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2020年07月11日 イイね!

子育てが終わって…

子育てが終わって… 去年6月、親父の命日に7回忌の法要を行いました。
 5年前。
 ボクは独り息子が就職し家を出たので一人暮らし。
 母もそういう訳で女寡。
 大分、足腰がおぼつかなくなったので、15年間住んだマンションを手放し、母が住む実家に引っ越しました。残債を埋め合わせて50万円ほどが手元に残りましたので、まあトントンでした。
 ただ、最寄りの駅まで徒歩30分!毎朝始発電車に乗りますが、まだバスは動いていません。それで、マンションを購入以来ずっと借りていた駐車場の契約を継続、元自宅の下に停めて駅まで5分、歩いています。

 先月。
 マンション玄関前を通ると、目の前を素早く小さな鳥が横切りました。

「チー、チー……!!」

 盛んに「黄色い声」が鳴いています。

「ひょっとして…」

 マンションの玄関を潜り、振り返って上を見ると…。



 ありました。
 小さな燕の巣。
 毎年のように、ここに燕が巣を作りますが、カラスなどに襲われることもたびたび。マンションの住人の方が、ご覧のように大きな鳥が近づけないように、天井から吹き流し状のものを提げてくれていました。



 この写真は、6月11日に撮影しました。
 いた、いた…。黄色い口を開けています。



 親燕が戻って来て、休憩を始めました。
 どうやら、雛は2羽のようです。

 このマンションを購入、保谷市(現在は西東京市)から引っ越したのは、息子が小学校3年生の時でした。その直後、妻が心の病気になり、ボクと息子は散々な辛い日々をここで過ごしました。
 結局、主治医の「このままではあなたも息子さんも共倒れになる。離婚しなさい」との言葉に従い、妻は実家のある東北の地方都市へ。それから1年もしないうちに亡くなりました。息子は高校2年生になっていました。

 まだ息子が小学生の時。
 ここに初めて燕が営巣しました。
 息子は毎日、目を輝かせて観察を始めました。
 彼、幼少の頃から「おえかき」が大好きでした。

「それ、スケッチブックに毎日絵を描いて、雛の様子を日記風に書くと面白いと思うよ!」

 彼、ボクの言葉に従い、毎日ここで色鉛筆を駆使して描きました。この時は6羽か7羽の大所帯。巣立ちの直前には『成長した雛が「押し競饅頭」をしています』とのキャプション入りの絵を描きました。
 このスケッチブックを夏休みの図工の宿題として提出したところ、職員室で大評判だったとか。既に妻は発病し専門病院に長期入院中。ボクは毎日仕事のため、殆ど彼には構ってやれませんでしたが、土曜日に女性の校長先生から電話があり、経緯をやっと知るに至りました。その後、市が主催する「宿題の優秀作品」の一つに選ばれましたが、「図工」ではなく「理科」の観察日記としてでした。
 そんな息子も32歳、結婚の「け」すら口にしません(笑)!
 就職し熊谷、名古屋を経て地元に戻りましたが、去年4月からは札幌に。この4月からは札幌から半年間の予定で奈良に赴いております。

 

 7月1日に撮影しました。
 やはり、今年は2羽だけですが、僅か1ヶ月足らずですっかり大きくなりました。人間の成長と比べ驚異的ですが、その生涯も短いものです。「刹那」とすら言える期間に、こうして子孫を懸命に遺そうとする姿勢、哀愁と深い愛情を感じずにはいられません。



 お互いに、兄弟がいて良かったね!
 ボクの子供は彼だけ。母親がそんな有様だったので、いつの間にか「父親」兼「母親」兼「兄貴」的な存在になってしまいました。ただ、先ほども触れたように、当時は帰宅が遅く、休日勤務も頻繁でした。

 ある時、面白いことに気づきました。
 日曜日の夕方。
 夕食の準備が整い、二人で「いただきまーす!」

 「笑点」を見ながら息子は夕食、ボクは晩酌。

 彼、笑いながらコメントするのですが、どういう訳か出演の噺家に「さん」をつけて呼ぶのです。

「やっぱり、歌丸さんて、司会者の素質があるよネ!」
「喜久蔵さんって、ヘタな駄洒落とラーメンばっかりじゃん!」
「楽太郎さんは、アタマがキレるなぁ!」
「圓楽さん、司会者なのに笑い出すと止まらなくなるネ!」

といった具合。独りで家で過ごすことが多く、噺家の皆さんに尊敬と親しみを感じていたのだと思います。
 
 ちなみにもう一人。
「タモリさん」(笑)!



 昨日の撮影です。
 巣は「カラッポ」に!

 いつか雛は巣立つもの。
 子供も同じ。
 「空の巣症候群」などと言いますが、当然のことを悲しむなんて、ボクにはちょっと理解が出来ません。

 毎回、何の連絡もなく突然帰って来ます。
 そう、それで充分!
 親とは、子供にとって、そういう存在でいいと思います(笑)!
 
 
 
Posted at 2020/07/11 15:48:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 徒然なるままに | 日記
2020年07月07日 イイね!

東池袋大勝軒(東京都豊島区)

東池袋大勝軒(東京都豊島区) 今日は火曜日ですが、午前に母が検査入院の予定があり休暇を取得しました。
 一昨日の5日午前。デジカメの部品を買いに池袋に行きました。某大型店での買い物が済むと、時刻は10時50分。丁度お腹が空いたので、久し振りに「あのお店」に向かいました。



 ここが「東池袋大勝軒」。
 
 「ラーメンの神様」と呼ばれ、名立たるプロのラーメン職人から子供のお客さんに至るまで、広く親しまれ尊敬を集めたお店。当時のお店は区画整理のため2007年3月20日に閉店しましたが、翌2008年1月に、この高速道路下にリニューアル・オープンしました。この時、山岸さんは2代目に現店主を指名しました。
 この「人事」が、2015年に山岸さんが亡くなられた後に起きた「お家騒動」の導火線となります。ボクは論評する立場にありませんが、政治的ではないことを、一言だけ呟かせて下さい…。

「山岸さんが草葉の陰で泣いているヨ…」
 
 ボクが頻繁に通ったのは学生時代、1979年から84年にかけて。
 当時、通学で使っていた有楽町線は池袋と新富町が開通していました。西武池袋線から乗り換え、一駅だけ乗り途中下車したものです。
 きっかけはテレビ番組。大人から幼児まで、丼や皿に顔を突っ込むようにして食べていました。

「うまソー…」

 翌日。
 同じ第二外国語(ドイツ語。一度落第し必死に勉強、何とか留年は免れました)のクラスでの授業前の雑談。大のラーメン好きの太った体躯を探すと、直ぐ目に入りました。彼は当時「針の穴」と呼ばれた鮫洲での限定解除を達成、ホンダのナナハンで毎日、名立たる都内のラーメン店を食べ歩いていました。何でも、門前仲町の「弁慶」で大盛りを食べていた時、浴衣姿の丁髷が入って来たとか。食べ終え店を出ようとすると背後から肩を掴まれ、

「いい体でよく食べるな、うちの部屋に入門せんか?」

 彼に東池袋大勝軒のことを訊きました。

「ありゃー、うまいよ!ただ、早くに行かないと大変だよ!」

 翌日。
 彼から11時開店と聞いた(まだネットも携帯もなかった)ので、10時を目指して到着してみれば、既に大行列!11時に列が動き始め、やっと店に入ったのが12時30分でした。

 …茹で上げた太い中華麺を水で絞め、「甘・辛・酸」のスープに浸して食べたのは人生初でした。

「…う、う、…ウマーーーッッ!」

 たった一度で、完全に嵌ってしまったのでした(笑)。
 それからは、何曜日だったかは忘れましたが、午後からしか授業がない日は必ず途中下車!
 
 ここからは全くの余談ですが、ほんの少しだけお付き合い下さい。 

 その壱:

 ある時。
 ドイツ語の授業前に彼とラーメンの話をしていたら、

「俺もラーメン好きなんだよ!」

 「油すまし」のような男が、笑顔で会話に参加して来ました。
 ボクが「明日、東池袋に行く」と言うと、

「俺も連れて行ってくれ!」

 …それが、卒業後も続いたK君との長い付き合いの発端でした。
 お互いに「酒好き」「ラーメン好き」。
 当時、彼は松戸の常盤平の実家から通っていましたが、待ち合わせをしては東池袋に通うようになりました。そのうちに彼は何と、江戸川橋に三畳のアパートを借り、週に3、4回は通うようになりました。

 本好きだったK君は、ある出版社に就職しました。
 レコード会社時代にボクも散々経験しましたが、マスコミ業界は不規則、不健康の見本そのもの。長年の無理が祟ったのか、50歳で亡くなってしまいました。今も喜んで「もりそば」を食べていた彼の笑顔を思い出します。

 その弐:

 相撲部屋に勧誘された彼。
 実は魚河岸で有名な魚卸の息子でした。
 毎日バイクを駆使して食べ歩きをしているだけに、ラーメンに関しては驚異的知識の持ち主でした。既に「ラーメン本」とか週刊誌の巻末グラビアに「名店」とされるお店を紹介するページはありましたが、現代のネットと異なり「欲しい情報」をこちらから求めて検索する機能が、ラーメンに限らずあらゆる事象に存在しない時代。彼はあたかも現代のラーメンのHPが如きで、何処のお店でも知っていました。
 
 ところが、そんな彼にも「弱点」が!
 
 …魚河岸の卸の息子なのに、魚介類が全くダメ!

「あそこは、●●の鰹節を使っているらしいよ」
「うん、そのお店は海老を入れているから美味いんだ!」

 彼曰く 「…魚介類は、スープをおいしくするんだよ!」
 ボク  「継いだらラーメン店に営業したらイイ!」

 彼、珍しく真剣な表情で、何度も繰り返して頷いていました(笑)!
 いやー、若かったナー!
 
 …元に戻しますネ!
 
 就職と同時に地方へ転勤、東京に戻されたのは90年でした。
 レコード会社の宣伝部に配属され、昼夜のないメチャクチャな生活になりました。当時、朝7時には行列が始まり、物理的に食べることは無理になっていました。それでも、未明にレコーディングが終わった後や、休日出勤後の代休を使い、年に4、5回は堪能したものでした。
 
 こちらの新しい店舗を訪れたのは、今回が2度目。通勤で毎日池袋を通過していますが、駅から地下鉄一駅分離れていること、夜は刺身系のおつまみで晩酌するため、なかなか行く気にならないのでした。この日はお昼なので、胸をときめかせて雨の中を歩きました。



 「いらっしゃーい!」

 カウンターの中から、マスクを掛けた3人の店員さんが声を掛けてくれました。全員、白タオルの鉢巻にお店の名前入りの濃紺のTシャツ姿。東池袋大勝軒の「正装」です。
 小食のボクは「特製もりそば(小)」800円に「ゆで玉子」50円にしました。



 店内には、懐かしい山岸さんの写真が…。





 ソーシャル・ディスタンスが確保されていました。



 「おまちどーさまでしたー!」

 おー、艶やかな麺の輝き!
 見ただけで嬉しくなります。

 「いっただっきまーす!」



 スープに浸して「ズルズル!」

 …うん、「ツルツル・シコシコ」の「柔わ麺」!
 かつての山岸さんの麺に、限りなく近いと感じました。ただ、当時の山岸さんの麺は柔らかさのブレ幅が大きく、「ぷりぷり」弾ける食感の時もあれば、「デロンデロン!」の時もありました。この食感は、丁度平均値くらいで、大変懐かしく思いました。



 スープです。
 レンゲで一口啜りました。

 「…甘い!」

 山岸さんの味は「甘・酸・辛」が33.3ずつとの印象でしたが、こちらは50:25:25的に感じました。でも、決して美味しくないのではなく、これはこれでいいと思いました。
 酢と七味で好みの方向へ修正しました。



 東池袋のスープには、ゆで玉子が合います。
 スープを吸うと、

「ウマーーー!」

 至福のひととき…。



 デフォルトの具は、チャーシュー、茹で玉子1/2、メンマ、ナルト、海苔、それに葱。チャーシューは小ぶりなもも肉が一枚。ミシッとした固いものでした。



 という訳で、小160グラムを完食しました。

 さすが山岸さんのDNAを引き継いでいるなぁ、と実感しました。ただ、そっくりそのままなのではなく、新しい店舗に相応しい「洗練されたもりそば」と思いました。

 昭和55年から60年に掛けて、ボクの学生時代頃。
 あの「狭く(大変失礼ながら)コキタナかった」旧店舗は、まだまだ発展途上だった「山岸さんのもりそば」を味わうことが出来た、まさしく「もりそばの殿堂」だったと改めて実感しました。
 あれから40年。
 当時19歳から23歳の時代でした。
 今年で還暦。
 昭和は遠くになりました…。
 でも、
 いつだって「スッテンテン!」寸前だった貧乏学生は、今でも山岸さんにお腹一杯食べさせて戴いたことを覚えておりますし、大変感謝しております!
 


 2代目と生前の山岸さんの写真が飾られていました。

 ごちそうさまでした。

 そして、

 お世話になりました、有難うございます。


東池袋大勝軒

東京都豊島区南池袋2-42-8
03-3981-9360

11:00-22:00  水曜休

 

 

プロフィール

「お知らせ http://cvw.jp/b/2970161/46422054/
何シテル?   09/28 15:34
 妻はアルコール依存と摂食障害を患い、主治医の勧めで調停離婚しました。その1年後、彼女は突然世を去りました。一年に2回の母親との別れを経験した一人息子と、ドライ...
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