フェラーリとランボルギーニ の続きです。
両社のラインナップを述べる前に、フェラーリの創設についても書いておきます。
ランボルギーニが、トラクター・メーカーがら自動車メーカーに進出したのに対し、フェラーリはレーシング・コンストラクターからの進出でした。
現在に至るまで、F1界を代表するコンストラクターであり続けるフェラーリだけに、その成り立ちは想像に難くないと思います。
しかし、ランボルギーニがフェラーリを強く意識していたのと同様に、フェラーリにもその存在を強く意識していたメーカー(この場合はコンストラクター?)がありました。
エンツォ・フェラーリは、アルファ・ロメオのレーシングドライバーでした。
1929年、エンツォはレース仲間と共に「ソシエタ・アノニーマ・スクーデリア・フェラーリ」を創設します。
1932年には息子のアルフレード(愛称:ディーノ)が生まれたことで、エンツォは現役を引退してチーム運営に専念、アルファ・ロメオがワークス活動を休止した為、セミワークスチームとして活躍します。
その後、合併や、経営陣との対立などがあり、「フェラーリの名では4年間レース活動を行わない」という誓約をして独立しますが、第二次世界大戦で活動は中止。
戦後の1947年に現在のフェラーリを興し、「スクーデリア・フェラーリ」の名のもとにレースに参入、1950年から始まったF1世界選手権は、「本家」アルファ・ロメオと「分家」スクーデリア・フェラーリの対決となったのでした。
1951年、イギリスGPで遂にアルファ・ロメオを破って初勝利を挙げます。
この時、エンツォは「私は母親を殺してしまった」と複雑な心中を洩らしたのでした。
現在、アルファ・ロメオ名義でF1を戦っているチームがありますが、このチームは旧ザウバーであり、フェラーリエンジンを積む関係性から名称だけを冠している、言わばスポンサーに過ぎません。
エンツォが『母親』と言ったアルファ・ロメオとの関係は、今や完全に逆転してしまっている事に時の流れを感じますね。
ちなみにコンストラクターを示す時の「スクーデリア・フェラーリ」、このスクーデリアと言う単語は、イタリア語の厩舎から転じたもので、「チーム」「ワークス」に当たる言葉です。
以前、F1に参戦していたコンストラクターに「スクーデリア・イタリア」と言うチームがありましたが、これはイタリア・チームという意味だったんですよ。
当時、職場の同僚が「スクーデリア・イタリア」の事を略して言うとき、『スクーデリア』と呼んでいましたが、それだと固有名詞ではなく「チーム」と呼んでいるに過ぎません。
いや、イタリア語で『スクーデリア』と呼ぶと、一般的にはむしろ「スクーデリア・フェラーリ」の事を示します。
そんな事も知らずに「俺、F1に詳しいもんね」と知ったかぶりをしている同僚を、憐みの眼差しで見ていた事は内緒です。(汗)
話をフェラーリに戻しましょう。
フェラーリの名を冠した最初のロードカーは 125S で、F1での初勝利から遡る事4年、1947年に3台が生産されました。
搭載されたエンジンは1.5ℓのV12、そう、フェラーリらしく、第一号車からV12エンジンを搭載していたのでした。
125Sの“125”は、シリンダーあたりの容積125ccを示しており、この車名の付け方も第一号車から行われていたのですね。
その後のフェラーリ ファクトリーから生み出された全ての車を紹介することは出来ませんが、250シリーズは 250GTE
250GT SWB
そして、伝説のマシン 250GTO などがあります。
250シリーズの後継、275シリーズ辺りまでが旧き良き時代のフェラーリって気がします。
ちなみに、写真の275GTB/4から フェラーリのロードカーとしては初のDOHCが採用されました。
V12である為、各バンクに2本、合計4本のカムがある事から、車名に“4”が追加されました。
なお、ドライサンプエンジンの採用もこの車からです。(うーむ、この車から近代フェラーリと言ってもいい気もするなぁ)
次回からは、いよいよ ランボルギーニとフェラーリのモデルの変遷です。
さて、どうやって進めようかな?
―つづく―
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Ferrari | 日記
Posted at
2019/10/29 23:50:43