
←縁起土鈴、靖国神社で。
明けましておめでとうございます。
明治神宮と靖国神社に初詣、結構な人出でした。車ではなく電車で行ったけど、靖国神社は満車で駐車場待ちの車両が結構並んでいた、大祭や桜の季節もだめだけど。電車は結構空いていて快適。
明治神宮、原宿の駅が変わって改札から直接南参道の一の鳥居の前に出られるようになったけど、神宮橋を渡って一の鳥居へというセレモニーを忘れてしまう。ま、帰りには靖国に向かうために通るけど。
明治神宮に着いたのは10時30分、南神門の前で参拝者の調整の為に少々待たされたのみで順調に参拝、混むと思っていたけどスムースでした。参拝後は酒まんじゅうで一休み、寒かったので温まる。縁起土鈴、靖国に期待して明治神宮はパス。
表参道駅まで歩かずに、原宿から東京メトロ明治神宮前で乗車、表参道で乗り換えて九段下。九段下に着いたのは12時、地下から地上に出ると青空がきれい。参拝に向かう。参拝する人が多かったら先に食事と思っていたけど30分程の列と思ったので参拝を先に。参拝してタイトル画像の縁起土鈴を。
修悠館の結で海軍カレー、そして食後にいつものように振舞の甘酒を頂く。甘酒、おいしい。
車で来るときは参拝後に東京駅まで出るけど、初詣の時も毎年東京駅まで出るので東京駅に向かう。九段下から乗ろうかと思ったけど竹橋まで行こうと思って一の鳥居を出てから歩道橋を渡って田安門を通って武道館前を歩く。
近代美術館、イサム・ノグチの「門」、今の色は青、この青は空ではなくて清掃車の青だそうだ。いつぞやは、イサム・ノグチの指示の色を守らずに塗装した事もあっあつぉうだけど、ばれて怒られたとか。近代美術館、企画展の合わせて宇和島駅になっていた。
歩いて竹橋に到着、ここまで歩けばそのまま歩いて東京駅にすぐだけど着かれたので竹橋から東西線。東京駅前の広場は人で一杯、とらやには3時に着いたけど和菓子は全て売り切れ、それを楽しみに来たのにね、いつもはこんなことは無かった、今年は人が多かったにかな。珈琲一杯でがまん。
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明治神宮。
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靖国神社。
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靖国神社から東京駅へ。
以前はこの歩道橋からスカイツリーが見えていたけど、ビルで見えなくなりました。2018年01月01日の初詣の時に撮った時
田安門あたりにはダフ屋さんが「余ったチケットはありませんか」と・・・
東京駅にやっと着いた。
「とらや」、和菓子は全て売り切れ。
駅前から・・・
少々お疲れモードだったので、池袋からはLAVIEWで。
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遺書や書簡を中門鳥居前に掲示している社頭掲示、一月の社頭掲示は「故郷の妻へ」という書簡。
昨年の初詣、明治神宮に比べて靖国神社では参拝の列の密度が高かったので拝殿前では無くて遠くから手を合わせた。なので、昨年の6月に参拝したけどその時の社頭掲示、「妻への手紙」という書簡でした。
戦地から妻への手紙、すぐに頭に浮かんだのは「80歳の恋文」という戦死した夫に向けて書いた恋文。秋田県能代市二ツ井町が1995年のバレンタインデーに主催した「第1回日本一心のこもった恋文」で柳原タケさん大賞を受賞した。『
日本一心のこもった恋文 「天国のあなたへ」』。
【感動】天国の夫へ80歳のラブレター
柳原タケさんの夫は中国で戦死された。日本軍はアジアで残虐の限りを尽くしてきたと教わってきた。だけど中国の残留孤児、残虐な日本人の幼児を何故中国人は丁寧に育ててくれたのか、不思議だった。朝鮮半島から引き揚げてきた日本人、中国大陸と異なり財産を略奪され、女性は強姦を受けた。だから「
二日市保養所」が必要だった。
戦後70年 中国残留孤児が養父母に感謝伝える訪中(15/07/12)
【右向け右】第79回 - 鈴木史朗・アナウンサー × 花田紀凱(プレビュー版)
↑4:00辺りから鈴木史郎氏の南京体験談、南京事件はありえないと言われる。
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かなり大雑把だけど・・・
終戦、インドネシアに帰ってきた宗主国のイギリス、そしてベトナムに帰ってきたフランス。フィリピンに帰ってきたアメリカは日本兵を捕虜として扱い多くの船舶を手配し帰還に務めた。しかし、イギリスとフランス、日本兵らを国際法上の捕虜として認めず使役(所謂強制労働)に使い帰還に務めなかった。
インドネシア・ベトナムに停め置かれた日本兵、請われて独立運動に参画した。残虐の限りを尽くしてきたと教わった日本兵、停め置かれていても現地住民から報復を受けることも無く独立運動に加わって戦い、勲章を授かり戦死者は国立墓苑に埋葬された。言われるように、乱暴狼藉を働いていたら報復され、共に戦ってくれと懇願される事もなかったはずですよね。
独立運動の結果、イギリス・フランスは共々追われた。ベトナムでは独立運動後に元日本兵は現地で家庭を築き暮らしていたが政治はその生活を許してくれなかった。ベトナムでの生活を奪われ、意に反して妻と別れさせられ日本に帰国させられた。
ベトナム・インドネシアで請われて戦った旧日本兵、「残虐な日本兵」と教わってきたけど、なぜインドネシア・ベトナムに請われたんだろうと思う。報復もされずに一緒に戦い、勲章を授かり国立墓苑に弔われた。教わってきた「残虐な日本兵」というのは「誰?」。
下の動画の3分30秒辺りから、初めの紹介されるスアンさん、夫は元日本兵、ベトナム政府の命で旧日本兵は帰国を命じられスアンさんは夫と別離。夫の軍服をベトナム国旗でくるみ枕の下にいれていると言われていた。
【皇室 a Moment】ベトナムと皇室の交流 約1300年前に“雅楽”の接点
元ベトナム残留日本兵の子が墓参 60年以上前に別離の父
フィリピン、連合軍(アメリカ)は日本兵を国際法に則って「捕虜」として扱い、復員に積極的に取り組んだ。フランス・イギリスは強制残留させ、その結果旧日本兵が加わった独立運動によって追われた。米軍の積極的な復員事業、そして他国の強制残留の非難、米軍は戦争中から緻密な情報収集を行っていたが、日本兵と現地の繋がりを認知し、残留ざせれば我が身が危ないと思っていたのかもしれない。
『
日本降伏後における南方軍の復員過程』
一括りで「残虐な日本兵」という言葉での非難、病院・学校を建設し軍事訓練まで行った日本。欧米の宗主国でここまでした国家はありませんでしたよね。現実的な結果として欧米列強はアジアから駆逐された。ただ唯一華僑が残ってしまった。現在アジアでその経済の8割を握っていると言われる華僑、日本が真摯に作り上げたプロジェクト、簡単に中国の手に渡ってしまいましたよね。
Posted at 2023/01/07 09:03:05 | |
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