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2022年02月13日 イイね!

都電27番のこと その弐

都電27番のこと その弐『永遠のチャンピオン』 大場政夫

 都電が王子駅前を発車すると、右の高い位置を走る京浜東北線と暫く並走、やがて左へカーブして離れます。丁度、その先が栄町の停留所。当時、ここも三ノ輪界隈と同じような、狭小住宅で埋め尽くされていました。
 そんなロケーションに、何故か『帝拳ジム』がありました。
 周囲の家屋と同様、「あばら家」然とした佇まい。
 
 帝拳が世界に輩出したのが、WBA世界フライ級チャンピオンの大場政夫。



 おそらく、ボクが小学校4年生の時、世界チャンピオンの座に就いたと記憶しています。それから何度も防衛戦を闘い、陥落なし。

 親父はボクシングの世界戦は必ずテレビ観戦していたので、当然ボクも。大場の顔と名前は脳に刻まれました。

 ある日、学校での出来事。

 友達の一人が登校するなり、興奮冷めやらぬ様子で言いました。

「俺さー、昨日王子駅で大場に会っちゃったンダー!白い背広で白い靴。顔を見たら大場じゃん!『握手してください!』ってお願いしたら、『ギュッ!』てしてくれてさー!『頑張ってください』って言ったら笑顔で頷いて、ポケットに手を入れて、これをくれたんだゼー!」

 彼が取り出したのは、何と千円札!
 当時の王子界隈の子供にとっては、まさしく『大金』!

 ボクは、お小遣いを貰った彼が羨ましかったけれど、あの大場のジムが栄町に存在すると知り、驚きました。王子から世界チャンピオンか…。

 ある夏の日のこと。
 ボクと同じ思いだった同級生が何人もおり、放課後に帝拳へ行ってみよう、と意見が一致しました。王子5丁目の停留所から乗り、4丁目、3丁目、2丁目、王子駅前、栄町の順。電車賃は子供料金で半額、10円か20円でした。

 栄町の停留所で降り歩いていると、目と鼻の先から『…バシッ!…バシッ!』と、サンドバックを打つ音が。木造の平屋。狭い道に面した側の窓は全開でした。そこを大人の男性ばかり7、8人が、少し離れて無言で眺めていました。
 ボクらは背が低く、中を窺うことが出来ません。一番大きな奴が2、3度跳び、中を確認しました。



「どう、大場、いる?」

「うん、緑のジャージとランニングシャツの選手が、たぶんそうだと思う」

 

 それから窓の下で、あれこれ話し始めました。



「会わせてください、ってジムの人にお願いしてみようか?」

「そんなの、ダメに決まってるじゃん!ボクシングの練習は、おれたちの野球とは訳が違うんだぞ!」

「怒らせたら、大場にボコボコにされちゃうかも…」


 
 少しすると「カーン!」とゴングの音。サンドバックの音も止みました。

「お、休憩だ!お願いするんなら、今だぜ!」

 するといきなり、窓から「ヌッ!」と、テレビで見た顔が現れ、ボクたちを見下ろしました。汗の雫がボタボタしたたり落ちました。

「坊主たち!試合中は呼び捨てでも構わないが、年上の人を呼ぶ時には『さん』をつけるんだぞ!」

 目が笑っていました。
 ボクたちの黄色い声は全て、チャンピオンに届いていました。
 直後、ジムから女性が現れました。

「…ホラホラ、ちょいとだけ、見て行きな!」

 壁際の板の間にボクたちは座りました。練習中の選手はチャンピオンを含めて2人だけ。それでも格闘家が放つ熱気はすさまじく、じっとしているのに、全身から汗が吹き出しました。

 やがて「カーン!」
 チャンピオンがサンドバックに向かいます。
 一発放っただけで、吊るされたサンドバックの尻が円弧を描きました。
 
 ボクは思いました。
 絶対にボクサーにはなれない、と。
 同時に、滝のような汗を流し、ひたすらサンドバックを叩き続けるチャンピオンの姿を目の当たりにし、興味本位や野次馬根性で訪れたことを後悔、自分はここに居てはいけないとの思いがこみ上げて来ました。
 
 皆、同じ思いだったよう。次のゴングが鳴るのと同時に、誰からともなく全員立ち上がり「ありがとうございました」とお礼を述べて一礼し、辞去しました。チャンピオンは笑顔を向け、赤いグローブを振ってくれました。

 帰りの都電の中。
 一様に押し黙ったまま。
 あまりの迫力と真剣さに、全員がノックアウトされてしまったのでした。

 忘れもしない昭和47年。
 10月16日に、親父の転勤で東北の某市へ移りました。
 11月12日、現・荒川線を残し、最後の都電廃止。慣れ親しんだ27系統の王子駅前・赤羽間がなくなりました。

 年が明けた1月のこと。
 テレビのニュースが、訃報を伝えました。



 1月25日。
 首都高速を愛車コルベットを運転中、チャンピオンはカーブを曲がり切れず反対車線に飛び出しトラックと衝突、即死…。

 5度の防衛を果たし、チャンピオンのまま旅立って行かれました…。

 きっと、ボクらのように、アポイントもなくジムに押し掛ける「ガキンチョ」は多かったのだと思います。そして「帰らせる」術を熟知されていたような気がします。

 あの夏の日の帝拳ジム、決して忘れることはありません…。


 
Posted at 2022/02/13 08:23:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 追憶 | 日記
2022年02月11日 イイね!

都電27番のこと その壱

都電27番のこと その壱 三連休初日の今日。
 相変わらず、朝早くから家の片付けをしました。
 そんな最中、オリンピックのスケードボードの中継が始まり、「ちょっとだけ…」のつもりが、手に汗握る展開で、最後まで見てしまいました。いやー、平野歩夢選手の沈着冷静な滑りに、心の底から感動しました。

 閑話休題。

 片付けの最中、押し入れから見慣れないモノが出て来ました。



 エアキャップでグルグル巻きにされていましたが、剥いてみて驚きました。
 これ、今では何と分かる方は少ないのでは…。

 かつて東京都内を網の目のように走っていた都電の系統版です。
 これは系統番号27。ボクの生まれ故郷の東京都北区は赤羽と、荒川区三ノ輪橋を走っていた路線のもの。



 ネットから拝借しました。
 こんな風に、電車の前後に掲げられていました。
 王子ではこの27、それに32、19の3系統しかありませんでしたが、須田町や銀座などでは次から次へと沢山の異なる番号を掲げた電車が来る中、乗客が目的地を経由する電車を選ぶために掲げられたもの。
 どうして今ここに在るのか、全く記憶がありません…。



 裏は、以前ご紹介した32番。
 今も荒川線を管轄する荒川車庫は、この2系統の運行を担っていました。
 ちなみに、当時の江戸っ子は「27系統」という呼び方はせず、

「27番で王子駅で降りて19番に乗り換え、終点の通三丁目で降りるんだよ!」

(ボクが霊岸島の母の実家を独りで訪れる時の言葉)

のように「番」と呼んでいました。

 この「27番」を見た途端、二つの記憶が蘇りました。
 今日は「その壱」を、半世紀前の記憶を紐解きながら記してみます…。



『「アルトマン」は優しく、ジェントルマンだった』





 その昔、南千住に「東京スタジアム」という野球場がありました。
 ボクが小学生の頃、ロッテオリオンズのフランチャイズ。
 
 高くても二階建ての家屋ばかりが並んでいました。
 日雇い労働者の町として知られた山谷に近く、典型的な東京の下町。そんな処に真新しい球場が存在しました。詳細は省きますが、ロッテの前身、大映の社長だった「ラッパ」の異名で知られた永田雅一社長が突貫工事で竣工させたもので、今で言う「バリアフリー」の設計でした。




 当時、「某」新聞を購読する家庭には、年に何枚か「後楽園球場」のチケットが無償で配られていました。

 ウチの親父は製紙工場のエンジニア。
 部下に何人も「左」政党の党員がおり、待遇を巡る突き上げやサボタージュに手を焼いていました。ところが購読紙は「A」。当然、我が家には「後楽園」は来ません。クラスメイトの多くが、「後楽園」の出来事に花を咲かせていた時代…。

 ある日のこと。

 それほど親しくなかったある友達に、「後楽園に行ったことがない」旨を話しました。
 
 彼は言いました。

「●●ちゃん(=ボク)、それなら一緒に、東京球場に行かない?」

 

…ハテ、東京球場?



 全く知りませんでしたが、彼によれば至近の王子五丁目の停留所で「27番」に乗り、終点手前で降りて直ぐ、とのこと。「プロ野球」とか「後楽園」との括りではなく、未知の場所への誘いに興味をそそられました。

 

 当日。
 半ドンの土曜日でした。
 給食はなく、帰宅しランドセルを置き、母から500円札を貰って出掛けました。記憶が曖昧ですが、彼と荒川遊園地で遊んでから向かったと思います。
 終点一つ手前の荒川区役所前で下車。
 寂れた家屋が並ぶ中に商店が点在する道を歩いていると、段々円弧を描く外壁が大きくなって来ました。

 ゲートの手前。

「ここで、ごはんにしよう!」

と、彼が言いました。給食がない土曜日。昼ごはんを摂らずに向かったのは、彼との約束。


「球場前に、おいしいおそばやさんがあるんだ!」

 
 彼、何度も来ているらしく、躊躇せず暖簾を潜り、扉を開けました。でもその途端に足が止まり、中に入ろうとしません。





ボク: 「どうしたんだよ、はやく入ろうヨ!






彼 : 「…、…、ア、……アルトマン…なんだ…!」

 




 テーブル席で窮屈そうに背を屈めた姿勢で頭だけを上げ、箸で蕎麦を食べていたユニフォームの黒人が、ボクたちを見つめていました。

 彼が名を語ってフリーズしてしまったのを見ると、満面の笑みで立ち上がり、ボクたちを誘いました。通訳の方も一緒、4人でテーブルを囲みました。

 ポカーンとしているボクらを座らせると、アルトマンはテーブル越しに長い漆黒の腕を伸ばし、白い掌でボクらの頭を「ゴリゴリ!」と撫でてくれました。

 アルトマンがテーブルのメニューをボクらに向けて呟きました。





「…スキ、…タベル!」

 



 お冷を持って来てくれた奥様が、





「坊やたち、何でもいいから、好きなものを食べるんだよ!アルトマンは、子供が沢山食べるのを見るのが好きなんだから!」

 



 当時、サラリーマン家庭で外食など年に数回。
 メニューを見ても、何を食べたら良いのか、何が好物なのかも分かりません。逡巡していたら、奥様が「カツ丼」に決めてくれました。

 …そう言われちゃったので、子供心にも必死に食べました。
 アルトマンは通訳の方を通じて




「子供は、沢山食べろ!」

「食べたら、体を動かす!どんなスポーツでもイイ!」

「お父さんとお母さんを、大事にしなさい」

「そして、何よりも自分を労わりなさい」

 と言い、




「これはボクの言葉ではない。ジーザスからのメッセージ!」




 ボクらが食べ終えると、アルトマンは立ち上がりました。
 直ぐに後を追いました。
 ユニフォームの股間から、店の扉が見えました。



 アルトマンはその場で支払いをせず、「アリガト!」と奥様に言い、お店を出ました。ボクが2センチ四方くらいに畳んで小さなお財布に入れていた500円札を取り出して広げようとすると、



「いいんだよ!」



と、奥様が微笑みながらの優しいイントネーション…。

 

 生まれて初めて、親や親戚ではない方からご馳走して戴きました。


 
 誘ってくれた彼は、南海ホークスのファン一家の育ちでした。
 通っていた小学校の裏で町工場を経営していたお父様は、いわゆる贈答品としての「優勝カップ」を作っていました。この日をきっかけに、彼と頻繁に遊ぶようになりました。茶の間には優勝していない年も含め、毎年分の「ホークス」のカップが並んでいました。

 




 ところで、当日の試合。

 …全く、覚えていません。
 とにかくお腹がいっぱいで、殆どバリアフリーの「通路」で横になっていました(笑)。当時の「パ・リーグ」はガラガラでした…。

 彼は、「南海ファン」「野村ファン」だったのに、連れて行ってくれたのは一塁側!つい先刻の出来事でアルトマンに心酔してしまい、「南海ホークス」「野村」は好きだけれど、「アルトマン個人を、『もっと好き!』になってしまったのでした。

 後日談。

 それから彼と、何度も東京球場へ通いました。
 今でも成田、有藤、木樽、醍醐、村田、山崎といった、当時のオリオンズのスタープレイヤーの記憶は醒めることはありません。阪急は米田、梶本、長池、足立、それに入団間もなかった山田。東映は大杉、南海は野村、佐藤。近鉄とライオンズの選手は殆ど記憶になく、おそらく観戦したことはないと思います。
 

 毎回、暖簾を潜る時、

「アルトマン、お蕎麦を食べているかも!」

と、胸をときめかせましたが。

…あれが、『最初で最後』デシタ(笑)!


 
 お後が宜しいようで…。
 長々とお付き合い戴きまして、有難うございました!




Posted at 2022/02/11 17:03:59 | コメント(2) | トラックバック(0) | 追憶 | 日記

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