
1月28日、21時からのテレビ東京:世界ナゼそこに日本人で「ユダヤ人6千人の命を救った「杉原千畝」知られざる新事実」が放映されていた。何とも印象が薄く、「新事実って何だった」が記憶に残らない番組。何やら外務省(日本政府)が残虐者として画かれていた。
1940年7月、杉原千畝はユダヤ人の申請に答えてビザを書きはじめましたよね、約一か月間ビザを書き続けた事は色々と報道されていますよね。そして、杉原千畝は1944年に勲五等瑞宝章を叙勲されている。「命に背いた」と言うが、命に背いた人間に勲章を与えるか?
ドイツがユダヤ人を迫害している時にビザを書いた杉原千畝、その2か月後の1940年9月に結ばれた日独伊三国同盟、外務省は「どうぞどうぞ」とは言える訳が無い。しかし日本政府、1939年、日本海軍が管轄し保護していた上海租界にユダヤ難民約2万人がいた。
その上海租界に逃れて日本海軍が保護していたユダヤ人、ナチスドイツは上海に乗り込み日本に要求した。「船に乗せ、東シナ海に放り出せ、そして撃沈せよ」、他にも使役に使えとか収容所を作り入れろと。日本はナチスドイツの要求の全てを拒否しユダヤ人を保護した。
番組では杉原千畝に二つの悲劇が襲ったと言う、一つは外務省の解雇、そして一つはご子息が白血病で亡くなられた事。白血病は現在でも原因が解明されていませんよね、番組ではこれも政府の責があったと。
そして外務省の解雇、外務省には解雇・懲戒が行われた記録は無いと言う。そして杉原千畝はカナウスの領事館を引き上げた後、捕虜になりそして1946年帰国。その間外務省に属し、1947年に依願退職するまで勤務していた。
彼の年表によると、外務省を退職した1947年(株)世界平和建設団事務局に就職。そして1950年にはGHQ向けの東京PX日本総支配人に。その後切れ目なく仕事は続いている記録がある。番組では解雇され、職が無くなったように言っていたけど現実はそうじゃない。
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杉原千畝、ビザを書いた事を明かすことはありませんでしたよね。明らかになったのは命のビザで助かった方が杉原千畝を探し当てた事で明らかに、「敵兵を救助せよ」の工藤艦長が助けたイギリス人が工藤艦長を探し出した事と同じでした。
日本、杉原千畝だけではありませんでしたよね。杉浦のビザを握った多くのユダヤ人が日本に渡る為にウラジオストクに溢れた。ウラジオストク総領事代理位の根井三郎、外務省から「渡航させてはならぬ」の命を「国が認めたビザを否定するは国家の信に関わる」と拒否。それによってウラジオストクにたどり着いたユダヤ人は日本に渡航できた。
そして渡航を担った船舶は日本郵船ベルリン支店、船の中で渡航の世話をしたのは担当したのはジャパンツーリストビューロー(現JTB)の
大迫辰雄氏。日本に渡ってきたユダヤ人、ビザに書かれ、日本滞在が許されているのはわずか10日間。あまりにも短すぎて足りなかった。
小辻節三が動いた。国連を脱退した時に国連でその演説をした外務大臣松岡洋右に訴えた。外務大臣松岡洋右は「ビザを延長させる権限は自治体にある、自治体が行う事に政府は関与しない、君が自治体を動かすことが出来たら外務省は見て見ぬふりをする、それは友人として約束する」と。
そして日本に渡ってきたユダヤ人、もてなされ、希望の地へと向かう人もいたが、日本海軍が保護していた上海租界(上記)に渡った人もいた。そう言えば上海租界、中国が「我々が助けた」と言ってユネスコ世界遺産に登録しようとしていましたよね。自分達が襲撃していながらなんで助けたと、流石に特亜だ。
松岡洋右、満鉄総裁の時、ユダヤ難民(オトポール事件)の輸送の為にユダヤ難民用に救援列車を運行させましたよね、積極的にね。この時、関東軍の樋口季一郎陸軍少将が開いた「ヒグチ・ルート」で約2~3万人のユダヤ人を助けた。
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何とも後味の悪い番組だった。事実を好きな所だけ切り取り、それを勝手に解釈する、事実だけの報道が何故できないんだろうかと思う。俗に言う右と左、それぞれの立場で事実は変わることは無いのにね。特亜では歴史は創造するもの、それに日本は従えと、とんでもない。
松岡洋右「日本精神に目覚めよ」
人種差別撤廃を主張した国 日本
Posted at 2019/01/29 15:18:39 | |
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