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2020年03月29日 イイね!

たぬ金亭(埼玉県秩父市)

たぬ金亭(埼玉県秩父市) 昨日の土曜日。
 外出自粛、特に東京に行くなとのメッセージを、複数の知事が伝えました。
 埼玉県民のボクは、週末のささやかな楽しみは、クルマやバイクに乗ること。
 前週の日窒鉱山もそうでしたが、「あまり人が居ない県内で」と思い、ランチだけを楽しんで帰ろうと決めました。



 で、向かったのがこちら。
 秩父鉄道の武州中川駅からちょっと、国道140号線沿いのログハウス店舗の「たぬ金亭」さん。何でも「全国丼グランプリ 豚丼部門」で、6年連続でグランプリを受賞したのだそうです。
 以前から気になっていましたが、お昼時に前を通ると決まって駐車場が一杯でした。今回、11時の開店に合わせて家を出て299号線を遡上しました。



 コロナ騒動の最中ですが、しっかり営業中でした。
 11時10分の到着ですが、空いていたのは1台分だけ。ラッキー!



 ログハウスの店内は、ジツにイイ雰囲気です。



 メニューです。
 スタンダードは「豚玉丼」。秩父味噌で煮込んだ豚肉と温泉玉子、揚げ玉、青葱を、ご飯に載せたものです。
 ボクはこれにトロトロのチーズをトッピングした「チチブ丼」をお願いしました。サイズは小・中・大・特大の4つ。お店の方にどの程度かをお訊きすると、「中で一般的な牛丼店の並」とのこと。それに従い「中」にしました。



 やがて「お待ちどうさまー!」と女性が運んできたのがこちら。
 丼、味噌汁、マカロニサラダの小鉢、キューリのキューチャンの小皿。
 …一見で後悔しました。物凄いボリューム!!





 秩父味噌で煮込んだ、トローリとした薄い角煮状の豚肉が、7、8枚。とっても美味しいのですが、溶けたチーズも加わり、半端ではないコッテリ感!元々が小食のボクには、完食は無理でした。ご飯を半分ほど残してギブ・アップでした。
 大変おいしいので、また必ず行くつもりですが、今度は「豚玉丼」の「小」にしようと思いました。

たぬ金亭

埼玉県秩父市荒川上田野396-1

11時~16時 ラストオーダー15時40分
0494-54-1811
水曜休み

【ボクのおススメ度(味のランキングや評価ではありません)】

★★★★★ + ★★

★1つ追加は、率直に「おいしい」!
秩父市の中心部から離れた立地なのに、休日のお昼は入れないこともしばしば。
初めての訪問でしたが、確かにおいしいお店でした。

★2つ目の追加は、「ログハウス」のお店。
「山に囲まれた秩父でのランチ」にピッタリです。


【今日の「オマケ」①】



 金曜日。
 ボクの職場がある五反田を流れる目黒川沿いの桜が、ようやく見ごろになりました。 



 それでもまだ、6分から7分程度でした。



 クルージングも始まりました。
 乗客の方、笑顔で橋の上のボクに手を振ってくれました。

【今日の「オマケ」②】



 今朝。
 予報で雪が降るとは知っていましたが、埼玉県西南部では結構積もりました。



 愛犬の診察予約を入れていたため、ロードスターの「雪下ろし」をしました(笑)。



 道路はこんな状態。
 月に一度、須坂市を往復するためスタッドレスを履いていますが、この冬は地元で初めて恩恵に預かりました。
 春なのか冬なのか、判断に迷うここ数日ですね(笑)!
 おまけに「コロナ渦」!
 そろそろ、マスクがなくなりそう。
 来週、自作しようかなぁ…。


 
Posted at 2020/03/29 16:52:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | その他丼もの | グルメ/料理
2020年03月22日 イイね!

日窒鉱山(埼玉県秩父市中津川)

日窒鉱山(埼玉県秩父市中津川) そんなに沢山はいらっしゃらないと思いますが、時々お越し下さる皆様、お元気でいらっしゃいますか。
 今、人混みや密閉空間は危険。
 思い切って、かねてから訪れたかった「無人の地」に行くと決めました。



 一昨日。
 自宅から国道299号線を西北に遡上、秩父市内で140号に左折しました。
 大滝を過ぎ雄大な「ループ橋」の先、滝沢ダムが堰き止める秩父もみじ湖です。
 この先を右折、県道210号線に入ります。



 光景が一変、V字型の峡谷沿い、トンネルとカーブが続きます。



 こんなトンネルが続きます。



 道路中央の日陰には、こんな大木が。
 その生命力に感動しました。



 間もなく、この地点に到着しました。
 ロードスターの幌と道路案内看板の間に、トンネル入口のコンクリート製の庇が見えます。
 ここを右折します。



 道は一変、擦れ違いも困難な綴れ織り。
 こんなオーバーハング。
 「落石注意」とありますが、ロードスターは轟沈必至…。





 清流です。



 車を進め短いトンネルに入ると、二つの光玉が。
 鹿クンが佇み、ボク(の車)を見つめていました。
 追い立てるつもりは無かったけれど、鹿クンは前方に走り始めました。



 暫く一緒に走りましたが、やがて右側のガードレールを飛び越え、沢に下りて行きました。

 

 トンネルを幾つか通過すると、突然光景が変わりました。
 水墨画のような枯れた山間の光景に、白いものが加わりました。
 左には「これより鉱山道路」との標示があります。
 先には鉱山の設備が見えます。

 ここはニッチツの大黒坑。
 石灰石を掘っています。



 ドラム缶と古タイヤが地表にめり込んでいます。



 少し進むと、道の左側にこの建物がありました。
 「第一警備員詰所」とあります。
 使われなくなり、かなりの年月が経っていると思われます。



 その先には、長いトンネルが。
 抜けると…



 右側に潰れてしまった何かの建物が、辛うじて建っていました。
 更に車を進めると、



 事務所と思われる平屋の建物がありました。
 休日だからでしょうか、人の気配は皆無でした。

 ここは、株式会社日窒の秩父鉱山。

 今は細々と石灰石と珪砂を掘っていますが、嘗ては鉄や亜鉛、金などの金属を採掘していました。最盛期は年間50万トンを産出、20キロ以上も離れた秩父鉄道の終点・三峰口まで山中に建設した索道で運んでいたのだそうです。
 それほど大規模な鉱山だったので、こんな山深く隔絶された地に、従業員とその家族凡そ2000人が暮らしていました。沢山の炭坑施設はもとより、従業員の社宅、幼稚園、小中学校、劇場、診療所、公衆浴場等が存在しました。しかし1978年に金属の採掘を中止、ほぼ全ての人が新天地を求めて去りました。栄枯盛衰の経緯や鉱山の規模と設備は「毛無峠」でご紹介した小串鉱山と似ていますが、峠の索道柱を除き小串がほぼ無に帰しているのに対し、こちらには様々な設備が廃墟の如く存在します。



 「株式会社ニッチツ資源開発本部秩父事業所」です。
 この鉱山の総務部的な部門でしょうか。



 事務所棟の左には、郵便局が!
 「秩父鉱山簡易郵便局」です。
 去年まではしっかり営業しており、「最も行きにくい郵便局」として知られました。ネットには「この郵便局で、記念に貯金通帳を作った」とか「自分宛てに葉書きを出した」などのエピソードが紹介されています。なるほど、そういう楽しみ方もあるのか…。



 一時閉鎖とありますが、復活は厳しいと思います。



 ネットで拾いました。
 営業していた当時の姿です。
 立派な姿ですね。



 少し先に、この建物がありました。
 入口に掛かるタペストリー状の帆布には「日窒三扇運輸(株)」と白い大きな文字が。



 自販機は稼働中でした。



 スケジュールを記入する黒板。
 文字はありません。



 はためく帆布を捲り、外から撮影しました。



 ここにもありました。
 こんな山奥で、明確に主張する色彩を放つ存在です。



 少し進むと、川の対岸に鉱山のプラントが姿を現しました。
 休日にもかかわらず操業中で、低い音を奏でていました。



 頭上には、対岸とこちらを結ぶ橋が掛かっています。
 おそらく、嘗ては木製の踏板が連なっていたのだと思いますが、一片も残っていませんでした。



 鉱山の全景です。



 製品の石灰と思われます。



 社員の方が、トラツクに積み込み中でした。



 プラントに向かう橋の袂には、壊れた事業所が辛うじて建っていました。



 雰囲気満点の窓。
 トタンの庇、木製の雨戸戸袋が妙に合います。
 上には巨大なスズメバチの巣が!
 この季節は繁殖前なので安全です。



 元は商店、現代風に言えばコンピニでしょうか。
 採光目的の二重屋根が、お客さんを迎える建物だったことを主張しています。
 大きな庇の下で、おこづかいを握り締めて訪れた子供たちが、笑顔でおやつを食べたのでしょう。自分の幼い頃が甦ります。







 その先。
 坂の両側に、沢山の従業員社宅の廃墟が姿を現しました。
 比較的新しいものと、かなり前、おそらく戦前のものとが混在しています。
 ヤマの盛衰が垣間見えます。



 この建物が、おそらく最深部。
 この先、299号線の志賀坂トンネルまで道は続きますが、崖崩れのため通行は出来ません。
 周辺には5、6台の他県ナンバーの車が停まっていましたが、どれにも人の姿はなし。無断侵入禁止の旨の注意書きがありますが、おそらくは…。

 忘れもしない、昭和47年10月16日。
 ボクは親父の転勤で、東京の工場に隣接する平屋の社宅を後にして、東北地方の某県に向かいました。ところが現地の文化になかなか馴染めず、学校でもよそ者扱いされました。東京時代が懐かしく、帰りたくて帰りたくて仕方がありませんでした。
 
 翌48年春。
 中学入学直前の春休みのこと。半年ぶりに東京を訪れ、真っ先に暮らしていた社宅を訪れました。工場は閉鎖される直前で、ほぼ全ての家が無人、まるでゴースト・タウンでした。それでも、懐かしい家に足を向けました…。

 玄関の引き戸が破壊され、土足で上がった跡がくっきり。裏側の庭に面した縁側の雨戸は、バットを叩きつけたような穴が幾つも開き、裏側のガラスも割れていました。何か、自分の大切な拠り所を喪失した気がして、立ち尽くしたまま声を押し殺して泣きました…。

 「廃墟マニア」とされる方々の中には、許可なく侵入して物品を持ち去る者も存在します。勿論、そんな輩は論外です。
 たとえ今は廃墟でも、其処を心の拠り所とし、現在も懸命に生きている人が存在することを忘れて欲しくありません。自分の体験から、ボクはこういう場所でどうしても立ち入ることが出来ません。

 このスレッドを「廃の美学」としたのは、そんな思いからです。
 ボクがこういう地に足を向けるのは、自分と同様、故郷と呼べる地を持てず「根なし草」にならざるを得なかった方々が、確実に存在する証左を求めてのことです。言葉を換えれば「悲哀の共有」が目的で、物件としての廃墟や、其処に遺された物品に興味をそそられるからではありません。夢と希望に満ちて暮らしていた人々の息吹と、その後の辛苦を肌で感じながら、それでも「ボクはまだ生きている」との実感を噛み締めたいからです。



 そんなことを考えながら帰途につきました。
 トンネルに入ろうとした時。
 反対側からこちらに向かうヘッドライトに気づきました。
 大きさからすると、おそらくダンプカー。
 お仕事が最優先、急いで後退・退避しました。
 ダンプはトンネルを出ると、派手にクラクションを鳴らしてくれました!

《オマケ》

 今でこそダンプが通る幾つかのトンネルは、昔はもっと断面が狭かったようです。鉱山の全盛期、西武バスが秩父や三峰口と鉱山の間に走っていましたが、普通のバスでは通行が困難なため、「三角バス」という車両を使っていたそうです。



 これです。
 ちょっとユーモラスですが、運転手さんは大変だったそうです。
 当時のエピソードを紹介するページがありましたので、ご興味のある方は訪れてみて下さい(頭に「h」をつけて下さい)。


ttp://www.e-zabuton.net/image/yamazato-226.html



Posted at 2020/03/22 10:15:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 廃の美学 | 日記
2020年03月15日 イイね!

足尾銅山(栃木県日光市)

足尾銅山(栃木県日光市) 3月13日の金曜日。
 珍しく休暇を取得して向かったのが足尾銅山。
 先週、旧碓氷線跡を散策して感動したのはご報告済ですが、ある「廃」を見に行こうと思ったのでした。



 群馬県桐生市から国道122号線を、わたらせ渓谷鉄道に沿って北上、到着したのがこちら、終着駅の間藤です。ここは既に栃木県日光市ですが、鉄道は日光駅に通じていません。



 ご覧のとおり「ドンツキ」ですが、嘗てはまだ線路が伸びていました。この先には日本有数の銅山だった足尾本山が存在したのでした。



 駅舎です。
 無人駅。乗客のためと言うよりも、この地域のコミュニケーション・プラザとして機能しているようでした。



 駅前の道に沿って進むと、レールを剥がされた踏切がありました。
 こちらは足尾本山の方向。



 こちらは間藤駅の方向です。



 赤さびた鉄道の鉄橋。
 渡良瀬川の上流、松木川を跨ぎます。



 その鉄橋に向かう石橋がありましたが、封印されています。



 更に進むと程無くしてロータリーが現れます。そこを左折して橋を渡った右側に、この巨大なプラントが聳え建ちます。
 人の姿はなく、嘗ては何等かの音を上げて操業していたはずなのに、全くの静寂。不気味と言うよりも、悲しさを感じました。



 厳重ではありませんが、通行は遮断されています。
 業務で通行する人がいらっしゃるのだと思いました。



 この設備の正式名称です。
 銅の精錬所です。



 ボクが渡った橋の横に、旧い鉄橋が佇んでいました。
 今は通行禁止、かなり旧い橋です。



 キャプションがありました。
 母体企業の名を冠したのだと思います。
 何でもドイツ製で、バラバラの鉄材パーツを、現場でボルトで組み上げたと聞きました。



 精錬所の前で、貨物線が橋梁で川と道路を跨ぎ、中へと進みます。
 ボクが走ってきた道は、ここがドンツキ。
 対岸へ引き返しました。



 対岸からです。
 左が先ほど訪れた精錬所。その他にも狭い崖の地に、実に多くの産業設備・建築が犇めき合います。
 3つの円形タンクは、硫酸を貯蔵していたらしいです。



 ピンクに塗られた洋風木造建築が窺えます。
 およそ鉱山に似つかわぬ洋式ですが、診療所とか購買部、食堂、浴場などの福利厚生施設だったのかも知れません。



 球状のタンクが見えました。



 足尾本山のシンボルと言われた巨大煙突。
 もう、二度と煙を吐くことはありません。



 おそらく、貨車に鉱石を載せるホッパーだと思います。

 足尾本山は、対岸から眺めても想像を超えるスケールで、それらが朽ち果てんとする現実を、我が眼は捉えて離そうとしませんでした。日本語で言うところの「侘び」とか「寂び」ではなく、鉱毒事件の発生源という「両刃の剣」が、帰納法的に自己に向かった帰結という気がしてなりませんでした。古典的な表現を借りれば「ものの哀れ」でしょうか…。
 しかし、この地で懸命に働き、結果的に日本の礎を築かれた、名もなき方々の人生と功績を否定するつもりは、毛頭ありません。



 川に沿う街には人影がありません。
 ボクが気付いた人の姿は、郵便局と営業中の床屋さん、間藤駅向かいの工場だけでした。



 こういう立地の処では、何故か猫がのんびり日光浴をしています。





 悲しいことですが、朽ち果てんとする廃屋の方が、人が居住を続けるものよりも、遥かに多いと感じました。



 こちらは、古河橋のロータリー角の廃屋です。



 造りから、嘗ては商店だったと想像しました。



 こんな大きな鍵が…。



 「ピザ窯」がありました。
 こちらの「お店」で、焼きたてのピザを堪能してみたかったなァ…。







 間藤地区から引き返し、帰路につきました。
 途中、足尾の中心地、通洞を過ぎた左側に、上から順にこれらの施設が現れました。古河日航発電所株式会社通洞発電所です。既に機能を停止しているのは明らかな様相で、半ば廃墟となっていました。特に2枚目の煉瓦造りの建屋は既に崩れてしまっていました…。



 上の発電所の手前、足尾駅至近に、こんな洋館があります。



 「古河機械株式会社掛水倶楽部」。
 要は、古河財閥が足尾を訪れる政財界の重鎮を「おもてなし」した迎賓館とのことです。公開は4月からの週末とのことで、見学は叶いませんでした。
 建築として大いに興味があり、一度訪れてみたいと切に思いました。
 
 一方、鉱毒問題や劣悪な環境で働いていた方々の辛苦を斟酌すれば、たとえ殖産興業の時代の産物たれど、「吸血の館」に思えてしまい、二律背反のボク自身のマインドに矛盾を実感、暫く寝覚めの悪い思いがしました…。


 「毛無峠」や「北軽井沢駅」の記事に書きましたが、ボクは工場勤務だった親父の転勤で、故郷と言える場所を生涯喪失しました。この足尾で働いていた人と家族は今、何処でどんな人生を歩んでいらっしゃるのかなぁ、と、対岸に佇みながら暫く考えてしまいました。
 
 背後の崖は墓地で、多くの墓石が並んでいました。
 レンズを向ける気にはなれませんでした。
 この地でお亡くなりになった、所謂「よそ者」も眠られているはず。
 炭鉱や鉱山は、「よそ者」で成立していました。

 43歳の時、今年60歳。
 20年近く働いたレコード会社を、会社都合でリストラされました。
 その後5社を渡り、やっと落ち着いて10年が経ちました。
 ボクのちっぽけな経験でも、生活を支える会社を「クビ」になったり、「会社がなくなった」りしたら、筆舌に尽くし難い辛苦を強いられます。
 
 山をひとつトンネルで潜れば、風光明媚な観光地の日光。
 その裏側に、今もひっそりと終焉に向かわんとする此処が存在します。

 此処で働いていた人たちの辛苦に満ちた人生。
 閉山で辛苦が始まった人生。
 そして、鉱毒で被害に遭われた方々の人生…。

 全てを「決して他人事と思わない」と決め、帰途につきました。

 
 
 














Posted at 2020/03/15 18:19:18 | コメント(1) | トラックバック(0) | 廃の美学 | 日記
2020年03月08日 イイね!

遥かなる碓氷線(群馬県安中市)

遥かなる碓氷線(群馬県安中市) 昨日、月に一度の難聴治療で須坂を往復しました。
 帰路の「寄り道」場所は予め決めておりました。
 数週間前に鉄道博物館を訪れ、アプト式機関車ED40を見学したことはご紹介済ですが、その時に、碓氷峠の旧線を見に行こうと決めたのでした。

 碓氷線とは旧アプト式の横川--熊野平--軽井沢間を指します。
 横川と軽井沢の高低差は552.502メートル、66.7パーミルの急勾配です。
 1893年(明治26年)に営業運転が開始され、1921年(大正10年)、全ての列車が電化されました。そして1963年(昭和38年)、新線の開通によりアプト式の旧線は廃止されました。その新線も1997年(平成9年)、北陸新幹線の開通で廃止されたのでした。

 須坂からの帰路、国道18号線の旧道を軽井沢から横川へ下りました。横川から熊の平の旧線は「アプトの道」として遊歩道に整備され、ほぼすべてのトンネルや橋梁が残りハイキングを楽しめます。ところが熊の平から軽井沢に掛けては、旧線のインフラを壊して新線を建造したため、あまり残っていないのだそうですが、それでも幾つか見どころがありました。



 綴れ織りの坂道を下りながら最初に発見したのがこれ、第13橋梁です。
 アーチの5連、いかにも鉄道構造物です。
 現役時代には、この下を旧国道がヘアピンカーブを描き2度潜っていたのだそうです。この奥には第18隧道の入り口がありますが、コンクリートで封がされているそうです。



 その手前、第17隧道の出口です。
 18号の旧道を掠めるように口を開けています。
 此処に立ち、懸命に山を登る先頭1両、後尾3両のED42を眺めたかったなぁ…。



 車を少し進めると、こんな光景が。
 左は第17隧道の入り口、右は第16隧道の出口です。
 中央は第14溝梁。
 多くのトンネルで山を貫いた区間であること、明治時代にこんな設備を山深い彼の地に建造した精神に、率直に頭が下がります。



 幾つか構造物がありましたが、後ろから来た車にクラクションを鳴らされ、停車を諦めました。
 やがてここ、熊の平駐車場に着きました。車を停め、この階段を上がります。目指すは旧熊の平駅(信号所)です。



 線路が残っています。
 今にも列車が来るような雰囲気に、思わず嬉しくなりました。
 写真は軽井沢方面、旧線のトンネルは最も左です。



 説明ボードがありました。
 昭和41年、新線の複線化で廃止されました。



 変電所です。
 半ば廃墟と化していますが、偉大な産業遺構です。



 横川側のトンネル出口です。
 左側が本線、右側が押下隧道です。
 熊の平駅は単線だった旧線の列車交換が主な目的の駅でしたが、トンネルに挟まれた立地のため、輸送量の増大とともに短いプラットホームが問題となりました。そのため、長い列車を収容するため、両方向に水平のトンネルを掘り、長大な列車を退避させたのだそうです。
 右側の押下隧道は水平に掘られており、本線出口より高い位置にあります。これを見ただけで、この区間の急峻な勾配が見て取れます。



 上の写真の本線出口と、その左側の新線出口です。
 旧線の断面が小さいことが分かります。
 第三軌条で集電をせざるを得なかった理由です。



 熊の平から少し車を走らせると、これが現れました。
 第6橋梁です。
 煉瓦はフランス積みという形式だそうです。
 アーチはたった一つですが、美しい造形です。



 第5橋梁です。
 かわいらしい姿です。



 旧碓氷線で最大の見どころがこれ、第3橋梁、通称「めがね橋」です。
 高さ31.39メートル、全長91.06メートル、4連アーチの偉容を誇ります。
 碓氷川のせせらぎだけが響く中、澄んだ空気の中に突然現れました。
 まさしく絶景です。



 階段を上り、上から下界を眺めました。
 遥か下に旧道と碓氷川が見えました。



 こちらは横川方面。
 一つ前の写真は、奥のトンネル出口の右で撮りました。
 戻ってきた時、緩やかな坂道になっていることが分かりました。



 この後、横川駅に隣接する「碓氷峠鉄道文化むら」を訪れました。
 目的は、こちらで保存されているED42の見学です。

 入って直ぐの処に、アプト式が再現されていました。
 中央のラックレールの始まり部分は「エントランス」と呼ぶそうです、レールの歯は最初は低く、徐々に高さを増して行きます。前方1両、後方3両の機関車は、互いに協力し合いこの部分を慎重に通過してガッチリ機関車下の歯車に噛み合わせたそうです。特に熊の平を出て軽井沢へ登る時、駅の構内から急峻な勾配に入るため、先頭1台の機関車がラックレール区間に突入しても後尾の3両はまだ平坦な駅構内を通過中で、先頭の機関車は懸命に引っ張ったのだそうです。まさしく4両1チームの「肉弾戦」が、雨が降ろうが雪が積もろうが、毎日繰り広げられていたのでした。



 66.7パーミルの勾配が再現されています。
 一見、緩やかに見えますが、何百人もの乗客を収容した列車や、大量の物資を積んだ貨物列車は、この坂を自力で登ることは不可能だったのでした。



 室内に、ED42の1号機が保管されていました。
 鉄道博物館のED40と同様、運転台は横川方のみです。
 手入れが尽くされ、大変美しい姿です。



 第三軌条から集電するシューです。



 車体下の歯車。



 蒸気機関車のように、ロッドで繋がれた動輪です。

 基本的構造は、ED40を踏襲していますが、大量輸送時代を迎え、ハイパワーの機関を擁して4両1チームで仕業に就きました。
 彼らがあの山中で、ギアを鳴らして坂に挑む姿を一度見てみたかったです。きっと、底知れぬ感銘を受けたに違いありません。

 下調べをせずに軽井沢から横川へ降りるコースを辿りましたが、見逃した遺構も多くあります。次回はきちんと見どころとその場所を調べた上で、横川から登ろうと思いました。

 新緑のシーズンも美しいと思いますが、山がまだ枯れ色の今は、ベストシーズンのように思いました。車も人も少なく、大変楽しいひと時を過ごしました。
 皆様にもお薦め致します。


Posted at 2020/03/08 16:40:37 | コメント(0) | トラックバック(0) | 廃の美学 | 旅行/地域
2020年03月01日 イイね!

ホイール磨き その4

ホイール磨き その4 今日から3月。
 買い物に行きましたが、ここ埼玉県でもスーパーの棚からはマスクだけではなく、ティッシュやトイレットペーパーが姿を消してしまいました。一体、コロナ騒動は、どうなってしまうのでしょうか…。

 閑話休題。

 ロードスターに関する、目下の最大の課題がコレです。



 ウィンターマックスを履いた時に外して貰った、オリジナルのホイールです。SRリミテッド用はアルミの14インチですが、20年の間にクリアが劣化、みすぼらしい姿になってしまいました。タイヤを履いた状態で少しずつ磨いてはいましたが、やはり限度があります。冬の間にピカピカにしようと思ったのですが、何と今日はもう3月!重い腰を上げて、作業をしました。





 リムとスポークの接合部に、プツプツ小さな孔の開いたクリアがへばり着いています。



 センターキャップが嵌る穴の上部の凸部にも、クリアが残っています。



 ボルト穴の間には、磨いた部分とクリアの境界が見えます。

 今日は手作業で、クリアの上からメタルコンパウンドで磨きました。



 ガリ傷は、120番の耐水ペーパーで平らにしました。



 やっと、ここまでやりました。
 センター部とスポーク部は、ほぼクリアがなくなり、磨かれたアルミが美しい光沢を放つようになりました。でも、リムはこれからです。



 使ったのはこれです。
 いろいろ試しましたが、クリアを剥がすのと同時に地肌を磨くには、これが最強です。同じことをやろうとお考えの方にお薦めします。
 まだ3本あります。
 そう考えると、ちょっと心が萎えます…(笑)。
 でも、手作業の結果が「見える」ので、喜びも大きいと感じました。


 
Posted at 2020/03/01 15:45:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | ロードスター | ニュース

プロフィール

「お知らせ http://cvw.jp/b/2970161/46422054/
何シテル?   09/28 15:34
 妻はアルコール依存と摂食障害を患い、主治医の勧めで調停離婚しました。その1年後、彼女は突然世を去りました。一年に2回の母親との別れを経験した一人息子と、ドライ...
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