2008年05月06日
「 いらっしゃいませ 」
心なしか店に流れるジャズの音量が大きい。
「 なんだ、お前か 」
店の中は誰もいない。片付けをしながらマスターはステレオのボーリュームを少ししぼった。
「 今日はもうお終い? 」
「 お前が来ると思って、店はまだ開けておいた 」
マスターは玄関の灯りを落とし、店を閉めた。
「 今日は遅いじゃないか。仕事か? 」
「 仕事は仕事だけど… 」
マスターはモスコミュール用のマグを彼に見せて聞いた。
「 これか? 」
「 …いや、今日はウイスキーで 」
マスターは自分の飲んでいるウイスキーと同じものをグラスに注いだ。丁寧に水を加える。
マスターが彼の前に置いたグラスには氷はなかった。
「 スコットランドのハイランドのシングルモルトだ 」
「 氷は? 」
「 ストレートも美味いが、お前には氷なしの1対1だ 」
「 1対1? 」
「 ウイスキーと水、1対1の割合くらいが、
一番香りの成分が揮発する。どうだ? 」
グラスを口に運ぶ。水割りを舌の上にのせると、まろやかに香りが広がる。
「 ハイランドのシングルモルトは素直な味がする。
香りも良い 」
マスターは自分のグラスの香りを嗅ぎながら、教えてくれた。
Posted at 2008/05/06 08:16:31 | |
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軽井澤物語 (08/2/19~08/5/30) | 日記
2008年05月05日
「 あたし、そろそろ… 」
「 そうですか、いろいろお話しできて良かったです 」
「 こちらこそ、長い時間すみませんでした 」
今日、比較的店が空いていたのは、彼女にとってありがたいことだった。
マスターはいくつか他のテーブルから注文されたカクテルを作りながらも彼女の話を聞いてくれていた。
サラダとパスタで食事を済ませ、マスターおすすめのワインも味わうこともできた。
さすがにマスターは彼女が一人で店に来たことが、どういう意味なのか察してくれていた。
彼女はマスターに自分の気持ちを隠さずに話しができたし、マスターとの時間の中で自分の気持ちが落ち着いていくのを感じていた。
「 また、いらして下さい 」
「 はい。ありがとうございます 」
マスターの丁寧な挨拶に応えると、彼女は彼女にとってはちょっとだけ急に感じる階段を上り路地に出た。
店に入った時の夕暮れの明るさは消え、ネオンが灯り、すっかり夜の街の色に染まっている。
彼女は彼に電話してみようかと思った。なんとなく、そう思った。
歩きながらバッグから携帯を取り出し、彼女はアドレスから彼の番号を検索した。
彼の名前が画面に表示される。
彼女は立ち止まり目を閉じると、携帯をバッグの中にしまい込んだ。
Posted at 2008/05/05 09:16:17 | |
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軽井澤物語 (08/2/19~08/5/30) | 日記
2008年05月02日
「 わたし、ここで結婚式をしたいの。この石の教会で 」
ホテルからは少し距離がある。どこで調べたのか彼女はいろいろなことを教えてくれる。
ホテルの駐車場を過ぎ、なだらかな道を彼女は時々後ろの彼を振り返りながらうれしそうに歩いている。
ホテルからは小形のバスで移動するらしい。全然遠くはないが、確かにウェディング・ドレスを着てハイヒールで歩くには辛い。5年前くらいは馬車を使っていたそうだ。正式には「石の教会・内村鑑三記念堂」という。
彼女はこの道を歩く自分のウェディング・ドレス姿を想像しているのかもしれない。
「 雪に埋もれてた方がもっと綺麗なんですって 」
目の前に現れた建物は、石とガラスのアーチが重なり合うようなフォルム。
教会とは想像もできないような雰囲気だ。
石は男性、ガラスは女性を象徴しているということも彼女が教えてくれた。
水の流れる音が石造りの建物の中に静かに響く。石と緑のコントラストもとても印象的だ。
石というと暗いイメージだが、天井はガラスの部分も多く、少なくとも陽のあるうちはかなり明るい。
入り口から祭壇迄は、ランダムに組み合わされる石とガラス。そして祭壇からその向こうへかけては、その石とガラスのつながりは綺麗にそろえて組み合わされている。
「 神秘的な教会でしょ? 」
・・・どうしてこんなこと、思い出すんだ・・・
マスターの店に歩く途中だ。石の教会のことは今まで思い出したことさえなかった。
・・・なぜ、今なんだ・・・
過去に引きずられるように彼の足取りは重くなった。
Posted at 2008/05/02 08:10:06 | |
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軽井澤物語 (08/2/19~08/5/30) | 日記
2008年05月01日
「 おはようございます 」
「 おはよう 」
・・・なんてぎこちない挨拶なんだ・・・
これじゃまるで何の経験もない高校生のようだと、彼は一人で苦笑した。
・・・仕事だ、仕事・・・
仕事に私情を持ち込むことは嫌いだった。彼自身、そうならない自信もあった。
彼女はいつもと何も変わらないように見えた。それが余計に彼の気持ちの中で彼女の存在を大きくした。
・・・彼女にとって俺はただの上司なんだ・・・
そう思い続けることだけが今の彼にできることだった。
彼女は思っていた。
・・・仕事、頑張らなきゃ・・・
忙しく仕事をこなすことだけが彼のことを考えないでいられるような気がしていた。彼女の席からは、直接彼を見ることはできない。それは彼女にとってありがたいことだった。彼の事を考えずに過ごせるだけの気持ちの切り替えは、彼女にはできていなかった。忘れようとすればするほど、考えないようにすればするほど、彼女の気持ちの中の彼の存在は大きくなる。
・・・しっかりしなきゃ・・・
自分の気持ちをコントロールするのは簡単ではないということを改めて彼女は感じていた。
彼は忙しそうに働いている。今までならそれは普通の情景に見えたはずだが、今は違った。
このままの気落ちで彼と同じ場所にいることは辛かった。どうすれば良いのか、自分では決められない。
・・・マスターなら、
話を聞いてもらえるかもしれない・・・
彼女はもう一度マスターに会いに行こうと思った。
Posted at 2008/05/01 07:51:00 | |
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軽井澤物語 (08/2/19~08/5/30) | 日記
2008年04月28日
店は空いた席が多くなってきた。
新しいオーダーもなくなり、カクテルを作るより片付けの方が忙しくなってきた。
マスターは彼の空いたマグを片付け、代わりのグラスを置いた。
「 こわいんだ 」
「 前に進むことに臆病になっているだけだ 」
洗い物をしながらマスターは答える。
「 彼女のことが気になるんだ 」
「 そう思えるのが、今を生きている証だ 」
彼女への想いを言うつもりはなかったが、言ったという事実に後悔はなかった。
「 どうすればいいのか、わからない… 」
「 それはお前にしか決められない事だ 」
目の前のグラスを口に運ぶ。
「 これは? 」
「 あぁ、ただの水だ 」
グラスの中は冷えた水だった。
「 酔っぱらって考えることじゃないだろ? 」
「 それはそうだけど… 」
「 今日は帰って、今の自分自信と面と向かってみたらどうだ? 」
「 ・・・ 」
これ以上話すことはないといった風で、マスターは仕事に戻った。
「 マスター。…ありがとう 」
マスターは黙ってうなずいた。
Posted at 2008/04/28 08:25:14 | |
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軽井澤物語 (08/2/19~08/5/30) | 日記