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2007年04月16日 イイね!

「 広島に原子爆弾投下 」 歴史シリーズ その壱拾参

「 広島に原子爆弾投下 」 歴史シリーズ その壱拾参
 1945年8月6日午前8時15分。原子爆弾リトルボーイは、第33代アメリカ合衆国大統領、ハリー・トルーマンの大統領命令を受けたB-29(エノラ・ゲイ号)によって広島に投下された。

 1945年4月27日に開かれた米軍の目標検討委員会第1回会議で原子爆弾投下目標に選ばれた17都市及び地点は、東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市、京都市、広島市、呉市、下関市、山口市、八幡市、小倉市、熊本市、福岡市、長崎市、佐世保市であった。第2回会議では、投下目標は京都・広島・横浜・小倉の4都市に絞り込まれた。その後「千数百年の長い歴史があり、価値がある文化財まで破壊する可能性があり、それらが数多く点在する京都への投下は、戦後の国民の反感が大きすぎる」との配慮から、京都市が除外、新潟市が加えられた。6月14日、最終的な投下目標は、広島・小倉・長崎に決定された。

 1945年7月25日、トルーマン大統領は原子爆弾投下の命令を発令した。広島・小倉・長崎の何れかの都市に8月3日以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下するべしとした。その攻撃の第1目標は「広島市中心部」、予備の第2目標は「小倉造兵廠」、予備の第3目標は「長崎市中心部」であった。しかしこの命令直後の数日間は台風8号の影響で天候不順のため作戦実行を避けられ、太平洋高気圧が張り出して天候が回復した8月6日が作戦決行日と最終決定された。

 午前7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行していた気象観測機B-29の1機が広島上空に到達。四国沖上空のエノラ・ゲイ号に作戦可能の連絡を入れた。「天候晴れ、歴史的爆撃作戦に支障なし」この時点で、投下目標は広島に絞られた。日本側もこの観測機を捕捉、午前7時9分に警戒警報を発令したが、午前7時31分、このB-29が広島上空を通過離脱していたため、警戒警報は解除された。

 午前8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認。日本側でもこれを捕捉。数分後、広島の中国軍管区司令部は警報発令の準備を指示する。その間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達。まず原子爆弾による風圧等の観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ落下させた。この落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている。午前8時12分、爆撃手トーマス・フィアビー陸軍少佐は照準器に高度・対地速度・風向・気温・湿度等のデータを入力、投下目標を相生橋にロックオンした。午前8時13分、広島に警戒警報が発令「厳重な警報を要す」

 午前8時15分17秒、核爆弾リトルボーイが自動投下された。投下目標の相生橋は川が分岐する地点にかけられたT字型の橋であり、上空からでもその特徴がよく判別できたため選ばれた。3機のB-29は投下後、熱線や爆風の直撃による墜落を避ける為に急旋回した。投下されたリトルボーイは横向きにスピンし、ふらふらと落下したが、間もなく尾部の安定翼が空気を掴むと、放物線を描いて約43秒間落下した後、高度580メートルの上空で核分裂爆発を起こした。

 爆発に伴って熱線と放射線、周囲の大気が瞬間的に膨張して強烈な爆風と衝撃波を巻き起こし、その爆風の風速は音速を超えた。爆心地から2kmの範囲で建物のほとんどが倒壊。爆発の直接的な放射線被曝のほかに爆発後の放射性降下物による被曝被害も発生した。爆心地付近は鉄やガラスも熔けるほどの高熱に晒され、石材に焼き付けられた人影が今も残る。当時の広島市内には34万2千の人がいたが、爆心地から1.2kmの範囲では8月6日中に50%の人が死亡、1945年12月末までに14万人が死亡したと推定される。

 この3日後、長崎に原子爆弾を投下されたが、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げて「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と唱え、日本政府は中立条約を結んでいたソビエト連邦による和平仲介に期待してポツダム宣言を黙殺する態度に出た。もしポツダム宣言を、この時すぐに受け入れていれば広島・長崎への原爆投下はなかった可能性が高いといわれている。しかし日ソ中立条約を破棄したソ連が参戦したことで日本は降伏。同年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾、アジア・太平洋における大戦、第二次世界大戦が終結した。


Posted at 2007/04/16 20:24:19 | コメント(2) | トラックバック(0) | 歴史シリーズ | 日記
2007年04月14日 イイね!

「 真珠湾攻撃 」 歴史シリーズ その壱拾弐

「 真珠湾攻撃 」 歴史シリーズ その壱拾弐
 1941年10月19日、日本軍司令部は「 ハワイ作戦 」の実施を許可した。11月22日、日本海軍機動部隊が択捉島の単冠湾に集結、26日にはハワイに向けて出港した。12月1日には御前会議で宣戦布告は攻撃の30分以上前にすべきことが決定。12月2日に「 ニイタカヤマノボレ一二〇八 」の暗号文が海軍機動部隊に送られた。

 12月8日、午前1時30分に第一波空中攻撃隊、艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機が発進。 午前2時45分には第二波空中攻撃隊として、艦戦36機、艦爆81機、艦攻54機、計171機が発進した。

 午前2時40分、駆逐艦ワードが日本の特殊潜航艇を発見し、これを撃沈したが、午前3時19分、第一波空中攻撃隊総指揮官の淵田美津夫海軍中佐が「 全軍突撃 」を命令。そのわずか4分後の午前3時23分には、淵田美津夫中佐が「奇襲成功」( トラ連送、俗にいう「 トラ、トラ、トラ 」である )を旗艦赤城に打電した。その後午前3時25分には、翔鶴飛行隊長の高橋赫一海軍少佐指揮する急降下爆撃隊が、フォード島に爆撃開始し、午前4時24分には、第二波空中攻撃隊が「 全軍突撃 」を命令されている。午前8時30分頃、空中攻撃隊の攻撃は終了。午前9時頃、日本海軍機動部隊、北北西に変針し、反転、撤退した。

 真珠湾攻撃が宣戦布告を伴わない奇襲攻撃という認識は現在でも一般的であるが、外務省が暗号で送った命令書では当初は攻撃開始30分前の宣戦布告を予定していたという。しかし諸事情により、ワシントンの日本大使館一等書記官奥村勝蔵の英訳親書のタイプが大幅に遅れ、攻撃開始時刻に宣戦布告が間に合わなかったという資料が残っている。この件については、誰も処分されておらず、調査結果は長らく公表されなかった。1994年外務省は当時の調査委員会による調査記録を公開し、公式見解として、大使館書記官の不手際により、宣戦布告が遅れたことを認めた。

 宣戦布告が遅れたことにより、真珠湾攻撃は日本軍によるアメリカに対する騙まし討ちとして評価されることとなり、太平洋戦争におけるアメリカの抗戦・参戦意欲を高める効果をもたらしている。しかし既に戦時中から、アメリカは真珠湾攻撃を察知していた、という噂があった。たとえ攻撃を察知していたとしても、暗号を解読しているという事実を日本に知らせないためには、事前に真珠湾に警戒態勢をとらせることはできなかったと考えられている。後にマッカーサー将軍などが回想しているが、自国の軍隊への信頼から、たとえ真珠湾が攻撃されたとしても、手も足も出ずにやられるとは考えていなかったようだ。

 この攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領の要請により、アメリカ議会は日本に対して宣戦布告をおこない、連合国側として参戦した。 数日後、日独枢軸に基づきドイツは対米中立の立場を改めアメリカに宣戦布告、第二次世界大戦は地球規模の戦争へと拡大することとなった。

Posted at 2007/04/14 16:45:53 | コメント(2) | トラックバック(0) | 歴史シリーズ | 日記
2007年04月13日 イイね!

「 関東大震災 」 歴史シリーズ その壱拾壱

「 関東大震災 」 歴史シリーズ その壱拾壱
 1923年(大正12年)9月1日の午前11時58分44秒、伊豆大島、相模湾を震源として発生した直下型の大地震(関東地震)が発生した。マグニチュードは7.9。この地震によって生じた災害を関東大震災と呼び、東京都・神奈川県・千葉県・静岡県の南関東地方の広い範囲に大きな被害をもたらした。

 190万人が被災、10万5千人余が死亡(あるいは行方不明)した。建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2千余棟である。地震の揺れによる建物倒壊などの圧死の他、火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴なう土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県根府川村(現、小田原市の一部)の根府川駅ではその時ちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出したといわれ、更に村も山崩れにより壊滅したという。

 地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから火災が多く発生、加えて能登半島付近に位置していた台風により関東地方全域で吹いていた強風に煽られ、火災旋風を引き起こしながら広まり、鎮火したのは2日後の9月3日午前10時頃とされている。建造物の被害としては、凌雲閣や建設中だった丸の内の内外ビルディングが崩壊。また、大蔵省、文部省、内務省、外務省、警視庁など官公庁の多くが焼失した。神田神保町や東京帝国大学図書館、松廼舎文庫も類焼し、多くの貴重な書籍群が一瞬にして失われた。

 なお、地震翌日の9月2日未明に、東京気象台で気温47.3度を観測している。これは大規模な火災により、延焼を逃れた気象台ですらも大火の熱を浴びていたことによる。公式記録からは抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。

 またその被害の大きさから、一時は遷都も検討されたという。
遷都の候補地には姫路や京城などが挙げられた。

Posted at 2007/04/13 19:41:06 | コメント(4) | トラックバック(0) | 歴史シリーズ | 日記
2007年04月12日 イイね!

「 第一次世界大戦勃発 」 歴史シリーズ その壱拾

「 第一次世界大戦勃発 」 歴史シリーズ その壱拾
 第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん)は、1914年から1918年にかけて戦われた世界規模の大戦争である。ヨーロッパが主戦場となったが、戦闘はアフリカ、中東、東アジア、太平洋、大西洋、インド洋にもおよび世界の大多数の国が参戦した。8月8日に英仏の連合軍がドイツ保護領のトーゴランド(現在のトーゴ)に侵入。10日には南西アフリカよりドイツ軍部隊が英領南アフリカ(現在の南アフリカ共和国)を攻撃した。8月30日にニュージーランドが太平洋のドイツ領サモアを占領。数か月の内に協商国側は太平洋のドイツ軍部隊を降伏させた。

 一方ヨーロッパにおいて、ドイツは開戦前にオーストリア=ハンガリーのセルビアへの侵入を支援することを保証していたが、ロシアとフランスの参戦が明らかになると、対セルビア戦を準備していたオーストリア=ハンガリー軍は既に動員が完了していた軍を北方のロシア軍に対峙するために分割せざるを得なくなった。南から進軍するセルビア軍は1914年8月12日にツェルの戦いでオーストリアの陸軍に遭遇した。

 ドイツ軍は8月4日朝8時、リエージュから48キロ東のゲメリッヒでベルギー国境を突破した。ベルギー政府はドイツに宣戦布告し、ベルギーの都市リエージュを中心として軍を配置したが質量ともにまさるドイツ軍に圧倒された。イギリスはフランスへ英国遠征軍を派遣し、ドイツ軍と英仏両軍の最初の戦闘が行われたが、このフロンティアの戦いでドイツ軍は大勝利を収めた。

 アメリカは長い間モンロー主義により孤立していたが、1917年の初めにドイツは無差別潜水艦攻撃作戦を再開。これがツィンメルマン電報に対する世論の怒りと合わさって、同盟国との国交断絶に至った。オーストリア=ハンガリーはドイツへの忠誠を捨てなかったので、合衆国は1917年12月にオーストリア=ハンガリーに対し戦争を宣言した。戦争へのアメリカの貢献は、特にヨーロッパで増大したアメリカのプレゼンスによって生じた脅威において、顕著であったが、アメリカは決して公式に協商国のメンバーであったことはなく「関連国」として参加していた。相当多くのアメリカの兵隊は1918年の夏にはヨーロッパに到着しただけであった。

 ドイツは進軍し、前線はパリの120キロメートル以内まで動いていた。多くのパリ市民はパリから脱出、多くのドイツ人は勝利が近いと思ったが、補給欠乏と消耗によりドイツの攻撃が止まった。一方、ドイツは内部でも崩壊が起こっていた。ドイツに敗北が切迫しているというニュースはドイツの軍隊の全体にわたって広がり、反戦運動は頻繁に発生、陸軍の士気は低いレベルにあった。1918年8月8日に、大きな反攻が起こり、協商国軍はわずか7時間でドイツが押さえた領土の中に12キロ侵入した。これが「ドイツ陸軍のブラック・デイ」であり、9月2日には、ドイツ軍はヒンデンブルク線まで後退させられていた。

 同盟国の中で最初に休戦協定に署名したのはブルガリアだった(1918年9月29日)。ドイツは1918年10月3日に停戦を求めた。10月30日にオスマン帝国が降伏。ドイツ革命の発生の後11月9日に共和国の成立が宣言され、ドイツ帝国は終わりを迎えた。公式には戦争はベルサイユ条約に署名することによって終わった。

Posted at 2007/04/12 13:29:17 | コメント(3) | トラックバック(0) | 歴史シリーズ | 日記
2007年04月11日 イイね!

風林火山 ~ 雨宮の渡し ~

風林火山 ~ 雨宮の渡し ~
「 疾きこと風の如く、
  徐かなること林の如く、
  侵掠すること火の如く、
  動かざること山の如し 」


 NHK大河ドラマ「風林火山」原作は、小説家井上靖が1950年代初頭に執筆した同名小説『風林火山』で、井上作品の大河ドラマ化ははじめてだという。武田信玄の伝説的軍師として知られる山本勘助の生涯を描き、勘助が討死したとされる第四次川中島の戦いで完結する。

 川中島の戦いは、甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄と越後国(現在の新潟県)の上杉謙信との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦い。いずれの戦いも、千曲川と犀川が合流する中州である川中島(現在の長野県長野市南郊)で行われたことから、川中島の戦いと総称する。

 第4次川中島の戦い(大将同士の一騎打ちがあったとされる戦い)の時、武田側の山本勘助による「啄木鳥の戦法」を察知した上杉謙信は、妻女山の裏手と前面から挟み撃ちの攻撃を仕掛けてくるだろうと、夜密かに妻女山を降り、人馬ともに声なく鞭声粛々と「 雨宮の渡し 」を渡って対岸へ移り、武田信玄の本陣に突撃したとされている。雨宮の渡しは、往時北国街道の要衝にあって、千曲川渡船場として川中島平の死命を制するほどの重要な拠点でもあり、戦術戦況を左右する場でもあった。

 現在は千曲川の流れが北に移った為、住宅地の中に碑が建つのみ。地元先覚者は惜しみ、謙信奇襲の川中島合戦を詠んだ頼山陽の直筆を得てここに碑を建立し、渡河地点を保存した。

「 鞭聲肅肅夜河を過る、
 曉に見る千兵の大牙を擁するを。
 遺恨なり十年一劍を磨き、
 流星光底に長蛇を逸す。 」


写真は今朝の「 雨宮の渡し 」です。地元の隠れた桜の名所みたいな感じです。

Posted at 2007/04/11 10:40:50 | コメント(2) | トラックバック(0) | 歴史シリーズ | 日記

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