実を言うと、幼少の頃は営団6000系という車両が好きではなかった。
ドアの窓が小さく、背の低い子供の頃の自分にとっては、外を見ることができない車両という認識があった。
おまけに運転席真後ろにある窓もとびきり小さく、とにかく乗ってもつまらない車両、という認識だった。
あの、列車が動くときに変な音のする千代田線には、乗りたくなかった。
6000系のドア窓から景色が見られるようになるくらい成長した頃、自分の脳味噌もそれなりに成長し、鉄道好きとしても頭角を現していただろう頃だった。
子供なりに何となく新しい技術が導入されているだろう、という認識があった。
ブレーキの音も静かだ(終点の我孫子駅で「ピシャーン!!」って言わない)し、列車が止まっているときに車体が大きく揺れていることから、車体が軽いであろうということも何となく理解していた。
後に「チョッパ制御」という言葉を覚え、やがてこの車両が日本の鉄道のパイオニアといえる存在だったことを知り、それから6000系に対する見方が変わった。
・・・ちなみにこの時点で小4(笑)
地元路線で当たり前のように走っていた6000系だが、時が経つと共に変化が見られるようになり、それらもずっと記憶にある(とはいえ自分の世代だと非冷房の6000系はあまり記憶になく、それ以降の話になるが)。
緑地の方向幕がローマ字入りの紺地のものになり、編成によってはLED化された。
地味に帯も板からフィルムになったんだっけ。
チョッパ制御からVVVFインバータ制御になったのは、驚きと共に何とも言えない寂しさを感じた。独特の音が聞けなくなり、独特の焦げ臭さもなくなった。
田窓は1段下降窓へ改造され、やがて窓が大きいドアに交換される編成も出てきて・・・。
16000系が登場してから、6000系のカウントダウンが始まったのは言うまでもない。
廃車、そして第二の人生で海外に渡る編成が出てきた。
5年前から毎日電車で通勤しているが、常磐線内で6000系の姿を見ずに終える一日も、ちらほら出てきた。
6000系にとっての救いは、後継者の16000系が先輩と同じようにローレル賞を授かったことだろう。
さて、6000系の活躍の場がいよいよ縮小されてきた。
小田急線内への乗り入れができなくなり、常磐緩行線への乗り入れも朝方にちょろっと松戸まで来る程度になってしまった。
厳密に言うと、自身の地元では6000系が見られなくなった。
その合間に209系1000番代が引退することが決まり、常磐緩行線が俄に騒がしくなってきた。
地元を走っていた6000系、やはり営業運行最終日には行かねばならない。
そう決心するのは当然のことだった。
人が多く集まると、色々とお騒がせする輩がいるのはわかっていた。
それでも自分なりに、最後の6000系の活躍を見届けたかった。
写真撮影は期待していない。どうせ人がいっぱいで、まともなものは撮れないだろう。
そして、やっぱりまともには撮れなかった(汗)

6000系1次量産車の6102F、多くのファンに見守られ綾瀬駅に入線。

撮影もそこそこに、車内へ移動する。
新製時には非冷房車だった名残の扇風機が、元気に動いていた。もう、これだけで感動。
7人掛けだけど実質6人掛け(苦笑)のフカフカの椅子に、幸い西日暮里から座ることができた。

今どき、こういう形の吊革もなかなか見られなくなった。

個性的な袖仕切り。
ちょっとの間6000系を見なかっただけなのに、妙に懐かしく感じた。

子供の頃、憎たらしくてしょうがなかった窓の小さいドア。
これが6000系の個性のひとつなんだけどね。
いよいよ霞ヶ関から綾瀬まで、最後の運用に就く。
営団ロゴの復活は、感涙に値する。
何を誤ったか、最も混雑する先頭車両に乗車してしまった。
それでも大手町で座ることができて、開き直って最後の6000系で居眠りでもしてやろうかと思ったが・・・まぁ、これだけ興奮している状況だったらできるわけない(笑)
霞ヶ関から綾瀬へのファイナルランはあっという間。
撮影地が限られている中、荒川の河川敷には多数のファンが三脚を据えて撮影に勤しんでる、そんな様子が車窓から見られた。
ホームの狭い綾瀬駅、一気に6102Fの乗客が吐き出される。
多くのファンに見守られ、6000系は北綾瀬まで回送されていった。
当たり前のように見ることができた6000系。
地元を走っていた定期運用の旅客車両で、遂に自分より年上の車がいなくなった。
中には既に自分より年下の車も引退しているわけで、いよいよ地元路線の刷新が終わってしまったように感じる。
寂しさを感じるのは、鉄道ファンの性とも言えよう。
有り難う、6000系。
いつかインドネシアに会いに行けるように頑張るからね。
Posted at 2018/11/11 22:48:34 | |
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