な運命を描き、母国アルメニアの状況を無言で語ったように思えてなりません。

ttp://www.musee-de-jansem.jp/  (※頭にhをつけて下さい)

 紅葉を愛でながらコーヒーを味わいました。











 美しき日本の秋、安曇野の秋に感動して帰途に就きました。


安曇野ジャンセン美術館

長野県安曇野市穂高有明4018-6

0263-83-6584

Posted at 2020/11/08 14:01:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | 美術館 | 趣味

プロフィール

「お知らせ http://cvw.jp/b/2970161/46422054/
何シテル?   09/28 15:34
 妻はアルコール依存と摂食障害を患い、主治医の勧めで調停離婚しました。その1年後、彼女は突然世を去りました。一年に2回の母親との別れを経験した一人息子と、ドライ...
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