猛暑が続いていますが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
このひと月の間、更新が滞ってしまいました。
ボクは夏に販売数が増える商品のメーカーに勤めており、毎年夏は店頭応援に駆り出されます。特に今年の暑さは、まさしく異常事態。週末に何度か商品補充と販売補助に行きました。普段は空調の効いたオフィスでの内勤。還暦を越え体力の消耗が著しく、とても更新する気になれませんでした。訪れて下さった皆様、そういう事情ですので、どうかお許し下さい。
閑話休題。
去る7月8日、土曜日の午前。
所用のため、平日は通過するだけの新宿を訪れました。
その帰路。
前から訪れたいと思っていた、こちらに向かいました。
山手線の目白駅から徒歩10分程度。「メジマル」こと丸長目白店に近い、住宅街にあります。夭折の画家、
中村彝のアトリエを再現した「中村彝アトリエ記念館」。ちなみに難読漢字「彝」は「つね」と読みます。
この写真の左奥がアトリエ。
右側の建物は展示スペースと事務所。入場は無料、写真撮影も可能です。
中村彝は1887年(明治20年)、茨城県の旧水戸藩士の家庭に三男として生まれました。長兄、次兄が軍人の道に進んだ影響で、自らも陸軍幼年学校に入ります。ところが肺結核を患い、転地療養の地、現在の千葉県館山市で絵筆を持ちました。
ごく短期のうちに画壇に名を知られることとなり、新宿の中村屋の創業者、相馬愛蔵氏の庇護を受け、店舗裏のアトリエに起居するに至ります。ここで相馬家の長女、俊子と邂逅。多数の肖像画と裸婦画を描き、いつしか恋愛関係に至りました。プロポーズをしたものの、病気を案じた相馬夫妻は反対。傷心のまま彝は新宿を去り、こちらのアトリエを建てて転居しました。
詳細なプロフィールと人生については、上記のウィキペディアをご参照下さい。
1909年の「自画像」。
既に結核を患っていましたが、まだ顔立ちは丸味を帯びています。
1914年、「小女」
モデルは相馬俊子。
初々しく、ふっくらとした俊子のポートレートは、「少女」ではなく「小女」とのタイトルが相応しく思います。
1916年に彝と別れた俊子は、1918年にインドの独立運動家、ラス・ビハリ・ボースと結婚します。これを契機に愛蔵はボースから本格的なカレーの調理を学び、やがて看板メニューとなり、今日まで続くことになります。
病気が進行するにつれ、身の回りの世話を、住み込みの岡崎きいに託しました。タイトルは「老母の像」。11歳で母を亡くした彝は、本当の母親のように思っていたのかも知れません。黒装束で俯き加減の表情は、病床の彝のこの先を案じているかのよう。手にはロザリオ。彝は1907年に洗礼を受けています。
無情にも、病は彝の体を徐々に蝕んで行きました。「頭蓋骨を持てる自画像」。制作は1923年から24年。頬はこけ、諦観に満ちた表情で頭蓋骨を持つ姿は、自らのそう遠くない旅立ちの予感に満ちています。
1924年(大正13年)12月24日。朝食後に突然の喀血で窒息し、彝はこの世を去ります。享年37歳。翌25日、友人の彫刻家、保田龍門らがデスマスクを取りました。
アトリエに入ります。
灰色の漆喰に、木部には薄い緑色の塗料。この色遣いからも、彝の画家としての天分が窺えます。イーゼルやソフア、テーブルなどは、今も彝が存命かのように佇んでいます。
絵の具が撥ねた水差し。「老母の像」で、きいの左後ろに描かれています。蓋がありませんが、3月11日に破損してしまったそう。
「カルピスの包み紙のある静物」。広角レンズで撮影した写真のように、中心から外側に向かい、遠近感がデフォルメされたような構図。背景はアトリエの漆喰。水色のカルピスの包み紙の上には、色鮮やかなオブジェクト。並々ならぬセンスに、ボクは痛く感動しました。
有名な「エロシェンコの像」の展示もありましたが、表面のガラスにカメラを構えるボクの姿がくっきり写ってしまいましたので、割愛しました。上記のリンクから御覧ください。
なお、こちらに展示されている作品は、全て大日本印刷が手掛けた複製。彝の作品群は、日本各地の美術館に所蔵されています。たとえ複製でも、こうして一か所で鑑賞できるのは、とても有難く思いました。
中村彝アトリエ記念館
東京都新宿区下落合3-5-7
03-5906-5671
10:00-16:30 火休
Posted at 2023/08/06 12:22:21 | |
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