
ボクは平日、毎日五反田の会社に通っています。
職場はJR・東急の五反田駅と東急大崎広小路駅の中間、ランチはいつもこの辺りで食べます。
10年ほど前。
池上線のこの部分のガード下は小さな旧い飲み屋街になっていましたが、橋脚の耐震工事のため全てなくなり、5年ほど前に工事が完了。今では小綺麗なお店が入居するに至りました。
ある日のこと。
目黒川沿い、東急池上線五反田駅のホーム下の橋脚をふと見ると、キャプションボードが掲げられていることに気付きました。
歴史的遺産の鉄橋
トレッスル橋とは
トレッスル橋は、鋼材をやぐら状に組み上げた橋脚による橋です。
鉄道用の橋としては日本でも数か所にしか残っていない、
非常に貴重な土木構造物で、
JR西日本山陰本線の名所として知られていた
餘部鉄橋と同じ造りです。
改めて見てみます。
なるほど、ボードの通り。
末広がりの橋脚が、しっかり地面を踏ん張る構造。
しかもここは複線のため、トレッスルは二連。脳裏に刻まれた餘部(一般的には「余部」と記されることが多い)鉄橋は単線で、単体のトレッスルが等間隔に聳える美しいフォルムだったことを思い出しました。
単体の近影。
灰色の姿は目立たず、しかも都会のゴテゴテした風景にあっては、この美しい姿は完全に埋没しています。でも「赤」はこの地では完全に浮いてしまうはず。…ちょっと「彼」が気の毒になりました。
ネットから拝借しました。
こちらが嘗ての余部鉄橋。
高さ41メートル、11連の赤いトレッスルは、今見ても大変美しいものです。
ところが、悲惨な事故に見舞われました。
1986年(昭和61年)12月28日13時25分頃、香住駅より浜坂駅へ回送中の客車列車(DD51形1187号機とお座敷列車「みやび」7両の計8両編成)が日本海からの最大風速約 33 m/s の突風にあおられ、客車の全車両が台車の一部を残して、橋梁中央部付近より転落した。転落した客車は橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を直撃し、工場が全壊、民家が半壊した。回送列車であったため乗客はいなかったが、工場の従業員の女性5名と列車に乗務中の車掌1名の計6名が死亡、客車内にいた日本食堂の車内販売員3名と工場の従業員3名の計6名が重傷を負った。なお、重量のある機関車が転落を免れたことと、民家の住民が留守だったことで機関士と民家の住民は無事だった。しかし、事故後に機関士の上司が自殺した。
(※以上、ウィキペディアより抜粋)
当時ボクは26歳、結婚前。
新卒で入社したレコード会社の、ある地方営業所に勤務していました。
最初の赴任地が大阪だったら、夏の休日に普通列車に乗り、窓を開けてこの鉄橋から日本海を臨もうと決めていました。ところが赴任地は大阪から離れた地。いつかはと思っていたらこの事故…。結局横に新しい橋が架けられ、旧橋は廃止されてしまいました…。
ちょとネットで調べたところ、トレッスル橋は数は少ないものの、まだ日本に存在すると知りました。しかも、そのうちの一つが、何と我が家から近い奥多摩なのでした。
昨日、数馬分校、たちばな家の後に寄って来ました。
生憎の天候と夕刻近くのため、暗い写真になりましたがご勘弁下さい。
場所はJR青梅線の軍畑(いくさばた)駅手前、奥澤橋梁です。
ボクのロードスターが停まっているのは、軍畑から埼玉県名栗に抜ける都道193号線。御覧のように、地表からかなりの高さを跨ぎます。余部の41メートルには絶対敵いませんが、五反田駅よりは高い地点を横切ります。
真下から仰ぐと、その偉容に圧倒されました。
この様式の橋には、やっぱり赤が似合います。
腕を組み足を開いて立つ、照ノ富士を連想しました。
それにしても、昔の建築物は実用一点張りではなく、設計者の美学が見事に反映されていると、今回も思い知らされました。同時に、こんな近くに存在したことに驚きました。
ネットで調べたところ、南海電鉄高野線の山中にも、大変美しいトレッスルが存在すると知りました。今度は、南海電車で極楽寺まで乗り、高野山を詣でることを目標にしました。
ブログ一覧 |
旧き良き建築 | 趣味
Posted at
2021/09/26 16:13:29