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2021年02月28日 イイね!

旧入間川橋梁(埼玉県入間市)

旧入間川橋梁(埼玉県入間市) 昨日27日土曜日。
 午前中に大型一種教習の8連敗が決定、何だか無力感にさいなまれました。
 こういう時、ボクはどういう訳か、水面を見たくなります。それも軽井沢の塩沢湖や八風湖のようなこじんまりとした湖や、さほど川幅の広くない川。
 近場で何処かないかと考えた結果、こちらに向かいました。

 

 西武池袋線の仏子(仏子)と元加治の間に、既に使われなくなって久しい鉄橋が、今も入間川を跨いでいます。大正4年に西武鉄道の前身、武蔵野鉄道が建造したもの。昭和44年に直ぐ横に複線の新しい鉄橋が完成したため、廃止されました。



 仏子側の川岸は、遊歩道になっています。



 仏子側から元加治側を臨みます。
 橋脚の上流側には、石積みの水切りが。増水時に橋脚への負荷を減らすことが目的です。



 こちらは元加治側。スレスレの高さで市道が潜ります。ちなみにロードスターでは余裕でした(笑)。



 元加治側の橋台です。
 美しい煉瓦は、お手本のようなイギリス積み。強度に優れます。同じ鉄道建造物でも、碓氷峠ではフランス積みが採用されました。



 線路は撤去されていますが、こうして当時の姿を遺してくれていることに、素直に有り難く思いました。
 それにしても、昔のものって、どうしてこんなに美しいのかなぁ…。





 鴨クンたちが、コケティッシュに「ガアガア」鳴いていました。呑気で無邪気な声に、ささくれていた気持ちが少し和み、笑みがこぼれました。
 
 そうだよナー、ボクも「ガアガア」してみればいいんだよナー。
 
 誰もいないと思って川面に向かって大きな声で「ガアガア!」と叫びました。その途端、女性の素っ頓狂な笑い声が聞こえました。橋の上で女子高生とおぼしき二人組が、ボクを見下ろして笑いころげていました。
 
 …ちょっと恥ずかしかったけれど、胸のつかえが取れました。



 このあたりの入間川は透明度が高く、こんな魚影が見えました。
 この大きさ、おそらく鯉だと思います。



 橋梁の袂では、大きな梅の木に一面の花が咲いていました。
 もうすぐ春。
 ボクにも「春」は、来るのかなぁ…。

旧入間川橋梁

埼玉県入間市仏子





Posted at 2021/02/28 17:18:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | 廃の美学 | 日記
2020年11月22日 イイね!

旧国鉄 篠ノ井線廃線遊歩道(長野県安曇野市)

旧国鉄 篠ノ井線廃線遊歩道(長野県安曇野市) 昨日11月21日。
 二週間振りに須坂市を訪れ、難聴の治療を受けました。
 帰路は必ず「寄り道」をしますが、安曇野市にある旧国鉄篠ノ井線の廃線を訪れました。



 この廃線は明科駅と西条駅の間に存在する、約6キロメートル。明科駅には車を停める場所がなく、廃線の明確な痕跡が始まる「明科総合福祉センターあいりす」の無料駐車場に車を置きました。
 なお、全部歩き通して戻ると12キロ!
 還暦直前で運動不足の事務職は、絶対にヘロヘロになってしまいます。なので、所々の要所を車で訪れました。
 こんな案内が出ていました。



 地図がありました。



 駅名標を模したものがありました。
 こちらは「潮神明宮」。
 限られた時間での廃線探訪が目的、後ろ髪を引かれましたが寄りませんでした。



 この辺りから、廃線らしい道床が始まります。コンクリート製の架線柱が並びます。

 篠ノ井線は1902(明治35)年に全通しましたが、この明科駅から西条駅の区間は地滑りの多発地帯で、何度も線路は被害があったそうです。特に1924(大正13)年には、列車が土砂に乗り上げて脱線する惨事が発生しました。こうした事情から新しい線路を建設、長いトンネルを掘り1988(昭和63)年に新線が開通しました。その結果、廃線となった一部区間が、遊歩道となりました。



 西の彼方。
 雪を被ったアルプスが、誇らしげに雄大な姿を見せていました。



 歩いていると、何やら物凄い臭いが!
 …やっぱりでした。
 黄色い絨毯の上に、ブヨブヨになった実が一杯落ちていました。



 少しだけ拾いました。
 ポリ袋のようなものを持ち合わせておらず、ハンカチに包んでカメラバッグに入れて持ち帰りました。が、臭いが沁みついてしまい、開けると悲惨なことになってしまいました…(笑)。



 こんな物も沢山落ちていました。
 安曇野の自然は豊穣…。



 朽ち果てようとする材木。
 ボクにとり「極みの美」!



 やがて、トンネルが見えて来ました。



 三五山(さごやま)トンネル。
 全長25メートル、右へ緩やかなカーブを描きます。



 煉瓦造りですが、表面に乱雑にモルタルが塗られています。



 入口に到達すると、センサーでライトが点灯しました。
 天井はメッシュのようなもので覆われていますが、やはりモルタルが塗り込められているそうです。電化の直前、結露の水滴が架線に落ちることを防止するために施されました。
 第三軌条から集電した碓氷線は、美しい姿を今に伝えています。公共交通インフラなので当然の判断ですが、大変「勿体ないな…」と思いました。



 闇のカーブに柔らかな灯りが連なると、幽玄の趣が漂います。
 一歩一歩、歩きながら観察。変化を楽しみました。
 訪れたことはありませんが、例えばプロシア時代の古城を連想していました。



 とても柔らかく優しい…。
 教会に灯る蝋燭にも思えました。



 保線員の方のための退避スペース。
 当然、現役当時は灯りは存在しなかったはずですが、こうして眺めると「芸術作品」として完成された存在に思えました。



 反対側です。



 出た地点は入口とはガラリと変わり、山中の掘割。
 既に、ここ安曇野は晩秋から初冬。枯葉に覆い尽くされた道床が、一直線に続きます。
 …この「幻想的」な光景に佇むのは、何と「ボク」だけ!
 贅沢な光景ですが、内省的な気持ちにもなりました。

 来月7日で還暦、「定年」です。
 
 先日のこと。
 社会に出て20年勤めたレコード会社の先輩・同僚3人と、久し振りに池袋で飲みました。レコード業界は、20年前から今に至るまで、ずっと「斜陽産業」。ボクも含め4人全員が会社を去っていました。そのうち一人は退職後、同業他社に転職したものの、待遇は契約社員。遂に正社員になれず8月に定年を迎えたそうですが、給料は半分以下になったと落胆していました。

 ボクは今の会社が6社目。
 
 最初のレコード会社は外資でした。
 外資狙いで採用に応募したのではありません。
 英語も「ヘタクソ」!

 新聞記者か雑誌の編集者に憧れていました。
 でも、当時もマスコミへの就職は大激戦。
 音楽好きなこともあり「マスコミの匂いがする」レコード会社を受け、結果的に入社したという顛末。

 ボクの場合、同業他社を狙わなかった(=レコード産業に自ら見切りをつけた)ので、どうしても外資転職を繰り返さざるを得ませんでした(国内資本の一般企業は、外資出身の採用に後ろ向き。「高給の要求」、「一匹狼」、「すぐ辞める」の人材が多いとされるため)。その結果「入ってみないと分らないこと」が原因で、何度も転職を余儀なくされました。同時にプライベートで元妻の病気が進み、やがて死という結果が訪れました。
 
 …今振り返って見ても、よくあの「人生の厳冬期」を乗り越えたと思います。

 今の会社は、給料はさほどでもありませんが、どうやら暫く(65歳まで)は勤めることが出来そうです。先の同僚のように、給料が激減することもなさそう。
 
 …人生、辛い時もあれば良い時もあると、今日改めて実感しました。



 トンネルの上には、こんな光景が!
 僅かに残った紅葉が、初冬の柔らかな陽を浴びて輝いていました。
 ガードレールと電線が目障りですが、大変美しい姿に感動しました。
 少しでもお伝え出来れば幸いです。



 25.0パーミルの標識。
 三五山トンネル入口のキャプションに「25パーミルを上がれず、やり直したことも珍しくなかった」とありました。
 66.7の碓氷峠が如何に「激坂」だったかを、改めて思い知らされました。



 すでに「モノクロームの光景」。
 でも、

 こんな「紅」や、



 こんな「黄」も、まだ残っていました。



 車に戻り移動、こちらへ。



 漆久保トンネル。
 早速、歩きます。



 すぐに着きました。



 キャプションです。



 使われている煉瓦は、地元明科で焼かれたもの。



 天井。
 蒸気機関車の煤が沁み込んでいました。



 トンネル出口から前方を臨んで。
 誰もいないこの光景を独り占めしました。



 振り返って、トンネル出口。
 陽が当たらぬ姿が、冬の訪れを無言で伝えていました。



 車に戻って移動、廃線遊歩道の終点、第二白坂トンネルです。
 遊歩道の終点、通行不可能と聞きましたが、



 その通りでした。
 2000メートルを超えるとか。
 通行可能にしてほしいですが、距離が長く安全対策にお金がかなり掛かりそう…。



 手前には、こんな清流と橋が。
 暫く橋の上に建ち、川面を眺めました。
 この地で列車を走らせることに尽力した、当時の駅員、機関士、保線員などの方々を思い、頭を下げました。
 
 いろいろなことが思い起された廃線散策。
 大変に充実した休日でした。

【今日の「オマケ」!】



 至近に白鳥が越冬する場所があると知り、訪れました。



「お、47羽もいるのか、どれどれ…」

 入ってみると、



 1羽も見えず、夥しい鴨が「ガアガア」鳴いていました(笑)!

 白鳥に会えずちょっと残念でしたが、暫く鴨サンのコケティッシュでのんびりとした「ガアガア」を聴いていました。

 …いつの間にか癒されていました!
 微笑んでいる自分を自覚しておりました。

 ボクは「独身還暦」!
 
 彼らを見習い、これからも「ガアガア」鳴き、鳴き続けようと思いました。

 …「鴨サン」に、勇気を戴きました。

「ありがとう!」








 




Posted at 2020/11/22 16:04:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | 廃の美学 | 旅行/地域
2020年07月24日 イイね!

いすゞ「ベレット」

いすゞ「ベレット」 7月18日、土曜日。
 長野県須坂市を難聴の治療のため訪れました。
 終了後、市内を走っていると、「草ヒロ」状態の「名車」が停まっているのに気づき、急いでUターンしました。

 いすゞ「ベレット」、GTスポーツの名車です。いすゞが普通自動車から撤退して久しくなりましたが、他にも優雅なフローリアン、ヨーロッパ調のオシャレな「117クーペ」といった、他社とは一線を画す個性の強いクルマを製造していました。
 フロントに丸灯が4つ並んだ、いかつい印象。
 いかにも「走り屋」の風貌、周囲を睥睨するかのよう。



 左サイドからです。
 リアがスカートを被ったデザイン。フロントとは異なり、何処か女性的で優雅な印象を与えます。



 フロントガラスは、車格の割に面積が広く感じました。



 繊細な意匠のワイパーアーム。
 これ、ボクのロードスターに取り付けたくなりました。
 材質はアルミでしょうか。今も綺麗なフォルムです。



 ルーフ前部中央に、伸縮式のラジオアンテナが。
 この位置、実用上は大変扱い辛いと思いますが、デザイン最優先でこの位置に置いたような気がします。



 フロントホイールです。
 所謂「鉄チン」ですが、ワイヤーと言うかスポークと言うべきか、その姿はラグジュアリーそのもの!



 エンブレムです。
 Bは大文字、以下は小文字の筆記体繋げ文字。
 女性が書いたかのような、細くデリケートなデザイン!



 ドアノブです。
 釦を押しながら引くタイプ。昔のクルマには、このタイプが多用されていました。何だか懐かしくなりました。





 室内です。
 外からはこれが限界でした。



 リアのラッゲージ。
 飛び出た「蝶番」がイイ!



 リアビューです。
 後ろはマムシや青大将が潜んでいそうなブッシュ、脚を踏み入れませんでしたので、これが限界でした。
 左右それぞれ2連の四角いテールが特徴です。

 「男性らしさ」と「女性らしさ」が混在しますが、それが虻蜂取らずにならず、結果的に優雅さが際立つデザインに昇華した印象です。それは前述のフローリアン、117クーペ、それにピアッツァ等にも継承されることとなります。

 このクルマ、それなりにヤレてはいましたが、タイヤにはしっかりエアが残っていました。また、シルバーメッキを施されたパーツの状態が良好で、リアバンパーは輝いていました。ベレットに関する詳しい知識を持ち合わせていませんが、材料とメッキには、相当の資金を注いで製造したのでは、と思いました。
 
 余談ですが、10年ほど前に、ヤマハXS-1をごく短期間だけ所有したことがありました。半ば黄色い土埃を被った状態でしたが、キャブとエアクリーナーのエレメントとゴムパッキンを掃除し、バッテリーとプラグを新品にしたら、いとも簡単にエンジンが掛かって驚きました。それが嬉しくてエンジンを磨き始めて、また驚きました。ボクのような素人でも、使われているアルミのクォリティーの高さが直ぐに分りました。アルミの肌理が細かく、目に優しい輝きを返してくれました。その一方、エンジンオイル注入口には「3000CC」とあり、大食漢ぶりにまたしても驚きました!結局、このXS-1は、前に勤めていた会社でいろいろ酷いことがあり、転職活動を決めた時、その軍資金捻出のために手放しました。汚なくて不動だったものを実働にし、磨くだけ磨いてピッカピカになった直後でしたので、今も未練があります(笑)!

 このベレットを見て、そんな昔のことを思い出しました。
Posted at 2020/07/24 13:52:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | 廃の美学 | 日記
2020年07月19日 イイね!

旧太子駅(群馬県吾妻郡中之条町)

旧太子駅(群馬県吾妻郡中之条町) 昨日18日。
 月に一度の難聴治療で、長野県須坂市を訪れました。
 生憎の天候でしたが、帰りに少し足を伸ばし、かねてから訪れたいと思っていたこちらに立ち寄りました。



 旧国鉄長野原線の終着駅だった、旧太子(おおし)駅です。 
 昭和20年1月2日、国鉄長野原線(現JR東日本吾妻線)の、渋川と長野原(現長野原草津口)間が開通します。同時に、長野原と僅か一駅の太子間が、日本鋼管群馬鉄山専用線として運行開始。戦況の悪化により鉄鉱石の採掘増量が必至となり、群馬鉄山と太子駅の間を索道で結び鉄鉱石を運搬、ここから貨車に載せて運び出しました。
 敗戦後、国鉄長野原線として運行されましたが、鉱石輸送の廃止と吾妻線の長野原から大前への延伸により1970年(昭和45年)に休止、翌1971年5月1日に廃止されました。

 地元の中之条町は平成20年代に入り、当地を住民用の公園として整備しましたが、駅の遺構が多く埋没していることが判明、発掘復元作業に着手しました。2018年(平成30年)4月に一般公開を始めました。



 入場料は200円。



 切符売り場で支払います。







 改札を潜ると、目の前にこれらが鎮座していました。
 かなり腐食していますが、この駅と群馬鉄山の間約8キロを結び鉄鉱石を運んだ索道で使用された「バケット」です。ロープウェイのようなワイヤーから一定の間隔を置いてこれが提がり、中に鉱石を入れて運びました。こちら一帯では既に索道の痕跡は見当たりません。どんなものかを見たい方は、「毛無峠」の記事をご覧下さい。峠に遺された実物の写真を見ることができます。



 鉄鉱石の実物です。
 結構な大きさです。



 駅の西側にはホッパーの遺構が、無言で朽ち果てんとする柱を並べています。
 ホッパーとは簡単に言えば「砕石機」。索道で運ばれた鉄鉱石を細かく砕き、下に敷かれたレール上に並んだ無蓋車に、なるべく隙間を作らずに積み込む設備です。



 上から見たところです。
 今は土に埋まっていた1階部分しか遺っていませんが、嘗ては4階建ての構造だったそうです。



 剥き出しの鉄筋は錆び、敗戦直前の粗悪なコンクリートはボロボロです。いつ崩壊してもおかしくはないそう、ホッパー内部への立ち入りは禁止です。





 貨車が何両か展示されていました
 この2両は、静岡県の大井川鉄道から譲渡されたもの。



 丸いハンドルはブレーキです。





 こちらの無蓋車は、元ひたちなか海浜鉄道のもの。
 美しいリペイントが施されています。



 何の説明もありませんでしたが、入り口から最も遠い位置に置かれていた2両の無蓋車です。この見事な「枯れ」っぷりに、ボクはすっかり目を奪われてしまいました。



 林立するホッパーの柱を従えて佇む姿…。
 幻想的な光景です。



 ホッパー側の側板は朽ちていました…。









 「廃線」とか「廃駅」のカテゴリーではなく、むしろ「産業遺産」と呼ぶに相応しく思いました。
 山中に突如現れる姿は、あたかも神殿のようでした。
 この種の建造物がお好きな方は、是非一度訪れてみて下さい。

 旧太子駅

 群馬県吾妻郡中之条町大字太子251-4
 0279-95-3055

【今日の「おまけ」その①】



 太子駅の先に、旧いアメリカ製の鉄橋が遺されていると知り、訪れました。
 名前は「吾妻橋」。既に通行は禁止されています。
 ご覧のようにリベットが打たれた美しい橋。
 足尾の「古河橋」に似たフォルムです。
 残念ながら夏は木が繁茂しており、完全な姿を見ることは出来ませんでした。
 再度、秋から冬に訪れてみようと思います。

【今日の「おまけ」その②】



 菅平から406号線を下り、144号線に入りました。
 この道は去年の台風の影響で、今も田代から大前は通行止め。
 北軽井沢に抜けるには「つまごいパノラマライン」で迂回しますが、今は高原キャベツ収穫の最盛期!道路はトラクターのタイヤがまき散らしたドロだらけの上、昨日のこのあたりは強い雨。我がロードスターは、こんな悲惨な姿になってしまいました。
 帰宅後の掃除が大変でした…。





Posted at 2020/07/19 10:31:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | 廃の美学 | 旅行/地域
2020年06月21日 イイね!

西武鉄道安比奈線(埼玉県川越市)

西武鉄道安比奈線(埼玉県川越市) 昨日のこと。
 坂戸の丸長でざるそばを堪能。満足して川越に向かい、買い物をした帰りのことでした。国道16号線内回りを走行中、衝撃の光景が目に飛び込んで来ました。



 16号を横切る西武鉄道安比奈線。
 あまり耳馴染みのない路線名ですが、この名を聞いてピンと来る方は、相当の「廃好き」に違いありません。
 
 安比奈線は1963年に運転が中止され、その後半世紀も「休止路線」となっていましたが、2017年になり正式に廃止されました。その後、少しずつ架線と支柱が外されましたが、何と、ご覧のようにレールの撤去が始まっていました。
 
 レールがそのままの「枯れた風景」は何故か美しく、心惹かれるものがありましたが、まさか遂に…。それで、少しだけ現状を見ておこうと思いました。

 安比奈線は入間川の砂利を運搬するために、1925年(大正14年)に開業。その後、砂利の需要が下がり運行を中止しました。暫く後に、終点に西武新宿線の車庫を造る構想が浮上しましたが、この計画も頓挫してしまいました。



 背後は新宿線から分岐する南大塚駅。足元に少しレールが見えます。



 逆の方向です。
 左奥に片づけられたレールが見えます。
 この地点は踏切ですが、何故か本線と位置がズレております。本来はもっと左でしたが、およそ10年前に、踏切部分だけこの位置に移されたのでした。



 16号線を横切った先です。
 夏を前に、雑草で物凄いことになっています。



 入間川街道との横断部。
 まだ撤去はされておらず、



 その先にも錆びついたものが見えました。
 どうやら、16号線から先は、まだ撤去されていない様子でした。



 こんな小さな鉄橋が。



 線路の接合部がズレてしまっています。
 半世紀の歳月を感じます。



 ここは、安比奈線で最も有名なポイント、「緑のトンネル」。
 すっかり雑草が跋扈していますが、



 秋から春にかけては、こんな幻想的な光景を見せてくれます。

 何時だったか、もう20年ほど前のこと。
 「枯れの光景」を鑑賞するためにここに佇んでいたところ、南大塚の方からまだ幼顔の若い男性二人連れが歩いて来ました。

「こんにちは!」

 関西のアクセントでした。少しお話ししました。
 二人は大阪の高校の同級生。鉄道好きで、とりわけ「廃線巡り」がたまらないとのこと。地元関西の廃線は殆ど歩いたそうで、何としても「レールと架線が残る廃線のメッカ」安比奈線を歩きたく、実に日帰りの強行軍で訪れたと言っていました。彼らも今は30代半ばのはず。日帰りで訪れたこの安比奈線の正式廃止を聞き、どんな思いを抱いたのかナァ、と思いました。



 あまりにも身近で、そこに存在するのが当たり前になっていた安比奈線。
 片づけのし易い南大塚から、いよいよ撤去が始まりました。
 草が枯れてから、おそらく作業が再開されそうです。
 秋になったらまた訪れ、最後の風景を心に刻もうと思いました。




Posted at 2020/06/21 12:52:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | 廃の美学 | 日記

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何シテル?   09/28 15:34
 妻はアルコール依存と摂食障害を患い、主治医の勧めで調停離婚しました。その1年後、彼女は突然世を去りました。一年に2回の母親との別れを経験した一人息子と、ドライ...
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