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2020年04月12日 イイね!

Marvin Gayy / What's going on

Marvin Gayy / What's going on 昨日の土曜日。
 半年ぶりにかかりつけの歯科を訪れ、義歯の調整をして貰いました。その帰路、川越の大正浪漫通りを通過しましたが、開いている店舗は1割から2割程度。観光客も殆どおらず、コロナ禍の猛威を痛感させられました。ボクはテレワークとは無縁のため、感染は他人事ではありません。

 そんな週末。
 家から出るなとの方針に従い、懸案のレコード整理を少ししました。今回の最大の「発掘品」が、このマーヴィン・ゲイの不朽の名作「ホワッツ・ゴーイング・オン」!ベリー・ゴーディが1959年に「自動車の街」(Motor Town)デトロイトに創設した「モータウン・レコード」が1971年に放った大傑作です。

 マーヴィン・ゲイはゴーディーの姉と結婚したため、親戚の関係でした。ところが「三種の声」を持つと形容される程のシンガーなのに、精神的に不安定。観客の前で歌うことが大の苦手で、ステージでバンドが彼の曲のイントロを奏で始めても一向に登場せず、二度目が終わっても出て来なかったとか。客席のゴーディは堪忍袋の緒が切れ楽屋に向かうと、床に蹲ってがたがた震えていたそうです。そのお尻を靴で蹴飛ばして、漸くステージに立たせたという逸話があります。
 そんなマーヴィン・ゲイの精神的不安定は、キリスト教ベンテコステ派の牧師だった父からの、躾の範疇を越えた精神的虐待が原因だったそうです。

 都会的で洗練された声の持ち主でしたが、そんな性格もあり、ショービジネスの世界では、なかなか芽が出ませんでした。その彼が一躍評価されたのは、女性シンガー、タミー・テレルとのデュエット。情感豊かに男女の愛の美しさ、切なさ、そして別離の哀しみを歌い、たちまちスターダムに駆け上がります。
 ところが、悲劇が待ち受けていました。
 タミー・テレルは極度の頭痛持ちで、かなり苦しんでいたそうです。1967年、バージニア州の大学でのコンサートの最中、一緒に歌っていたテレルが突然ステージ上で倒れ、マーヴィン・ゲイの腕の中に倒れ込みました。脳腫瘍との診断で、その後18カ月間に8回もの手術を受けたのでした。その甲斐もなく、彼女は1970年3月16日、フィラデルフェアの大学病院で息を引き取りました…。
 
 あまりにもリアルに男女の情愛を歌った彼らに、「出来ているのでは」との声は珍しくはなかったそうです。しかし現実は、マーヴィン・ゲイは既婚者、タミー・テレルには同棲相手が存在しました。そんな関係でしたが、感受性が強い彼はテレルの死が受け入れられず、病床にあった期間とその後暫くは、全く仕事をせず家で酒を飲み、妻と喧嘩に明け暮れていたとか。テレルの死で、彼女とのデュエットで得た「セックス・シンボル」としての自身の存在と、厳格な父親から授けられた倫理観の狭間で、苦しみもがいていたのだそうです。

 1970年。
 31歳の彼はやっと一筋の光を見つけます。
 一時はプロ・フットボール選手を目指しましたが、ほぼ同時期に自ら音楽制作(プロデュース)を開始したのでした。元々ジャズやドゥーワップを好み、泥臭いソウルではない方向性を掴み始め、モータウンの作曲家アル・クリーブランドとフォー・トップスのレオナルド・ベンソンとの数回のフリー・セッションで、名曲「ホワッツ・ゴーイング・オン」の原曲が出来上がります。

 この時、モータウンはデトロイトからロスへの移転計画の最中にあり、クリーブランドは移住のためにロスに長期滞在します。その間に、マーヴィン・ゲイはさっさと独りでレコーディングしてしまいました。結果的にこれが世に出て大ヒットしたのです。

 ところが。
 シングル曲しか出来ておらず、これを含めて発売するアルバムの準備が、何一つ出来ていませんでした。ここから、マーヴィンの「コンセプト」が始まりました。

 「ホワッツ・ゴーイング・オン」は、公民権運動が高揚した60年代から70年代の過渡期に、アメリカ社会で虐げられていたマイノリティとしてのアフロ・アフリカンの現実を、「家族」の観点から歌いました。ベトナム戦争から戻った弟のフランキーから、戦場の残酷さ、悲惨さを体験談として聞いたことが起点です。その観念を更に広げ、曲毎にテーマを設定して製作されました。「ベトナム戦争」に始まり「貧困と犯罪」、「環境汚染・公害」を提起、そして「今後を支えることになる子供たちを救おう」と結論付けます。ラブ・ソングを封印した真摯な制作方針は、国境と人種を越え絶大な評価を受けます。

 ボクの個人的な思いですが、ジャンルを問わず、この作品を越えるコンセプト・アルバムは存在しないと思います。ビートルズの「サージェント・ペッパー…」や、ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」を遥かに凌ぐ大傑作と信じております。
 それは「分かり易さ」。メランコリックなバックミュージックに終始ミディアム・テンポの甘い彼の声。それに載せた強烈なメッセージが、聞く者の心を揺さぶります。それでいて、歌詞は平易。

Hey baby, what'cha know good
I'm just gettin back, but you knew I would
War is hell, when will it end,
When will people start gettin' together again
Are things really gettin' better like newspaper said
What else is new my friend, besides what I read

といった具合…。

 この作品でスターダムに上り詰めた彼ですが、1984年4月1日、父親と口論の末、射殺されるという悲劇で世を去りました。

 ボクが彼の存在を知ったのは、学生時代に吉田ルイ子さんの著書「ハーレムの熱い日」を読んだことでした。ロック、ジャズには既にどっぷり浸かっていましたが、ソウル・ミュージックは殆ど知りませんでした。モータウンもそうですが、ソウルは黒人が歌い黒人マーケットに販売するため、制作の重点は廉価なシングル盤が主体。どうしてもアルバムは「寄せ集め」の印象が強く、積極的に聴く気になれなかったのでした。この大傑作を聴いたことで、見事に「ソウルの底なし沼」に嵌ってしまったのでした。



 これは、一緒に出て来た40周年の記念盤で、未発表音源を含むアナログ1枚、CD2枚のセット。



 なかなかいい雰囲気です。

 個人的には「ディスタント・ラヴァー」の原曲が収録されていたのがナミダモノでした。

 あまりにも有名なアルバムですので、ソウルに興味のない方が聴かれても「ア、この曲、聴いたことがある!」となるケースも充分ありそうです。
 
 音楽好きの方なら、絶対に嵌る一枚です。








Posted at 2020/04/12 17:18:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | レコード(ソウル) | 音楽/映画/テレビ

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