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16nightsのブログ一覧

2012年06月17日 イイね!

「一隅ヲ照ラス者、コレ国宝」 『峠』(三十七)

(司馬遼太郎-「峠」より)





「お兄様はなぜ出仕なさいませぬ」

「だしぬけに、なにを言やがる」

「お役が、ご不足なのですね」

お八寸は、おもったとおり言う。不足とすればこれほど尊大なことはない、という非難も語気にこめていた。そうであろう、父の代右衛門でさえ、若いころは勘定方の見習から出発しているし、たれもが必要な階段を踏まなければならない。

「不足なものか」

継之助は、大声でうち消した。

「不足どころか、おれがそういう地道な事務にむいているなら、どれほど幸福かもしれぬ。第一おすががよろこぶだろう」

「ええ、お嫂様も、しんぱいなさっています」

「いくら心配してくれても、このおれにはそういう下僚の才は無いさ。人間、適せぬことをやってはならぬ」

「お兄様は、なににお適しになります」

「家老だな」

「えっ」

お八寸はどぎもをぬかれた。つまり、いきなり藩の宰相にしろ、とこの兄は正気でおもっているらしい。

「人間の才能は、多様だ」

と、継之助はいった。

「小吏にむいている、という男もあれば、大将にしかなれぬ、という男もある」

「どちらが、幸福でしょう」

「小吏の才だな」

継之助はいった。藩組織の片すみでこつこつと飽きもせずに小さな事務をとってゆく、そういう小器量の男にうまれついた者は幸福であるという。自分の一生に疑いももたず、冒険もせず、危険の淵に近づきもせず、ただ分をまもり、妻子を愛し、それなりで生涯をすごす。

「一隅ヲ照ラス者、コレ国宝」

継之助は、いった。叡山をひらいて天台宗を創設した伝教大師のことばである。きまじめな小器量者こそ国宝である、というのである。

「お兄様は?」

「おみかけのとおりさ」

どうみても、伝教大師が愛した小器量者ではない。

「大器量者?」

「そうとしか、おもえぬ」

と、照れもせず、にがい顔でいった。このうまれつきは不幸である、と継之助はいう。小器量者の職分なら世に無数にあるが、しかし大器量者の職分はめったにない。つねに失業せざるをえない。

「大名か家老にうまれ、生れつき一藩をひきいてゆくというのならなんのこともないが、このおれのように百石取りの家にうまれてしまえば、ちょっと滑稽だな」

「滑稽」

お八寸は、笑いだした。なるほどこの兄が力こぶの入れようもないまま、庭前の松をながめてくらしている姿は、悲愴というよりもむしろ滑稽にちかい。

「となれば、書物でも読んでぶらぶらしているほかはないさ」

「いずれは?」

「そう、いずれは藩のほうからおれを呼びにくる」

「来なければ?」

「酔生夢死だな。為すこともなくこの世に生き、そして死んでゆく、その覚悟だけはできている。この覚悟のないやつは、大した男ではない」





前頁「峠」(三十六)

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Posted at 2012/06/17 13:53:43 | コメント(1) | トラックバック(0) | 「峠」 | 日記
2012年06月10日 イイね!

日本人ほど想像力のたくましい人種はいない 『峠』(三十六)

(司馬遼太郎-「峠」より)





「私は地球を見て歩きたい」

と、継之助はいった。しかし海外渡航は三百年来の国禁であり、安政条約でもこればかりは解けていない。

「行くわけにも参らぬから、この横浜から地球の景色をうかがっている」

「見えますか」

見えるはずがないではないか。

「それが、見えるのさ」

継之助がいった。かれのいうところでは、日本人ほど想像力のたくましい人種はいない。古来、シナの古典を読み、ただそれだけでシナを想像してきたという途方もない実績をもっている。いまこの横浜で心眼をこらせば欧米の動きがありありとみえてくる、というのである。

この間、万延元年三月三日、幕府の大老井伊直弼が、江戸城桜田門外で水戸浪士のために斃された。

継之助は、横浜にいた。

「きた」

と、おもった。継之助のみるところ、この日以降、日本は混迷し、幕権は衰え、諸侯は戦国期のように自国や自城で独立し、浪士は京にあつまって朝廷を擁しつつ幕府に対抗するであろう。

「この日以後、幕府三百年の天地は崩れてゆく」

(こうしてはおれぬ)

と、継之助はいそぎ江戸にもどり、藩邸に詰めたが、しかし藩の江戸詰め重役たちはおどろくほどに鈍感であった。

「なにをさわぐ。他藩のことではないか」

と、継之助にいう者もあり、こういう空気ではなにを献言するという気もおこらなくなり、そのまま古賀塾の寮にもどった。

ごろごろするうちにこの年が暮れ、文久元年になった。

春、三国峠の雪どけを待って帰国した。





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Posted at 2012/06/10 14:39:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | 「峠」 | 日記
2012年05月13日 イイね!

田舎の三年、京の昼寝 『峠』(三十五)

(司馬遼太郎-「峠」より)





江戸にもどった継之助は、すぐには越後にもどらず、すこし江戸であそぼうとおもった。

古賀塾に、もどった。

「なぜ、この久敬舎(古賀塾)にお帰りになったのですか」

「理由か」

帰り新参の理由である。理由の好きな継之助はしばらく考えていたが、

「ひとつには、女だな」

といった。佐吉はおどろいた。古賀塾に女はいない。

「吉原・稲本楼の小稲さ。あれには恋情がある。訪ねねばならぬ」

「吉原通いの足場としての久敬舎ですか」

「そうだ」

明快にうなずいた。江戸で旅籠にとまるよりも古なじみの学塾にいたほうが、はるかに安あがりである。しかも塾のそなえつけの書籍はあるし、諸藩の一流の人才も訪ねてくる。

「人間はな」

店舗とおなじだ、と継之助はいった。場所が大事である。人のあつまる目抜き通りに店を出せば繁昌するように、古賀塾におれば学問はせずとも自然に耳目が肥える。

「古来、諺がある」

田舎の三年・京の昼寝 --- ということわざであった。田舎で三年懸命に学問するよりも京で昼寝しているほうが、はるかに進歩するという。

「当節風に言いかえれば、田舎の三年・江戸の昼寝だ。数ヵ月、昼寝する」

「藩に帰らなくともよいのですか」

「おっつけ帰る。しかし、いま帰っても長岡の田舎びとは、まだまだにぶい」

にぶい、というのは時勢に対してである。時勢に対し、緊迫感も危険感もない。そういう状態のなかで継之助が帰藩して、時勢の強烈な電流をつたえたところで、かれらはまるで感電せぬか、それとも不快がり、継之助を奇人視するばかりで、かえって結果がよろしくない。

「帰るべき時期がある。いずれ、天下がゆらぐような事変がおこるだろう。そのとき、ゆるりと帰る」

「どのような事変ですか」

「士は、みだりに予言せぬ」

「山田方谷先生とは、どのようなお方でありました」

「左様さな」

継之助は、方谷観をのべた。政治と行政の実力であのひとに及ぶひとは天下にない、と言い、かつ最後に意外なことをいった。

「すこし、人物が小さいな」

その理由は、たかだか五万石の小藩の宰相だからである。小天地は所詮はその柄にあう人物しか育てぬ、これは方谷先生の不幸である、といった。

「辛辣でありますな」

「これは尊敬とは別だ。たとえば蝦が好物だといって好むがあまり、鯨ほどの大きさがある、とはいえぬ」





前頁「峠」(三十四)

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Posted at 2012/05/13 04:11:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 「峠」 | 日記
2012年04月08日 イイね!

「どうも河井は豪(えら)すぎる。その豪すぎることが、河井にとり、また長岡藩にとり、はたして幸福な結果をよぶか、不幸をよぶか」 『峠』(三十四)

(司馬遼太郎-「峠」より)





継之助は九州遊歴後、ふたたび備中松山の山田方谷のもとにもどった。

この年いっぱい方谷の塾で起居し、翌万延元年の正月、方谷のもとを辞することになった。

「いったん江戸に帰り、しかるのちに帰藩します」

「そうか、やはり発つのかえ」

と、方谷はさすがに別れを惜しみ、毎朝、継之助の顔をみてはつぶやいた。

「何もしてやれなかったが、すこしはわしから得るところがあったか」

と、最後の夜に方谷がいうと、継之助は生涯でもっとも充実した日々でございました、と答えた。世辞ではなかった。

が、方谷はむろん世辞だとおもった。方谷は忙しくて継之助の読書の相手にさえなったことがないのである。

ただ、継之助は観察した。ひたすらに方谷を観察しつづけた。その観察が充実しきったものであった、と継之助はいったのである。

ちなみに、後年のはなしになる。

方谷が公用で江戸へ出てきたとき、継之助の義兄にあたる梛(なぎ)野嘉兵衛が、

「義弟がお世話になりましたので、御恩を謝しとうございます」

と方谷に使いを出し、方谷を柳橋の酒楼に招待した。

そのとき、梛野は継之助からきいていた備中松山藩の改革政治について話題を出した。

方谷はおどろいた。

「左様なことを、河井に話したことがない」

しかも、いちいち事実のとおりだし、事実理解がいちいち核心をついていた。じつをいえば継之助が方谷の塾にいたころ、方谷はなにぶんこの門人が他藩の者でもあり、機密にわたることはいっさい言わなかったのである。方谷は何度も驚きの声をあげ、

「河井の才ですねえ、河井の才ですねえ」

と、そのとおりの言葉をくりかえしくりかえし言った。この嘆声は、梛野嘉兵衛が維新後、死ぬまでのあいだ、事にふれてはひとびとに伝えた。

また方谷は、のち、ひとに語った。

「どうも河井は豪(えら)すぎる。豪すぎるくせにあのような越後のちっぽけな藩にうまれた。その豪すぎることが、河井にとり、また長岡藩にとり、はたして幸福な結果をよぶか、不幸をよぶか」

別れる朝、継之助は門を辞し、丸木の橋を渡って対岸の街道へ出た。

方谷は門前で見送っていた。

継之助は路上に土下座した。土下座し、高梁川の急流をへだてて師匠の小さな姿をふしおがんだ。この諸事、人を容易に尊敬することのない男が、いかに師匠とはいえ土下座したのは生涯で最初で最後であろう。





前頁「峠」(三十三)

次頁「峠」(三十五)






Posted at 2012/04/08 08:44:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | 「峠」 | 日記
2012年02月12日 イイね!

勢いというものは山から落ちる水のごとく、なにものにも阻まれぬ 『峠』(三十三)

(司馬遼太郎-「峠」より)





--- 藩邸があればよいのだが。

と、継之助は何度もおもった。藩邸があれば、そのお長屋にでもとまる。泊らなくても、駐在役人に長崎事情をきける。

さらに、

(おれの藩は、長崎に藩邸をもたぬ)

ということは、重大な問題であった。西国の雄藩のほとんどが、この開港場に藩邸 --- 藩の貿易出張所をもっているのである。

薩摩藩や肥前佐賀藩などは、浜ぎわに堂々となまこ塀をめぐらした藩邸をもっていた。かれらはここを根城に、外国の人々と直接貿易をやっているのにちがいない。

(西国の雄藩に金があるはずだ)

とおもった。土佐藩のごときは藩邸こそもたなかったが、藩出身の長崎商人ととくべつな関係をもち、藩邸同様の機能をはたさせている。

が、東日本の諸藩はもっていない。信越、関東、奥州の諸藩は、長崎という世界への窓とはまったく没交渉であった。

(これは、立ち遅れる)

という恐怖が、継之助の心臓を凍らせた。将来、幕威がおとろえ、諸藩が戦国の群雄割拠のようにそれぞれ独立した場合、西日本の雄藩は、兵器などの物質的威力によって東日本の諸藩を圧倒するであろう。

(それに --- )

と、継之助はおもった。将来、幕府を倒す者は西国の雄藩であるとすれば(世間ではそうささやいている)、これは可能にちがいない。かれらはこの長崎からたっぷりと養分を吸いあげ、いずれはまるまると肥えふとるであろう。

(東日本諸藩は、ねむっている)

地の利のわるさであった。日本列島という縦に細長い列島が、長崎という最西端において玄関をもっているというのは、東方の藩にとってはどうにもならぬほどの不利である。

(おれたちは、横浜だな)

と、継之助はあらためて横浜の価値というものを長崎にきて気づかされた。あの開港早々の条約港を東方の諸藩が大いに利用しなければ、ついには西方に圧倒されるにちがいない。

(しかし、東方の諸藩はそれに気づいていない。みな、固陋な攘夷思想のかさぶたのなかで息をひそめている)

なるほど西方の諸藩は尊王攘夷の声をたけだけしく叫んでいる。しかし薩摩藩の例をみても、かれらは口に攘夷を叫びながら、ひそかに長崎で貿易をしているではないか。

横浜

横浜

と、継之助は毎日長崎の港や町をあるきながら、恋人を想うがようにあの出来あがったばかりの開港場をおもった。

継之助は、幕府軍艦観光丸の艦長矢田堀景蔵の好意で、このオランダ製の蒸気軍艦の内部を見学させてもらった。

すべてが、洋式であった。

最後に艦長室におちついたとき、

「いま日本は攘夷さわぎの渦中にあるが、しかし十年後にはすべてが洋式になる。それが、文明(ということばは使わなかったが)の勢いというものだ。勢いというものは山から落ちる水のごとく、なにものにも阻まれぬ」

という、有名な予言をした。

艦長の矢田堀はふかくうなずいたが、この西洋通の幕臣でさえ、そうは簡単なものとは思えなかった。しかし九年後に明治維新が成立した。





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Posted at 2012/02/12 02:32:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | 「峠」 | 日記

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