(司馬遼太郎-「峠」より)
吉田稔麿は、息せききったような若者である。自分のこの世での課題を追いもとめるほかに、ゆとりがないらしい。
話に継穂もなにも、あったものではない。
急転、話題をかえて勤王論をもちだした。
「勤王を、どうおもわれますか」
「縁がない」
「とは?」
「あまり興味がありません」
と、継之助はいう。稔麿は、おどろいた。この天下でもっとも尖端的な主義思想に縁も興味もないと断言するのは、大胆なのか鈍感なのか。
ちょっとここで、日本人の歴史のなかにおける王家の問題を説明しておかねばならない。
王室としては、世界でもっとも古い家系である。この国の王家であるとともに、日本の固有信仰である神道の宗家でもあった。ふたつの性格をかねているところが、他国家にくらべて類がないところであろう。上代の日本人はその“すめらみこと”の位置を漢訳して天皇とよんだ。日本の天子の位置には宗教性が濃く、たとえば中国の皇帝とはちがっている、と感じたところから、きわめて宗教性のつよいその呼称をえらんだのであろう。
奈良時代までの天皇は、現実の政治家でもあった。平安時代に入ると、藤原家のような世襲の首相の家が権威を確立し、天皇の政権を代行した。この代行者の歴史が、日本の権力史であった。
鎌倉期には、武家に移った。天皇は京にあり、日本人の血統の宗家としての神聖権をもつにすぎなかった。以来、足利、織田、豊臣、徳川と権力はつづく。かれらは法理的には天皇家がもつ政権の代務者であったとはいえ、しかしながら現実的には日本の支配者であり、中国や西欧における皇帝とかわらない。
徳川幕府は、始祖家康のときに、天皇家の位置を法令によって明確にした。天皇に旅行はゆるさず、大名が私的に京に接近することをゆるさず、天皇は学問歌道にご専念あるべし、とその日常まで規定し、その監視者として幕府では老中(閣僚)に次ぐ高官である京都所司代をおいた。幕府が天皇家にあたえた禄高は豊臣時代よりもはるかにすくなく、公家の禄もあわせて一万石にすぎなかった。
第六代将軍家宣の政治顧問であった新井白石は、
「日本の元首は将軍である。天子は山城地方(京都市とその周辺)における地方的存在にすぎない」
と定義した。天皇家の権威はそこまで衰弱した。
が、一方では徳川時代というのは、日本史上空前の教養時代であった。その初期から、国家論の研究がさかんであった。
幕府も儒教を奨励し、大名も奨励した。儒教は一面において政治学である。君主に仕えて民を撫育する方法を研究する。君主とは、将軍であり、大名であった。
が、別派が成立した。君主とは京におわす天子であるという説である。この説を樹立した最大の研究機関は、皮肉にも徳川家の御三家のひとつである水戸家であった。水戸家では代々の継続事業として大日本史を編纂し、それを歴史的にあきらかにしようとした。尊王思想が、ここから興った。
その思想が、幕末、対外問題がやかましくなるとともに、にわかに活気を帯び、勤王論まででてきた。勤王論は尊王論から飛躍したいわば革命論で、天子を中心とした統一国家をつくり政体を単一にする以外に日本を外国の侵略からまもる方法がない、という思想である。
前頁
「峠」(二十一)
次頁
「峠」(二十三)
Posted at 2011/08/30 07:17:09 | |
トラックバック(0) |
「峠」 | 日記