• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ArtBlakeyのブログ一覧

2024年07月19日 イイね!

東海館 (静岡県伊東市)

東海館 (静岡県伊東市) 暫く更新が出来ませんでしたが、皆様お元気でいらっしゃいますでしょうか。

 この間、ボクは資格試験に向けて勉強に追われておりました。本番は、去る7日と13日でした。発表は8月下旬。マークシート方式の学科、記述式の論述、面接場面を想定したロールプレイング試験の3つ。正直、合格は難しいと思います。やはり年齢から来る、記憶力と臨機応変に対応する能力の低下を自覚させられました。

 これからをどう生きるかがテーマですが、結果がどうなるかは別として、取り敢えず一区切りがつきました。なので一昨日から昨日にかけて、彼女を誘い伊豆へ一泊二日の小旅行に出掛けました。



 今回、どうしても訪れたかったのがこちら、伊東市の「東海館」。木造三階建てで望楼を備えた、元旅館建築。現在は旅館としての営業はしておりませんが、内部を見学することが出来ます。
 
【戴いたパンフレットからの引用】

 東海館は、昭和3年に稲葉安太郎によって操業されました。昭和13年の伊東線開通により、湯治客から団体客への客層の変化に合わせて館内を増築していきました。当時、評判の棟梁が各階を分担し、望楼は昭和24年に建築されました。その頃、周辺は低層建築のため、望楼からの眺望は素晴らしく、天城山がよく見えたと云われています。
 また、狩野川台風で大きな被害を受けましたが、その後、時代に合った技術を取り入れながら修理改築を行いました。そして平成9年、東海館の長い歴史に幕を閉じ、平成13年に伊東の新たな観光名所として生まれ変わりました。



 玄関横にキャプションが貼り出されていました。
 中が楽しみ!



 見学料は何と200円!
 週末には日帰り入浴も出来ます。



 玄関は大空間!
 嘗ては多くの宿泊客で賑わったと想像しました。



 玄関正面の中庭。
 池がしつらえられ、小ぶりながらも太鼓橋が再現されています。



 東海館の歴史コーナー。
 従業員が着用した法被等が展示されています。





 映写機が2台。
 当時、伊東市に映画館が存在したのかは分かりませんが、上映会が催されていたのではと思いました。



 幽玄な雰囲気の廊下…。
 現代の小綺麗なホテルでは、決して味わえません。



 耐震工事の様子が紹介されていました。



 客室です。
 典型的な和式旅館…。
 敗戦後、この国は驚異的速度で復興し、コンクリートや金属を主体とする建築ばかりになりました。便利で快適になりましたが、反面、我々がいつの間にか手放してしまったものは数知れない、と思わされました。



 繊細な組み木の書院障子。
 富士山が優雅。



 別の客室。
 窓の外には川が流れます。
 蒸し暑い日で、クマゼミが鳴いていました。



 長火鉢。
 これも手放してしまったものの一つ…。



 日清戦争、日露戦争で活躍した東郷元帥(東郷平八郎)のコーナーがありました。彼は薩摩の出身ですが、リュウマチを患っていた奥様のために、ここ伊東市に別荘を建てたのだそう。伊東東郷記念館として、日曜日限定で公開されています。



 フラッグシップ「戦艦三笠」の模型が。
 実物は神奈川県横須賀市にあり、内部を見学することが出来ます。



 こちらは、三階の大広間。何と120畳!
 祝言の席や、



 芸者を呼んでの大宴会が催されていたことでしょう。



 望楼に上がりました。
 超高層の建築こそありませんが、周囲には同等かそれ以上の建物が多くあり、当時を想像出来る眺めではありませんでした。



 外から望楼を撮影しました。
 反対側には川が流れ、対岸から全景を撮った写真をネットで事前に見たのですが、蒸し暑さに加え、巨大な建物を見学して土踏まずが痛かったため、今回は見送りました。灯りに満ちた夜の姿も素晴らしいそうなので、改めて行こうと思いました。



 ヨットハーバーに立ち寄りました。
 海べりに佇んだのは、本当に久しぶりでした。
 潮の香とカモメの鳴き声に心が癒されました。

 今後をどう生きるか、いろいろと想いが巡る毎日…。
 間もなく64歳になりますが、男性の健康寿命が72歳とされている今、あと8年となった現実を、退職により深く認識するに至りました。

 もう一つ、今日も収穫がありました。
 東海館を建築した稲葉安太郎も、東郷元帥も、既に亡くなりました。
 そう、どれだけ偉業を成し遂げた人物にも、やがて終焉の日が訪れます。
 ボクとて、例外ではないと、改めて思いました。

東海館

静岡県伊東市東松原町12-10

0557-36-2004

9:00-21:00
毎月第3火曜日、元旦休


【今日の「オマケ」!】



 この日は、伊豆高原に泊まりました。



 一戸だけの貸別荘でした。



 なかなか良い雰囲気。







 オプションで、しゃぶしゃぶをオーダーしました。
 こんな等級の肉を味わったのは、人生で初めてかも!

 ただ、お腹はビックリしたようで、翌日は「哀愁列車」に(笑)!!




 
Posted at 2024/07/19 10:17:20 | コメント(2) | トラックバック(0) | 旧き良き建築 | 日記
2023年06月11日 イイね!

武相荘 (東京都町田市)

武相荘 (東京都町田市) 昨日10日、土曜日。
 神奈川県座間市のアール・エス・アイザワさんを訪れ、車検が終わったロードスターを引き取って来ました。社長曰く、「全く問題ないよー!安心して乗って大丈夫ダヨ!!」

 その帰路。
 かねてから訪れたいと思っていた、こちらを訪れました。
 白洲次郎・正子ご夫妻の終の棲家となった「武相荘」。
 この「華麗なるご夫妻」については、今更凡人のボクが記すのは野暮、以下にウィキペディアへのリンクを貼っておきます。

 白洲次郎はこちら。

 白洲正子はこちら。



 駐車場は反対側。こちらは鶴川街道側の正面入り口になります。



 案内図。結構広い敷地です。



 こちらについての、ごく簡単なキャプション・ボードがありました。



 門を潜った左の建物。
 一見、二階建てに見えますが、奥から眺めると崖状の立地で、三階建てです。二階は関連商品の販売コーナーで、11時に開きました。



 三階の窓。
 ステンドグラスの凝ったデザイン。
 いいなぁ…。



 その奥。
 東屋の中に、黒塗りのクラシックカーが見えます。
 ミッデミリアで堺正章さんが、ハンチングとゴーグルで運転して来そう…。



 ちょっと暗くなってしまいましたが、右45度から。



 ボクには全く予備知識がありませんでした。
 ペイジというアメ車で、次郎が17歳の時に父親から買い与えられたのだとか。白洲家は兵庫の豪商でしたが、後に倒産…。
 それにしても「バカデカイ」!日本はもとより、欧米でも現代とは異なり、まだ車がごく少数の時代。サイズや規格について、煩い縛りがなかったように想像しました。



 ステアリング。
 中心の六分儀のようなものは、何でしょう…?



 ボンネット先端のマスコット。
 凝りに凝った造形。アメリカ車ですが、英国車のような気品が漂います。バッジは日本の七宝焼きのような質感…。



 サスペンションはリーフ式。
 乗り心地は想像できますが、現代のクルマと比べる意味はありません。



 東屋の奥に、白壁の立派な山門。
 10時丁度に開きました。



 郵便受けは軒下の臼。



 右にはレストランとバー。開店は11時。
 中を覗くと吹き抜けでした。



 奥の本棟が、ミュージアムになっています。ご夫妻に所縁の品々が陳列されています。残念ながら、撮影はNG。ネットを探したところ、内部を紹介されているページを幾つか発見しました。

 上品倶楽部

 和楽web

LIFULL HOME'S



 その中から、2つだけお借りします。
 こちらは玄関を入ったところの居間。元々「武相荘」はかなりくたびれた農家で、ご夫妻は長い間、手直しを楽しみながら住まわれたとか。このリビングは牛を飼うスペースだったそう。床下には朝鮮風に言うと「オンドル」。温水による暖房が配されていると、スタッフの女性にご教示戴きました。ちなみにソファ等の調度品はもの凄い重量のため、ご夫妻の生前から動かしていないそうです。



 こちらは、文筆家として名を成した正子の書斎。
 こじんまりとした板の間に文机。
 左右に蔵書。
 ところが、この手前の六畳間は、壁一面が本棚!
 物凄い勉強家だった証…。



 レストランに立ち寄りたかったのですが、午後に所用があり諦めました。
 少しだけ写真を撮りました。

 これはバーの壁面。
 こんな素晴らしいステンドグラスが嵌め込まれていました。



 蛇口。



 水面の紅葉…。
 秋の再訪を決め、裏手の駐車場へと歩きました。



 竹林。



 切り株。



 枯れの「美」…。





 無駄のある家

 鶴川の家を買ったのは昭和15年で、移ったのは戦争が始まって直ぐのことであった。
別に疎開の意味はなく、かねてから静かな農村、それも東京からあまり遠くない所に住みたいと思っていた。
現在は町田市になっているが、当時は鶴川村といい、この辺に(少なくともその頃は)ざらにあった極く普通の農家である。
手放すぐらいだからひどく荒れており、それから三十年かけて少しずつ直し、今も直し続けている。

 もともと住居とはそうしたものなので、これでいい、と満足することはない。
綿密な計画をたてて設計してみたところで、住んでみれば何かと不自由なことが出てくる。
さりとて、あまり便利にぬけめなく作りすぎても、人間が建築に左右されることになり、生まれつきだらしのない私は、そういう窮屈な生活が嫌いなのである。
俗に言われるように、田の字に作ってある農家は、その点都合がいい。いくらでも自由がきくし、いじくり廻せる。
ひと口に言えば、自然の野山のように、無駄が多いのである。

 牛が住んでいた土間を、洋間に直して、居間兼応接間にした。
床の間のある座敷を寝室に、隠居部屋が私の書斎に、蚕室が子供部屋に変わった。子供たちも大人になり、それなりに家庭を持ったので、今では週末に来て、泊まる部屋になっている。
あくまでも、それは今この時間のことで、明日はまたどうなるかわからない。
そういうものが家であり、人間であり、人間の生活であるからだが、原始的な農家は、私の気ままな暮らしを許してくれる。
三十年近くの間、よく堪えてくれたと有がたく思っている。

『縁あって』「思うこと」より




武相荘

東京都町田市能ヶ谷7-3-2
042-735-5732

10:00-17:00 月休










Posted at 2023/06/11 16:12:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧き良き建築 | 日記
2023年01月09日 イイね!

半田赤レンガ建物(愛知県半田市)

半田赤レンガ建物(愛知県半田市) 1月7日、土曜日。
 ホームに入居する母の主治医との面談があり、現在予断を許さない健康状態にあることを告げられました。事実上「もう長くはない」と言われたにも等しく、何とも言い難い心境になりました。

 昨日8日、日曜日。
 普段の習慣から朝4時に目覚めましたが、前日の宣告が頭の一部に居座り、ただ茫然と座っているだけ。このまま独り家にいても、ただ徒に時間が過ぎるだけ。日常をかなぐり捨て、何処か未訪問の地を訪れようと決め、6時にロードスターに乗りました。

 あてどなく走り始めましたが、従前より訪れたいと思っていた場所を思い出しました。ただ、片道およそ350キロ!頻繁に治療に訪れる長野県須坂市が200キロ、倍近く日帰り旅ではほぼ限界の距離。しかし思い立ったが吉日、高速のインターに向かいました。



 という訳で午前11時、こちらに到着しました。場所は愛知県半田市。旧カブトビールの工場建物。こんな旧いレンガ建築が、今も偉容を誇ります。
 
 明治維新とともに、日本にビールを楽しむ習慣が浸透、あちこちにビール醸造所が建設されました。明治2年(1869年)に横浜でスプリングヴァレー・ブルワリー(キリン)、明治9年(1876年)に札幌で北海道開拓使麦酒製造所(サッポロ)、明治20年(1887)に東京で日本麦酒醸造会社(エビスビール)、明治22年(1889年)に大阪麦酒会社(アサヒ)が操業を開始。

 ここ半田では明治17年から18年にかけて、2、3社が醸造を開始。いずれも試醸の域を出なかったそうですが、明治22年(1889年)5月には「丸三ビール」と名づけた瓶詰ビール3000本が初出荷されます。明治29年(1896年)5月には株式会社とする発起人会を開き、同年9月に農商務省より丸三麦酒株式会社設立の免許を得て、取締役社長には中埜半左衛門が就任しました。

 明治30年(1897年)9月には、この半田榎下8番地で大規模な醸造工場の建設が始まり、明治31年(1897年)10月30日にに竣工。設計は工学士妻木頼黄、醸造機器はドイツ・ケムニッツ市のゲルマニア社から購入。同年に機械技師A.F.フオーゲル、醸造技師J.ボンゴルも着任。ドイツ式の設備と醸造方式で、製品は「加武登麦酒」の銘柄で市販されました。





 この広告塔、名古屋駅前に建っていたもののレプリカ。
 青空に赤の地が映えます。



 現代では、巨大建築は天に向かって聳える摩天楼ばかり。ところが洋の東西を問わず、この時代のものは面積で機能を充実する方式が大半。同じビール工場としては、嘗て鶴見川河口近くに存在した「日英醸造」跡が有名でした。晩年は廃墟のようになっていましたが、私企業の所有。遂に公開されることなく取り壊されてしまいました。おそらく、明治期のビール工場建築として現存するのは、日本ではこちらだけではないでしょうか。



 現代に偉容を伝える主塔。
 左端に千切り取られたような壁が見えます。



 反対側から。



 仰ぎ見ると、嘗ての切妻跡の「トマソン」が確認できます。
 ビール工場時代は、この手前にも建屋が存在していたのだとか。目の前は現在、住宅展示場になっていますが、煉瓦造りの醸造所はそちらに延びていた様子。また瓶工場、木箱製造所、事務所棟、ボイラー室と煙突などが存在しました。

 その後数度の合併を経て、昭和16年(1941年)12月までビール工場として使用されました。閉鎖後は中島飛行機の衣料倉庫となり、戦争中のアメリカ戦闘機による機銃掃射の跡が北壁に遺されています。

 昭和23年(1948年)からは日本食品化工株式会社が操業を開始、日本でのコーンスターチの本格的な製造を手掛けますが、平成6年(1994年)9月に閉鎖、旧中枢部の煉瓦造遺構を残し、その他の施設の撤去が始まります。ところが解体作業の進行に衝撃を受けた市民から保存を望む声が高まり、平成8年(1996年)、半田市が買い取ることとなり、耐震工事を実施の上公開されました。決して大都市ではない半田市のこの英断、拍手喝采に値します。



 中に入ります。
 正面は受付カウンター。



 常設展示は入場料200円。お支払いして見学しましたが、撮影は禁止。最盛期の工場の模型など興味深い内容でしたので、ちょっと残念。展示内容を冊子にし、2000円程度の有料で販売して欲しいと思いました。





 5階建ての主塔への階段が、当時のまま残っています。
 思わず上りたくなりました(笑)。



 北側の壁は、何と5重構造!
 醸造には冷却が必須のため、こんな堅牢な造りにしたのだとか。



 こちらは、ホール西。



 東側は、お土産屋さん。



 食事スペースがありました。
 丁度お腹かすいたので入りました。



 赤レンガカレーをお願いしました。



 コンソメスープがつきます。
 カレーの味は特筆に値しませんが、トロトロに煮込まれた豚肉と、4つ入ったパリパリのソーセージは、大変おいしいものでした。



 ショップでビールを買い求めました。
 帰宅して味わいたいと思います。



 朝6時出発、11時過ぎに現地着。食事を含め滞在75分。取って返し17時に帰宅。トンボ帰りの旅でしたが、充分楽しみました。
 
 …明治期の偉大な建築に触れ、改めて人間の弱さ、儚さを教えられた気がしました。あの巨大な醸造所の建築に携わった先人は、間違いなく一人も生きていないはず。そう、人間の生命は有限。母の容態が心配ではあるけれど、旅立ちが来たとしても自然の成り行き…。親父の時もそうでしたが、延命治療はしない方向で行こうと決め、妹にも事実をそのまま伝えました。

 訪れてよかった…。



 本日の走行729キロ。
 延べ195,061キロになりました。
 1997年式ですが、3回に分けてアイザワさんで手術をした結果、今日もノー・トラブルで走破しました。



 さて、お楽しみの「おみやげ」試飲!
 左の瓶を開けました。
 色は御覧のように「マックロ」!現代の黒ビールに近い味わいですが、ちょっと赤ワイン的なテイストも感じます。普段ビールをたしなまないボクですが、素直においしいと思いました。
 右側は今夜、風呂上りに呑むつもりです(笑)!


半田赤レンガ建物

愛知県半田市榎下町8番地
0569-24-7031

Posted at 2023/01/09 11:57:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧き良き建築 | 日記
2022年09月19日 イイね!

グリーンハウス (神奈川県藤沢市)

グリーンハウス (神奈川県藤沢市) 9月10日、土曜日。
 リン版画工房さんで活版印刷で名刺を作ったことはご報告済ですが、途中、こちらに立ち寄りました。

 神奈川県藤沢市のほぼ中央に位置する、県立スポーツセンター。広大な敷地に野球場、ラグビー場、テニスコート、体育館などの施設が集中、この地域のスポーツ活動のメイン会場として機能しています。そんな中に、ひっそりとこの建物が佇んでいます。



 外観そのままのネーミング「グリーンハウス」。
 1932年に開場された『藤沢カントリークラブ』のクラブハウスとして竣工しました。ところが2022年の現在、その名を標榜するゴルフ場は当地に存在しません。これは一体、どういう事でしょう?

 グリーンハウスは竣工以来、歴史の波に翻弄された存在と言って差し支えないと思います。当初はクラブハウスとして機能しましたが、やがて時代に暗雲が漂い始めます。当時、ゴルフな庶民からすれば「高嶺の花」のレジャー。風雲急を告げる時代下では敵性のもの、贅沢三昧の趣味として扱われ、やがてカントリークラブは閉鎖されます。
 
 代わってこの地に開設されたのが、海軍藤沢飛行場。旧藤沢カントリークラブを含め、広大な地が飛行場となりました。こうして、グリーンハウスには基地の司令部が設置されるに至ります。
 
 やがて、敗戦。
 
 広大な海軍厚木飛行場が至近に存在したこともあり、米軍は不要の飛行場として、ごく短期間しか進駐をしなかったとか。払い下げられた結果、滑走路部分は民間の東洋藤沢飛行場となり、1964年には、現在の荏原製作所工場に引き継がれました。また元々ゴルフ場だった土地は紆余曲折の結果、幾つかの学校法人とスポーツセンターが開設されました。
 
 余談ですが、東洋航空時代の1959年9月24日、米軍のロッキードU-2偵察機が不時着。日本の警察や機動隊が駆け付けますが、米軍兵に排除され手出しを一切することが出来ませんでした。その後、この当該機は旧ソ連領上空で偵察活動中に撃墜され、冷戦下で大問題を巻き起こしました。
 
 歴史に翻弄されながら存在し続けたグリーンハウスは、年々老朽化が進行しました。一時は取り壊し案も浮上しましたが、歴史的建造物としての認識から保存運動が盛り上がりました。折しも東京オリンピック開催が決定。両者の観点から修復が決まり、この優美な姿が蘇りました。

 建築家はアントニン・レーモンド。嘗てのオーストリア・ハンガリー帝国の出自で、渡仏後に結婚。やがて渡米し、かのフランク・ロイド・ライトに師事しました。建築はスパニッシュ様式とされています。
 


 車寄せの柱部には、何とも優雅な切り欠きが。



 シンメトリーの玄関。
 タイルの枠が瀟洒です。



 窓も同様の意匠。
 さりげない統一感が漂います。





 玄関扉とその下部。
 ただの長方形にガラスを嵌めるのではなく、角にこんなクランクを設けてあります。何とも優雅ですが、下部は「いかつい」リベット処理。硬軟の設計が見事に調和しています。



 扉から一歩進んだボクをまっていたのがコレ!
 実に手の込んだデザインと施工!階段へ誘う導線は、見事と言う以外、言葉が見つかりません。
 この先、階段の下から左を見れば、事務所のカウンター。
 このスポーツセンターの施設利用受付となっており、利用者が頻繁に訪れます。複数の職員の方が執務中のため、写真は控えました。

 

 階段の下から仰ぎ見れば、吹き抜けの下、その偉容に圧倒されます。
 各段のステップ部を縁取る褐色のタイルと、内側の細かく淡い色彩のそれ。見事な調和、本当に靴のまま上がっていいのかと、一瞬躊躇してしまいました。
 手摺は堅牢な木製。真鍮のような金属製よりも、この方が融け合うとの印象を抱きました。



 階段手摺の柱頭部。
 訪問者の視線が必ず注がれる部分。目を惹き過ぎる華美なものは好ましくはないけれど、さりとて不躾なものは置く訳には行きません。質素ながら、気品が漂います。



 吹き抜けの二階から階段を見下ろすバルコニー。
 ここからの眺めてみたいなぁ…。



 事務所横の壁には、やっぱりこれがありました。


 
 階段を上がると、二階ホールの入口。
 その左右は、こんな格子状にしつらえられています。



 右端の枠、柱頭には彫刻状の処理がされています。
 古代ギリシャのイオニア式とコリント式を折衷したようなデザイン。



 二階の大半は、広大なホール。
 飛行場時代は司令部の中枢が置かれました。
 晩年は、食堂になったと聞きました。



 正面中央の天井に近い位置には、こんな凝った丸窓。
 これは「バラ窓」と呼ばれ、スパニッシュ様式建築の特徴の一つのよう。
 何とも優雅…。



 筋交いは御覧のように湾曲したもの。
 おそらく熱して曲げたものと想像しますが、同じパーツを幾つも作るのには、膨大な手間と時間が掛かったはず…。





 玄関と同様、床にはモザイク調のタイル。
 クラブハウスらしく、ゴルフをシンボライズしたデザインが並びます。
 ボクはゴルフをやらないので正確なところは知りませんが、21世紀の現在、たとえ高級なクラブでも、こんなに手の込んだ設計を採用している処は、おそらく存在しないのでは…。



 壁に、取って付けたように説明書きが貼り付けられていました。
 これはちょっと、残念…。



 

 緩やかな傾斜の屋根に並ぶ瓦と、細身の煙突。どちらもスパニッシュ様式の特徴だとか。初めて知りました。

 近年にレストアされたため、素晴らしい姿とコンテンツを堪能しました。
 しかしパンフレットすらなく、大変勿体ないと感じました。

 建物自体は「素晴らしい」の一言に尽きます。
 ご興味を抱かれた方は、是非一度訪れてみて下さい。


グリーンハウス

神奈川県藤沢市善行7-1-2 神奈川県スポーツセンター内






 
Posted at 2022/09/19 15:26:13 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旧き良き建築 | 日記
2022年05月22日 イイね!

耕心館 (東京都西多摩郡瑞穂町)

耕心館 (東京都西多摩郡瑞穂町) 昨日5月21日、土曜日。
 朝から家の片付けを始め、土曜は半日だけ開いている市のクリーンセンターを2往復、ガラクタを持ち込みました。1階トイレ前、半間の収納を開けると、あるわ、あるわ…。鉄アレイやら、海外でも使える変圧式の湯沸かし、未開封のチャイナガウンや壁かけのソーラー時計…etc。いい加減、嫌になっておりますが、布団、親父が遺した大量の本、お袋が棚に「飾っていた」だけの食器類を除けば、ほぼ6割の処分が済みました。
 という訳でクリーンセンターからの帰路、ランチを兼ねて至近の名所を訪ねました。



 東京の西、西多摩郡瑞穂町にある「耕心館」。最寄り駅は八高線の箱根ヶ崎ですが、徒歩だと30分以上かかると思います。

 こちらは嘗ての豪商、細渕家の屋敷。竣工は江戸末期から明治初期とされておりますが、どうも定かではない模様。現在は瑞穂町が買い取り、非営利の催事に使われています。キャプションにあるように、社会教育施設としてのスタンスで運営されています。



 門を潜ります。
 正面が母屋。イベントスペースやレストランがあります。
 右側は事務所として使われていますが、嘗ては細渕家が製造した醤油の販売所だったとか。長野県須坂市の旧小田切家住宅にも、同様のものが存在したことを思い出しました。



 玄関ホール。
 剥きだしの無骨な梁と白い漆喰の対比が目に染みます。
 正面の階段は、まるでフランスの宮殿のような意匠。江戸から明治の建築なのに、和洋折衷の不思議な空間です。
 階段右奥は展示スペースで、展覧会などに使われます。この日は催しがなく、入ることは出来ませんでした。



 嘗てはおそらく、上がり框だったのかも。大理石の段差を上がります。



 シャンデリアが優しい光を放ちます。



 ロココ調のカラフルなドレスを纏ったご婦人が、裾を持つ従者とともに降りて来そうな階段。ここで新郎新婦が記念写真を撮ると、一生ものになりそう…。



 後ピンになってしまいましたが、手摺の先端。実に凝ったデザイン。製作はさぞ手が掛かったと思います。



 右はレストラン。
 こちらは後回しにし、先に2階を見学します。



 2階から見下ろしたところ。
 階段スペースの意匠は1階からここまで続きますが、



 一転して「和」の空間が広がります。
 天井は低く、三角屋根の構造。
 嘗て細渕家はここで、養蚕を営んでいたのだとか。
 窓際の正面は、所謂「バンドスタンド」、右端にはグランドピアノがあります。ここではコンサートや詩の朗読会が催されるのだとか。



 大きな窓から庭が見えます。



 その上には、こんなステンドグラスが。
 細かなデザイン、ガラスの切削と嵌め込みに、とてつもない手間と時間が掛かったはず、と思いました。



 窓際から階段の方向を振り返ったところ。
 これはおそらく「大黒柱」。
 1階の玄関スペースには見えなかったので、壁裏などに存在すると想像しました。



 さて、1階へ降りレストランへ。
 欧風カレーセット(1180円)に、食後のコーヒー(200円)をお願いしました。



 食事が届くまで、見学しました。
 庭を隔てる大ガラス窓の手前には、立派な鴨居。
 嘗てここに障子があり、その向こうは廊下だった模様。



 カーテンは、分厚く瀟洒なもの。まるで「緞帳」!
 束ねる房も、実にゴージャス。



 廊下の突き当りは「電話室」。
 ガラスには特注で「電話七番」の文字。
 当時、交換手に「7」を告げるだけで、こちらに掛かった時代…。携帯電話が消耗品となった現代とは、隔世の感があります。



 電話機は昭和27年製ですが、寄贈とありますので、当時ここで使われていたものではなさそう。


 
 ここにもステンドグラス。



 電話室上の柱頭。洋風建築の味わい。
 ガラスには樹木のようなデザインが施されています。



 電話室扉の握り。
 マイナス螺子が使われています。



 廊下のカーテンレールは、太い金属パイプ製。あのカーテンはかなりの重量、こんなにしっかりとした真鍮の支えが必要と想像しました。



 このレストラン空間には幾つもの鴨居が存在、和室として区切られていたものを改装、広い空間にした模様。昭和の末期にフランス料理店として開業したそうです。玄関周りや階段も、その頃に改装したと思われます。
 各鴨居には、その金属製の飾りがあしらわれています。お店の方に何かをお訊きしましたが、わからないとの返答でした。



 この鴨居だけは色合いが異なり、罅割れもありません。飾りもなし。
 老朽化などのため、改装時にリプレイスした可能性があります。



 個室がありました。
 予約客などを通すのでしょうか。



 個室裏には、離れの「書院」に繋がる廊下が。
 靴を脱いで上がります。



 突き当りには、風流な丸窓が。



 書院の内部全景。
 こうして見ると特段変わったことがなさそうですが、



 これには驚かされました。
 …これ、何と「障子」!
 二枚に渡る木の細工、実に素晴らしい作品です。
 こんなに手の込んだ障子、初めて見ました。



 もう一つが「採光窓」!
 八角形の開口部に、蜘蛛の巣状に切り嵌められた曇り硝子。
 所謂ステンドグラスを、単色で作ったもののよう。
 幾何学的なデザインは、和の雰囲気を壊さず、却って溶け込んでいます。
 ここだけ切り取り、持ち帰りたくなりました。



 さて、食事です。
 カレー、サラダ、スープのセットで1180円。プラス200円でコーヒーもお願いしました。お味はごく普通。公共施設のレストランとしてはお高いとも言えますが、この建築物の維持管理には相当の経費がかかるのは明らか。文句は一つもありませんでした。



 食後、外を見学しました。
 庭から見たレストラン。
 出桁造り的な様式。
 1階の改装前の姿を見てみたかったナァ…。



 小雨に、大きな花がしっとりの姿…。



 土蔵がありました。





 残念ながら、非公開でした。



 酒造りに使われた釜とのこと。
 細渕家とは、直接関係がないようです。





 駐車場の隅には、煉瓦の煙突が残っています。
 細渕家は戦後、煉瓦も製造していた時がありましたが、その名残とか。



 日光街道沿いに、白い漆喰と下目張りの外壁。
 のどかなこの地にあって、嘗ての栄華が偲ばれます。

 細渕家が養蚕、醤油、煉瓦を生業としていたことは分かりましたが、その栄枯盛衰を時系列に紹介した展示や解説がないのが、唯一残念でした。
 でも、ボクのように旧い建築に心惹かれる方には、お薦めの場所です。


耕心館

東京都西多摩郡瑞穂町大字駒形富士山317−1
042-568-1505

10:00〜21:00
休館は、第3月曜日(国民の祝日にあたるときは翌日休館)、年末年始




 



 
 




 
Posted at 2022/05/22 09:26:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧き良き建築 | 日記

プロフィール

「お知らせ http://cvw.jp/b/2970161/46422054/
何シテル?   09/28 15:34
 妻はアルコール依存と摂食障害を患い、主治医の勧めで調停離婚しました。その1年後、彼女は突然世を去りました。一年に2回の母親との別れを経験した一人息子と、ドライ...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/6 >>

1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     

愛車一覧

マツダ ユーノスロードスター マツダ ユーノスロードスター
現在12万キロ、まだまだ現役です!
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation