(司馬遼太郎-「峠」より)
継之助は塾を出て藩邸へ向かう道すがら、この世をうごかしている者が気ちがいか低能のあつまりで、やることなすこと、ばかばかしいかぎりだ、と思った。
(制度がわるい)
まったく行政制度がわるい。世の仕組もわるい。この固陋な封建制では人物も出られないし、出たところでなにもできないだろう。
---- 倒せばよい。
と、継之助はふとおもう。こんな政体を、である。こんな弱々しい政体を日本が持っているかぎり、ついには外国の餌食にされてしまうだろう。
(おれが、西国の外様藩にうまれておればきっとそうする)
いわゆる勤王倒幕の士になっていたにちがいない。長州藩、薩摩藩などは徳川家の外様で、徳川家に対する恩義がうすく、むかし乱世のころの力量の相違で、たまたま徳川家の下に屈してしまっただけの関係である。かれらが天下を憂えるとき、当然、この腐りきった幕府体制を一掃してあたらしい統一国家をつくり、それをもって外敵にあたろうとするだろう。
(が、おれはそうはいかぬ)
かれの藩は、徳川の譜代である。牧野氏は戦国のころは三河の牛久保(豊橋市北方)の小さな土豪で、早くから家康の傘下に入り、家康の創業をたすけ、「徳川十七将」のひとりとしてあらゆる合戦に参加し、家康が大をなしてからはその功によって牧野氏は大名になった。外様大名とはちがい、譜代大名とは徳川家の番頭なのである。その番頭の家来であるこの継之助が、西国出身の志士どものように、あっさり徳川家を否定するようなことはできない。
(それは断乎としてできない)
というのが、継之助が自分自身をしばりつけている重要な拘束であった。士たる者が自分で自分をしばりあげているこの拘束こそ、かれ自身を一個の漢(おとこ)たらしめてゆくもっとも大事な条件であると継之助はおもっている。その拘束のなかで人間は懸命に可能性を見出し、見出すために周囲と血みどろになってたたかわねばならない、とおもっている。
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Posted at 2010/12/30 11:21:24 | |
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「峠」 | 日記