
かつて、ドラマ「キッズウォー」を
検証した際に、その元祖的存在として「うちの子にかぎって」を引用しました。ところが、私自身がこのドラマを見たのは再放送を少々であり、あまり記憶に残っていないことを感じていました。題名やサブタイトルから、「小学生のドタバタもの」と決めてしまっていました。
この作品の本放送当時、「なぜ見なかったのか」という点を探ると、1984年と1985年の金曜日午後8時からの放送だったのでした。まさに「太陽にほえろ!」の裏番組であり、この私が見るはずありません。もちろん、「太陽~」のCM中にこちらへチャンネルを合わせたことくらいはあるかもしれません。私以外の場はどうだったのか、記憶を探ってみました。
しかし、シリーズ1はほとんどが夏休み期間中の放送であり、学校には行っていません。シリーズ2は4-7月期ですが、シリーズ1の頃とは違う学校に通っていましたので、単純な比較はできません。どうやら、シリーズ1はたいして話題にならず、シリーズ2は話題になっていたような気がします。
そんな背景の中、シリーズ2の9話とシリーズ1の2話を見てみました。当時とその後、世代には有名になった子役の女の子「磯崎亜紀子」さんが出演していた回です。のちの井上真央さんのように売れそうな感じでしたが、売り方を誤ったからなのか、本シリーズとその派生作品以外では見ることはありませんでした。
シリーズ2の9話は登場人物男子の一人が見た、転校生の幻のお話、シリーズ1の2話は、芸能人になろうとしてちびっこのど自慢番組に出演するも、「出世しそうな男子に粉を撒き、結婚に持ち込むのが女の幸せ」と悟ってしまうというお話です。いずれもお色気シーンというほどのものはなく、思いのほか普通のお話しでした。しいて言えば、シリーズ2の9話には、当回主人公男子と磯崎亜紀子さんが演じる幻女子が、夜中の理科室で二人きりになるシーンはありました。
この二話のみで総括しては良くないのですが、シリーズ1と2は、結構雰囲気が違います。シリーズ1は、「いろいろな点で賢くなった現代っ子と変わらない大人とのやりとり」にポイントが置かれ、シリーズ2は「少年少女向け小説的な物語」になっているように感じました。シリーズ1はかなりあっさりした作風で、とくに田村正和演じる先生は狂言回し程度の存在でした。
この作品は、連続シリーズを2回とスペシャル2回を放送し、終了してしまいます。当時の人気から続いてもよかったと思うのですが、実際にはこの要素を利用して発展しています。
設定を中高生向けにしたものが「毎度おさわがせします」
中高生向けでコメディドラマとしたものが「オヨビでない奴」
女子高校を舞台としたものが「セーラー服通り」
会社とOLを舞台としたものが「痛快!OL通り」
親子コメディとしたものが「痛快!ロックンロール通り」
です。
この「うちの子にかぎって」は、大事件や大事故、主人公を苦しめる事態やカーアクションも格闘シーンもありません。もちろん、15歳で妊娠する生徒も学校の放送室に立てこもる生徒もいません。普通の人のちょっと違う日常を描いた作品です。その「普通の人」を視聴者対象に変えることで、色々な作品を作り出していたのでした。
この後継作品群の中でも「痛快!OL通り」は、当時ドラマの視聴者として対象とされていなかった20歳代の女性を家に帰す効果があったのです。今では考えられないことですが、会社の上司役だった小堺一機と主人公の沢口靖子がくっつくかどうか、話題になったと記憶しています。以降、孫作品群が生まれ、TBSドラマの黄金時代が築かれました。今でこそ「東京ラブストーリー」がトレンディドラマの元祖であるかのように言われていますが、「東京~」はフジテレビがTBSからドラマの雄を奪った最初の作品程度のことでした。
この作品が登場した頃のTBSドラマの状況を見てみると、決して芳しいものではありませんでした。1984年こそ「スクールウォーズ」が放送されて大ヒットしましたが、この作品は外部の会社である大映テレビ部の色合いが強い作品でした。一方、TBSのドラマ史を語る上で欠かせないドラマに、「ケンちゃんシリーズ」がありました。1960年代から放送され、1982年まで続いていました。しかし、長年シリーズが続くうちに、時代にコンセプトが合わなくなってしまっていました。良い子をはぐくむ道徳的な番組でしたが、両輪や祖父母の教えを守って、妹や弟、友達を思いやる主人公というのは、嘘っぽくなってしまっていたのでした。
また、伝家の宝刀的存在であった「金八先生」シリーズは、武田鉄矢氏が作品に飽きていたこと、「新八」「仙八」「貫八」シリーズには人気の火がつかず、しかも「わざとらしい」と、悪い評価も出ていたのでした。
以上のことから、「特別でない、ごく普通の小学生をちょっと誇張して描いたらどうか」ということが企画の発端だったのではないでしょうか。結果として、女子や女性にはこの雰囲気がぴったりだったようで、野島伸司作品の流行まで約10年間、この作風が席巻しました。野島伸司作品期にはいったん勢力を弱めたものの、ドラマの一ジャンルとして定着しました。
そして今や、20年以上前のことなど正確に語られなくなってしまいました。この作品も、遠い過去の作品になってしまっています。その偉業を語りたく、このブログを書きました。
追伸
ドラマのストーリー以外も、見所がいっぱいです。当時の街並みや服装、車などです。撮影場所が東京都武蔵野市ゆえ、すでに市街化開発が行われています。しかし、家は1960年代前半に建てられたと思しき外壁材の家がごく普通に建っています。
家と道路の境界にはブロック塀が多用されています。2018年の大阪での地震の際、小学生の子が下敷きになってしまったような塀です。1960年代なら生垣だったのでしょうが、枝の管理や泥棒などの人の侵入性や隠ぺい性もあって、積極的にブロック化されていたのでしょう。地震が起こったら、子供は即死するような街並みです。
中央線沿線故、駅の近くには繁華街が形成されています。登場人物は、証明写真機を使用して、現在のプリクラのようにポージングをして遊んでいます。そういえば、本家プリクラも「1993年ごろの女子高生が証明写真でポージングをしている」ところ辺りから始まったような記憶があります。
街には古い車は意外に少なく、初代カリーナ後期の「ビッグカリーナ」、S120型クラウンのタクシーなどが走っていました。
一番重要なのは、小学生の服装です。夏なので皆半そでですが、スポーツ用品メーカー製のものが取り入れられる前です。男の子のボトムは、サザエさんのカツオやドラえもんののび太が履いているような半ズボンです。一方、どちらも多少のデザインは取り入れられており、子供服としてデザインが存在していたことが認められます。スポーツ用品メーカーの製品は一部で広まりつつあったはずですが、そこはスポンサーの関係で難しかったのでしょう。
1984年というと、小学生の塾通い減少はまだ少数派、任天堂ファミリーコンピュータはありましたが、何しろつまらないゲームばかりで、その存在が忘れ去られようとしていた時期でした。遊びとして、ラジコンカーとサッカーが流行っていたはずです。
1984年のドラマに、もう「歴史的」と言えることが出てきたのですね。感慨深いです。
ブログ一覧 |
過去のテレビ番組 | 音楽/映画/テレビ
Posted at
2020/03/23 22:46:18