
ボクは毎日、西武池袋線で通勤をしています。
帰路に池袋から乗るのは、急行の飯能行。飯能はボクが住む入間市の西隣で、市内には旧い建物が今も数多く残っています。
今でも林業が盛んで、西川材と呼ばれる良質な材木は、家屋の他、家具などの製作に用いられています。
江戸時代、江戸の街は何度も大火に見舞われましたが、その度に再建に使われたのが、この西川材。伐採した材木を飯能で筏に仕立て、入間川から荒川に入り、江戸に届けられました。
明治の時代に入ってもそれは続き、飯能には多くの材木商が財を成し、また多くの男衆が集まりました。特に、何日もかけて江戸に材木を送り届け、陸路戻って来た時。彼らは懐には大金を忍ばせていました。その「受け皿」として花街が発達、最盛期には芸子が凡そ200人も存在しました。
先日。
そんな時代を偲ばせる建物を紹介するホームページを拝見しました。
そこに紹介されていた1軒の家屋に、ボクは目が釘付けになりました。
黄色い平屋の看板建築です。
残念ながら4連の引き戸はアルミ製に交換されていますが、その上横長のの凹みは、採光が目的というよりも、何か妖しさが漂います。
手前の窓です。
「飾り窓」との表現が相応しいものです。
どうしても現物を見てみたくなり、現地に向かいました。場所は鰻屋「畑屋」さんの横を入ってすぐとのこと。
ところが…。
既に解体され。跡形もなくなっていました。
その直後に先週ご紹介した江州屋さんを訪れた際、奥様にそれをお話ししました。奥様によると、4、5年前に突然取り壊されたとの事。それまでは、あの建物と窓を見に来る人が沢山いたそうです。
という訳で、目的の建物にはお目にかかれませんでしたが、市内に残る旧い建物を探して散策しました。
まずは、その「畑屋」さんです。
写真の右に見える道が、嘗ての花街への入り口。
「畑屋横丁」の看板です。
「通れ〼」が、いかにもの表現です。
玄関の前には、うな重の写真が!
焼きの芳香も漂い、入りたくなりました。
先ほどの写真の路地を進み、畑屋さんを反対側から見たところです。
大きな木造三階建てで、この部分は嘗ては料亭だったそうです。
現在、こちらの建物はお店としては使われていないと聞きました。
路地に面した、料亭としての玄関です。
うなぎ屋さんの玄関としては使われていません。
2階部分です。
左側の木造部が玄関上、右側のモルタル部が3階建ての部分です。
中を拝見したくなりました。
路地を南下した角に、こちら「八千代」さんが佇んでいます。
玄関です。
「料亭」の表記が掲示されています。
その隣は「4代目高島屋」さん。
こちらの玄関も、格式高いものです。
この2軒が並ぶ姿を見ていると、とても飯能の市街とは思えません。
あたかも、神楽坂のよう…。
この先は、住宅地にスナックや焼き鳥屋等が散見される地帯となります。
むしろ、花街だった場所に、時代の流れとともに住宅が浸食して来たと言う方が正確かもしれません。しかし、一般住宅地にこんな店舗があるとは、何ともアンビバレンツです。
こちらもそうです。
中には半ば廃墟と化した、元店舗も。
個人的に最も妖しく感じたのがこちら。
左に瓦を被った和式の門。
右の建物の1階部分は、中央に扉があるのみ。
今は一般の住宅ですが、嘗ての使途は言わずもがな、です。
花街関連の建物はここまで。
ところで、飯能には実に様々な時代と様式の建物が混在しています。
こちらは、先週ご紹介した「江州屋」さん。典型的な出桁造りの店舗です。
出桁造りとは、切妻屋根の2階建で、1階上部に軒を大きく前面に張り出したものを言います。また、防火の観点からこれを土で包んだものを土蔵造りと呼びます。
こちらは、飯能の代表的な土蔵造り、店蔵絹甚。畑屋さんの前にあります。
江戸から明治に掛けて、商店は出桁造りか土蔵造り、若しくはそれらの亜流が殆どでした。ところが関東大震災で損壊や焼失が多く発生しました。特筆すべきは土蔵造りが耐火性に乏しかったことだそうです。こうして、関東地方の店舗の
意匠が変化します。
関東大震災の後、バラックにより商店は復活します。
徐々に復興が進み、新たに店舗を建築する資力がつくようになると、関東地方の商店は、揃って「看板建築」に代って行きました。建物の前面に平板状の部分を成し、コンクリートやモルタル、銅板で覆った様式です。一見、洋風の佇まいですが、一枚後ろは従来型の木造でした。
この写真は、飯能銀座に残る、典型的な看板建築です。
現在は窓が4つ。中は2つずつ2区画に分かれており、右側が床屋さん、左側は週替わりで食べ物屋さんが営業する区画になっています。
看板建築である旨の説明書きです。
背後の左は看板建築の床屋、右は時計屋です。
ところが…。
左が床屋、右は一段飛び出して時計屋になっています。
ご覧のように、意匠の異なる建物が、どういう訳か繋がっています。
4連の看板建築の中央上部には、この模様が刻まれています。
そして…。
ピントが甘くなってしまいましたが、床屋さんと時計屋さんの接合部の上部です。例の模様が、床屋さん側に半分だけ残っています。
おそらく、この看板建築は、当初は6連窓で造られたのではないかと思いました。例えば、火事で右側の2連部分が焼失し、そこに後から造り足した可能性があります。
まだまだ沢山ご紹介したい建物がありますが、長くなりましたので、今日はここまでにします。
ここまでお付き合い戴き、ありがとうございます。
Posted at 2019/10/27 10:49:48 | |
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