2008年04月23日
「 この前連れてきた彼女、やさしそうじゃないか 」
「 ・・・ 」
返事はできなかった。何も言わなくてもマスターには彼の気持ちがわかってしまうような気がした。
「 どうなんだ? 」
「 何が? 」
彼女の事をどう思っているのか、という意味だということくらいわかっている。
「 彼女は、お前のことを気にしている 」
「 でも、彼女には他に好きな人がいる 」
彼は目の前のマグを見つめたまま返事をする。
「 彼女はお前に決めてほしいんだ。どうすればいいかを 」
「 ・・・ 」
「 彼女はお前が好きなんだ。わからないのか? 」
返事をする代わりにモスコミュールを口に運ぶ。
そうかもしれないと思った事はある。そうだったらうれしいと思った事もある。
「 自分自身に聞いてみろ。心を素直に開けば見えてくることもある。 」
そう言うとマスターは客のオーダーの料理を作るためにその場を離れた。
Posted at 2008/04/23 07:48:12 | |
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軽井澤物語 (08/2/19~08/5/30) | 日記
2008年04月22日
「 いらっしゃいませ 」
言葉は丁寧だが、マスターは、「なんだ、お前か。」という視線を彼に向けた。それは温かみのあるもので、だからこの店に来ると落ち着くんだと彼は思った。
マスターに挨拶して、いつものカウンターの席に座る。店は半分くらいの席が埋まり、邪魔にならない音量でジャズが流れている。
マスターはいくつかのカクテルを作りながら、「ちょっと待ってくれ」と彼に目で合図を送りできあがったカクテルをフロアの女の子に渡した。
「 今日はひとりか? 」
「 いつも、ひとりだよ 」
「 この前は、ちがった 」
「 この前は… 」
特別だ、と言いかけてやめた。言葉にすることによって、気持ちの中で彼女が特別な存在になってしまうことに気が引けた。
「 特別か? 」
彼の気持ちを見透かすようにマスターは言った。目の前にはモスコミュールの冷えた銅製のマグが置かれた。
「 そんなんじゃないよ 」
そう言うと彼はマグをマスターにかかげ、口に運んだ。
・・・そんなんじゃないと思うけど・・・
冷たいモスコミュールが彼の喉を通る。
Posted at 2008/04/22 07:38:11 | |
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軽井澤物語 (08/2/19~08/5/30) | 日記
2008年04月21日
仕事は忙しかった。
いろいろなことを考える時間もない事に感謝しなければならないのだろう。
思いを振り切るには都合がいいはずだが、あの日からは彼女の存在を意識しないで一日を過ごすことは難しかった。彼女はいつもと変わらずそこにいる。
何かあっても気持ちを仕事モードに切り替えるのは苦手ではないつもりだったが、さすがに一人の部屋で過ごすのには抵抗のある日が続いていた。
・・・マスターの愚痴でも聞きに行くか・・・
以前は酒の力を借りて、気持ちを紛らわすのは目の前の問題から逃げているようで嫌だった。そうしなければならない時、自己嫌悪の中で彼は飲んだ。
「 そんな気分で飲まれる、酒の気持ちになってみろ 」
いつだったかマスターにそう言われてから、肩の力が抜けて楽になったような気がする。
・・・酒はそうやっていろいろな人の
いろいろな想いを受け止めてきたんだ・・・
「 俺は酒とは長い付き合いだからナ。
同じ酒だって飲み手によって、良い酒にも悪い酒にもなる。
それでも酒は文句ひとつ言わない 」
マスターはいつもそう言った。酒は文句は言わない。酒の気持ちになれ、と。
その通りだ。酒は大昔からそうやって人間とつきあってきたはずだ。酒の力を借りて助けてもらうことだって悪いことじゃない。そんな風に思えるようになったのは、マスターのおかげだ。そのマスターに会いたくなる時、それは彼が何かにつまづいて、一人ではなかなか立ち上がれない時だ。
長い一日が終わろうとしていた。
Posted at 2008/04/21 08:32:29 | |
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軽井澤物語 (08/2/19~08/5/30) | 日記
2008年04月19日
次の朝、携帯の電源を入れる。彼女からのメール。
彼女にメールの返事を送った。
おはよう。
メールありがとう。
今日もいい天気になりそうだね。
自分の気持ちを書こうとすると、気持ちが揺れる。彼にはそれがわかっていた。
今まで何度も後悔した思い。
・・・心を開いてはいけない・・・
そうやって生きてきた。これからも変わらない思いだった。
何も期待しない。何も感じない。心を強く、生きればいけばいい。
今までだってそうやって頑張ってきたんじゃないか。自分にそう言い聞かせる。
・・・そうやって、頑張ってきた・・・
何も感じないように生きて行くことなどできないことぐらい彼にはわかっていた。
でも彼のもとから彼女が去った時、彼にはそう思うことしかできなかった。
彼女を忘れるための努力。彼女を思い出さないための努力。
死んでしまおうと思うことさえできないくらいの虚脱感。
心そのものがなくなってしまったような喪失感。
・・・彼女に何かを期待してしまった俺が悪い・・・
責任はすべて自分にある。彼はいつもそう考えた。
そう考える意外に、彼は彼でいることができないと信じていた。
心を開かず、何も考えずに生きていく。それが彼が選んだことだった。
それは本当の生きることではないということも彼にはわかっていた。
そんな味気ない一日がまた始まった。
Posted at 2008/04/19 14:19:07 | |
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軽井澤物語 (08/2/19~08/5/30) | 日記
2008年04月18日
次の日の夜、彼女からメールが届いた。
彼女からのメールの着信音は特別だ。すぐ彼女からだとわかるようになっている。
昨日は素敵な時間をありがとうございました。
今日も職場で直接お礼を言いたかったんですが、
なかなかタイミングが難しくて…
ワインもカクテルも、もっと勉強しておきます。
ありがとうございました。
いつもは彼はすぐに返事を書く。いつもは…
今夜、彼の携帯の電源は入っていない。
彼女から連絡が来る事も、連絡が来ない事も、彼には知りたくない事だった。
ぽっかり空いた気持ちの隙間に、自分自身が入り込んでしまったような感覚。
辛いのか、寂しいのか、苦しいのか、切ないのか…
・・・何かに気持ちが動く事など、
もう、ありえないと思ってた・・・
波の音は遠い。
彼のバイクのエンジンはまだずいぶん熱く、周りの空気を膨張させている。
・・・何かしてあげられるんじゃないかと、
勘違いしてた・・・
砂を握った手に力はなかった。時折海沿いの道を走る車の音は聞こえるが、それさえ彼には届かなかった。
・・・期待してはいけない事は、
わかっていたはずなのに・・・
近くに灯りはない。遠くに港の灯りは見えるが、彼の目は目の前の真っ黒な海に向けられている。
こうやって、何度も海に来た。いろいろな思いを捨てるために…
・・・強くなろう、気持ちが動かないように、
心が迷わないように・・・
海は、いつも同じだ。
ただ、そこにあるだけだった。
Posted at 2008/04/18 08:06:19 | |
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軽井澤物語 (08/2/19~08/5/30) | 日記