
昨日4月3日土曜日、須坂からの帰路、こちらを訪れました。
上田市の郊外、山王山公園。
館内は撮影禁止。買い求めたポストカード、本、館内で書き取ったメモからご紹介します。
伊澤 洋 『家族』
亡き洋の絵を守り続けた兄の民介氏は語る。
「うちは貧乏な農家だったから、こんな一家団欒のひとときなんか一度もなかった。きっと洋は出征前、両親や私たちとの幸福な食卓風景を描いていったんでしょうな」
当時の伊澤家には洋を美校にあげる経済力がなく、家宝にしていた庭のケヤキを処分して入学費にあてたのだという。
「洋は貧しい我が家の希望の星でした。
戦地から届いた白木の箱には、ほんの一握りの砂しか入っていなくて、
家族じゅうがその砂を掌にすくって泣き崩れていました」
1917(大正6)年2月16日 栃木県生まれ
1939(昭和14)年、東京美術学校油画科入学
1941(昭和16)年、歩兵第六六連隊に応召
1943(昭和18)年8月17日、ニューギニアで戦死
享年26歳
桑原 喜八郎 『少女』
航空写真部の所属。
スケッチブックがなく、戦地では紙クズを拾って絵を描いていたという。
昨日、戦争が終わった夢をみたんだよ、とほほえんでいた喜八郎は、写真機材を積んだトラックで移動中、夜間戦闘機に撃たれて死んだ。喜八郎の身体は粉々になって吹き飛んだという。
1920(大正9)年 静岡県生まれ
1940(昭和15)年 東京美術学校日本画科入学
1943(昭和18)年 学徒出陣で入営
1945(昭和20)年2月7日 ビルマ シアン高原で戦死
享年24歳
『少女』は、生家に近い菩提寺、曹洞宗正法寺からみつかったもの。境内で遊んでいた少女をスケッチしたものと推されるが、それ以上のことはわかっていない。
日高 安典 『裸婦』
「あと五分、あと十分、この絵を描き続けていたい。
外では出征兵を送る日の丸の小旗がふられていた。
生きて帰って来たら必ず、この絵の続きを描くから…」
安典はモデルをつとめてくれた恋人にそういいのこして戦地へ発った。
しかし安典は帰ってこれなかった。
弟、稔典さんの証言。
「モデルはだれかわかっていませんが、兄の絵のために肌を晒したのですから、たぶん将来を誓い合った仲だったんじゃないでしょうか」
「無言館」が開館して二年後の平成11年8月15日。
「感想文ノート」に、こんな匿名女性の手記があった。
安典さん、
今日ようやく、貴方が私を描いてくれた絵に会いに来ました。
私、もう七十歳のお婆ちゃんになってしまったんですよ。
でも、あの日。
貴方が描いてくれた日のこと、今も忘れていません。
あの夏は、今でも私の心のなかであの夏のままなのです。
1918(大正7)年 鹿児島県生まれ
1937(昭和12)年 東京美術学校入学
1942(昭和17)年 応召。
1945(昭和20)年4月19日 フィリピン ルソン島で戦死
享年27歳
蜂屋 清 『祖母の像』
清は祖母のなつに特別可愛がられた。
戦争が始まったころ、清はそのなつの顔を精魂こめて描く。
ばあやん、わしもいつかは出征せねばならん。
そうしたら、ばあやんの顔も描けなくなる。
清がつぶやくように言うと、
なつはうっすらと涙を浮かべただけで、
何も言わなかったという。
1923(大正12)年 千葉県生まれ
中央区京橋小学校卒業後、銀座のデザイン会社に勤務
1943(昭和18)年 満洲へ出征
1945(昭和20)年7月1日 フィリピン レイテ島で戦死
享年22歳
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Posted at
2021/04/04 03:18:47