• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ArtBlakeyのブログ一覧

2025年07月19日 イイね!

ロマンスカーミュージアム (神奈川県海老名市)

ロマンスカーミュージアム (神奈川県海老名市) 去る6月29日、日曜日。
 ボクのロードスターは、またもや「トホホ…」の事態に。アール・エス・アイザワに泣く泣く電話を入れると、修理に必要な部品の到着は、最短で7月9日との返答。翌10日の木曜日が公休だったため、いそいそと向かいました。
 朝一番に訪れましたが、修理にはかなり時間が掛かるとのこと。社長の車を借りて、外出しました。
 向かったのはこちら、小田急線の海老名駅前にある「ロマンスカーミュージアム」。

 小田急電鉄といえば、カラフルな衣装を纏った「ロマンスカー」が代名詞の存在。子供の頃、母に手を引かれて新宿駅で山手線を降りる度、ガラス越しに小田急新宿駅に停車中のロマンスカーが見えると、胸がときめいたものでした。同じような経験をされた方は、決して珍しくはないように思います。此処にはそんな数々の車両が展示されています。



 ロビーの自販機で入場券900円を買い、向かいます。



 玄関は2階。1階の展示スペースへ向かいます。





 まず迎えてくれたのがこちら、モハ1型電車。ボクが生まれた1960年に引退した車両で、素晴らしきオールド・タイマー!



 この運転台の造形美に、すっかり魅せられてしまいました。
 木製車体の色と質感!
 真鍮製の大きな手動ブレーキ・ハンドル!
 小さな丸い木製の椅子!
 客席と隔てるパイプ柵!
 それらが一体となり、見事に融合した意匠になっています。
 暫くの間、その場に佇んで味わいました。



 さて、本題。
 ロマンスカーの展示に入ります。



 うおー、これはスゴイ!
 ひとつだけでも存在感溢れるロマンスカーが3つも並びます!





 最も左にあるのはSE車。初代ロマンスカーとして知られています。それまでの日本の私鉄特急の概念を、全く塗り替えた車両。先頭形状は風洞実験のデータを基に設計されました。国鉄に貸し出され、当時の狭軌のスピードで世界記録を打ち立てたことで知られています。



 その車内。
 窓のピッチは狭く、1席に1枚。何処か旅客機を思わせます。





 晩年は新型車の台頭もあり、国鉄御殿場線への乗り入れ急行「あさぎり」として使用されましたが、小田急線内ではほぼ「特急」同様の扱いでした。





 中央の「さがみ」はNSE。ボクと同世代の方は、ロマンスカーと言えばこの車両を思い出される方が多いと思います。最大の特徴は、2階の運転席。この構造の先駆者は名鉄7000系に譲りましたが、首都圏では長く同様の車両は造られませんでした。小田原本線・江ノ島線で活躍、云わば「小田急電鉄の顔」!



 乗降扉は自動ではなく、手動の内開き。連接台車でカーブ通過を容易にするためか車高は低く、扉も準じています。



 その車内。
 窓は2席に1枚となり、開放感が溢れます。



 運転席には客席から梯子を使い乗降します。





 最も右はLSE。車齢が経ったNSEの後継として製造されました。NSEと比べ、直線的なデザイン。



 奥へ進むとHiSEがありました。
 それまでのオレンジ色から赤に変更されました。
 展望席から運転台の鋭角ラインは一体化、よりスピード感溢れるものになりました。



 その展望席から。
 更新改造後のSEが「あさぎり」の愛称版を掲げているのが見えます。



 ラストはこちら、RSE。
 それまで「あさぎり」の国鉄乗り入れは小田急の車両だけによる片務的な運用形態で、御殿場線内も小田急の乗務員が当たっていました。この車両の登場と同時に国鉄も専用車両を製造、相互乗り入れとなり、運転区間は御殿場から先の沼津までとなりました。
 この車両は、たった1編成しか製造されませんでした。



 運転席は低い位置。トンネルが多い御殿場線の車両限界が、2階を見送った原因なのでしょうか?



 国鉄との相互乗り入れ運転からか、グリーン車がありました。



 2階席は1+2の3列。座席のモケットに高級感があります。



 1階は4人掛けのコンパートメント。
 車窓越しに家族で富士山を眺めたら、とっても楽しそう!

 歴代のロマンスカーに触れあうことができ、楽しいひとときでした。
 一つだけ注文を加えるなら「白いロマンスカー」、VSEを加えて欲しく思いました。

 男の子をお持ちのパパ、ママにはお薦めの場所です。



ロマンスカーミュージアム

神奈川県海老名市めぐみ町1-3
046-233-0909

10:00-17:00 火休









Posted at 2025/07/19 12:38:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | 博物館 | 日記
2024年11月10日 イイね!

所沢航空発祥記念館 (埼玉県所沢市)

所沢航空発祥記念館 (埼玉県所沢市) 去る9月20日、所沢市にあるこちらを訪れました。自宅からは10キロ程ですが、これまで何故か訪れたことがなく、初の訪問でした。まだ再就職前の平日、見学者はごく僅かで、ゆっくりと楽しむことが出来ました。



 こちらの施設は、日本初の飛行場として知られる所沢航空記念公園の立地。


 1911年(明治44年)4月1日、航空の父とよばれる長岡外史が私財を投じて土地購入をはじめ、日本初の航空機専用飛行場を所沢につくったのがはじまり。同4月5日に徳川好敏大尉が操縦するフランス製複葉機アンリ・ファルマン機が高度10m、飛行距離800m、飛行滞空時間1分20秒の飛行を行なった。以来所沢陸軍飛行場として帝国陸軍航空部隊が使用した。

戦後(1945年)はアメリカ軍に接収され米軍所沢通信基地となったが、その後の地元市民による返還運動によって1971年に通信施設を残し約6割の土地が返還された。この基地跡地の一部(約50ha)が県営の公園として整備され、1978年の開園に至っている。(以上、ウィキペディアより)

 今回の記事は、ボクはこの方面の知識に乏しいため、キャプション・ボードの写真を掲載します。ご興味のある方は、そちらをご参照下さい。





 屋外には、巨大な飛行機が展示されています。
 カラフルな色が印象的。



 中に入ります。料金は500円でした。





 玄関上には、こんな華奢な飛行機が!まさしく黎明期のもの、出来る限り軽く製作されたことが見て取れます。このタイプは4機作られましたが、これはレプリカとのこと。



 展示スペースに足を踏み入れた途端、この複座機に出迎えられました。



 ノースアメリカンT-60。同社製の戦闘機は第二次大戦中、零戦を始めとする日本機と死闘を繰り広げたことで知られています。この複座機は自衛隊で練習機として使われたとあります。



 見学用の階段を上がります。



 狭いコクピット。機材が所狭しと押し込まれています。



 こちらは後方の席。練習飛行の際には、教官が着座したはず。
 右側の機材は無線機でしょうか。
 大戦中の偵察機は追いかけられた際、出来るだけ速度を上げるため、頻繁に空中から捨てたとのエピソードがあります。機長から投棄を命じられた偵察員が「そないなことしたら、えらい怒られまっせ!」と返したら「無事に帰って怒られるなら本望や。今は逃げるこっちゃ!はよ、やり!」。





 巨大なヘリがありました。



 これまたヘリ。いずれもコクピットを見学できず、ちょっと残念でした…。



 朽ち果てそうな残骸が展示されていました。



 キャプションによると、残されていた設計図を基に、



 このレプリカが造られたそうです。



 広場の向こうには、所沢市内のタワーマンションが見えました。
 此処が今も飛行場であったならば、決して建つことはなかったはず。
 時のうつろいを実感させられました。

 まだまだ沢山の展示がありましたが、長くなったのでこのくらいにします。ボクは飛行機に関する知識に乏しいのですが、それでも充分楽しめました。エンジンの実物展示もあり、メカ好きの方にはお薦めです。

所沢航空発祥記念館

埼玉県所沢市並木1-13
04-2966-2225

9:30-17:00 月休



Posted at 2024/11/10 14:28:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 博物館 | 日記
2021年09月26日 イイね!

数馬分校記念館(東京都西多摩郡桧原村)

数馬分校記念館(東京都西多摩郡桧原村) 少しご無沙汰してしまいましたが、皆様お元気でいらっしゃいますか?
 ボクは三連休初日の18日に二回目のワクチン接種を受けました。ところが未明から布団の中で悪寒に襲われ、三枚重ねて耐えました。起きてもふらふらの状態、せっかくの三連休を棒に振ってしまいました。夏に休暇が少なかったこと、自由になる僅かな時間を母の施設探しに費やしたことから、かなり疲労が蓄積していた様子。幸い、19日の午後には回復しました。

 そんなこんなの昨日25日土曜日。
 相変わらず我が家は「シッチャカメッチャカ」状態。気分転換に久し振りに外出しました。目的地は東京都西多摩郡桧原村。以前から訪れたいと思っていた、元分校の記念館です。



 五日市から桧原街道を、ひたすら西に向かいます。
 奥多摩周遊道路ゲートの手前に建つ、この茅葺屋根が目印。
 日帰り入浴もできる温泉旅館「たから荘」。



 前には「数馬上」の信号。


 
 ここから右へ細い坂道を上がります。



 袂には、分校の案内板が佇みます。



 少し歩いて右上を仰ぐと、白いコンパクトな建物が見えました。
 典型的な木造校舎です。



 校門を潜ると、



 左側に、校舎の正面玄関が。
 静謐で優雅な佇まい…。
 今も「数馬分校」の、立派な木製の表札が掲げられています。



 右に「少女」のレリーフ。
 鈴虫とコオロギの声を聞きながら、暫く見入ってしまいました。



 その右には、木製の国旗掲揚塔が聳えます。
 旗から垂れるロープを固定する金具…。
 歳月を経た木肌と錆びた鉄の調和。
 縁側で、老夫婦がお茶を飲みながら、笑顔でお話しているかのよう…。



 校庭から校舎を臨みます。
 山の中腹を切り開いた狭い校地の端に、「ちょこん」とありました。
 小さな二階建てとしたのは、少しでも校庭を確保しようとの設計思想でしょうか。



 一つ前の写真、校舎一階左角に見学用の受付がありました。
 老齢の男性が、丁寧に迎えて下さりました。
 署名をして入口へ。



 校庭側の右端に「数馬分校記念館入口」との表示がありました。
 シックな濃茶に塗られた木製引き戸。
 白い校舎との対比が美しい…。



 下駄箱。
 当時の子供たちの名前が、そのまま貼付されています。



 班の名簿も貼られたまま…。

 スリッパに履き替えてお邪魔します。





 図書室として使われていたよう。
 併せて、子供たちが床で遊べるような備品が…。



 窓の外には、奥多摩の豊饒な樹林。
 きっと、四季のうつろいが映る日々…。
 ここに通いたかった…。



 廊下には、足踏み式のオルガンが…。



 次のスペースは、正面玄関。
 先ほどの外観の内側になります。
 教職員の出入口として使用されていました。
 中にはサルノコシカケやスズメバチの巣といった。この地区に由来する品々が展示されています。



 最深部は元職員室。
 何と、閉校当時のスケジュールを記した黒板が!
 学年別の在校児童数もあります。
 まるで、時が止まったかのよう…。



 二階へ上がります。



 踊り場を見下ろしたところ。
 縦長の窓の意匠、格調高く感じました。



 書初め。
 子供らしい素直な字。
 みんな今、どんな大人になっているのかなぁ…。



 分校の模型がありました。
 閉校が決まるのと同時に、この校舎を取り壊す計画が発表されました。
 その報せに、教職員と児童が総出で製作されたとか。
 その後、幸いにも施設の維持が決定。こうして誰でも訪れることが可能になりました。東京都唯一の村にあっては、財政的に維持管理は大変なはず。頭が下がる思いがしました。





 二階の教室。
 児童数が少なかったから、ひとつの教室で複数学年の子供たちが一緒に授業を受けたことでしょう。ボクはこうして机を囲んだ経験がなく、羨ましくなりました。



 最深部の教室と廊下には、直接分校と関係のない消防用大八車や巨大な糸紬などが展示されていました。ボクは「ダルマストーブ」に目を奪われました。うーん、懐かしい!





 当時の写真。
 みんな、生き生きとした表情!
 ニワトリの長い影は夕暮れを思わせます。



 擦り減った木肌が、ここを通過した子供たち(人々)が存在したことを、無言で語ってくれました。

 丁寧なご説明をして下さった男性にお礼を言い、辞去しました。



 数馬の里を、靄が囲み始めていました。
 それとは逆に、ボクの心は晴れ晴れとしていました。
 ここの卒業生でもないのに、「戻って来た」ような気持ちになっていました。
 当時の子供たち息吹や笑顔に触れたからでしょうか。
 
 訪れて「ヨカッター!」







 既に葉が染まり始めていました。
 季節は確実にうつろいます。

 ※ご興味のある方は、以下をご覧下さい。より詳細な解説を読めます。

  https://chinobouken.com/kazumabunkou/


数馬分校記念館

東京都西多摩郡桧原村数馬2469

見学時間 土、日の9:30-15:30



Posted at 2021/09/26 06:23:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | 博物館 | 日記
2021年05月03日 イイね!

桶川飛行学校平和祈念館(埼玉県桶川市)

桶川飛行学校平和祈念館(埼玉県桶川市) 一昨日5月1日。
 かかりつけの歯科医で診察を受けた後、至近のこちらを訪れました。

 

 荒川の河川敷に近い処にあります。
 旧陸軍熊谷飛行場桶川分教場に跡に整備された、桶川飛行学校平和祈念館。長く老朽化したまま公開されていましたが、あまりにも酷くなり一時公開を中止。設備を再建して昨年夏に公開されました。



 悲惨な戦争の旧跡を残すことに、一自治体たる桶川市が注力している事実に、素直に心の中で感謝しました。





 正門手前左には、弾薬庫が。
 門を潜ります。





 左に守衛棟。



 土間の左に四畳半。
 質素な造りです。



 少し進んだ右側に、天井の高い建物。
 こちらは車庫棟。軍用車両の整備に使われました。
 


 当時の建物の模型が展示されています。





 説明にあるように、後年の増築部は造りが幾分異なります。





 検査用のピットが再現されています。



 全体の写真を撮り忘れましたが、奥には南北に長い平屋が。
 本部宿舎棟の玄関です。
 入った左側でスリッパに履き替え、展示室へ進みます。



 廊下の左側に展示室が三室、並んでいます。



 最も手前には、桶川分教場に関する説明が展示されています。



 航空に関する教本。



 三角航法を記した地図。
 鹿児島湾です。



 実地教育で使用されたツール類。





 壁の写真が当時の教育を伝えてくれます。





 次の展示室は、寄宿室を再現したもの。
 狭い部屋に18人分ものベッドが並びます。
 足と頭を互い違いにしたとあります。



 最後は、特攻隊に関するスペース。



 1945年2月。教育機関としての分教場は廃止され、特攻員の養成所に特化されます。



 数々の遺品…。





 特攻隊、第二十三振武隊長、伍井芳夫さんのポートレートと、彼に関するキャプションが展示されていました。





 こちらは第七十九振武隊の集合写真と説明。
 …どんな気持ちで写真に納まったのかを思うと、胸が痛みました。



 遺書。
 遺品の写真左上隅のカメラの持ち主、石井孝さんが、妻・厚子さんに宛てたもの。幼き子を遺して出撃する無念さが滲みます。



 こちらは伍井芳夫隊長のもの。
 長男・芳則さん(当時生後四か月)宛てと、長女・満智子さん(同四歳)、次女・智子さん(同二歳)の幼き姉妹宛ての二通。どちらにも大変な苦労をした母を助けて孝行し、勉強しなさいとあります。
 
 特に芳則さんに宛ての冒頭には、「物ノ道理ガワカルヨウニナッテカラ知ラセヨ」との注釈が…。きっと、奥様への最期の指示。

「将来大キクナッテ何ヲ志望シテモヨシ」…。

 男子として自由に人生を選択出来ず、妻と子供の傍にいてやることも叶わず、子供たちの成長に寄り添えぬと知りながら離陸する「無念」…。

 当時、手紙は全て検閲の対象。

 僅か四か月、乳飲み子の息子さんへの遺言。
 父親としての愛、人生の先輩としての助言、職業選択自由の世の到来予言、そして何よりも、「戦争は駄目だ」との隠し言葉が込められています…。

 読みながら、涙が溢れました…。

 航空機等の展示はなく、この地から戦場に赴いた数多の兵士の息吹を、静謐な空間が伝えてくれました。
 長野県上田市の「無言館」と同様、今我々がこうして生きていられるのは、尊い数多の犠牲があってこそ、と思い知らされ、帰途に就きました。

桶川飛行学校平和祈念館

埼玉県桶川市川田中2335
048-778-8512

9:00-16:30
月休




Posted at 2021/05/03 14:17:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | 博物館 | その他
2020年02月23日 イイね!

鉄道博物館(埼玉県さいたま市)

鉄道博物館(埼玉県さいたま市) 昨日2月22日土曜日。
 埼玉県さいたま市にある、鉄道博物館を訪れました。
 ボクが住む埼玉県にありながら、何と初めての訪問でした。



 玄関には、こんなボードがありました。
 家族や恋人、友人を横に立たせて記念撮影するのが目的のようです。



 チケットの販売機です。
 大人は1330円。ちょっと高いかなぁ…。
 まあ、値段に見合ったコンテンツならいいけど。





 車両の展示スペースへ進みます。
 まず出迎えてくれたのがこちら、1号機関車です。
 新橋と横浜の間に初めて鉄道が走った時に使われたものです。
 小さな客車を従えています。





 展望車、マイテ39です。
 嘗て客車特急の全盛期、最後尾に連結されたのが豪華な一等展望車でした。大きなデッキを備え、そこに大きな列車名のテールサインを提げて走りました。ちなみに、旧国鉄のターミナル駅で行き止まり式のプラットホームがあるのは、上野、門司港、天王寺の阪和線ホーム等、ごく少数ですが、欧米ではあちこちに見られます。これは、旅客が自分の乗る列車を瞬時に判別できるようにとの配慮からだそうです。最も有名なのはニューヨークのグランド・セントラル・ステーションですが、今は特急の発着はなく、ほほ゛全てがコミューター(通勤電車)になってしまいました。



 室内です。
 きらびやかで豪華な内装。これに乗れる人は、ごく限られた「特権階級」の方々だったのは間違いありません。
 白いカヴァーを纏ったソファが、内側を向いて並びます。
 きっと座り心地は良いのでしょうが、ボクは個人的には車窓を眺められるクロスシートの方が好みです。



 マイテから更に進むと、高い屋根を持つ広大なスペースに、沢山の車両が展示されていました。その中央部には転車台が設置されていて、蒸気機関車C57が展示されていました。



 赤いナンバープレートが凛々しい135号機。
 先輪の前にスノープラウを纏った姿は、北国育ちの模様です。動輪のコネクティング・ロッドには、十分に注油されていました。



 キャブ(運転室)右側です。
 C57には4つのタイプがありますが、135号機は一次型。製造時は開放型だったはずですが、扉が増設されています。乗務員保護の観点から、寒さの厳しい北海道や東北で使われた機関車に施されることが多かった改造です。
 所属機関区欄には『岩』の文字。
 北海道は、岩見沢機関区の出身です。



 左側です。
 昭和47年5月に、旧国鉄苗穂工場で車検整備した旨が記されています。



 キャブの後方です。
 ドアを増設したとはいえ、炭水車との間を完全に区切ることは出来ないので、こんなに開いています。酷寒の北海道での運転業務、さぞかし大変だったことと想像します。





 うわー、懐かしい!
 上野と仙台を走っていた「特急ひばり」。おそらく、ボクが最も多く乗った特急です。
 ボクは東京都北区で生まれ育ちました。当時亡き親父が勤めていたのは製紙工場。ところが公害問題、環境問題が進み、大都市に立地する製紙工場の存続が困難となり、閉鎖が決まりました。当時、親父は長さ100メートルを超す主力のペーパーマシンの責任エンジニアで、この巨大マシンを全部バラして宮城県の工場に持ち込みリビルトすることとなりました。このため、ボクは小学校6年生の10月に転校することとなりました。
 何の縁もゆかりも無い地方都市に住むこととなり、休みになると親にねだって東京へ遊びに行ったものでした。浪人・大学時代、まだ両親は在住だったので、年に数回は帰省しました。その当時の「足」が、この「ひばり」でした。上野と仙台の間を、片道4時間で駆け抜けていました。
 この車両は481系。交流・直流の両用。東北本線は栃木県の黒磯から南が直流1500ボルト、北が交流50キロヘルツ。黒磯駅を徐行で通過すると、一瞬空調が停まり、ルームライトが消えたっけなあ…。



 これまた懐かしいブルートレイン「あさかぜ」!
 東京と博多の間を走っていました。ボクの記憶だと、最盛期は下関行きを含め、1日に3往復が走っていたと思います。



 20系寝台客車の外観上の特徴が、この二枚折り戸。
 横にスライドする陳腐なものと異なり、何とも優雅な所作に感動したものでした。



 ベッドメイクを再現した人形です。
 
 ボクはレコード会社時代、矢鱈と出張が多い時代がありました。月に4、5回は地方へ出掛けていましたが、当時息子は3年保育の幼稚園に通っていました。その幼稚園は運動会、学芸会はもとより、合唱会、朗読会、ショパンを聴く会など、土曜日と日曜日にイベントが盛り沢山に催されました。どの家庭も両親が揃って参加するため、週末の出張の時、帰路は頻繁に寝台列車に乗りました。最も多かったのは大阪発東京行きの急行「銀河」、次いでこの「あさかぜ」でした。
 定期運行のブルー・トレインが消滅したのは、何とも寂しい限りです。眠れない時、B寝台の通路にある引き下げ式の椅子を出して座り、「コトン、コトンコトン…」という台車の音に耳を傾けながらウィスキーを飲んだものです…。
 そんな時代も、今は昔…。



 旧い濃茶の電気機関車、EF55です。
 流線型の先端部は優雅な意匠ですが、どこかユーモラスでもあります。
 1936年(昭和11年)の製造、全部で3両が製造されました。



 先端からサイドに掛けての流麗なデザインは、何処かヨーロッパ的です。グリーンやプルーを纏ったら、イタリアの特急牽引車みたいになりそう…。



 反対側、第2エンドは切妻型です。
 製造当初は構内運転程度を想定した簡易運転台しか装備されていませんでしたが、途中で正規の装置を付けたのだそうです。
 正面とは全く異なりますが、ボクはこのデッキに中央扉を持つこちら側も好きです。



 ワイパーの回転軸は外側です。



 美しいテールライト。



 パンタグラフは巨大で複雑なデザインです。

 当時、国鉄は流線形の動力車の導入でスピードアップを図ったのだそうです。 蒸気機関車C53やC55を流線形にし、この「流線形電気機関車」EF55を製造しました。しかし時速100キロ程度では効果が乏しいと判断、蒸気は全て通常型に戻されました。このEF55は事実上片側運転台のため、戻り運用の際には転車台で方向転換が必要など、取扱いが面倒で半ば厄介者扱いされたようです。そういう経緯から第2エンドにも正規の運転台が付けられ、こちらを前面にして運用したこともあったそうですが、主客転倒そのもので、彼らが気の毒に感じました。しかし、パソコンなど存在だにせぬ戦前の日本で、計算尺と烏口で設計図を描き、この美しき機関車を産んだエネルギーには感動させられました。



 昨日の訪問で最も楽しみにしていたのがこちら、ED40の10号機です。
 1920年(大正9年)から14両が、当時の鉄道院大宮工場で製造されました。急勾配の難所として名高い碓氷峠(信越本線の横川-軽井沢間)専用で、国産として初の電気機関車です。



 サイドビューです。
 運転台は左側だけ、右は連結器上部に抵抗器の収納部が飛び出した、何とも無骨なデザインです。車輪は蒸気機関車のようにコネクティング・ロッドで繋がれ、動力を伝道するシステムです。



 第2エンドを見上げたところです。
 ナンバープレートとライト以外に何もなく、「のっぺらぼう」を彷彿させます。
 前と後ろでこんなに表情が異なるのには、理由があります。
 急勾配の碓氷峠を登る時、このED40は重連、つまり2両連結で列車の最後尾(横川側)から「押し上げた」のでした。反対に軽井沢から下る時は先頭(横川側)に立ち、速度を抑制しました。つまり、ED40には運転台は片側にしか必要がなかったのでした。



 これが「ラックレール」。
 二本の線路の中央に敷かれた、凹凸のあるレールです。
 所謂「アプト式」と呼ばれる急勾配登坂システムで、このレールに機関車下面に取り付けた歯車を噛み合わせ、回転させることで坂を推進するものです。





 上の写真は、ED40を下から見上げたところです。
 見やすいようにラックレールは透明なアクリル板で作ったものが使用されています。



 屋根を上から見下ろしました。
 パンタグラフは中央部に1つだけ。これは駅の構内・機関庫でのみ使用されるもので、



 横川から先は架線集電ではなく、東京メトロ丸の内線や銀座線のように、線路に沿って設置された第三軌条から電気の供給を受けます。この写真のほぼ中央部に第三軌条が写っていますが、



 断面はご覧の通りで、上と左右はカヴァーで覆われています。つまり、集電するシュー、



この写真のオレンジ色の部分は、第三軌条の下面に、下から押し上げるように密着します。これは、先に書いた丸の内線や銀座線が上面から集電するのと全く逆です。以前、何かの本でその理由を知りましたが、碓氷峠は寒冷のため凍結や積雪の対策だったのだとか…。



 66.7パーミルの勾配(始点から水平に1000メートル進んだ場合、その終点の66.7メートル上の一点と始点を結んだ勾配)を、



 来る日も来る日も重連で列車を押し上げ、つっかえ棒よろしく下ってを繰り返した「シェルパ」です。
 ちなみに、ED40の老朽化で後継のED42が登場した当時、大量輸送の時代に突入していました。ED42はハイパワーで設計され、しかも4両1チーム(軽井沢側1両、横川側3両)で、ディーゼル特急まで押し上げていたそうです。連続するトンネルや狭小な岩場を縫うが如き路線では、無線など全く役に立たず、ホイッスルによる合図だけで4両が一丸となって仕業に就いていたそうです。その足掛かりとなったのが、このED40による重連だそうです。



 このED40の10号機が、国の重要文化財に認定されたのだそうです。
 長きに及ぶ縁の下の仕事が、漸く認められました。
 素晴らしきことです!



 まだまだ、こんなものや、



こんなものもありますが、大変長くなってしまいましたので、今日はこのあたりで失礼させて戴きます。

 それと、最初に触れたことについて。
 1330円の価値は、十分あると思います。
 今日ご紹介した車両の展示スペースの他、子供用の豆電車やD51の運転シュミレーター、鉄道模型の運転、各地の駅弁を買い、嘗ての特急車両の中で食べるコーナー、図書室、売店等、いろいろと用意されています。小さなお子様を連れて行ってあげると、とても喜ぶと思いました。















 
 
 


Posted at 2020/02/23 14:01:38 | コメント(1) | トラックバック(0) | 博物館 | 日記

プロフィール

「お知らせ http://cvw.jp/b/2970161/46422054/
何シテル?   09/28 15:34
 妻はアルコール依存と摂食障害を患い、主治医の勧めで調停離婚しました。その1年後、彼女は突然世を去りました。一年に2回の母親との別れを経験した一人息子と、ドライ...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/8 >>

     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      

愛車一覧

マツダ ユーノスロードスター マツダ ユーノスロードスター
現在12万キロ、まだまだ現役です!
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation