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2011年09月20日 イイね!

「古本大学講義」(十一)

(安岡正篤-「人物を創る」より)





為政者が陽明学を排斥する理由

最後に「格物」の解釈をめぐる陽明学派と朱子学派の相違が実際面においてどのように現れてくるのか。例えば、為政者はなぜ朱子学派の方を採用しているのか。なぜ陽明学派の説を時の為政者が採らぬかがこれで分かる。

一方は、物の真相に到達することを「物に至る」という態度で行っている。一方は「物を正すにあり」という態度である。現在の有様は必ずしも真であるかどうか分からぬのである。もし間違っているなら、これを我々が正して行かなければならぬ、と考える。こうした極めて改革的な考えを陽明学派の方はどうしても持つ。これに対し、朱子学派の方は、とにもかくにも物をよく見ようというわけで、「改める」というよりは「物を見よう」という立場にある。

「物を考えよう、観察しよう」が一転すれば、一方は非常に保守的になり、一方は非常に変革、革命的になってくる。だから社会生活、国家生活でいうと、朱子学派の方は、一応現在の生活、現在の秩序を是認してかかる。陽明学派の方は、現在の如何にかかわらず、終始己れの良心に顧みて、自分の思索判断から現実を直ちになんとか処理してゆこう、変革してゆこうという態度である。

これを支配階級からいうならば、どちらが自分たちに便利であるか、明瞭である。朱子学派の方が便利である。陽明学派の方は危なくてしようがない。自分たち(支配階級)のしていることを直ぐには受け入れないで、いっぺん考えてみる。そして自分で考えて、こうしなければならぬとなると、どこまでもそれを通す。これでは支配階級にとって、まことに都合が悪い。そこで、陽明学派は日本でも必ず遠ざけられた。朱子学派の方が都合がよい。

これは「格物」の「格」の読み方で直ぐに分かることです。それだけに、どちらが生き生きしてくるかと言えば、陽明学派の方が生き生きしてくる。どちらが間違いやすいかと言えば、陽明学派の方が間違いやすい。したがって陽明学派というものは大いに洗練警戒を要するわけであります。

これで「大学」は一段落です。以上は総論であります。



(「大学・小学」了)





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Posted at 2011/09/20 08:53:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 「大学」・「小学」 | 日記
2011年08月28日 イイね!

「古本大学講義」(十)

(安岡正篤-「人物を創る」より)





「格物」 --- 科学的読み方と哲学的・認識論的読み方(二)

この「格」がなかなかの問題で、先述のように七十二家の説があるというくらいの問題であります。最も新しい訓詁学によりますと、「物」を「法」と解しようという主義が採用されております。「天生蒸民、有物有則」(天、蒸民を生ずるに物有り則有り)という場合の「物」はこの「法」の意味であります。古典に「不物者」という句がありますが、これは「不法者、禁を犯す者、法のごとく生活しない者」の意です。法律の「法」の意味に「物」という字を使う。

次に「格」という字の読み方、解釈の仕方として、大きく分けると朱子学派的に「至る」と読むのと、陽明学派として「正す」と読むのと両説がある。そして互いに排斥しあっているのは、はなはだ妥当ではない。

朱子学派の「知を致すは物に至るにあり」という読み方と、陽明学派の「物を正すにあり」という読み方があるわけであるが、物を法と解釈すれば、つまり物の中には法があるわけです。自然科学というものは物の間に行われている法則を研究するものであり、哲学というのは人格性格に含む法則を研究してゆくものであります。物というのは広い読み方であり、法というのは狭い意味の読み方です。だから物と読んでもよいし、法と読んでも、どっちでもよろしい。ここでは、そうむずかしく詮索せずに、物と読んでおきましょう。

「物に至るにあり」というのはそれぞれ意味がありますが、どちらかというと科学的な意味の読み方であります。「物を正す」という方は哲学的・認識論的意味の読み方であります。ただし科学が進んで行けば同じ趣になります。実例でいいますと、昔の人は太陽が東から出て地球を中心に西へ運行するものだと考えていた。ところが研究してみると、その常識的な考え方が間違っていることがわかった。本当は地球が太陽に対し、西から東に向かって回転していると正さなくてはならぬ。我々が普通に考えていることは決して世の中の真なりとは言えない。だから我々が学問をするとき、修養をするときに、我々の普通の考え方、普通のやり方というものを正してゆかなくてはならぬ。そうしなければ物の真相は得られない --- という意味に解釈するのが陽明学派の「格物」の「格」の字の読み方であります。

けれども「至る」というのは物の真相に到達することであって、それこそ「物の法則、物の真実に至ることである」ということもできる。「物の真に至る」というのは“科学的”と解釈することができる。それで、どちらかというと科学的に考えた方が、そう読んだ方がよろしいというのは朱子学派である。

こうして両説共に捨て難い妙味があるのであります。相排斥するということはよろしくない。だから我々が本当に学問修養をしてゆこうと思ったならば、ただ漫然とありきたりの生活をしているわけにはゆかぬ。日常の経験というものをできるだけ正してゆかなければならぬ。あるいは物の真実に到達してゆかなければならぬ。そこで初めて事の知識、本当の自覚というものが生じてくる。それによって「我々はこうすべきではなかった、こうしなければならぬ」というふうに、我々の意識を誠にして行くことができる。誠というのは最も深く造化的であり、絶対的であり、したがって真実であります。こうして我々の意志を真実にして行くことができる。そうすると心全体の働き(潜在意識に対する心です)が正しくなり、それが正しくなってゆけば自分の身が修まってくる。自分の身が修まってくれば家が斉ってくる。家が斉ってくれば国が治まってくる。国が治まってくれば天下が平らかに治まってくる。而して天子より一般人民に至るまで、身を修めるということを本としなければならぬ、というわけである。したがって致知格物となる。字の示す如し。

「其本乱、而末治者否矣」本が乱れて末が治まりようがない。

「其所厚者薄、而其所薄者厚、未之有也」未という字は無に通じるから、「これある無きなり」と読んでもよい。これが「大学」の有名な八条目。





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Posted at 2011/08/28 07:53:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 「大学」・「小学」 | 日記
2011年07月24日 イイね!

「古本大学講義」(九)

(安岡正篤-「人物を創る」より)





「格物」 --- 科学的読み方と哲学的・認識論的読み方(一)

その次が「八条目」といわれる八箇条。

「古之欲明明徳於天下者、先治其国。欲治其国者、先斉其家。欲斉其家者、先修其身。欲修其身者、先正其心。欲正其心者、先誠其意。欲誠其意者、先致其知。致知在格物」。

※(古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先づ其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先づ其の家を斉う。其の家を斉えんと欲する者は、先づ其の身を修む。其の身を修めんと欲する者は、先づ其の心を正す。其の心を正さんと欲する者は、先づ其の意を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先づ其の知を致す。知を致すは物を格すに在り。)

格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下、八つになります。これを三綱領に対して八条目といいます。

「物格而后知至。知至而后意誠。意誠而后心正。心正而后身修。 身修而后家斉。家斉而后国治。国治而后天下平。自天子以至於庶人、壹是皆以修身為本」。

※(物を格して而る后知至る。知至りて而る后意誠なり。意誠にして而る后心正し。心正しくして而る后身修まる。身修まりて而る后家斉う。家斉うて而る后国治まる。国治まりて而る后天下平らかなり。天子より以て庶人に至るまで、壱に是れ皆身を修むるを以て本と為す。)

中江藤樹が読んで非常に感激したというところです。

この本末先後というところから考えて行くと、まず自分を問題にする。つまり自分の何が発達段階であるか、何が根本であるかと言えば、天下を治めるとか何とかいうのは頂上の問題であります。天下に明徳を明らかにするためには、それに先んずべき問題として、その国を治めるということがなければならぬ。その国を治めるということの先決問題あるいは根本問題として、まず其の家を斉えなければならない。家を斉えるための先決問題・根本問題は修身ということでなければならぬ。身を修めるには、これに先だつ根本精神として「心を正す」ということが必要である。心の根本形式は意志であります。意志というものは、精神の最も根本的な形式の働きであります。したがって意を誠にするためにはまず知を致さなければならぬ。我々の知識、我々の精神、我々の意識、我々の理性の働き、これを完成し、樹立しなければならぬ。そのための鍵は「格物」にある。



※ 「大学(一)」参照。





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Posted at 2011/07/24 02:07:24 | コメント(1) | トラックバック(0) | 「大学」・「小学」 | 日記
2011年07月10日 イイね!

「古本大学講義」(八)

(安岡正篤-「人物を創る」より)




根本を培養せよ

「物有本末、事有終始。知所先後、則近道矣」物には必ず本と末とがある。事に終わりと始めとがある。何が根本で何が末梢か、何が先決問題で何が後の問題であるか、ということを知れば「道」に近い。「道」とは創造の理法、造化の理法のことをいう。それに近づいてくるのである。これをひっくり返すと大変なことになる。

石に見る永遠の宇宙の大道

私は今にして初めて古人の言の容易ならざることが分かってきましたが、私が子供の時分に田舎にいた私の叔父は、老荘学者として非常に学問が好きであったが、非常に石が好きで、石を見て廻っていることがある。またどこからか拾ってきて、それをさすっている。それを見て、私は、いったい石なんかさすって何になるか、と思っていた。ところが、あるとき叔父が「石というものは非常に面白い。この石が分かるようになったら、初めて共に学問道徳を談ずるに足る。石よりも脂粉臭い女の方に興味を持っている間はまだ本物ではない」という。大学に行っていた私たちは、老人臭いことを言うと思っていた。ところが、今頃しみじみその言葉を思い出す。ぼつぼつ石が好きになってきたので、私も年を取ったなと思うが、「物に本末あり」というのはそこです。

近ごろの西洋の科学者が我々に教えてくれるところによると、原初、岩石ばかりであった地球上に、いつか有機物が生まれ、植物と動物が生まれてくる。その動物は単細胞動物から多細胞動物となり、次に軟体動物が出てきて猿のようなものが出来てくる。手長猿だの尾長猿が出て、人間が出てくる。このように宇宙は刻々と進化しているが、石はその始めに位置している。何が根本であるかというと、石が根幹である。それ以後のものは発達であると同時に、分散であり、末梢化であります。文化というものは非常に末梢化しているわけです。それで考えてみると、人間の刺激は末梢的な愉快さです。まだ犬や猫を見ていると、人間同士でいるときよりも物静かなおぼろげなくつろぎを感ずる。舟に乗って魚釣りをやるときは、犬や猫を可愛がっているときとは違う愉快がある。それは非常に永遠的な愉快である。石を見ているときは、最もエターナルな静かなくつろぎ、ゆとり、楽しみを我々は発見することができる。したがって石が楽しみになるということは、永遠の宇宙の大道、根本道を楽しむことができるようになっているということです。金や女を追っかけ廻している間は、末梢的段階でマゴマゴしていることなのです。

宇宙というものは非常に悠久なものです。根本の方へ絶えず引っ張っておらないと、本当の発展ができない。だから文明人になればなるほど自然というものを愛好しなければ生きていられない。

我々には造化の外に発展しようとする力と、内に統一しようとする力とがある。この根幹に帰る力を含むことが多ければ多いほど永遠的になってくる。この根幹に帰る力が薄らいで、外へ外へと延びて行くと刹那的になってくる。非常に繊弱になり、はかなくなってくる。よって我々は、どれが根本でどれが末梢であるかということをよく知って、根本を培養しなければならぬ。どちらが末でどちらが先だかということを知る。先後するところを知らなければならぬ。これは造化という面から言って非常に大切なことである。これを忘れると「道」に遠くなる。以上が「三綱領」である。





前頁「古本大学講義」(七)

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Posted at 2011/07/10 10:58:49 | コメント(1) | トラックバック(0) | 「大学」・「小学」 | 日記
2011年07月03日 イイね!

「古本大学講義」(七)

(安岡正篤-「人物を創る」より)





人物が出来ると、身体・言語動作が決まってくる

「知止而後有定。定而後能静。静而後能安。安而後能慮。慮而後能得」まさしくその通りであります。「定まる」というのは、「落ち着く」と解釈すれば一番よい。「知る」というのも、単に「理解する」というだけの意味ではない。「知る」というのは「つかむ」という意味で、本当に知ることである。頭の先で知るのではなくて身体で知る。だから「支配する」「治める」という意味にもなる。動物的に行くのではなく、人間的にそこへ行く。そのようにして「とどまるを知って」しかる後に定まってくる。

決まる、定まる、落ち着くというようなものは、少しでも明徳的に進んで行くにしたがって生じて来る。姿勢でいうと、本当に我々が正坐の修行をしてくると、身体がちゃんと決まってくる。茶をやっても、剣道をやってもそうである。ある段階まで至らず、入り口でまごまごしている時は、やはり体がヘナヘナしている。坐禅でも、剣道でも、あるところまで進むと必ず身体が定まって、姿勢が決まってくる。音楽でも、絵画でも、何でもそうです。「知止而後有定」です。

定まってくると板についてくる。落ち着いてくると、而る後に能(よ)く静か。「静」ということは絶対であり、造化の真相であり、ひとつの特徴であります。物静かで、がさつにならない。「静而後能安」。歌謡でも小唄でも、上手が歌いますと、どんな急調子のところでも、そこに落ち着きがある。静かで、どこか悠々とした安けさがある。ところが下手がやると、追いかけてみたり、遅れてみたり、なんだかがさがさしていて、安定しない、静かでない。

人間でもそうです。人物が出来てくると、どこか身体にも言語動作にも決まりがあって、静かでおっとりとしております。安心さがある。修養しない人間は言語動作のことごとくが、がさがさしている。そして始終あわただしくて落ち着かぬ。しっかり落ち着いている人ならば、よかれ悪しかれ出来ている人間にちがいない。オッチョコチョイの人間は、どんなに利口でも、どんなに器用でも、こいつは本当ではない。「定静」ということは、ものの上品下品を測る非常によい手掛かりです。

「安而後能慮」したがってこういう徴候を見るようになってくれば、ここで本当に知恵が働いてくる。知識の働きが深まってくる。そこまで行けばよく物の真実をつかむことができる。一段と明徳を得てくる。

女性に「定」あり

我々がよく感ずるのでありますが、世間に時めいている男の名士というやつに案外つまらぬやつがいる。がさがさして、あいつがああいう地位におってよくやって行けるなというようなつまらぬ人がある。そういう人の家庭へ行ってみると、奥さんに非常に偉い人がいる。婦人にして非常によく慮る女がある。あれは何に拠るかというと、女は男と違って内省的であります。男は外向的のものであります。男の本性というものは、理性であるとか、功名心、物欲、才幹であるとか、肉体的な力などですが、女というものは、己れを忘れてより大きなものに生きる。男は家庭においても始終、主義的に生きる。女は一度嫁に行くと、自分を忘れて夫のため、子供のため、親のために生きている。だからこれは男よりは至善にとどまっているわけです。とどまっているから女というものは定まっている。だから女が度胸を据えたとなると、男よりはよほどしっかりしている。

監獄へ行って聞いてみても、男の死刑囚は絞首台に一人で歩いて行けません。足が立たない。両方から助けられてでなければ絞首台に十中八九までは上がれない。女の死刑囚は十人のうち八人までは一人で歩いて行く。これはあまり褒めた例ではないけれども、「定あり」である。だから女は「定而後能静」で、男よりは静かでどこか安心している。

そのうえ女というものは頭が直感的に働く特徴がある。とかく男というものは記憶力だの論理的な理解力というものは発達しているが、物を直感的に判断するということは案外発達しておらぬ。そのうえに落ち着かない。世間の富貴だの功名だのというものに、とらわれやすい。いろいろな欲でいつも浮き浮きしているから、頭の働きがうまくゆかない。

英雄と哲人の要素を分担

その点、名僧善智識というものは功名富貴から離れている。人と物から離れているから物の真相をつかむ。だから古(いにしえ)より英雄君子には相棒があった。一身に英雄と哲人との両要素を兼ね備えているのは少ない。お互いに分担してやっているようである。徳川家康には天海僧正、家光には沢庵、足利尊氏には夢窓国師、ビスマルクにはラムポラというような人がついている。大事業の跡を見ると、必ずそうなっている。近頃の政治家はそれが分からず、功名富貴にマゴマゴしているから、頭がフラフラしてろくなことをしでかさぬ。

婦人というものは、がさがさした亭主に連れ添うて、欲を離れ己れを忘れて生活している。すべて本能的に考えているものであるから、案外悠々としている。そうして本当に物をつかむ。とんまなのろまな亭主には天の配剤で賢夫人というものがついている。これは造化の妙であります。

「知止而後有定」で、「定而後能静。静而後能安。安而後能慮。慮而後能得」、 --- これらは我々の味わいのある人生の体験より発していることに相違ない。

古典の妙というものは論理や概念の遊戯ではない。古聖賢、あるいはその弟子たちが、先賢を思うて、あるいは子女を思うて編纂したものであります。体験が滲み出ているから愉快であります。





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Posted at 2011/07/03 08:21:33 | コメント(1) | トラックバック(0) | 「大学」・「小学」 | 日記

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何シテル?   03/13 11:32
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