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2021年10月09日 イイね!

旧吉池歯科医院 (長野県小諸市)

旧吉池歯科医院 (長野県小諸市) 先週10月2日の土曜日。
 ひと月振りに難聴の治療で須坂市を往復しました。
 その帰路、小諸市に立ち寄りました。目的は「うだつ」のある、旧小諸銀行の建物に入る骨董店。建築自体は大変素晴らしいもので、例の緑色のプレートも掲げられていました。ところが店内は陶磁器と着物が殆どで、極めて乱雑な陳列。旧い小皿、大皿につけられた値札は5ケタばかり…。陶磁器を蒐集する趣味がないボクには適正な価格なのか判断がつきませんでしたが、建築の秀逸さと店内の実態の乖離にすっかりシラけてしまい、直ぐに出てしまいました。

 全くの「空振り」かと思いきや、初めて訪れた小諸市の街並みには旧い建築が多く遺されており、暫く市内で散歩を楽しみました。

 そんな時でした。



 突然、こんな素敵な建物の前に来ました。
 左右非対称の意匠は、何処か洋風の趣。腰上の薄い黄土色のモルタルは、何となく中東を思わせるもの。おそらく寄棟と思われる屋根と玄関庇の上には、瓦が施されています。何とも不思議な「無国籍」風の佇まいですが、一目で引き寄せられてしまいました。
 玄関扉は開け放たれ、何かの「幟」がはためいています。



 重厚な木製扉に、面積の大きな曇り硝子が嵌め込まれています。
 外柱との相性も良く、見事に調和しています。



 扉の開放に、無骨にレキ岩が使われているのがお洒落。



「引く」の書体と赤い色。大時代的なデザインだなぁ…。



 扉の裏にはこの表札が。
 どうやら元歯科医院の様子。



 左側に木の階段。
 靴を脱いで揃えました。



 右に、診察時間の案内が遺っていました。
 数馬の分校を、直ぐに思い出しました。
 たちまち、自分が知らない「嘗て」を想像するスイッチが入ります。



 右に90度曲がって2階へ。
 振り返ったところ。



 左は、おそらく待合室。
 畳敷きの和室ですが、木製の扉とガラス桟の配置と意匠に意表を突かれました。





 擦り減った畳。
 擦り減った長椅子。
 擦り減った机…。

 この、時間が紡いだ空間。
 暫し美しさに圧倒され、呆然と佇んでしまいました。

 机の上には、顕微鏡が。



 角に、こんなキャプション…。
 覗きましたが、老眼鏡を持っておらず、…見えませんデシタ!

 

 次は「治療室」。
 顔を歪めて患者が座り、全てを医師に委ねる椅子は撤去されていましたが、ここを通過した人々が立ち上がった時の笑顔が脳裏に浮かびました。…歯茎の癌で手術、退院時に笑みがこぼれた時のことを思い出しました。
「イタカッタ」もんなーーー………。


 ここ「旧吉池歯科医院」で催されていたのは、『浅間国際フォトフェスティバル』。小諸市内の約10か所で、敢えて分散させ写真展を行っていたと、帰路に訪れた観光案内所で知りました。例えば、吉池歯科医院の至近、



「ほんまち町屋館」の切妻壁には、迫力に富む森山大道さんの作品が掲げられていました。11月21日まで行われているとのこと。

 まさしく「瓢箪から駒」!
 素直に「感動しました」!


旧吉池歯科医院

長野県小諸市大手2-3-4


※おそらく、常に公開されてはいないと思います。
 御覧になる場合は、『浅間国際フォトフェスティバル』にご確認下さい。








Posted at 2021/10/09 16:19:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧き良き建築 | 日記
2021年09月26日 イイね!

東京の旧きトレッスル橋2題

東京の旧きトレッスル橋2題 ボクは平日、毎日五反田の会社に通っています。
 職場はJR・東急の五反田駅と東急大崎広小路駅の中間、ランチはいつもこの辺りで食べます。
 10年ほど前。
 池上線のこの部分のガード下は小さな旧い飲み屋街になっていましたが、橋脚の耐震工事のため全てなくなり、5年ほど前に工事が完了。今では小綺麗なお店が入居するに至りました。

 ある日のこと。
 目黒川沿い、東急池上線五反田駅のホーム下の橋脚をふと見ると、キャプションボードが掲げられていることに気付きました。



 歴史的遺産の鉄橋

 トレッスル橋とは

 トレッスル橋は、鋼材をやぐら状に組み上げた橋脚による橋です。
 鉄道用の橋としては日本でも数か所にしか残っていない、
 非常に貴重な土木構造物で、
 JR西日本山陰本線の名所として知られていた
 餘部鉄橋と同じ造りです。

 

 改めて見てみます。
 なるほど、ボードの通り。
 末広がりの橋脚が、しっかり地面を踏ん張る構造。
 しかもここは複線のため、トレッスルは二連。脳裏に刻まれた餘部(一般的には「余部」と記されることが多い)鉄橋は単線で、単体のトレッスルが等間隔に聳える美しいフォルムだったことを思い出しました。



 単体の近影。
 灰色の姿は目立たず、しかも都会のゴテゴテした風景にあっては、この美しい姿は完全に埋没しています。でも「赤」はこの地では完全に浮いてしまうはず。…ちょっと「彼」が気の毒になりました。



 ネットから拝借しました。
 こちらが嘗ての余部鉄橋。
 高さ41メートル、11連の赤いトレッスルは、今見ても大変美しいものです。
 ところが、悲惨な事故に見舞われました。



1986年(昭和61年)12月28日13時25分頃、香住駅より浜坂駅へ回送中の客車列車(DD51形1187号機とお座敷列車「みやび」7両の計8両編成)が日本海からの最大風速約 33 m/s の突風にあおられ、客車の全車両が台車の一部を残して、橋梁中央部付近より転落した。転落した客車は橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を直撃し、工場が全壊、民家が半壊した。回送列車であったため乗客はいなかったが、工場の従業員の女性5名と列車に乗務中の車掌1名の計6名が死亡、客車内にいた日本食堂の車内販売員3名と工場の従業員3名の計6名が重傷を負った。なお、重量のある機関車が転落を免れたことと、民家の住民が留守だったことで機関士と民家の住民は無事だった。しかし、事故後に機関士の上司が自殺した。
(※以上、ウィキペディアより抜粋)

 当時ボクは26歳、結婚前。
 新卒で入社したレコード会社の、ある地方営業所に勤務していました。
 最初の赴任地が大阪だったら、夏の休日に普通列車に乗り、窓を開けてこの鉄橋から日本海を臨もうと決めていました。ところが赴任地は大阪から離れた地。いつかはと思っていたらこの事故…。結局横に新しい橋が架けられ、旧橋は廃止されてしまいました…。

 ちょとネットで調べたところ、トレッスル橋は数は少ないものの、まだ日本に存在すると知りました。しかも、そのうちの一つが、何と我が家から近い奥多摩なのでした。
 昨日、数馬分校、たちばな家の後に寄って来ました。



 生憎の天候と夕刻近くのため、暗い写真になりましたがご勘弁下さい。
 場所はJR青梅線の軍畑(いくさばた)駅手前、奥澤橋梁です。
 ボクのロードスターが停まっているのは、軍畑から埼玉県名栗に抜ける都道193号線。御覧のように、地表からかなりの高さを跨ぎます。余部の41メートルには絶対敵いませんが、五反田駅よりは高い地点を横切ります。



 真下から仰ぐと、その偉容に圧倒されました。



 この様式の橋には、やっぱり赤が似合います。
 腕を組み足を開いて立つ、照ノ富士を連想しました。

 それにしても、昔の建築物は実用一点張りではなく、設計者の美学が見事に反映されていると、今回も思い知らされました。同時に、こんな近くに存在したことに驚きました。

 ネットで調べたところ、南海電鉄高野線の山中にも、大変美しいトレッスルが存在すると知りました。今度は、南海電車で極楽寺まで乗り、高野山を詣でることを目標にしました。





Posted at 2021/09/26 16:13:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧き良き建築 | 趣味
2021年02月23日 イイね!

旧田中家住宅(埼玉県川口市)

旧田中家住宅(埼玉県川口市) このところ、大型一種免許取得のため教習所に通い始めたこと、バッテリーの昇天・パワステポンプからのオイル漏れでロードスターに手間と時間を費やされ、休日の活動が滞っております。ほぼ週末にしか更新が出来ないため、ネタは一杯溜まっておりますので、今日はその中からこちら、埼玉県川口市の『旧田中家住宅』をご紹介します。訪れたのは昨年7月5日。東池袋大勝軒を堪能した後、昔の都電32番に乗り王子で東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道に乗り継ぎ、川口元郷で下車しました。

■旧田中家住宅とは…?

1.概要

田中家は川口の旧家で、当主は代々徳兵衛を名乗った。江戸時代末期の初代徳兵衛は農業を営んだが、2代徳兵衛の時代、1871年(明治4年)からは麦味噌醸造と材木商を営んで繁栄した。現存する住宅は4代徳兵衛(1875 - 1947年)が建てたものである。同人は家業のほか、埼玉県議会議員や貴族院議員も務めた。洋館は1921年(大正10年)上棟、1923年竣工。設計監督は櫻井忍夫である。洋館の裏手に建つ和館は1934年(昭和9年)上棟。設計監督は府場陽二である。洋館の北側に建つ文庫蔵(旧仕込倉)は明治末年頃の建立である。

洋館、和館、文庫蔵(旧仕込倉)、煉瓦塀2基の3棟2基が2006年(平成18年)に国の登録有形文化財になった後、2018年(平成30年)12月25日には国の重要文化財に指定された。敷地内には上記建物のほか、茶室と池泉回遊式の日本庭園があり、川口市立文化財センター分館として一般公開されている。

この住宅は、地元の名士の住居として、接客空間が充実しているのが特色である。洋館は関東大震災以前に上棟した煉瓦造3階建ての住宅建築として貴重な存在である。

2.建造物

洋館は日光御成道に面して建つ、煉瓦造3階建ての建物。西を正面とし、北から蔵部、主体部、台所部の3つに分かれている。建築面積は蔵部16.73平方メートル、主体部93.41平方メートル、台所部64.43平方メートル、計174.57平方メートルである。主体部の一部が西側へ張り出して、ファサード(正面外観)に変化を与えている。外観は化粧煉瓦積みで、建物の角にあたる部分には柱形を造り出し、人造石洗い出しによる窓枠を1階から3階まで通して、縦方向の線を強調している。屋上は西側突出部の正面にはペディメント(破風)を設け、他は欄干風のパラペット(胸壁)を設け、これらを銅板張りとする。柱形の上部には銅板のメダイヨン(円形装飾)を設ける。1階には玄関、家人用の食堂、台所があり、西側突出部は洋間の応接室とする。2階には座敷、次の間があり、西側突出部は洋間の書斎とする。3階には洋間の大広間があり、西側突出部は洋間の「控えの間」とする。1階の玄関は天井が和式の格天井で、神棚を設けるなど、古い商家の帳場のような構えとする。以上のように、この建物は、3階の大広間などに西洋古典式の内装をほどこす一方で、和風の空間も混在している。

和館は木造一部2階建てで、寄棟造、桟瓦葺き。建築面積は160.05平方メートル。洋館の裏手(東)に接続する東西棟の建物である。1階は西から東へ仏間(10畳)、次の間(12畳半)、座敷(15畳)が並ぶ。間仕切りの襖を取り払うと、37畳半の広大な空間になる。仏間の上に2階を設け、8畳の和室と次の間(4畳半)がある。

文庫蔵(旧仕込倉)は木造平屋建て、切妻造、桟瓦葺き。建築面積は99.15平方メートル。この蔵は、洋館より先に建っていたことが古写真から明らかで、明治末年頃の建立である。

(※以上、ウィキペディアより)

■本題

 要はこの地で味噌の醸造業で財を成した四代目田中徳兵衛氏が建てた和洋折衷の大邸宅。川口は鋳物の街というイメージがありますが、嘗ては多くの味噌醸造所があり、荒川の水運を利用して東京へ出荷していたそうです。
 しかし産業構造の変化とともに次第に衰退、昭和50年(1975年)頃には、ほぼ姿を消しました。そんな川口の過去を伝える証人として、この住宅は今も街道沿いに立ち竦んでいます。



 三階建ての尖塔上の外観は、川口元郷から少し歩くと、遠くからでも目立ちます。何とも時代的なファザードが特徴。



 玄関は、重厚な4枚の引き戸。この造りは商家そのものです。



 銅に曇り硝子を嵌めたような外灯。
 何とも重厚な意匠です。



 表札がそのまま遺されていました。
 大時代的な書体ですが、この館の佇まいに合います。





 玄関を入ると帳場。
 ここで番頭さんが算盤と帳面を手に商談していたのでしょう。
 何だか、時代劇のシーンで見るような造作。



 きっと、こんな風だったのでしょう。



 商家らしく、重厚な神棚があります。





 帳場の左奥は応接室。
 帳場では済ませられないような、大口の商談にでも使われたと想像しました。



 渋いドアノブです。
 擦りキズが最盛期を思い起させてくれます。



 こんな鏡つきのハンガーがありました。
 現代に通用するデザインです。



 美しいヨーロピアン調のステンドグラス!
 凝りに凝った邸宅です。



 こちらは木彫りのレリーフ。
 花と花瓶をあしらったものですが、どこか華麗でいて華奢な作品です。



 さて、二階へ上がります。
 こちらは、ご当主の書斎として造られたのだそうです。
 


 先は畳の廊下。説明にあるように数寄屋風の書院造りの和室に繋がります。 



 一年中「端午の節句」デス!(笑)





 こちらは『客間』。
 写真の説明を読みましたが、和風建築の知識に乏しく理解出来ませんでした。



 こちらには、金屏風に刀剣が。
 財を築き上げた証しです。





 室内にガラスが多用されていました。
 が、当時のものは平らではなく、外が歪んで見えるのだとか。
 今に遺されていることに感動しました。



 次は三階です。





 迎賓目的の大広間です。
 まるで鹿鳴館!明治から大正の時代、庶民はまだまだ赤貧を洗っていた時代。当時の資産家との差は、現代と比べ遥かに大きかった証左と思いました。





 調度品も素晴らしいものばかり…。



 こんな風にパーテイーが催されていたのでしょうね。
 ご婦人が和服姿の正装なのが印象的です。



 さて、一階へ戻ります。
 帳場裏の狭いスペースには、重厚なデスクが。



 横には壁に埋め込み式の金庫があります。
 この当時、クレジットカードやネット決済などなく、現金か掛け売りのみ。帳簿と現金のチェックを、毎日この机で行っていたことでしょう。



 ところでこれ、何だと思いますか?。



 正解は「防火扉」!
 写真の手前側は平屋の和館。広い和室が縦に三部屋連なり、さらに奥は台所。火が出た場合、本棟への延焼を防ぐ目的で設置されたとか。一枚上の写真は、扉をおろすための「装置」。収納されたベルト状の布を、ひたすら引っ張るのだそうです。



 こちらは縦に三部屋連なる和室で、最も手前、『座敷』。次の真ん中は『次の間』、最奥が『仏間』です。



 ここが『仏間』。
 一族の祝言など、重要な行事に使用されたそうで、最も格調高い和室です。



 それを裏付けるものがありました。
 『次の間』との境の鴨居です。
 天井をご覧ください。
 『仏間』の方が高いことがわかります。



 欄間には華麗な彫刻が施されています。



 尾籠な場所ですが、こちらでは『袴脱ぎ』と呼びます。
 袴の和装の方が用を足す場合を考慮、手前に広い空間を確保した設計です。



 和館の最も奥は台所。
 説明左後ろの階段は、使用人が起居するスペースに繋がっているそうです。



 既に竈などは撤去されていますが、長年の煮炊きで壁は黒く染まっています。



 そのすぐ上が使用人の部屋。
 …壁が真っ黒になる竈の真上、劣悪極まる居住環境に違いありません。
 須坂市の小田切家も同様の造りだったことを思い出しました。



 庭の池には、溢れんばかりの鯉が!
 何年か前に水を抜き清掃した時、数えたら180匹を越えていたとか。

■ボクの感想

 土地柄もあるのでしょうが、須坂の小田切家は洗練された『お洒落な』屋敷と感じました。ですが、こちらは『資本主義の最頂点』を極めた方の邸宅という印象。勿論、非の打ちどころのない素晴らしい建築ですが、どこか『毒々しさ』が漂っていると、個人的に思いました。今までご紹介しなかったのは、そんな理由からです。

 ご機会があれば、訪れて確認されてみて下さい。



旧田中家住宅

埼玉県川口市末広1-7-2
048-222-1061 川口文化センター

月・年末年始休館




 
Posted at 2021/02/23 12:40:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧き良き建築 | 旅行/地域
2020年06月28日 イイね!

枠屋(長野県須坂市)

枠屋(長野県須坂市) 去る6月13日。
 難聴の治療後、生憎の雨でしたが旧小田切家住宅を見学した他、市内の旧い建築物を堪能して来ました。
 須坂市には歴史的建造物が非常に多く、とても一日で全てを見ることは出来ません。旧小田切家住宅のように今は博物館的な機能に特化した処もありますが、多くは住宅や商店として今も使用されています。
 そんな須坂の建築物にあって、非常に珍しいものをご紹介します。



 須坂市のほぼ中心部、八十二銀行須坂支店の東隣に佇むこちらは、居酒屋「枠屋」さん。最大の特徴は「うだつ」。左右の妻壁が、大きく前後と上に向かって張り出しています。防火が目的で、主に関西方面で連接して家屋が並んだ街並みで見られたそうです。ボクはおそらく、初めて見ました。



 特にこのように、主屋の棟より高いものを「本うだつ」と呼ぶそうで、大変貴重なものだとか。ちなみに「生活や地位が向上しない」、「状態が今ひとつよくない」ことを「うだつが上がらない」と言います。これはうだつを造って上げるには、大変にお金が必要だったことが語源との説があります。
 左には、何か動物らしきオブジェが見えます。猫でしょうか。こんな「遊び心」、粋です。



 左の妻壁の2階に窓はなく、のっぺりとした印象です。



 枠屋さんの屋号を記した木製看板です。
 毛筆体の文字を浮かせ彫りした、見事な手仕事です。上に富士山を思わせる山が描かれていますが、ここ北信の地から姿を見ることは出来ません。別の山なのかも知れません。

 この建物、正式な呼称は「旧丸山家住宅」。15代も続く旧家で、「つづき屋」の屋号をもつ建具屋さん。須坂で製糸業が盛んだった頃、生糸を巻く糸枠を製造しており、「枠屋」と呼ばれるようになったそうです。



 懐かしいコーラの販売機とベンチが!
 東京では、どちらもすっかり淘汰されてしまいましたが、こうして旧家の前で現役で稼働しています。何だか嬉しくなりました。



 横の黒板です。
 営業日が記されています。



 中を拝見したくなりましたが、居酒屋さんのため午前は無人。見たければ泊りがけで訪れる必要があります。



 「須坂市歴史的建築物」のプレートがありました。



 懐かしい!
 すっかり姿を見なくなりましたが、昔は早朝に、牛乳瓶を自転車の荷台に積み、配達人の方が家庭に届けてくれたものでした。こちの箱は、届いた牛乳を入れて貰う木箱。「長野牛乳」なのがイイ!
 ちなみに、我が家は青地に白文字で「名糖牛乳」デシタ!

 

 屋根は出桁造りのようです。
 瓦も重厚な趣。
 それでいて、2階の窓がお洒落な意匠です。



 右45度からです。
 こうして見ると「うだつ造り」の構造が見て取れます。
 おそらく、関東地方では殆ど見ることは出来ないと思います。
 明治初期の建築を見て、とても新鮮な気持ちになりました。

 こういう旧く由緒ある建築をお好きな方は、一度須坂市を訪れてみて下さい。きっとご満足されると思いますが、嵌ってしまうかも…。


枠屋(旧丸山家住宅(つづき屋))

長野県須坂市須坂新町614-2

Posted at 2020/06/28 16:16:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧き良き建築 | 旅行/地域
2020年06月14日 イイね!

旧小田切家住宅(長野県須坂市)

旧小田切家住宅(長野県須坂市) 先週、関東地方も入梅を迎えました。
 昨日13日、月に一度の左耳難聴の治療のため、須坂市を訪れました。生憎の天気、しとしと雨が降る中でしたが、久し振りに「蔵の街」を散歩しました。
 昨日見た中で最も規模が大きく、見どころ満載だったのがこちら、旧小田切家住宅。昨年10月5日にも訪れましたが、すっかりデッドストックとなっていました。今日は2回分の写真から、選んでご紹介します。



 旧小田切家は「蔵の街」として知られる須坂市の中心部、旧い建築が数多残る春木町南交差点の西南に佇んでいます。この写真は北東方向から撮影しました。なるべく建物に電線が掛からないように撮りました。



 これは南東から撮影。
 右に主家、中央に屋敷入口の長屋門。左は上店、当時はここで何かを販売していたのかと思います。現在はイベントスペースとして使われているようです。



 長屋門から邸内を覗います。
 屋敷の東辺に沿って暗渠が流れていますが、この門の前では口を開けています。そこに敢えて石橋を建造して跨いでいます。大変お金の掛かる凝った建築様式です。旧い屋敷が今も沢山残る須坂市ですが、長屋門と石橋を持つものはこちらだけとか。



 門の左にはキャプション・ボードが設置されています。
 ぼたもち石は、以前にご紹介した須坂クラシック博物館でも使用されていました。この地方独特の建築基礎の様式です。



 北側に連なる4棟の土蔵の基部です。
 ぼたもち状の大きな石が連なります。
 これを造るには高度の技術が必要で、当然のことながら莫大な建造費が掛かったそうです。

 入口へ戻り入館します。



 振り返ったところです。
 右の受付で入館料300円をお支払しました。




 
 靴を脱いで上がると8畳の「玄関」。



 左側に、小さな文机。
 ここは本来の玄関ではなく、この写真の右奥の障子になります。現在受付、入口、売店として機能する手前のスぺースが当時何に使われていたのか、お訊きするのを忘れてしまいました。



 こちらが外から見た本来の玄関。
 石橋を渡って長屋門を潜った先の右側です。



 本来の玄関正面の壁は、右側に床の間がしつらえられ、こんな掛け軸と陶器が訪問者を迎えてくれます。「静」なる気遣いです。



 玄関に、小田切家についての説明書きが置かれていました。
 これを読んだだけでは今一つピンとこないと思いますので、ネットで少し調べたので、掻い摘んでご紹介します。
 小田切家は江戸時代に糀、油、蚕種、呉服商などを営んだ須坂藩御用達を務めた豪商で、「西糀屋」と呼ばれ、代々、町年寄や名主を務めました。
 明治維新直後、北信地方では年貢の減免や税法改定を要求する事件・騒動が多発します。明治3年11月には松代騒動、12月には須坂騒動、中野騒動が発生します。貧しき数多の民が豪商の邸宅を襲う、俗に言う「打ち壊し」が発生、小田切家も破壊と略奪の対象となりました。この屋敷は騒動の後に当時の当主、小田切辰之助が再建したもので、一部に須坂騒動以前の部分が残るそうです。







 玄関の左奥が12畳半の「茶の間」。
 文字通り、小田切家の生活の場として機能したのでしょう。
 玄関とは別の出入口があります。馬車や大八車を乗り付け、食糧やその他生活に必要な物資を下ろし、ここから邸内に入れたのだと思います。



 照明は3灯式の凝ったものです。





 茶の間の奥は「お勝手」。
 畳が敷き詰められていませんが、30畳近い広さです。



 所謂「勝手口」です。



 「無煙式」の竈。
 どうして煙が出ないのかは訊き忘れてしまいました。

 

 お勝手の天井には開口部があり、障子が見えます。
 ここは「女中部屋」で、複数の女性たちが寝起きしていた様子。
 2つ前の勝手口の写真にはしごが写っていますが、これを掛けて出入りしていたとか。







 お勝手の奥、主家の西端は厠と風呂です。
 ボクが不思議に思ったのは、この「規模」。
 これだけの屋敷を維持機能させるためには、家族の他に多数の女中さん、下男、車夫、庭師などが日常的に存在したはず。その割に、厠と風呂の規模があまりにも貧弱に感じました。



 一旦、玄関に戻ります。
 玄関の間の右奥、茶の間の右隣は10畳で、別に巨大な仏壇の格納場所が確保されています。ボクは、こんな規模のものを初めて見ました。パンフレットによると、明治17年に飯山町(現在の長野県飯山市)から購入したと言われており、金50円の領収証が遺されているそうです。



 仏壇の間の奥が「座敷」。
 訪問客をお通しした空間です。



 床の間には、こんな色っぽい掛け軸が。
 当時、小田切家を訪れるのは、殆どが男性ったはず。
 商談の前節に、この掛け軸を話題にしたのかも…。



 床の間の左にある扉は「電話室」。
 中から「座敷」を見るとこうなります。
 「お勝手」の側にも扉があり、どちらからも出入り出来ます。





 小田切家主家の最深部が、この「奥座敷」です。
 キャプションには、主に婚礼に使われたとあります。
 中央に床の間、左右に違い棚を配した、贅を尽くした普請です。
 また、





 この邸宅の一つの特徴は、大変に凝った欄間。
 上の2枚の写真は、いずれも組み木によるものですが、



 この奥座敷のものだけは、一枚板を切り抜いたものだとか。
 まさしく職人技です。



 さて。
 これは、奥座敷の欄間下から見えた、3号土蔵前の廊下。
 紋様入りの青いタイルを敷き詰めたもので、贅の限りを尽くしています。
 ここから振り返ると…



 右は主家、左は土蔵。
 その間が、何やら怪しい通路になっています。
 そう、これは「逃げ道」です。
 明治3年の須坂騒動で打ち壊しの対象となった小田切家。
 当時の当主、小田切辰之助はその苦い経験から、屋敷の再建の際、この「逃げ道」を作ったのだとか。以前にご紹介した須坂クラシック博物館にも存在します。



 ここは仏壇の間の西隣「お納戸」。
 当時、衣装の詰まったつづらや布団が置かれていたと想像します。
 その壁に扉があります。



 …そう、ここが「逃げ道」の入口です。



 この「お納戸」に繋がる全ての戸には、落とし鍵があります。

 有事の際。
 当主は屋敷奥のこの納戸に隠れ、鍵を掛けてから逃げ道から脱出するという算段だったのでしょう。
 こんな忍者屋敷のような構造、男の子なら通ってみたくなります!



 庭の隅の建物には、こんなものが。
 これは当時のものではなく、再現製作されたレプリカだとか。
 …それにしても、水車小屋まで存在した邸宅、驚異に値します。

 写真を撮りながらゆっくり見学していたら、いつの間にか90分も経っていました。贅を尽くした邸宅ながら、金にものを言わせた「嫌味」さとは無縁で、純粋に建物を楽しむことが出来ました。
 この旧小田切邸の他にも、須坂市には「入って見学が可能」な旧い建築が沢山存在します。この方面にご興味のある方は、泊まりがけでお出掛けになることをお薦めします。

旧小田切家住宅

長野県須坂市大字須坂423-1
026-246-2220

木曜休館


 







 

 
 















Posted at 2020/06/14 14:58:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧き良き建築 | 旅行/地域

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「お知らせ http://cvw.jp/b/2970161/46422054/
何シテル?   09/28 15:34
 妻はアルコール依存と摂食障害を患い、主治医の勧めで調停離婚しました。その1年後、彼女は突然世を去りました。一年に2回の母親との別れを経験した一人息子と、ドライ...
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