
そんなに沢山はいらっしゃらないと思いますが、時々お越し下さる皆様、お元気でいらっしゃいますか。
今、人混みや密閉空間は危険。
思い切って、かねてから訪れたかった「無人の地」に行くと決めました。
一昨日。
自宅から国道299号線を西北に遡上、秩父市内で140号に左折しました。
大滝を過ぎ雄大な「ループ橋」の先、滝沢ダムが堰き止める秩父もみじ湖です。
この先を右折、県道210号線に入ります。
光景が一変、V字型の峡谷沿い、トンネルとカーブが続きます。
こんなトンネルが続きます。
道路中央の日陰には、こんな大木が。
その生命力に感動しました。
間もなく、この地点に到着しました。
ロードスターの幌と道路案内看板の間に、トンネル入口のコンクリート製の庇が見えます。
ここを右折します。
道は一変、擦れ違いも困難な綴れ織り。
こんなオーバーハング。
「落石注意」とありますが、ロードスターは轟沈必至…。
清流です。
車を進め短いトンネルに入ると、二つの光玉が。
鹿クンが佇み、ボク(の車)を見つめていました。
追い立てるつもりは無かったけれど、鹿クンは前方に走り始めました。
暫く一緒に走りましたが、やがて右側のガードレールを飛び越え、沢に下りて行きました。
トンネルを幾つか通過すると、突然光景が変わりました。
水墨画のような枯れた山間の光景に、白いものが加わりました。
左には「これより鉱山道路」との標示があります。
先には鉱山の設備が見えます。
ここはニッチツの大黒坑。
石灰石を掘っています。
ドラム缶と古タイヤが地表にめり込んでいます。
少し進むと、道の左側にこの建物がありました。
「第一警備員詰所」とあります。
使われなくなり、かなりの年月が経っていると思われます。
その先には、長いトンネルが。
抜けると…
右側に潰れてしまった何かの建物が、辛うじて建っていました。
更に車を進めると、
事務所と思われる平屋の建物がありました。
休日だからでしょうか、人の気配は皆無でした。
ここは、株式会社日窒の秩父鉱山。
今は細々と石灰石と珪砂を掘っていますが、嘗ては鉄や亜鉛、金などの金属を採掘していました。最盛期は年間50万トンを産出、20キロ以上も離れた秩父鉄道の終点・三峰口まで山中に建設した索道で運んでいたのだそうです。
それほど大規模な鉱山だったので、こんな山深く隔絶された地に、従業員とその家族凡そ2000人が暮らしていました。沢山の炭坑施設はもとより、従業員の社宅、幼稚園、小中学校、劇場、診療所、公衆浴場等が存在しました。しかし1978年に金属の採掘を中止、ほぼ全ての人が新天地を求めて去りました。栄枯盛衰の経緯や鉱山の規模と設備は「毛無峠」でご紹介した小串鉱山と似ていますが、峠の索道柱を除き小串がほぼ無に帰しているのに対し、こちらには様々な設備が廃墟の如く存在します。
「株式会社ニッチツ資源開発本部秩父事業所」です。
この鉱山の総務部的な部門でしょうか。
事務所棟の左には、郵便局が!
「秩父鉱山簡易郵便局」です。
去年まではしっかり営業しており、「最も行きにくい郵便局」として知られました。ネットには「この郵便局で、記念に貯金通帳を作った」とか「自分宛てに葉書きを出した」などのエピソードが紹介されています。なるほど、そういう楽しみ方もあるのか…。
一時閉鎖とありますが、復活は厳しいと思います。
ネットで拾いました。
営業していた当時の姿です。
立派な姿ですね。
少し先に、この建物がありました。
入口に掛かるタペストリー状の帆布には「日窒三扇運輸(株)」と白い大きな文字が。
自販機は稼働中でした。
スケジュールを記入する黒板。
文字はありません。
はためく帆布を捲り、外から撮影しました。
ここにもありました。
こんな山奥で、明確に主張する色彩を放つ存在です。
少し進むと、川の対岸に鉱山のプラントが姿を現しました。
休日にもかかわらず操業中で、低い音を奏でていました。
頭上には、対岸とこちらを結ぶ橋が掛かっています。
おそらく、嘗ては木製の踏板が連なっていたのだと思いますが、一片も残っていませんでした。
鉱山の全景です。
製品の石灰と思われます。
社員の方が、トラツクに積み込み中でした。
プラントに向かう橋の袂には、壊れた事業所が辛うじて建っていました。
雰囲気満点の窓。
トタンの庇、木製の雨戸戸袋が妙に合います。
上には巨大なスズメバチの巣が!
この季節は繁殖前なので安全です。
元は商店、現代風に言えばコンピニでしょうか。
採光目的の二重屋根が、お客さんを迎える建物だったことを主張しています。
大きな庇の下で、おこづかいを握り締めて訪れた子供たちが、笑顔でおやつを食べたのでしょう。自分の幼い頃が甦ります。
その先。
坂の両側に、沢山の従業員社宅の廃墟が姿を現しました。
比較的新しいものと、かなり前、おそらく戦前のものとが混在しています。
ヤマの盛衰が垣間見えます。
この建物が、おそらく最深部。
この先、299号線の志賀坂トンネルまで道は続きますが、崖崩れのため通行は出来ません。
周辺には5、6台の他県ナンバーの車が停まっていましたが、どれにも人の姿はなし。無断侵入禁止の旨の注意書きがありますが、おそらくは…。
忘れもしない、昭和47年10月16日。
ボクは親父の転勤で、東京の工場に隣接する平屋の社宅を後にして、東北地方の某県に向かいました。ところが現地の文化になかなか馴染めず、学校でもよそ者扱いされました。東京時代が懐かしく、帰りたくて帰りたくて仕方がありませんでした。
翌48年春。
中学入学直前の春休みのこと。半年ぶりに東京を訪れ、真っ先に暮らしていた社宅を訪れました。工場は閉鎖される直前で、ほぼ全ての家が無人、まるでゴースト・タウンでした。それでも、懐かしい家に足を向けました…。
玄関の引き戸が破壊され、土足で上がった跡がくっきり。裏側の庭に面した縁側の雨戸は、バットを叩きつけたような穴が幾つも開き、裏側のガラスも割れていました。何か、自分の大切な拠り所を喪失した気がして、立ち尽くしたまま声を押し殺して泣きました…。
「廃墟マニア」とされる方々の中には、許可なく侵入して物品を持ち去る者も存在します。勿論、そんな輩は論外です。
たとえ今は廃墟でも、其処を心の拠り所とし、現在も懸命に生きている人が存在することを忘れて欲しくありません。自分の体験から、ボクはこういう場所でどうしても立ち入ることが出来ません。
このスレッドを「廃の美学」としたのは、そんな思いからです。
ボクがこういう地に足を向けるのは、自分と同様、故郷と呼べる地を持てず「根なし草」にならざるを得なかった方々が、確実に存在する証左を求めてのことです。言葉を換えれば「悲哀の共有」が目的で、物件としての廃墟や、其処に遺された物品に興味をそそられるからではありません。夢と希望に満ちて暮らしていた人々の息吹と、その後の辛苦を肌で感じながら、それでも「ボクはまだ生きている」との実感を噛み締めたいからです。
そんなことを考えながら帰途につきました。
トンネルに入ろうとした時。
反対側からこちらに向かうヘッドライトに気づきました。
大きさからすると、おそらくダンプカー。
お仕事が最優先、急いで後退・退避しました。
ダンプはトンネルを出ると、派手にクラクションを鳴らしてくれました!
《オマケ》
今でこそダンプが通る幾つかのトンネルは、昔はもっと断面が狭かったようです。鉱山の全盛期、西武バスが秩父や三峰口と鉱山の間に走っていましたが、普通のバスでは通行が困難なため、「三角バス」という車両を使っていたそうです。
これです。
ちょっとユーモラスですが、運転手さんは大変だったそうです。
当時のエピソードを紹介するページがありましたので、ご興味のある方は訪れてみて下さい(頭に「h」をつけて下さい)。
ttp://www.e-zabuton.net/image/yamazato-226.html