(安岡正篤-「人物を創る」より)
人物が出来ると、身体・言語動作が決まってくる
「知止而後有定。定而後能静。静而後能安。安而後能慮。慮而後能得」まさしくその通りであります。「定まる」というのは、「落ち着く」と解釈すれば一番よい。「知る」というのも、単に「理解する」というだけの意味ではない。「知る」というのは「つかむ」という意味で、本当に知ることである。頭の先で知るのではなくて身体で知る。だから「支配する」「治める」という意味にもなる。動物的に行くのではなく、人間的にそこへ行く。そのようにして「とどまるを知って」しかる後に定まってくる。
決まる、定まる、落ち着くというようなものは、少しでも明徳的に進んで行くにしたがって生じて来る。姿勢でいうと、本当に我々が正坐の修行をしてくると、身体がちゃんと決まってくる。茶をやっても、剣道をやってもそうである。ある段階まで至らず、入り口でまごまごしている時は、やはり体がヘナヘナしている。坐禅でも、剣道でも、あるところまで進むと必ず身体が定まって、姿勢が決まってくる。音楽でも、絵画でも、何でもそうです。「知止而後有定」です。
定まってくると板についてくる。落ち着いてくると、而る後に能(よ)く静か。「静」ということは絶対であり、造化の真相であり、ひとつの特徴であります。物静かで、がさつにならない。「静而後能安」。歌謡でも小唄でも、上手が歌いますと、どんな急調子のところでも、そこに落ち着きがある。静かで、どこか悠々とした安けさがある。ところが下手がやると、追いかけてみたり、遅れてみたり、なんだかがさがさしていて、安定しない、静かでない。
人間でもそうです。人物が出来てくると、どこか身体にも言語動作にも決まりがあって、静かでおっとりとしております。安心さがある。修養しない人間は言語動作のことごとくが、がさがさしている。そして始終あわただしくて落ち着かぬ。しっかり落ち着いている人ならば、よかれ悪しかれ出来ている人間にちがいない。オッチョコチョイの人間は、どんなに利口でも、どんなに器用でも、こいつは本当ではない。「定静」ということは、ものの上品下品を測る非常によい手掛かりです。
「安而後能慮」したがってこういう徴候を見るようになってくれば、ここで本当に知恵が働いてくる。知識の働きが深まってくる。そこまで行けばよく物の真実をつかむことができる。一段と明徳を得てくる。
女性に「定」あり
我々がよく感ずるのでありますが、世間に時めいている男の名士というやつに案外つまらぬやつがいる。がさがさして、あいつがああいう地位におってよくやって行けるなというようなつまらぬ人がある。そういう人の家庭へ行ってみると、奥さんに非常に偉い人がいる。婦人にして非常によく慮る女がある。あれは何に拠るかというと、女は男と違って内省的であります。男は外向的のものであります。男の本性というものは、理性であるとか、功名心、物欲、才幹であるとか、肉体的な力などですが、女というものは、己れを忘れてより大きなものに生きる。男は家庭においても始終、主義的に生きる。女は一度嫁に行くと、自分を忘れて夫のため、子供のため、親のために生きている。だからこれは男よりは至善にとどまっているわけです。とどまっているから女というものは定まっている。だから女が度胸を据えたとなると、男よりはよほどしっかりしている。
監獄へ行って聞いてみても、男の死刑囚は絞首台に一人で歩いて行けません。足が立たない。両方から助けられてでなければ絞首台に十中八九までは上がれない。女の死刑囚は十人のうち八人までは一人で歩いて行く。これはあまり褒めた例ではないけれども、「定あり」である。だから女は「定而後能静」で、男よりは静かでどこか安心している。
そのうえ女というものは頭が直感的に働く特徴がある。とかく男というものは記憶力だの論理的な理解力というものは発達しているが、物を直感的に判断するということは案外発達しておらぬ。そのうえに落ち着かない。世間の富貴だの功名だのというものに、とらわれやすい。いろいろな欲でいつも浮き浮きしているから、頭の働きがうまくゆかない。
英雄と哲人の要素を分担
その点、名僧善智識というものは功名富貴から離れている。人と物から離れているから物の真相をつかむ。だから古(いにしえ)より英雄君子には相棒があった。一身に英雄と哲人との両要素を兼ね備えているのは少ない。お互いに分担してやっているようである。徳川家康には天海僧正、家光には沢庵、足利尊氏には夢窓国師、ビスマルクにはラムポラというような人がついている。大事業の跡を見ると、必ずそうなっている。近頃の政治家はそれが分からず、功名富貴にマゴマゴしているから、頭がフラフラしてろくなことをしでかさぬ。
婦人というものは、がさがさした亭主に連れ添うて、欲を離れ己れを忘れて生活している。すべて本能的に考えているものであるから、案外悠々としている。そうして本当に物をつかむ。とんまなのろまな亭主には天の配剤で賢夫人というものがついている。これは造化の妙であります。
「知止而後有定」で、「定而後能静。静而後能安。安而後能慮。慮而後能得」、 --- これらは我々の味わいのある人生の体験より発していることに相違ない。
古典の妙というものは論理や概念の遊戯ではない。古聖賢、あるいはその弟子たちが、先賢を思うて、あるいは子女を思うて編纂したものであります。体験が滲み出ているから愉快であります。
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Posted at 2011/07/03 08:21:33 | |
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