
昨日、『
藤田嗣治展-東と西を結ぶ絵画』展を見てきた。初期から晩年までの年代別に120点の作品を見ることが出来た。常設展示スペースも企画展の展示となり、今までにない規模の大きさだった。
藤田嗣治だけの乳白色、当たり前だけど映像や写真では感ずることの出来ない色彩を目の前に見ることが出来る。デジタルのようにのっぺりした様では無く、デジタルでは表現出来ない人の手で塗り重ねた色の美しさがあったと感じた。
流石に来館者は多く、とりあえず見に来たという感じでは無く、いつもと違う絵画が好きな方々が来館していたと感じた。靴音を殺して歩き、熱心に鑑賞する方が多く、人が多いにも関わらずゆっくり鑑賞できた。
・・・・・・・・・・
二点だけ。
バラ
美しいスペイン女
・・・・・・・・・・
藤田嗣治というと戦争画というフレーズに繋げる方が多いと思う。今回もアッツ島玉砕、ソロモン海域に於ける米兵の末路、サイパン島同胞臣節を全うす、の三点が出展されていた。これらの絵画は、東京国立近代美術館(無期限貸与)となっているが、アメリカに接収され権利は今でもアメリカにある。
GHQと153点の戦争記録画、戦後は終わっていない。
戦争画を描いたと非難され責任を負わされ日本を去った藤田。GHQは「芸術」と言い、藤田の責を問わなかった。今、近隣諸国の言う「戦犯」という感覚と同じ感覚で当時の藤田を責めた日本画壇。もしかしたら、これが日本の愚劣なリベラルの原点だったかもしれない。
藤田のあの絵の何処に戦争を鼓舞する要素があると言うのだろう。アッツ島玉砕、日米両国の兵士が折り重なって倒れ、暗鬱な色彩でその様が描かれている。これが鼓舞なんだろうか。藤田のあの絵は鎮魂、それ以外の意味を見いだせるのかと思う。
GHQは「芸術」と取り合わなかった藤田の「戦争画・戦犯」、あちこちに書いてあるが引き金は宮田重雄が書いた朝日新聞の記事、「まさか戦争犯罪者も美術家までは及ぶまいが、作家的良心あらば、ここ暫くは筆を折って謹慎すべき時である」と。南京事件、従軍慰安婦と同じ朝日新聞の構図がここにあった。
八人の画家が糾弾された、横山大観、児玉希望、藤田嗣治、中村研一、鶴田吾郎、長谷川春子、中村直人、川端龍子。日本美術協会が上部団体である共産党系の日本民主主義文化連盟に罪状を添えて上申した、軍国主義絵画が国民を扇動したと。
これに、藤田の名声を快く思っていなかった同じくフランスで学んだ画家の内田巌(共産党に入党、東京都連のドンの内田とは無関係)が、陸軍美術協会理事長として戦争画を一番多く書いた藤田に戦争責任をとれと糾弾した。
くどいけど、あの絵の何処に国民を鼓舞する部分があるというんだろう。藤田の完成した絵を見た軍部ですら「これは・・・」と言って展示を拒んだ「アッツ島玉砕」。元々、キリスト教精神を持っていた藤田、鎮魂以外に何がある!
文化を知らぬ「所謂リベラリスト」、「日本死ね」だと、ふざけるな!
↓このような記事がある。
記録画巡回展が青森で催された時の事である。会場に滑り込んで居た作者はそのアッツ島玉砕の前に膝をついて祈り拝んで居る老男女の姿を見て生れて初めて自分の画がこれほど迄に感銘を与え、拝まれたと言う事は未だかつてない異例に驚き、しかも老人たちは御賽銭を画前になげてその画中の人に供養を捧げて瞑目して居た有様を見てひとり啞然として打たれた。
・・・・・・・・・・
モンパルナスの日本人 Leonard Foujita in Montparnasse
Later years of Leonard Fujita レオナール・フジタの晩年
・・・・・・・・・・
帰り、プロペラカフェに寄ってきた。昨年の7月に墜落事故があり死傷者が出てしまいましたよね。飛行場が出来た当時は民家なぞほとんど無かった所。あの事故の時、「こんな住宅密集地に飛行場を作るなんてとんでもない」なんていう住民の意見を放映していたけど昔は何もなかったから飛行場を作ったんですよね。後からきたのはあなた方。
同じような話は部品を作ってもらっていた会社にもあった。プレス機械は大きな音と振動を伴うけど、多摩の何もない所に工場を作ったが新興住宅が押しよせお決まりの「騒音を出すな、住民の安穏をおかすな」などという声に追い出された。
とあるメーカーとの打ち合わせぶ行くのに、ここからそのメーカー所有のヘリで行っていたけど、その当時の管制塔はボロボロの格納庫の屋根に上にあった。ここに三式(飛燕)がいたんですよね。

↓共立航空撮影(株)、今日撮影できたのはこれ一機。
↓1:30辺りに昔の管制塔の映像がある。
調布飛行場1982年
Posted at 2016/12/04 08:22:54 | |
トラックバック(0) |
絵とか彫刻とか | 日記