(司馬遼太郎-「峠」より)
--- 藩邸があればよいのだが。
と、継之助は何度もおもった。藩邸があれば、そのお長屋にでもとまる。泊らなくても、駐在役人に長崎事情をきける。
さらに、
(おれの藩は、長崎に藩邸をもたぬ)
ということは、重大な問題であった。西国の雄藩のほとんどが、この開港場に藩邸 --- 藩の貿易出張所をもっているのである。
薩摩藩や肥前佐賀藩などは、浜ぎわに堂々となまこ塀をめぐらした藩邸をもっていた。かれらはここを根城に、外国の人々と直接貿易をやっているのにちがいない。
(西国の雄藩に金があるはずだ)
とおもった。土佐藩のごときは藩邸こそもたなかったが、藩出身の長崎商人ととくべつな関係をもち、藩邸同様の機能をはたさせている。
が、東日本の諸藩はもっていない。信越、関東、奥州の諸藩は、長崎という世界への窓とはまったく没交渉であった。
(これは、立ち遅れる)
という恐怖が、継之助の心臓を凍らせた。将来、幕威がおとろえ、諸藩が戦国の群雄割拠のようにそれぞれ独立した場合、西日本の雄藩は、兵器などの物質的威力によって東日本の諸藩を圧倒するであろう。
(それに --- )
と、継之助はおもった。将来、幕府を倒す者は西国の雄藩であるとすれば(世間ではそうささやいている)、これは可能にちがいない。かれらはこの長崎からたっぷりと養分を吸いあげ、いずれはまるまると肥えふとるであろう。
(東日本諸藩は、ねむっている)
地の利のわるさであった。日本列島という縦に細長い列島が、長崎という最西端において玄関をもっているというのは、東方の藩にとってはどうにもならぬほどの不利である。
(おれたちは、横浜だな)
と、継之助はあらためて横浜の価値というものを長崎にきて気づかされた。あの開港早々の条約港を東方の諸藩が大いに利用しなければ、ついには西方に圧倒されるにちがいない。
(しかし、東方の諸藩はそれに気づいていない。みな、固陋な攘夷思想のかさぶたのなかで息をひそめている)
なるほど西方の諸藩は尊王攘夷の声をたけだけしく叫んでいる。しかし薩摩藩の例をみても、かれらは口に攘夷を叫びながら、ひそかに長崎で貿易をしているではないか。
横浜
横浜
と、継之助は毎日長崎の港や町をあるきながら、恋人を想うがようにあの出来あがったばかりの開港場をおもった。
継之助は、幕府軍艦観光丸の艦長矢田堀景蔵の好意で、このオランダ製の蒸気軍艦の内部を見学させてもらった。
すべてが、洋式であった。
最後に艦長室におちついたとき、
「いま日本は攘夷さわぎの渦中にあるが、しかし十年後にはすべてが洋式になる。それが、文明(ということばは使わなかったが)の勢いというものだ。勢いというものは山から落ちる水のごとく、なにものにも阻まれぬ」
という、有名な予言をした。
艦長の矢田堀はふかくうなずいたが、この西洋通の幕臣でさえ、そうは簡単なものとは思えなかった。しかし九年後に明治維新が成立した。
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Posted at 2012/02/12 02:32:42 | |
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