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2020年02月23日

鉄道博物館(埼玉県さいたま市)

鉄道博物館(埼玉県さいたま市)  昨日2月22日土曜日。
 埼玉県さいたま市にある、鉄道博物館を訪れました。
 ボクが住む埼玉県にありながら、何と初めての訪問でした。



 玄関には、こんなボードがありました。
 家族や恋人、友人を横に立たせて記念撮影するのが目的のようです。



 チケットの販売機です。
 大人は1330円。ちょっと高いかなぁ…。
 まあ、値段に見合ったコンテンツならいいけど。





 車両の展示スペースへ進みます。
 まず出迎えてくれたのがこちら、1号機関車です。
 新橋と横浜の間に初めて鉄道が走った時に使われたものです。
 小さな客車を従えています。





 展望車、マイテ39です。
 嘗て客車特急の全盛期、最後尾に連結されたのが豪華な一等展望車でした。大きなデッキを備え、そこに大きな列車名のテールサインを提げて走りました。ちなみに、旧国鉄のターミナル駅で行き止まり式のプラットホームがあるのは、上野、門司港、天王寺の阪和線ホーム等、ごく少数ですが、欧米ではあちこちに見られます。これは、旅客が自分の乗る列車を瞬時に判別できるようにとの配慮からだそうです。最も有名なのはニューヨークのグランド・セントラル・ステーションですが、今は特急の発着はなく、ほほ゛全てがコミューター(通勤電車)になってしまいました。



 室内です。
 きらびやかで豪華な内装。これに乗れる人は、ごく限られた「特権階級」の方々だったのは間違いありません。
 白いカヴァーを纏ったソファが、内側を向いて並びます。
 きっと座り心地は良いのでしょうが、ボクは個人的には車窓を眺められるクロスシートの方が好みです。



 マイテから更に進むと、高い屋根を持つ広大なスペースに、沢山の車両が展示されていました。その中央部には転車台が設置されていて、蒸気機関車C57が展示されていました。



 赤いナンバープレートが凛々しい135号機。
 先輪の前にスノープラウを纏った姿は、北国育ちの模様です。動輪のコネクティング・ロッドには、十分に注油されていました。



 キャブ(運転室)右側です。
 C57には4つのタイプがありますが、135号機は一次型。製造時は開放型だったはずですが、扉が増設されています。乗務員保護の観点から、寒さの厳しい北海道や東北で使われた機関車に施されることが多かった改造です。
 所属機関区欄には『岩』の文字。
 北海道は、岩見沢機関区の出身です。



 左側です。
 昭和47年5月に、旧国鉄苗穂工場で車検整備した旨が記されています。



 キャブの後方です。
 ドアを増設したとはいえ、炭水車との間を完全に区切ることは出来ないので、こんなに開いています。酷寒の北海道での運転業務、さぞかし大変だったことと想像します。





 うわー、懐かしい!
 上野と仙台を走っていた「特急ひばり」。おそらく、ボクが最も多く乗った特急です。
 ボクは東京都北区で生まれ育ちました。当時亡き親父が勤めていたのは製紙工場。ところが公害問題、環境問題が進み、大都市に立地する製紙工場の存続が困難となり、閉鎖が決まりました。当時、親父は長さ100メートルを超す主力のペーパーマシンの責任エンジニアで、この巨大マシンを全部バラして宮城県の工場に持ち込みリビルトすることとなりました。このため、ボクは小学校6年生の10月に転校することとなりました。
 何の縁もゆかりも無い地方都市に住むこととなり、休みになると親にねだって東京へ遊びに行ったものでした。浪人・大学時代、まだ両親は在住だったので、年に数回は帰省しました。その当時の「足」が、この「ひばり」でした。上野と仙台の間を、片道4時間で駆け抜けていました。
 この車両は481系。交流・直流の両用。東北本線は栃木県の黒磯から南が直流1500ボルト、北が交流50キロヘルツ。黒磯駅を徐行で通過すると、一瞬空調が停まり、ルームライトが消えたっけなあ…。



 これまた懐かしいブルートレイン「あさかぜ」!
 東京と博多の間を走っていました。ボクの記憶だと、最盛期は下関行きを含め、1日に3往復が走っていたと思います。



 20系寝台客車の外観上の特徴が、この二枚折り戸。
 横にスライドする陳腐なものと異なり、何とも優雅な所作に感動したものでした。



 ベッドメイクを再現した人形です。
 
 ボクはレコード会社時代、矢鱈と出張が多い時代がありました。月に4、5回は地方へ出掛けていましたが、当時息子は3年保育の幼稚園に通っていました。その幼稚園は運動会、学芸会はもとより、合唱会、朗読会、ショパンを聴く会など、土曜日と日曜日にイベントが盛り沢山に催されました。どの家庭も両親が揃って参加するため、週末の出張の時、帰路は頻繁に寝台列車に乗りました。最も多かったのは大阪発東京行きの急行「銀河」、次いでこの「あさかぜ」でした。
 定期運行のブルー・トレインが消滅したのは、何とも寂しい限りです。眠れない時、B寝台の通路にある引き下げ式の椅子を出して座り、「コトン、コトンコトン…」という台車の音に耳を傾けながらウィスキーを飲んだものです…。
 そんな時代も、今は昔…。



 旧い濃茶の電気機関車、EF55です。
 流線型の先端部は優雅な意匠ですが、どこかユーモラスでもあります。
 1936年(昭和11年)の製造、全部で3両が製造されました。



 先端からサイドに掛けての流麗なデザインは、何処かヨーロッパ的です。グリーンやプルーを纏ったら、イタリアの特急牽引車みたいになりそう…。



 反対側、第2エンドは切妻型です。
 製造当初は構内運転程度を想定した簡易運転台しか装備されていませんでしたが、途中で正規の装置を付けたのだそうです。
 正面とは全く異なりますが、ボクはこのデッキに中央扉を持つこちら側も好きです。



 ワイパーの回転軸は外側です。



 美しいテールライト。



 パンタグラフは巨大で複雑なデザインです。

 当時、国鉄は流線形の動力車の導入でスピードアップを図ったのだそうです。 蒸気機関車C53やC55を流線形にし、この「流線形電気機関車」EF55を製造しました。しかし時速100キロ程度では効果が乏しいと判断、蒸気は全て通常型に戻されました。このEF55は事実上片側運転台のため、戻り運用の際には転車台で方向転換が必要など、取扱いが面倒で半ば厄介者扱いされたようです。そういう経緯から第2エンドにも正規の運転台が付けられ、こちらを前面にして運用したこともあったそうですが、主客転倒そのもので、彼らが気の毒に感じました。しかし、パソコンなど存在だにせぬ戦前の日本で、計算尺と烏口で設計図を描き、この美しき機関車を産んだエネルギーには感動させられました。



 昨日の訪問で最も楽しみにしていたのがこちら、ED40の10号機です。
 1920年(大正9年)から14両が、当時の鉄道院大宮工場で製造されました。急勾配の難所として名高い碓氷峠(信越本線の横川-軽井沢間)専用で、国産として初の電気機関車です。



 サイドビューです。
 運転台は左側だけ、右は連結器上部に抵抗器の収納部が飛び出した、何とも無骨なデザインです。車輪は蒸気機関車のようにコネクティング・ロッドで繋がれ、動力を伝道するシステムです。



 第2エンドを見上げたところです。
 ナンバープレートとライト以外に何もなく、「のっぺらぼう」を彷彿させます。
 前と後ろでこんなに表情が異なるのには、理由があります。
 急勾配の碓氷峠を登る時、このED40は重連、つまり2両連結で列車の最後尾(横川側)から「押し上げた」のでした。反対に軽井沢から下る時は先頭(横川側)に立ち、速度を抑制しました。つまり、ED40には運転台は片側にしか必要がなかったのでした。



 これが「ラックレール」。
 二本の線路の中央に敷かれた、凹凸のあるレールです。
 所謂「アプト式」と呼ばれる急勾配登坂システムで、このレールに機関車下面に取り付けた歯車を噛み合わせ、回転させることで坂を推進するものです。





 上の写真は、ED40を下から見上げたところです。
 見やすいようにラックレールは透明なアクリル板で作ったものが使用されています。



 屋根を上から見下ろしました。
 パンタグラフは中央部に1つだけ。これは駅の構内・機関庫でのみ使用されるもので、



 横川から先は架線集電ではなく、東京メトロ丸の内線や銀座線のように、線路に沿って設置された第三軌条から電気の供給を受けます。この写真のほぼ中央部に第三軌条が写っていますが、



 断面はご覧の通りで、上と左右はカヴァーで覆われています。つまり、集電するシュー、



この写真のオレンジ色の部分は、第三軌条の下面に、下から押し上げるように密着します。これは、先に書いた丸の内線や銀座線が上面から集電するのと全く逆です。以前、何かの本でその理由を知りましたが、碓氷峠は寒冷のため凍結や積雪の対策だったのだとか…。



 66.7パーミルの勾配(始点から水平に1000メートル進んだ場合、その終点の66.7メートル上の一点と始点を結んだ勾配)を、



 来る日も来る日も重連で列車を押し上げ、つっかえ棒よろしく下ってを繰り返した「シェルパ」です。
 ちなみに、ED40の老朽化で後継のED42が登場した当時、大量輸送の時代に突入していました。ED42はハイパワーで設計され、しかも4両1チーム(軽井沢側1両、横川側3両)で、ディーゼル特急まで押し上げていたそうです。連続するトンネルや狭小な岩場を縫うが如き路線では、無線など全く役に立たず、ホイッスルによる合図だけで4両が一丸となって仕業に就いていたそうです。その足掛かりとなったのが、このED40による重連だそうです。



 このED40の10号機が、国の重要文化財に認定されたのだそうです。
 長きに及ぶ縁の下の仕事が、漸く認められました。
 素晴らしきことです!



 まだまだ、こんなものや、



こんなものもありますが、大変長くなってしまいましたので、今日はこのあたりで失礼させて戴きます。

 それと、最初に触れたことについて。
 1330円の価値は、十分あると思います。
 今日ご紹介した車両の展示スペースの他、子供用の豆電車やD51の運転シュミレーター、鉄道模型の運転、各地の駅弁を買い、嘗ての特急車両の中で食べるコーナー、図書室、売店等、いろいろと用意されています。小さなお子様を連れて行ってあげると、とても喜ぶと思いました。















 
 
 


ブログ一覧 | 博物館 | 日記
Posted at 2020/02/23 14:01:38

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この記事へのコメント

2020年2月23日 15:37
お疲れ様です。(ノ◕ヮ◕)ノ*.✧

そうですねェ、和暦西暦の2並び
でいくと
「(令和2年)・2020年2月22日」
が、唯一ゾロ目の日ですネェ?

「2022年2月22日」では令和4年に
なってますし、「2222年2月22日」
は多分…誰(地球)も?居なくなってる
かと?(-_-;)zzz
コメントへの返答
2020年3月1日 15:50
Dyingさま、いらっしゃいませ。

そうか、令和2年だったのですね!「2020年2月22日」には気づいていましたが、令和2年はご指摘されて初めて膝を打ちました。

ありがとうございます!

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何シテル?   09/28 15:34
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