(安岡正篤-「人物を創る」より)
「子曰く、訟(うったえ)を聴く、吾(われ)猶(なお)人のごときなり。必ずや訟無からしめんかと。情(まこと)なき者はその辞を尽すことを得ず。大(おおい)に民の志を畏る。此を本(もと)を知ると謂う。」
子曰、聴訟吾猶人也。必也使無訟乎。無情者、不得盡其辭、大畏民志。此謂知本。
孔子がいわれた。「訴訟を聴くことは、私も別に人と変わった事はない。ただ特に念願するのは、世の中から訴訟を根絶させたい」と。そのためには、為政者みずから誠意を以て臨めば、情(まこと)のない者も白を黒と言いくるめるような虚偽の弁辞をつくすことができなくなり、大いに人々が畏れて、自然に訴訟などしないようになる。これを本を知るというのである。
この結句について山田方谷は次のように説いている。「本とはすなわち誠意なり。情は誠なり。訟を聴くもの仁義の誠なくば、下(しも)また虚偽を以てこれに対せん。孔子の言は、己れの誠を以て人を服するに外ならず。これを本を知ると云うべし。されどこれ独り訟のみならず。家国天下みな同様なり云々」。
以上は「本末」に関する文献である。
「儒」の意味
だいたい儒教の「儒」という字に権威を持たせたのは、歴史的に考察するに、戦国時代の荀子あたりからであろうと思われる。原始儒教を学ぼうと思えば、なんといっても孔子であるが、その孔子の門流は大略二派に分けられる。その一つは孟子の理想主義派であり、いま一つは荀子の客観主義、現実主義の一派である。近頃の若い人は、荀子を知らない人が多いが、儒教史を調べるにしても、シナ哲学をやるにしても、本当は孟子よりも荀子をやらねばならぬ。その荀子によると、儒という字の用いられた最初は悪い意味で、儒は「懦弱事を畏る」というときの懦と同じ悪い意味に使われていた。それは大いに間違いであるというのが荀子の弁である。本当にそうで、進歩的知識人・文化人などというものは、いかに懦弱であるかということがよくわかる。これはいつの時代にも歴史的事実であると思われる。
春秋・戦国の頃は侵略や謀略が横行して人間の運命が脅かされたときで、その間に処した当時の知識人たちの無気力な卑屈なやり方を考察すればよくわかる。ちょうど、現今の国際社会の情勢は、その軋轢・闘争・思想・言論等そっくりそのまま戦国時代に行われていた。その間に介在する知識人・批評家等はだいたい無責任で、弥次で、その内心は事大主義で、権力の前には卑屈で口ばっかりで肚(はら)がなかった。こういう傾向が非常に強かった。現今の知識人・文化人といわれる人たちも全くそのとおりで、曲学阿世の今日ほど盛んなときはない。
彼等進歩的知識人たちの起草したといわれる日教組の倫理綱領などを見てもよくわかる。この前の日共の大会にはソ連の代表が特別参加したが、ある日のごときはその代表が遅刻したため開会が遅れて、彼等の入場を待ってやっと開会したという。かように、まことに権力威勢の前には卑屈である。彼等の一部の人たちは公然と言うのであるが、「アメリカに負けて国を占領されても命だけは助かる。ソ連・中共に反対したときには命がなくなる。だから共産側につくのだ」というのである。まして彼等につけば、時勢にも便乗できるし、利益もある。「儒」はこういう「懦弱事を畏る」の懦の意味に使われていた。
しかしそうではなく、本当の思想言論というものは真理・信念に基づいて行われなければならぬ。それあるによって、立派な国民の進歩も、権威のある正しい政治も行われる。政治風俗を正し、国民の生活を守る根本の原理を明らかにするのが儒である。こういうように次第に矯正されてきた。全くそのとおりで、「儒」は漢の武帝の時代に国家の採用するところとなり、その頃から儒は本当に国民思想・国家思想として発達するようになった。ことに儒教を非常に洗練し、活用して、偉大な業績を発揮したのは後漢の光武帝である。そのために後漢末には幾多の英雄豪傑が輩出した。ちょうど、それは徳川家康の政教政策に該当するものであって、神・儒・仏の教学の奨励によって、幕末にはたくさんの有為な人材が出ておる。
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Posted at
2010/10/15 03:41:05