昨日11月21日。
二週間振りに須坂市を訪れ、難聴の治療を受けました。
帰路は必ず「寄り道」をしますが、安曇野市にある旧国鉄篠ノ井線の廃線を訪れました。
この廃線は明科駅と西条駅の間に存在する、約6キロメートル。明科駅には車を停める場所がなく、廃線の明確な痕跡が始まる「明科総合福祉センターあいりす」の無料駐車場に車を置きました。
なお、全部歩き通して戻ると12キロ!
還暦直前で運動不足の事務職は、絶対にヘロヘロになってしまいます。なので、所々の要所を車で訪れました。
こんな案内が出ていました。
地図がありました。
駅名標を模したものがありました。
こちらは「潮神明宮」。
限られた時間での廃線探訪が目的、後ろ髪を引かれましたが寄りませんでした。
この辺りから、廃線らしい道床が始まります。コンクリート製の架線柱が並びます。
篠ノ井線は1902(明治35)年に全通しましたが、この明科駅から西条駅の区間は地滑りの多発地帯で、何度も線路は被害があったそうです。特に1924(大正13)年には、列車が土砂に乗り上げて脱線する惨事が発生しました。こうした事情から新しい線路を建設、長いトンネルを掘り1988(昭和63)年に新線が開通しました。その結果、廃線となった一部区間が、遊歩道となりました。
西の彼方。
雪を被ったアルプスが、誇らしげに雄大な姿を見せていました。
歩いていると、何やら物凄い臭いが!
…やっぱりでした。
黄色い絨毯の上に、ブヨブヨになった実が一杯落ちていました。
少しだけ拾いました。
ポリ袋のようなものを持ち合わせておらず、ハンカチに包んでカメラバッグに入れて持ち帰りました。が、臭いが沁みついてしまい、開けると悲惨なことになってしまいました…(笑)。
こんな物も沢山落ちていました。
安曇野の自然は豊穣…。
朽ち果てようとする材木。
ボクにとり「極みの美」!
やがて、トンネルが見えて来ました。
三五山(さごやま)トンネル。
全長25メートル、右へ緩やかなカーブを描きます。
煉瓦造りですが、表面に乱雑にモルタルが塗られています。
入口に到達すると、センサーでライトが点灯しました。
天井はメッシュのようなもので覆われていますが、やはりモルタルが塗り込められているそうです。電化の直前、結露の水滴が架線に落ちることを防止するために施されました。
第三軌条から集電した碓氷線は、美しい姿を今に伝えています。公共交通インフラなので当然の判断ですが、大変「勿体ないな…」と思いました。
闇のカーブに柔らかな灯りが連なると、幽玄の趣が漂います。
一歩一歩、歩きながら観察。変化を楽しみました。
訪れたことはありませんが、例えばプロシア時代の古城を連想していました。
とても柔らかく優しい…。
教会に灯る蝋燭にも思えました。
保線員の方のための退避スペース。
当然、現役当時は灯りは存在しなかったはずですが、こうして眺めると「芸術作品」として完成された存在に思えました。
反対側です。
出た地点は入口とはガラリと変わり、山中の掘割。
既に、ここ安曇野は晩秋から初冬。枯葉に覆い尽くされた道床が、一直線に続きます。
…この「幻想的」な光景に佇むのは、何と「ボク」だけ!
贅沢な光景ですが、内省的な気持ちにもなりました。
来月7日で還暦、「定年」です。
先日のこと。
社会に出て20年勤めたレコード会社の先輩・同僚3人と、久し振りに池袋で飲みました。レコード業界は、20年前から今に至るまで、ずっと「斜陽産業」。ボクも含め4人全員が会社を去っていました。そのうち一人は退職後、同業他社に転職したものの、待遇は契約社員。遂に正社員になれず8月に定年を迎えたそうですが、給料は半分以下になったと落胆していました。
ボクは今の会社が6社目。
最初のレコード会社は外資でした。
外資狙いで採用に応募したのではありません。
英語も「ヘタクソ」!
新聞記者か雑誌の編集者に憧れていました。
でも、当時もマスコミへの就職は大激戦。
音楽好きなこともあり「マスコミの匂いがする」レコード会社を受け、結果的に入社したという顛末。
ボクの場合、同業他社を狙わなかった(=レコード産業に自ら見切りをつけた)ので、どうしても外資転職を繰り返さざるを得ませんでした(国内資本の一般企業は、外資出身の採用に後ろ向き。「高給の要求」、「一匹狼」、「すぐ辞める」の人材が多いとされるため)。その結果「入ってみないと分らないこと」が原因で、何度も転職を余儀なくされました。同時にプライベートで元妻の病気が進み、やがて死という結果が訪れました。
…今振り返って見ても、よくあの「人生の厳冬期」を乗り越えたと思います。
今の会社は、給料はさほどでもありませんが、どうやら暫く(65歳まで)は勤めることが出来そうです。先の同僚のように、給料が激減することもなさそう。
…人生、辛い時もあれば良い時もあると、今日改めて実感しました。
トンネルの上には、こんな光景が!
僅かに残った紅葉が、初冬の柔らかな陽を浴びて輝いていました。
ガードレールと電線が目障りですが、大変美しい姿に感動しました。
少しでもお伝え出来れば幸いです。
25.0パーミルの標識。
三五山トンネル入口のキャプションに「25パーミルを上がれず、やり直したことも珍しくなかった」とありました。
66.7の碓氷峠が如何に「激坂」だったかを、改めて思い知らされました。
すでに「モノクロームの光景」。
でも、
こんな「紅」や、
こんな「黄」も、まだ残っていました。
車に戻り移動、こちらへ。
漆久保トンネル。
早速、歩きます。
すぐに着きました。
キャプションです。
使われている煉瓦は、地元明科で焼かれたもの。
天井。
蒸気機関車の煤が沁み込んでいました。
トンネル出口から前方を臨んで。
誰もいないこの光景を独り占めしました。
振り返って、トンネル出口。
陽が当たらぬ姿が、冬の訪れを無言で伝えていました。
車に戻って移動、廃線遊歩道の終点、第二白坂トンネルです。
遊歩道の終点、通行不可能と聞きましたが、
その通りでした。
2000メートルを超えるとか。
通行可能にしてほしいですが、距離が長く安全対策にお金がかなり掛かりそう…。
手前には、こんな清流と橋が。
暫く橋の上に建ち、川面を眺めました。
この地で列車を走らせることに尽力した、当時の駅員、機関士、保線員などの方々を思い、頭を下げました。
いろいろなことが思い起された廃線散策。
大変に充実した休日でした。
【今日の「オマケ」!】
至近に白鳥が越冬する場所があると知り、訪れました。
「お、47羽もいるのか、どれどれ…」
入ってみると、
1羽も見えず、夥しい鴨が「ガアガア」鳴いていました(笑)!
白鳥に会えずちょっと残念でしたが、暫く鴨サンのコケティッシュでのんびりとした「ガアガア」を聴いていました。
…いつの間にか癒されていました!
微笑んでいる自分を自覚しておりました。
ボクは「独身還暦」!
彼らを見習い、これからも「ガアガア」鳴き、鳴き続けようと思いました。
…「鴨サン」に、勇気を戴きました。
「ありがとう!」