
このところ、大型一種免許取得のため教習所に通い始めたこと、バッテリーの昇天・パワステポンプからのオイル漏れでロードスターに手間と時間を費やされ、休日の活動が滞っております。ほぼ週末にしか更新が出来ないため、ネタは一杯溜まっておりますので、今日はその中からこちら、埼玉県川口市の『旧田中家住宅』をご紹介します。訪れたのは昨年7月5日。東池袋大勝軒を堪能した後、昔の都電32番に乗り王子で東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道に乗り継ぎ、川口元郷で下車しました。
■旧田中家住宅とは…?
1.概要
田中家は川口の旧家で、当主は代々徳兵衛を名乗った。江戸時代末期の初代徳兵衛は農業を営んだが、2代徳兵衛の時代、1871年(明治4年)からは麦味噌醸造と材木商を営んで繁栄した。現存する住宅は4代徳兵衛(1875 - 1947年)が建てたものである。同人は家業のほか、埼玉県議会議員や貴族院議員も務めた。洋館は1921年(大正10年)上棟、1923年竣工。設計監督は櫻井忍夫である。洋館の裏手に建つ和館は1934年(昭和9年)上棟。設計監督は府場陽二である。洋館の北側に建つ文庫蔵(旧仕込倉)は明治末年頃の建立である。
洋館、和館、文庫蔵(旧仕込倉)、煉瓦塀2基の3棟2基が2006年(平成18年)に国の登録有形文化財になった後、2018年(平成30年)12月25日には国の重要文化財に指定された。敷地内には上記建物のほか、茶室と池泉回遊式の日本庭園があり、川口市立文化財センター分館として一般公開されている。
この住宅は、地元の名士の住居として、接客空間が充実しているのが特色である。洋館は関東大震災以前に上棟した煉瓦造3階建ての住宅建築として貴重な存在である。
2.建造物
洋館は日光御成道に面して建つ、煉瓦造3階建ての建物。西を正面とし、北から蔵部、主体部、台所部の3つに分かれている。建築面積は蔵部16.73平方メートル、主体部93.41平方メートル、台所部64.43平方メートル、計174.57平方メートルである。主体部の一部が西側へ張り出して、ファサード(正面外観)に変化を与えている。外観は化粧煉瓦積みで、建物の角にあたる部分には柱形を造り出し、人造石洗い出しによる窓枠を1階から3階まで通して、縦方向の線を強調している。屋上は西側突出部の正面にはペディメント(破風)を設け、他は欄干風のパラペット(胸壁)を設け、これらを銅板張りとする。柱形の上部には銅板のメダイヨン(円形装飾)を設ける。1階には玄関、家人用の食堂、台所があり、西側突出部は洋間の応接室とする。2階には座敷、次の間があり、西側突出部は洋間の書斎とする。3階には洋間の大広間があり、西側突出部は洋間の「控えの間」とする。1階の玄関は天井が和式の格天井で、神棚を設けるなど、古い商家の帳場のような構えとする。以上のように、この建物は、3階の大広間などに西洋古典式の内装をほどこす一方で、和風の空間も混在している。
和館は木造一部2階建てで、寄棟造、桟瓦葺き。建築面積は160.05平方メートル。洋館の裏手(東)に接続する東西棟の建物である。1階は西から東へ仏間(10畳)、次の間(12畳半)、座敷(15畳)が並ぶ。間仕切りの襖を取り払うと、37畳半の広大な空間になる。仏間の上に2階を設け、8畳の和室と次の間(4畳半)がある。
文庫蔵(旧仕込倉)は木造平屋建て、切妻造、桟瓦葺き。建築面積は99.15平方メートル。この蔵は、洋館より先に建っていたことが古写真から明らかで、明治末年頃の建立である。
(※以上、ウィキペディアより)
■本題
要はこの地で味噌の醸造業で財を成した四代目田中徳兵衛氏が建てた和洋折衷の大邸宅。川口は鋳物の街というイメージがありますが、嘗ては多くの味噌醸造所があり、荒川の水運を利用して東京へ出荷していたそうです。
しかし産業構造の変化とともに次第に衰退、昭和50年(1975年)頃には、ほぼ姿を消しました。そんな川口の過去を伝える証人として、この住宅は今も街道沿いに立ち竦んでいます。
三階建ての尖塔上の外観は、川口元郷から少し歩くと、遠くからでも目立ちます。何とも時代的なファザードが特徴。
玄関は、重厚な4枚の引き戸。この造りは商家そのものです。
銅に曇り硝子を嵌めたような外灯。
何とも重厚な意匠です。
表札がそのまま遺されていました。
大時代的な書体ですが、この館の佇まいに合います。
玄関を入ると帳場。
ここで番頭さんが算盤と帳面を手に商談していたのでしょう。
何だか、時代劇のシーンで見るような造作。
きっと、こんな風だったのでしょう。
商家らしく、重厚な神棚があります。
帳場の左奥は応接室。
帳場では済ませられないような、大口の商談にでも使われたと想像しました。
渋いドアノブです。
擦りキズが最盛期を思い起させてくれます。
こんな鏡つきのハンガーがありました。
現代に通用するデザインです。
美しいヨーロピアン調のステンドグラス!
凝りに凝った邸宅です。
こちらは木彫りのレリーフ。
花と花瓶をあしらったものですが、どこか華麗でいて華奢な作品です。
さて、二階へ上がります。
こちらは、ご当主の書斎として造られたのだそうです。
先は畳の廊下。説明にあるように数寄屋風の書院造りの和室に繋がります。
一年中「端午の節句」デス!(笑)
こちらは『客間』。
写真の説明を読みましたが、和風建築の知識に乏しく理解出来ませんでした。
こちらには、金屏風に刀剣が。
財を築き上げた証しです。
室内にガラスが多用されていました。
が、当時のものは平らではなく、外が歪んで見えるのだとか。
今に遺されていることに感動しました。
次は三階です。
迎賓目的の大広間です。
まるで鹿鳴館!明治から大正の時代、庶民はまだまだ赤貧を洗っていた時代。当時の資産家との差は、現代と比べ遥かに大きかった証左と思いました。
調度品も素晴らしいものばかり…。
こんな風にパーテイーが催されていたのでしょうね。
ご婦人が和服姿の正装なのが印象的です。
さて、一階へ戻ります。
帳場裏の狭いスペースには、重厚なデスクが。
横には壁に埋め込み式の金庫があります。
この当時、クレジットカードやネット決済などなく、現金か掛け売りのみ。帳簿と現金のチェックを、毎日この机で行っていたことでしょう。
ところでこれ、何だと思いますか?。
正解は「防火扉」!
写真の手前側は平屋の和館。広い和室が縦に三部屋連なり、さらに奥は台所。火が出た場合、本棟への延焼を防ぐ目的で設置されたとか。一枚上の写真は、扉をおろすための「装置」。収納されたベルト状の布を、ひたすら引っ張るのだそうです。
こちらは縦に三部屋連なる和室で、最も手前、『座敷』。次の真ん中は『次の間』、最奥が『仏間』です。
ここが『仏間』。
一族の祝言など、重要な行事に使用されたそうで、最も格調高い和室です。
それを裏付けるものがありました。
『次の間』との境の鴨居です。
天井をご覧ください。
『仏間』の方が高いことがわかります。
欄間には華麗な彫刻が施されています。
尾籠な場所ですが、こちらでは『袴脱ぎ』と呼びます。
袴の和装の方が用を足す場合を考慮、手前に広い空間を確保した設計です。
和館の最も奥は台所。
説明左後ろの階段は、使用人が起居するスペースに繋がっているそうです。
既に竈などは撤去されていますが、長年の煮炊きで壁は黒く染まっています。
そのすぐ上が使用人の部屋。
…壁が真っ黒になる竈の真上、劣悪極まる居住環境に違いありません。
須坂市の小田切家も同様の造りだったことを思い出しました。
庭の池には、溢れんばかりの鯉が!
何年か前に水を抜き清掃した時、数えたら180匹を越えていたとか。
■ボクの感想
土地柄もあるのでしょうが、須坂の小田切家は洗練された『お洒落な』屋敷と感じました。ですが、こちらは『資本主義の最頂点』を極めた方の邸宅という印象。勿論、非の打ちどころのない素晴らしい建築ですが、どこか『毒々しさ』が漂っていると、個人的に思いました。今までご紹介しなかったのは、そんな理由からです。
ご機会があれば、訪れて確認されてみて下さい。
旧田中家住宅
埼玉県川口市末広1-7-2
048-222-1061 川口文化センター
月・年末年始休館
Posted at 2021/02/23 12:40:35 | |
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