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2021年05月30日 イイね!

Emerson Lake & Parmer "Take a Pebble" in Zurich 1970

Emerson Lake & Parmer "Take a Pebble" in Zurich 1970 前の記事でも触れましたが、ウィンドウズ7が殆ど動かなくなり、三週間前に買い替えました。おかげで久し振りに動画を見ることが出来るようになり、週末は夜更かしばかり。
 音楽好きのボクには、現代は「天国」のよう。
 当時、音声でしか触れることの出来なかったミュージシャンの映像が、ネット上にはゴマンと転がっているから…。

 今日は、Emerson Lake & Parmerの1st.アルバムの2曲目、"Take a Pebble"をご紹介します。

 ブリティッシュ・ロックがお好きな方なら誰もが知っている、ピアノ、ベース、ドラムのトリオ。ジャズの世界では当時、ビル・エヴァンス、ウィントン・ケリー、ケニー・ドリュー等、数多のミュージシャンにより、ピアノトリオによる演奏は市民権を得ていました。ところがロックの世界では、成功例はほぼ皆無…。これは、ジャズがアコースティック楽器によるものが多く、例外的にギターとオルガンが使用された程度であったのに対し、ロックは60年代のフラワー・ムーブメントの勃興とともに成長、やがて大観衆の前での演奏を前提に、P.A.による大音量が必須とされたことが大きな要因。その十分条件となったのは、エレクトリック・サウンドで、中心を担ったのがジャズでは脇役に過ぎなかったエレキギターでした。

 1969年のデビューから、2021年の今まで活動を続けるのが、キング・クリムゾン。そのオリジナル・メンバーが、ベース、ヴォーカル、ギターを奏でるグレッグ・レイク。バンドマスター、ロバート・フィリップは「奇人」でメンバーとの衝突が多く、デビュー・アルバム「クリムゾン・キングの宮殿」の発売後のツアーを終えると、彼と演奏をしない作詞担当者以外の全員が脱退してしまいます。来る日も来る日も、暴力的な曲と、180度異なる抒情的な曲を演奏、終了後はバンドマスターとの諍い…。優しかった人たちは、精神的に疲れ果てたのだとか。
 
 ところが、レイクの脱退理由は真逆でした。
 
 全米ツアーのフェスティバルで、トリオ編成のザ・ナイスと共演。キーボード奏者が演奏の核でしたが、決して成功していませんでした。それが、キース・エマーソン。バックの二人の技量が明らかにプアーだったのでした。レイクは、エマーソンが超絶テクニックで繰り出すサウンドと、自らのベース、ヴォーカル、ギターがコラボすれば、誰も成し得ていない荒野を開拓出来る、イギリスに止まらずこの広いアメリカで成功することも可能、との青写真を描きました。
 
 ツアーを終えて帰国した二人は、早速スタジオでセッションを開始。「イケル!」と確信し、若くてエネルギッシュなドラマーを探します。お眼鏡に叶ったのが、クレージー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンという全く無名のグループにいたカール・パーマーだったのでした。

 ボクが初めて彼らのサウンドを味わったのは、1973年の中学1年生の時。
 当時不定期にNHKが放送していた「ヤング・ミュージック・ショー」、土曜日の午後でした。この時は「展覧会の絵」全曲が放映されました。クラシック的ピアノと暴力的キーボードが核でしたが、ベーシストがアコギに持ち替えて歌う弾き語り「The Sage」に、すっかりやられてしまったのでした。当時、4枚のアルバムが発売済でしたが、この年の12月、5枚目の「恐怖の頭脳改革」が発売されると知り、月に2000円の小遣いをなるべく使わないように努め、発売日に買った時のトキメキは、今も胸に存在します。

 この曲は1970年、スイスのチューリッヒでの映像。
 
 冒頭はオリジナルにほぼ忠実な演奏ですが、5分過ぎ、アコギのパートが休符の直前。オーディエンスから何か声が掛かり、レイクが二言三言返します。すると直後に、オリジナル・ヴァージョンには収録されていない曲を歌い始めます。ボクは全く知りませんが、何処か牧歌的でアメリカのカントリーを彷彿させられます。

 

 6分30秒前後。
 アルペジオの最後の一弦を弾く前で、レイクがオーディエンスに人差し指を立てて唇にあてがいます。するとパーマーがドラムセットから降りて接近。オーディエンスに

「少しだけ、少しだけ待ってくれ!ホントにやるから!!」

 パーマーの右手には小さな鐘、左手に小さなスティック。

 パーマーがレイクにリクエスト。

「4つ、くれ!」

 レイク

「ワン、ツー、スリー、」

「フォー」

 同時に、鐘と弦の音…!



 この後、エマーソンがピアノソロに入り、途中からレイクとパーマーが入ります。このパートで奏でられるのはジャズ。後年、ライブ盤「レイディース・アンド・ジェントルメン」に収められた曲。こんな結成当時からレパートリーで披露していたとはオドロキました。足や肘で鍵盤を叩くパフォーマンスも!



 延々とソロを続け、コーダに戻る気配のないエマーソンに、レイクが首を振りながら「しょーもねーなー…」と諦め気味の苦笑…。


 三人とも、若く卓越した時代でした。

 キース・エマーソンは、一昨年に亡くなりました。
 病により指が思うように動かなくなり、抑鬱的になり自刀…。

 グレッグ・レイクは昨年12月7日、病でした。

 この歳になると、胸をときめかせて買い、初めて針を落としたレコードの主人公の訃報を知ることが多くなりました。それだけボクも、歳を重ねたと思い知らされます。


 この映像に寄せられた、英語の「イイネ!」のコメント。

「若い方々へ。史上最強のトリオですよ!」

 …何度も頷きました。


ttps://www.youtube.com/watch?v=ux9B-rDQ6yQ



 






Posted at 2021/05/30 17:46:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | レコード(ブリティッシュ・ロック) | 音楽/映画/テレビ
2021年05月30日 イイね!

「他人を尊重できないなら出ていけ」(ジェイ・シルベリア中将)

「他人を尊重できないなら出ていけ」(ジェイ・シルベリア中将) ウィンドウズ7を使い続けて来ましたが、速度の劣化が激しく、遂に使用に耐えなくなりました。三週間前、大枚を叩いてかなり高級なものを買いました。動画が「サクサク」動き、週末は音楽ものを長時間楽しんでおります。中でも、キング・クリムゾンやエマーソン・レイク&パーマーの全盛期の映像と音には圧倒されっ放し。昨年のボクの誕生日に亡くなったグレッグ・レイクは、どちらにも登場。水晶の如き声に、目頭が熱くなりました。

 もう一つ真剣に見たジャンルがあります。
 それは「演説」。

 中でも秀逸だったのが、アメリカ空軍士官学校校長のジェイ・シルベリア中将によるもの。士官学校予備校の学生寮で、黒人学生に対する人種差別的な罵倒が、ドアの伝言板に書かれた問題に、毅然とした態度で「名演説」を行いました。

 心中の「怒り」を封印。
 鋭い視線を立ち並ぶ学生に配りながら、原稿を読むことなく、自らの考えを淀みなく分かりやすい英語で語ります。

 ボクは還暦になりましたが、男とはこうあるべき、との思いで胸が埋め尽くされました。

ttps://www.youtube.com/watch?v=XtyCvA8eN18
 
 責任の擦り合いを繰り返す、某大臣と某自治体の知事。
 圧倒的多数の国民の声に耳を貸さぬ、某国のトップ。
 この国の民を蔑むかの如き発言を繰り返す、某国際組織委員会の幹部…。

 シルベリア中将のこの演説で、トップに立つ者は、常に後に従う者たちの模範でなければならないことを再認識させられました。

Posted at 2021/05/30 10:03:32 | コメント(0) | トラックバック(0) | 明日に架ける言葉 | 日記
2021年05月22日 イイね!

平太周 味庵 (東京都品川区)

平太周 味庵 (東京都品川区) 昨日5月21日、お昼にこちらを伺いました。

 会社の至近。東急池上線の大崎広小路駅から直ぐの「平太周 味庵」さん。おそらく、およそ5年ぶり位です。
 こちらは、「背脂ギトギト」ラーメンで有名なお店。

 40年前。
 名実ともに、立派(?)な貧乏学生でした。
 成績が悪く浪人をせざるを得ませんでしたが、何とか拾ってくれたのは三流私大。二年後には三歳下の妹も進学。親父は工場勤務のエンジニア、ほぼ同時に二人の子供の学費と生活費を捻出するのは困難でした。そのため、入学直後から生活費を稼ぐようになりました。

 最も稼いだのは、横浜のドヤ街、寿町での日雇い労働。当時、既に労働者の高齢化が進んでおり、ボクのような若者が「アブれる」(仕事を貰えない)ことは、ほぼ皆無でした。一日中、世田谷通りで穴を掘ったり、金沢八景の埋め立て地で建売住宅の下水配管をしたり…。体はクタクタになりましたが、日給は当時では破格の1万2千円くらいでした。
 
 これが夜勤になると倍になりました。
 テナント飲食店の修繕や解体が大半でした。

 収入は良かったけれど、いくら若くても体がもたなかったこと、危険な現場も多く、怪我をしても何の保証もなかったことから、一年ほどで足を洗いました。

 代わりに始めたのが、アルバイトの掛け持ち。
 塾の講師、交通量調査員、左ハンドル輸出車の船舶への積み込み運転、羽田空港での機内清掃、私鉄運賃値上げ前夜の券売機料金表示板の交換作業、ちり紙交換車助手、果てはラブホテル前での証拠写真撮影まで…。不思議なもので、常に他人の傍らで真面目に取り組むと若くても評価されたようで、あちこちから仕事の声が掛かるようになり、経済的に困ることはありませんでした。でも監視されているような気分が嫌で、いつしか独りで完結出来る仕事を選ぶようになりました。

 その代表的なものが某大手不動産販売会社の「中古マンション」売買チラシの配布。当時、1枚2円、5000枚で10000円でした。結構大変でしたが、大きな処を狙って配れば、日没から始めて夜明けまでには終わりました。オプションのキャリアをつけた中古のベルーガ80。リヤシートと荷台、それに足元のステップに積み、未明の都内を「ヨタヨタ」走っていました。配ったチラシが縁で成約すると、「斡旋料」との名目で、結構な金額を戴きました。

 当時、板橋方面の時。
 必ず「夜食」に立ち寄ったのはの環七の外回り。川越街道をオーバークロスで渡り東武東上線を潜った先。今や伝説となった「土佐っ子」でした。

 環七と平行に一直線のカウンター。
 左端に4人掛けのテーブルが一つだけありました。
 お店に入ると、カウンター左端で料金先払い。メニューは「ラーメン」と「チャーシューメン」、それにオプションの「ゆでたまご」だけ。お支払いが終わると割り箸が渡されます。お尻が赤く染められたものと普通のものと2種類あり、17本ずつのローテーションでした。つまり、一回の「茹で」は17杯分、配膳前に店長が「赤い箸の方、おまちー」と言います。この場合、普通の割り箸を持っていたら次のロット、「白い箸の方…」と呼ばれるのを待つシステムでした。

「土佐っ子」の特徴は、濃い醤油ベースのタレを、豚骨や鶏ガラ、ニンニク等の野菜で作ったスープで割ります。そこへ茹で上がりが少しクタッとした「つるや製麺」製の細い多加水麺と具を入れ、最後に柄のついたザルと柄杓に豚の背脂と煮込んだニンニクを挟み、17個の丼の上からバシャバシャと振り掛けます。箸を割り最初の仕事は「天地返し」。最深部は濃い醤油タレ。中間はスープ。「蓋」は背脂。これらの三層を馴染ませ、初めて味わうのでした。
…柔目の麺とコッテリのスープのコラボがとてもおいしく、まさしく「深夜の後ろめたい禁断の味」でした…。

 そんな「名店」でしたが、おそらく1986年か87年頃を境に、味が「ガクッ」と落ちました。

 ボクは当時、地方の営業所に勤務していましたが、19時から4時までだけではなく昼間の営業も始めたと知り、出張のついでに午後に食べに行きました…。
 …従前の味わいは皆無。ただ脂っ濃いばかりで、何だかピーナッツを擂り潰したような味…。丼には「なすび」の文字…。半分ほど食べましたが、それ以上はとても無理でした。

「土佐っ子」に関するHPは幾つもありますが、総括すると、当時の経営者がギャンブルで多額の借金を負い、ある反社会勢力に経営権を譲渡したとの記述が多く見受けられます。この新たな雇用主の方針に従来から務めていた従業員の多くが退職、中山道沿いの板橋本町に「元祖土佐っ子ラーメン」を開きます。しかし「土佐っ子」が商標登録されて使えなくなった事などから閉店、ここに居た3人が共同で開いたのが「平太周」さんなのだとか。



 やっと、写真が出て来ました(笑)。
「こってりラーメン」と「味玉」を購入しました。



 蘊蓄が掲げられています。
 「平太周」の姉妹店とありますが、本家は既に閉店したと聞きました。
 店内はカウンターのみで通路は狭く、こんな角度になってしまいました。ごめんなさい。



 

 カウンター上にも蘊蓄が。
 脂が体に良いのかは少々疑問ですが、緑黄色野菜と無縁のエスキモーが脚気にならないのは、アザラシやカリブーの生肉を通じてビタミンを摂取しているからと、何かの本で読みました。



 やがて、目の前に配膳されました。
 うおー、見た目のインパクトが凄い…!



 底部から麺を引き出します。
 やっぱり、染まっています。



「天地返し」!
 攪拌します。



 チャーシューはバラロール!
 スープとの相性が良く、柔らかくておいしいもの。



 メンマは薄味。
 と言うよりも、スープの味が濃くて、よくわからない…。



 デフォルトでゆで卵1/2が入ります。
 8割方、黄身が固まったもの。



 味玉は液状の半熟。
 このスープには、固ゆでの方が合います。

 麺は当時の「土佐っ子」よりも格段に太く、硬い食感でした。
 スープ以外は全部食べました。

 出自は「土佐っ子」ですが、似ていながら非なる味わい。それはそれで、美味しく戴きました。ただ、40年前とは異なり、後で太田胃散を服用してしまいました…(笑)。

 「東池袋大勝軒」と同様、「土佐っ子」はその後出店、亜流が相次ぎましたが、現在営業中のお店は限られています。こちらの他でボクが知る限りでは

 平太周 味庵 神保町店
 環七らーめん てらっちょ 我孫子店 (千葉県我孫子市)
 環七らーめん じょっぱり (埼玉県鴻巣市)
 拉麺 梅太郎 (埼玉県所沢市)
 下頭橋ラーメン (東京都板橋区)
 環七ラーメン 周麺 (群馬県高崎市)
 環七土佐っ子ラーメン (東京都豊島区)

 まだ他にもあるかも知れません。
 なお、最後の「環七土佐っ子ラーメン」は、一説によると初代の経営者が愛人に与えたお店とのこと。経営権を譲渡する以前からこの看板を使用しているため、土佐っ子を名乗れるとされています。

【追記】

 この記事を書き終えてからネットを探すと、何と全盛期の「土佐っ子」を紹介したドキュメンタリー映像を発見しました。1日にチャーシュー用の豚肉100キロで2500枚、メンマ20キロ、卵900個、麺1200食、箸1500本…。一夜で1150食を販売…。改めて凄いお店だったと実感させらました。
 ご興味のある方は、下記を訪れてみて下さい。

https://www.youtube.com/watch?v=WehfijiXCko


平太周 味庵

東京都品川区大崎4-2-2 トーカンマンション五反田1階
03-3495-9800

11:00-23:30 無休
Posted at 2021/05/22 09:16:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | ラーメン | グルメ/料理
2021年05月16日 イイね!

書翰集 (長野県安曇野市)

書翰集 (長野県安曇野市) 4月24日の土曜日。
 前回の難聴治療時にシュタイネさんを訪れ、ガルニさんで昼食を戴いた後、こちらを訪れました。



「書翰集」さん。
 安曇野の温泉郷、山麓線から少し東に入った処。
 緑に囲まれ、ウッディでシックな建物。
 ちょっと見には、シュタイネさんと似ています。



 板張りのテラスから、玄関へと歩き入ります。



 左奥が扉。
 モーゼのような像が迎えてくれます。



 扉の正面は、2階への階段。
 おや、左側にスゴいものが…。


 巨大な管球式のパワーアンプ!
 詳しい知識がないボクですが、その存在に圧倒されました。



 デノン製のCDプレイヤー。
 嘗てボクが高校生から大学生の時代、「デンオン」と呼ばれていました。
 白いケーブルが繋がります。
 どうやら、ネットワーク再生の模様。



 ほぼ半分が、吹き抜けの天井。
 一階と二階のほぼ中間に、巨大な造り付けのスビーカー!
 フルレンジのようで、ツイーターの類はなし。



 CDのコレクション。
 実に多岐に渡るもの。
 ジョン・コルトレーンのインパルス盤、フルトベングラー、果ては浅川マキのライヴ盤まで…。インテリジェンスが垣間見えます。
 この時はごく小さなヴォリュームで、クラシックが流れていました。

 経営は七十代とおぼしきご夫婦。
 微笑みがチャーミングな奥様に、「二階のお好きなお席へ」と言われました。





 階段を上がります。
 左は吹き抜け天井の下、厨房の真上。
 既に席が埋まっており、右へ。

 何と、窓のない東と南面には、巨大な書棚!
 食い入るようにコレクションの背表紙を拝見しました。

 圧倒的な冊数だったのが、フロイト。
 他にはグラムシ、プルードン、等々…。

 開架式のこれらの蔵書、一杯のコーヒーだけで、そう簡単に読めたものではありません。それを想定してか、貸出をして下さるシステム。
 
 …CDや蔵書から、ご夫妻は典型的な全共闘世代と想像しました。



 こちらを訪れた目的は、スーベルーニの珈琲豆。
「明日、安曇野へ行く」旨を話すと、会社の若い女性から「自家焙煎の、とても美味しいお店がある」と、お願いされたのでした。既に「ガルニ」さんで昼食後で満腹、エスプレッソにしました。
 
 …これが何と、深煎りビターでビックリ!
 これ程の「ど真ん中」は人生初!



 蔵書スペース内側の扉上には、達筆な店名が掲げられていました。
 あらためて「書簡」ではないこだわりを感じさせられました。
 篆刻の落胤もあり、高名な書家によるものかも…。


 

 安曇野のリゾートにひっそり佇む、「おとなの休日」。
 ちょっと分かりにくい場所ですが、若い「こどもたち」の会話は聞こえず、ゆったりとした気持ちで時の移ろいを楽しめます。

 ちなみに、会社で「おみや」の味は、大絶賛デシタ(笑)!




書翰集

長野県安曇野市穂高有明2186-140
0263-81-5165

11:00-17:00
月火水休







 

Posted at 2021/05/16 23:55:33 | コメント(0) | トラックバック(0) | コーヒー・喫茶 | グルメ/料理
2021年05月16日 イイね!

満願寺の微妙橋 (長野県安曇野市)

満願寺の微妙橋 (長野県安曇野市) 昨日5月15日。
 シュタイネさんを後にし山麓線を南下、途中で右折して山中へ向かいました。
 素晴らしい橋があると聞いたのでした。

 杉林に囲まれた駐車場に車を置きました。
 涼しいマイナスイオン、水音と鳥の囀りが満ちていました。

 少し歩きます。



 6体のお地蔵さんが迎えて下さりました。



 これは何でしょう?
 中央は「きのこ」のようなフォルム。
 こちらの方面の知識に乏しく、全くわかりません。



 やがて見えて来ました。
 目前に、立派な屋根付きの太鼓橋が!



 全景。
 我が目を疑いました。
 ここは長野県安曇野市の山中。
 京都や奈良ではありません。



 キャプションがありました。
 現存するこの橋は明治39年と、比較的新しいもの。
 最初に架けられたのは1556年以前とのこと。
 善男善女が極楽浄土へ渡る「三途の川」に架けたようです。

 特に規制されておらず、ボクも渡ってみました。



 橋の屋根とは思えぬ、仏閣建築そのもの。
 丁寧な彫刻が施されています。



「三途の川」の真上。



 渡って振り返ったところ。
「きのこ」はどうやら、風化した灯籠のようです。



 目前には「地蔵堂」が。
 ここから左奥の階段を登ると、お寺があるそう。
 夕方にはデイ・サービスから母が帰宅の予定。夕食の買い物をする都合があり、今回は訪問を見送りました。



 お寺の解説。
 ここには記されていませんが、帰宅後に調べたら「地獄絵」があるとか…。
 極楽浄土を願う訪問者への「戒め」だったのかも知れませんね…。



 お地蔵さんの前には、たくさんのミニカー玩具が…!
 きっと、かわいい男の子だったのでしょう…。
「逆さ別れ」を経験された方が、あちらでのお子さんの幸せを願って置かれたと想像しました。さぞかし辛かったことだろうと思うと、目が滲みました…。





 上の2枚は、ボクの職場に近い西五反田にある「子別れ地蔵」。
 
 至近の桐ケ谷斎場は、江戸時代からあるよう。
 当時、子供が先立つことを「逆縁」と呼び、親は火葬に立ち会えず、骨を拾うことも許されない掟だったとか。悲しみに暮れる親は、此処で子供の亡骸を見送ったとされています。
 現代と異なり、疫病で亡くなる幼い子供が多かったのだと思います。
 その当時の「親」の辛さは21世紀の今に引き継がれ、地域の方々がこうして美しい姿を保って下さっています。



 地蔵堂にも玩具が…。
 こちらには女の子向けのものもあります。

 亡くなられたお子さんの「あちら」での幸せ、すっかり衰えた母の安泰を願い、蓋のない升の賽銭箱に収めて手を合わせました。




満願寺

長野県安曇野市穂高牧1812

Posted at 2021/05/16 08:58:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 神社仏閣 | 日記

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「お知らせ http://cvw.jp/b/2970161/46422054/
何シテル?   09/28 15:34
 妻はアルコール依存と摂食障害を患い、主治医の勧めで調停離婚しました。その1年後、彼女は突然世を去りました。一年に2回の母親との別れを経験した一人息子と、ドライ...
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