
台風19号が猛威をふるい、関東甲信越から東北にかけて甚大な被害が出ました。
ボクが住む埼玉県西南部でも、12日の午後から13日未明にかけ、長時間雨風にさらされました。幸い、我が家の至近には河川はなく、水害を被ることはありませんでした。
それにしても、佐久、小諸、上田、千曲、長野、須坂、小布施、中野…。千曲川沿いの長大なエリアに被害が及んだと知り、呆然とテレビニュースを見ました。あの風光明媚で美しい信州が、泥水を被ってしまうとは…。
被害に遭われた方々には、心からお見舞い申し上げます。
長い人生には、時々信じられない辛苦に見舞われる時があります。
どうか、少しずつで構いませんから、一歩一歩、進まれて下さい…。
こんな時だからこそ、美しい信州について書こうと思います。
先週5日、初めて須坂市内を観光しました。
こちらは「須坂クラシック美術館」。
蔵の街として知られる、銀座通りの入り口に佇んでいます。
時代劇に出て来そうな玄関ですが、明治初期の竣工だそうです。
この建物は、江戸時代から須坂藩御用達の呉服商で、明治に入り須坂銀行を創設、また山一製糸を興した牧家の当主、牧 新七が邸宅兼店舗として建てたものです。
明治40年、山一製糸の工場が火災となり、大正に入り牧家から越 寿三郎が、息子・栄蔵の住居とする目的で譲り受けました。寿三郎は製糸業はもとより、銀行、電気事業、化学工業などを起業、全国的に名を知られた存在だったそうです。その後昭和に入り、酒造業を営む本藤家の手に渡ります。当主・本藤恒松は政治を志し、県会議員、衆議院議員を務めたそうです。
つまり、明治、大正、昭和の三時代に渡り、政財界から数多の人が訪れた、須坂のサロンとして機能した建築です。
平成の時代となり、この建物は取り壊しが決まりました。
相変わらず本藤家の邸宅として存在していましたが、都市計画道路用地に指定されたことが原因です。須坂市民の有志の方々が「蔵の町並み保存運動」を開始、製糸の町須坂の遺産である「大壁造りの町家」を保存する機運が高まると、江戸須坂藩の入り口に立つ本藤家の保存を訴える声も高まりました。
丁度その時。
日本画家・岡 信孝画伯が長野市で個展を開催、保存の声が高まっていたこちらを訪れました。岡画伯は自身の生家とそっくりの間取りに驚き、また偶然にもその前日、生家が都市計画で取り壊されていたことから、「ご先祖様が家を返してくれた」と、運命的なものを感じたのだそうです。
このような経緯で、本藤家は「須坂クラシック博物館」として、平成7年(1995年)に開館に至りました。展示されているのは主に、岡画伯が寄贈されたコレクション。陶磁器、木工品、大正昭和の着物、ガラス器、李朝民藝・民画。白磁、琉球漆器、壺屋陶器など、その数はおよそ2000点に及びます。
(※以上、フリーのパンフレット数点から抜粋・編集)
玄関右、土蔵の基礎です。
「ぼたもち」と呼ばれる丸い大きな石を積んだもので、大変に手間の掛かる工法だそうです。当時の須坂では、大規模な屋敷に使われていたそうです。
入館料300円をお支払し、その土蔵から見学します。
まずは1階から。
岡画伯の言葉と肖像です。
この気持ち、ボクにはよく理解出来ました。
蓋付の青いガラス器です。
ガラス器とは、お料理や食材、飲料等を入れるのが目的。
ですが、この美しい器には、入れたくありません。
色が変わってしまうのが、とても勿体なく思えました。
こちらは、外側が青、内側の上縁が薄紅・下部が白い器。
面白いもので、ボクはこちらには、お料理を入れてみたく感じました。
真っ先に脳裏に浮かんだのは「鮪の刺身の酢味噌載せ」!
鮪特有の「赤」と酢味噌の「黄」が調和しそうに思いました。
右側の杯状の2つには、素朴な彩色が施されています。
右のガラス瓶の蓋、真鍮製っぽくて素敵です。
この階段を上がり、2階に進みます。
岡画伯愛用の絵の具、絵皿、刷毛が展示されていました。
薄暗い土蔵に、鮮やかな色彩を収納した瓶が、あでやかな光を放ちます。
アトリエに置かれた道具類の写真です。
岡画伯の作品が展示されていました。
こちらは「星月富士」。
「錦雲渓(きんうんけい)」。
京都でしょうか、素晴らしい紅葉を描いています。
「詩仙堂(詩仙堂)」。
…凡人・浅学のボクには、意味はワカリマセン(笑)!
個人的に最も気に入ったのが、こちらの絵です。
色紙程度の大きさです。
キャプションがありませんでしたが、白梅を描いたものでしょうか。
可憐で淡い色彩を、限られたスペースで再現した佳作。
こういう絵を、さりげなくリビングルームに飾りたいと思いました。
岡画伯は李朝家具もコレクトされているそうで、数点が展示されていました。
こちらは「バンダジ」。
上板と前板が半分開くのだそうです。
ファーニチャー好きのボクは、開けたところを是非見たく思いました。
それにしても、この色合い、風格があります。
こちらは「二層箪笥(ジャン)」
正面から見ると抽斗が沢山あるように見えますが、実際は服を収納する箪笥のようです。外見からは、何処がどう二層になっているのかはわかりません!
さて、いよいよ本亭の見学です。
引き戸を開けて入ると、模型が展示されていました。
右側が今見学したばかりの土蔵。
左側がこれから見る本亭です。
見るからに大きな建物です。
玄関から奥を臨みます。
手前から「取次の間(15畳)」、「次の間(10畳)」、「座敷(18畳)」。
「座敷」正面左には着物が展示されています。
床の間には掛け軸が吊り下がります。
ちょっと暗くなってしまいましたが「次の間」です。
奥の「座敷」の左側は「奥座敷(12畳)」です。
奥座敷の奥に、大変に凝ったガラス張りが、ちらりと見えます。
「次の間」の右に出た縁側です。「座敷」方向を臨んでいます。
昔の家は、こうでした。
ボクが住んでいた一戸建ての社宅にも、ささやかながら縁側がありました。
大変、懐かしく感じました。
庭の松、見事な枝ぶりです。
「座敷」の着物です。
「三十一本引き杢」、訪問着とあります。
この色合い、確かに須坂の名士の奥様が、改まっての訪問の際に着るのに相応しい色合いです。さすが製糸の町の産品。思わず見入ってしまいました。
着物やどてらが吊り下がっています。
試着して「鏡で見てみよう」とありました。
奥座敷に展示されていました。
「黄地葡萄模様着物」。
和服としては大変大胆な黄色に、藍色の葡萄の房を描いたもの。
ちょっと間違えれば、花魁や岡場所の遊女的になってしまいますが、華やかな地色に静謐な色彩の果物を散りばめるセンスは、大変知的に感じました。
洋の東西を問わず、昔からこの種のデザインの世界は奥深く、味わい深く感じます。
奥座敷の外には、ガラス張りの縁側が!
一枚ガラスではなく、大小様々なサイズのガラスを嵌めたものです。
お金も掛かりますが、手間と労力は、もっと大変な気がします。
この階段を上がります。
2階には、とても面白いものがあるのだそうです。
2階では、染め物の期間限定特別展示がされていましたが、ボクには全くわからないジャンル、スルーしました。
2階では、昔の生活用品や着物、ガラス器等が展示されています。
着物やガラス器は1階や土蔵と被りますので省略します。
旧いタンスの上には、黒電話とアイロンがありました。
どちらも、絶滅危惧種です。
さて、事前に得ていた情報から、最も楽しみにしていたものがコレです!
この建物には、2階から1階に抜ける、秘密の「抜け道」が存在します。地元の名士の邸宅、打ち壊し等がまだ起きていた時代で、何かと物騒だったのでしょう。有事に備えて建築時に作っておいたものと思われます。
これがそう。
見るからに「秘密の抜け道」!
突き当りを下へ降りると、
こうなります。
「座敷」の後ろに出ます。
いやー、「抜け道」は楽しめました!
岡画伯のコレクション等の展示物、明治初期の町家邸宅建築の双方の観点から、大変楽しく見学しました。気づいたら2時間が経っていました。
小布施でも思いましたが、信州の文化に「旧いもの・旧い価値観を大切にする」的なカルチャーが、21世紀の現代にも受け継がれているような気がします。
ボクは埼玉に住み、東京へ通勤する者の一人。
1年後には、還暦。
残りの人生を「本物」にしたいと考えております。
須坂クラシック美術館
382-0087
長野県須坂市大字須坂371-6
026-246-6474
木曜日、12/29-1/3休館