
先週、関東地方も入梅を迎えました。
昨日13日、月に一度の左耳難聴の治療のため、須坂市を訪れました。生憎の天気、しとしと雨が降る中でしたが、久し振りに「蔵の街」を散歩しました。
昨日見た中で最も規模が大きく、見どころ満載だったのがこちら、旧小田切家住宅。昨年10月5日にも訪れましたが、すっかりデッドストックとなっていました。今日は2回分の写真から、選んでご紹介します。
旧小田切家は「蔵の街」として知られる須坂市の中心部、旧い建築が数多残る春木町南交差点の西南に佇んでいます。この写真は北東方向から撮影しました。なるべく建物に電線が掛からないように撮りました。
これは南東から撮影。
右に主家、中央に屋敷入口の長屋門。左は上店、当時はここで何かを販売していたのかと思います。現在はイベントスペースとして使われているようです。
長屋門から邸内を覗います。
屋敷の東辺に沿って暗渠が流れていますが、この門の前では口を開けています。そこに敢えて石橋を建造して跨いでいます。大変お金の掛かる凝った建築様式です。旧い屋敷が今も沢山残る須坂市ですが、長屋門と石橋を持つものはこちらだけとか。
門の左にはキャプション・ボードが設置されています。
ぼたもち石は、以前にご紹介した須坂クラシック博物館でも使用されていました。この地方独特の建築基礎の様式です。
北側に連なる4棟の土蔵の基部です。
ぼたもち状の大きな石が連なります。
これを造るには高度の技術が必要で、当然のことながら莫大な建造費が掛かったそうです。
入口へ戻り入館します。
振り返ったところです。
右の受付で入館料300円をお支払しました。
靴を脱いで上がると8畳の「玄関」。
左側に、小さな文机。
ここは本来の玄関ではなく、この写真の右奥の障子になります。現在受付、入口、売店として機能する手前のスぺースが当時何に使われていたのか、お訊きするのを忘れてしまいました。
こちらが外から見た本来の玄関。
石橋を渡って長屋門を潜った先の右側です。
本来の玄関正面の壁は、右側に床の間がしつらえられ、こんな掛け軸と陶器が訪問者を迎えてくれます。「静」なる気遣いです。
玄関に、小田切家についての説明書きが置かれていました。
これを読んだだけでは今一つピンとこないと思いますので、ネットで少し調べたので、掻い摘んでご紹介します。
小田切家は江戸時代に糀、油、蚕種、呉服商などを営んだ須坂藩御用達を務めた豪商で、「西糀屋」と呼ばれ、代々、町年寄や名主を務めました。
明治維新直後、北信地方では年貢の減免や税法改定を要求する事件・騒動が多発します。明治3年11月には松代騒動、12月には須坂騒動、中野騒動が発生します。貧しき数多の民が豪商の邸宅を襲う、俗に言う「打ち壊し」が発生、小田切家も破壊と略奪の対象となりました。この屋敷は騒動の後に当時の当主、小田切辰之助が再建したもので、一部に須坂騒動以前の部分が残るそうです。
玄関の左奥が12畳半の「茶の間」。
文字通り、小田切家の生活の場として機能したのでしょう。
玄関とは別の出入口があります。馬車や大八車を乗り付け、食糧やその他生活に必要な物資を下ろし、ここから邸内に入れたのだと思います。
照明は3灯式の凝ったものです。
茶の間の奥は「お勝手」。
畳が敷き詰められていませんが、30畳近い広さです。
所謂「勝手口」です。
「無煙式」の竈。
どうして煙が出ないのかは訊き忘れてしまいました。
お勝手の天井には開口部があり、障子が見えます。
ここは「女中部屋」で、複数の女性たちが寝起きしていた様子。
2つ前の勝手口の写真にはしごが写っていますが、これを掛けて出入りしていたとか。
お勝手の奥、主家の西端は厠と風呂です。
ボクが不思議に思ったのは、この「規模」。
これだけの屋敷を維持機能させるためには、家族の他に多数の女中さん、下男、車夫、庭師などが日常的に存在したはず。その割に、厠と風呂の規模があまりにも貧弱に感じました。
一旦、玄関に戻ります。
玄関の間の右奥、茶の間の右隣は10畳で、別に巨大な仏壇の格納場所が確保されています。ボクは、こんな規模のものを初めて見ました。パンフレットによると、明治17年に飯山町(現在の長野県飯山市)から購入したと言われており、金50円の領収証が遺されているそうです。
仏壇の間の奥が「座敷」。
訪問客をお通しした空間です。
床の間には、こんな色っぽい掛け軸が。
当時、小田切家を訪れるのは、殆どが男性ったはず。
商談の前節に、この掛け軸を話題にしたのかも…。
床の間の左にある扉は「電話室」。
中から「座敷」を見るとこうなります。
「お勝手」の側にも扉があり、どちらからも出入り出来ます。
小田切家主家の最深部が、この「奥座敷」です。
キャプションには、主に婚礼に使われたとあります。
中央に床の間、左右に違い棚を配した、贅を尽くした普請です。
また、
この邸宅の一つの特徴は、大変に凝った欄間。
上の2枚の写真は、いずれも組み木によるものですが、
この奥座敷のものだけは、一枚板を切り抜いたものだとか。
まさしく職人技です。
さて。
これは、奥座敷の欄間下から見えた、3号土蔵前の廊下。
紋様入りの青いタイルを敷き詰めたもので、贅の限りを尽くしています。
ここから振り返ると…
右は主家、左は土蔵。
その間が、何やら怪しい通路になっています。
そう、これは「逃げ道」です。
明治3年の須坂騒動で打ち壊しの対象となった小田切家。
当時の当主、小田切辰之助はその苦い経験から、屋敷の再建の際、この「逃げ道」を作ったのだとか。以前にご紹介した須坂クラシック博物館にも存在します。
ここは仏壇の間の西隣「お納戸」。
当時、衣装の詰まったつづらや布団が置かれていたと想像します。
その壁に扉があります。
…そう、ここが「逃げ道」の入口です。
この「お納戸」に繋がる全ての戸には、落とし鍵があります。
有事の際。
当主は屋敷奥のこの納戸に隠れ、鍵を掛けてから逃げ道から脱出するという算段だったのでしょう。
こんな忍者屋敷のような構造、男の子なら通ってみたくなります!
庭の隅の建物には、こんなものが。
これは当時のものではなく、再現製作されたレプリカだとか。
…それにしても、水車小屋まで存在した邸宅、驚異に値します。
写真を撮りながらゆっくり見学していたら、いつの間にか90分も経っていました。贅を尽くした邸宅ながら、金にものを言わせた「嫌味」さとは無縁で、純粋に建物を楽しむことが出来ました。
この旧小田切邸の他にも、須坂市には「入って見学が可能」な旧い建築が沢山存在します。この方面にご興味のある方は、泊まりがけでお出掛けになることをお薦めします。
旧小田切家住宅
長野県須坂市大字須坂423-1
026-246-2220
木曜休館