• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

C28JA60TAKAのブログ一覧

2007年04月10日 イイね!

歴史シリーズ その九「 アメリカ独立宣言 」

歴史シリーズ その九「 アメリカ独立宣言 」 1775年に始まったアメリカ独立戦争はイギリス本国(グレートブリテン王国)と、アメリカ東部沿岸のイギリス領の13の植民地との戦争である。

 そもそも、アメリカの植民地人に独立を志向させた本国による課税の原因は、フレンチ・インディアン戦争による財政危機だった。イギリス政府は1764年に砂糖法、1765年には印紙法を成立させ次々に新たな植民地課税に乗り出すと、反対運動が盛り上がり、1773年の茶法によって東インド会社の茶が安く植民地に流入することになると植民地商人の怒りは頂点に達し、1773年12月、入港した船の茶を暴徒が港に投棄するというボストン茶会事件に発展した。

 1774年、イギリス議会は植民地に対して次々と懲罰的な立法措置を行なった。こうした危機にチャタム伯ウィリアム・ピットはベンジャミン・フランクリンと協力して議会に植民地との和解をはたらきかけたが、首相フレデリック・ノースは植民地に強い態度で望む決意だった。一方、現アメリカの13植民地はイギリスの政策に対する方策を協議するため大陸会議を開いて本国との和解の道をさぐったが、打開できないまま、1775年4月、アメリカ独立戦争が勃発した。

 大陸会議はジョージ・ワシントンを大陸軍総司令官に任命。イギリス軍をボストンから退去させたが、犠牲も多かった。また、アパラチア山脈の西側では、イギリス軍の支援を受けたインディアンとアメリカ植民地の開拓者達との抗争が続けられた(西部戦線)。この抗争は、1783年の停戦後も終わることなく、インディアンと開拓者の間にしこりを残した。

 1776年7月4日、大陸会議はアメリカ独立宣言を採択した。しかし、ワシントンはニューヨークでイギリス軍に大敗を喫し、ニュージャージーを越えてペンシルヴェニアまで逃げ込んだ。独立戦争もこれまでかと思われたが、ワシントンは絶望することなく、12月、イギリス軍の前進部隊に奇襲攻撃をかけて起死回生の勝利を手にすることができた(トレントンの戦い)。

 1778年2月、アメリカ軍の勇戦を見たフランスは、アメリカと同盟を結んだ。翌79年には、スペイン、80年には、オランダがアメリカに同盟し、さらにロシアのエカチェリーナ2世の呼びかけで武装中立同盟が結成され、イギリスは国際的に孤立した。1783年9月、パリ講和条約が調印され、アメリカの独立は正式に認められた。

 アメリカ13邦は1787年の憲法制定会議で統一国家としての枠組みをなすアメリカ合衆国憲法を制定、翌年発効した。そして1789年、初代大統領に選出されたのは、絶望かとも思われた困難な時期に屈することなく大陸軍を率い、圧倒的なイギリス軍との戦争を戦い抜いたワシントンだった。

Posted at 2007/04/10 13:49:34 | コメント(3) | トラックバック(0) | 歴史シリーズ | 日記
2007年04月06日 イイね!

歴史シリーズ その八「 名誉革命 」

歴史シリーズ その八「 名誉革命 」
名誉革命(Glorious Revolution)は、1688年、ステュアート朝のイングランド王ジェームズ2世を王位から追放し、ジェームズ2世の娘メアリーとその夫でオランダ統領のウィリアム3世をイングランド王位に即位させたクーデター。イングランドではほぼ無血革命だった為「名誉革命」と呼ばれるが、スコットランドやアイルランドでは無血ではなかった。清教徒革命と併せて、イギリスにおける近代市民社会の前提を整えたという観点から「イギリス革命」と呼ぶ場合もある。

Posted at 2007/04/06 15:36:04 | コメント(4) | トラックバック(0) | 歴史シリーズ | 日記
2007年04月05日 イイね!

歴史シリーズ その七「 島原の乱 」

歴史シリーズ その七「 島原の乱 」 1637年の島原の乱は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆による反乱であり、幕末の動乱に至るまでの最後の本格的な内戦であった。宗教戦争と見なすのが一般的だが、それはこの内戦の一面しか見ていない。

 島原は元はキリシタン大名である有馬晴信の所領であり、領民のキリスト教への信仰も盛んな土地であったが、豊臣秀吉や徳川政権の時代の禁教政策や江戸城改築の公儀普請役や彼が独自に計画したルソン遠征、さらには壮大な島原城の新築のための過重な年貢の取立てに加えて、厳しいキリシタン弾圧を始める。

 過酷な取立てと種々の拷問に耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化(この組織化自体を一揆と呼ぶ)、密かに反乱計画を立てて、代官林兵左衛門を殺害。ここに島原の乱が勃発する。

 肥後天草でもこれに呼応して領民が蜂起。天草の一揆軍は肥後で大量に発生していた浪人を吸収し、総大将として宗教的カリスマ性を持つ当時14歳の少年天草四郎(本名:益田四郎時貞。天草は旧来天草の領主だった豪族の名)を担ぎだし、天草支配の拠点を攻撃、富岡城代の三宅重利を討ち取った。
 
 島原の一揆軍は拠点の富岡城落城寸前まで追い詰められ、後詰の攻撃を受けることの不利を悟り有明海を渡って島原半島に撤退。天草の一揆勢と合流して島原城に押し寄せたが、その堅牢な防備に苦戦し、後詰攻撃の危険が迫ったため撤退、廃城であった原城址に篭城した。その数3万7千。最終的に幕府軍の攻撃とその後の処刑によって老若男女3万7千人が死亡した。生き残ったのは内通者であった山田右衛門作一人であったと言われている。

 これらの記録はすべて反乱の原因を年貢の取りすぎにあると書いているが、領主松倉勝家は自らの失政を認めず、反抗的なキリシタンの暴動と主張した。幕府も以後、島原の乱をキリシタン弾圧の口実としたため、島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)という一面的な見方が定着した。しかし実際には乱の終結後に松倉勝家が悪政を責められて打ち首に、寺沢堅高も失政をとがめられて減封となっているように幕府自身が反乱の原因をよく理解していた。しかし、それを認めることは、松倉・寺沢両家に島原、天草に封じて統治を任せた幕府の失政を認めることになるため、幕府の公式見解もまた、この反乱はキリシタン反乱というものであった。

 島原半島南目と天草諸島のカトリック信徒は、乱への参加の強制を逃れて潜伏した者、僻地にいて反乱軍に取り込まれなかったため生き残ったわずかな旧領民以外ほぼ根絶された。わずかに残された信者たちは深く潜伏し、隠れキリシタンとなっていった。島原の乱後に幕府は禁教策を強化し、鎖国政策を推し進めていく事になる。また、これ以降一国一城令によって各地で廃城となった城郭を反乱の際の拠点として使えぬようにするため、破壊がいっそう進むことになった。


Posted at 2007/04/05 12:23:33 | コメント(2) | トラックバック(0) | 歴史シリーズ | 日記
2007年04月04日 イイね!

歴史シリーズ その六「 江戸幕府成立 」

歴史シリーズ その六「 江戸幕府成立 」
 江戸幕府は、徳川家康が創設した武家政権。鎌倉幕府・室町幕府に次ぐ、日本史上3番目にして最後の幕府である。江戸幕府は、1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が征夷大将軍(以下、将軍)に任官されて始まり、1867年11月9日(慶応3年10月14日)に十五代将軍徳川慶喜が大政奉還と称して政権を返上して幕を閉じた(翌月、将軍も辞職)。そのため徳川幕府とも呼ばれ、この間の264年間を江戸時代もしくは徳川時代と呼び、徳川氏が日本を支配した時期であった。とくに、倒幕運動が盛んになった最後の激動の時期を幕末と呼ぶ。

Posted at 2007/04/04 08:00:55 | コメント(3) | トラックバック(0) | 歴史シリーズ | 日記
2007年04月03日 イイね!

歴史シリーズ その伍「 関ヶ原の戦い 」

歴史シリーズ その伍「 関ヶ原の戦い 」
 天下統一を達成した豊臣政権の内部では、軍事面で活躍した武断派と、行政・経済など戦場以外で活躍した吏僚派の対立抗争が存在した。1598年の秀吉の死後、その対立が一気に表面化し、一時は伏見(徳川家康)と大坂(前田利家)が武力衝突する寸前まで行った。

 1600年、家康は会津の上杉景勝に対して軍備増強を非難し、上洛して釈明するよう警告を出したが、景勝の重臣である直江兼続はこの警告を無視。家康は総大将となり、多くの豊臣大名を従え会津に進攻。対する石田三成は毛利輝元を擁立して西軍を組織し、諸大名の妻子を人質として挙兵する。しかし、その最中に、細川忠興の正室である細川ガラシャは、石田方の人質になるのを拒み、キリシタンのため自害が禁じられていることから、忠興の家臣に槍で胸を突かせて死亡する。

 石田三成挙兵を察知した家康は直ちに行軍を止め、従う大名らに今後の動向を伺った(小山評定)。上杉討伐は中止、真田昌幸らの大名は家康から離反するが、家康は約3万の兵とともに東海道を大坂方面を目指した。9月15日、東軍10万4千、西軍8万2千、合わせて18万を超える兵力が狭い関ヶ原の盆地に集結した。

 開戦から2時間を過ぎたころ、三成の西軍は、戦局をやや優位に運んでいた。ここで松尾山の小早川隊と南宮山の毛利隊が東軍の側面と背後を衝けば西軍の勝利は確定的となるはずであった。しかし、島津は応援を拒否。また毛利秀元は、吉川広家に道を阻まれ、参戦できずにいた。吉川広家は毛利家の所領安堵を条件として、家康側に内応していた。これが宰相殿の空弁当である。

 正午過ぎ、家康は、内応を約していた小早川秀秋隊が動かないことに業を煮やし、松尾山に向かって威嚇射撃を加えるように命じる。迷いに迷っていた小早川秀秋は、この家康の督促に意を決し松尾山を降りる。それまで模様眺めをしていた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱らの西軍諸隊も小早川軍に呼応して東軍に寝返る。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変し、西軍総崩れとなる。

 この戦いで勝利した家康は政権を完全に掌握し、徳川氏の覇権を確立した。日本全国のほとんどの大名を徳川家康派(東軍)と石田三成派(西軍)に二分したことと、戦い後に情勢が徳川氏に完全に傾いたことから『天下分け目の戦い』とも呼ばれているが、東軍・西軍と呼ばれたのは後世のことである。よく誤解されることとして、西軍総大将は毛利輝元である。しかし、西軍が石田三成を中心とする派閥であったことには変わりない。

 関ヶ原の戦いで敗れた薩摩藩島津氏や長州藩毛利氏には徳川氏に対する怨念が残り、250年後の幕末における江戸幕府の討幕運動の原動力となっていったとも言われている。

Posted at 2007/04/03 19:54:25 | コメント(2) | トラックバック(0) | 歴史シリーズ | 日記

プロフィール

みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/8 >>

     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      

リンク・クリップ

燃費記録 2025/08/10 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2025/08/16 12:00:48
 

愛車一覧

日産 セレナ 日産 セレナ
フリード+からの乗り換えです。 人生最後の車になるのかな?
ホンダ クロスカブ CC110 ホンダ クロスカブ CC110
クロスカブ CC110 JA60 プコブルーです。
その他 コーダーブルーム レイル700 その他 コーダーブルーム レイル700
初クロスバイク
ホンダ フリード+ハイブリッド ホンダ フリード+ハイブリッド
2017.5.28 納車
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation